【6】世界樹と私
エリスティン王国から北のはずれ。その奥地に大陸中から崇められる世界樹と呼ばれる巨大な樹がそびえている。見上げればそれは天まで届くかと思わんばかりの高さで、現代に住む乃愛は今までそんなモノは見たことがなかった。
「……ここは、」
自分を見る。昨夜寝る時に着替えた寝間着の格好だ。世界樹の周りは鬱蒼と茂る森で微かに霧がかかっている。人は誰もいない。物寂しい空気に乃愛はぶるりと身震いした。
しばらくそこにいると向こうの木々の間から必死な形相の女が駆けてきた。何かに追われているのか、それとも恐ろしいモノでも見たのか……。彼女の顔は恐怖でひきつっていた。
そして彼女の顔、瞳は血のように――片目が潰れ血を流していた。
女は乃愛の存在に全く気づかない。
それどころか彼女は乃愛の身体をスゥとすり抜けてしまった。まるで乃愛が幽霊になったようだ。
(これは――夢なのね)
エリスティンの夢はもう何度見ただろう。この状況を乃愛はいつものように受け入れていた。
踏みしめる土の感触はない。森の木々に触れても一切の感触を感じない。これは乃愛の夢ではない、誰かの、何かの夢……妙に落ち着いた心地で思った。
女はまだ世界樹の根にいた。彼女は両腕に赤子を抱えている。そして巨大な根の下に布でくるんだ赤子を隠すように急いで置いた。うねる根は入り組んでおり、そこに何かを隠すのはとても適しているよう思った。
「あの――」
姿が見えないなら、声はどうか。女にそっと声をかけた瞬間、彼女がブツブツと何かを呟いた。
「どうか、どうか……この子を――」
そこで乃愛の意識は浮上した。
ふっと目が覚め、再び見慣れた天井が視界に入り、自分がどこにいるかを認識する。
「また夢……」
最近、立て続けに見る夢でいまいち頭がスッキリしない。乃愛は頭を押さえ、傍らにいるウサギの姿をみてほっとする。
「おはよう、ユーグ」
いつも通りの朝。日課となったふれあい。乃愛がその体を優しく撫でた。だがいつもと違い反応がない。乃愛が掛布を捲ると、ユーグは沈黙したまま、プルプルと震えていた。
(これは痙攣?でも変、長い。様子がおかしい)
ユーグはただのウサギではない。正確にいうとウサギのような形をした魔力の塊だ。だから通常の動物の体調不良と比較出来ない。
ただならぬ様子に乃愛は飛び起きた。
「! どうしたのユーグ。具合悪いの?」
今すぐ木﨑を呼ぶべきか。そう乃愛が逡巡した時、ウサギは苦しげに身を縮め、やがて口を大きく開き何かを思いきり吐いた。
それは赤い血にまみれた石だった。異物を体から出し楽になったのか、ウサギは何事もなかったように再び寝そべり穏やかになった。
「……何だろう、これ」
大きさは親指程。石を丁寧に洗い、手巾に乗せる。石を摘まみ、陽光に透かし観察する。よく見ると少し欠けている。紅玉に似た透明度のある石だ。ずっと見つめているとまるで吸い込まれそうになる、不思議な感覚になった。
(この事、あとで木﨑さんに伝えよう)
昨日会ったとき、体調がすぐれない様子だった。連絡するのはもう少ししてから、もしくは直接会った時にしよう。そう考え、乃愛は石を手巾でくるみ鞄に入れた。
ウサギは元気になったようで乃愛のそばに来た。ちょっと待ってねと冷蔵庫から出したブルーベリーをあげると美味しそうに食べ始めた。
(……樹、か)
懸命に口を動かすウサギを見つめ、ぼんやりと今朝見た夢を思い出す。
(あれはユーグに関係する夢なのかな)
もしそうなら……。窓の外を見る。今日はとても天気が良い。散歩をするのにも丁度良い。
乃愛はウサギに話しかける。
「あのねユーグ。ちょっと気晴らしに外へ遊びに行かない?」
乃愛の住むアパートの近くに昔からある広い公園がある。公園になる前は広大な防風林だったようで、公園奥の林はその跡だ。現在、1/3程、林が残されている。
その木々の奥にある一番大きな樹。以前からそれがずっと気になっていた。エリスティンの世界樹に何だか少し似ていたのだ。
「あっちにある世界樹と比べたら、ここのは全然規模が違うけど。……ちょっとだけ似てるんだ」
肩から掛けた大きめの鞄にウサギが入っている。今朝、石を吐いて体はまた真っ白に変化していた。
公園の奥は誰もいない。乃愛はウサギを鞄から出し抱き上げた。やはりこの子はとても利口で大人しく乃愛の胸にいる。
しばらく一緒にいてわかってきたのは、乃愛の言葉を理解しているという事。だからか乃愛の言う通り、きちんと留守番をしてくれたり動いてくれる。
大きな樹の前で乃愛はユーグを見下ろす。
「ここなら夢の事、もっと詳しくわかるんじゃないかって、そう思ったの。……ね、ユーグももしかして私と同じ夢、見てた?」
「……」
深紅の瞳が乃愛を見た。ウサギは体を固くしている。乃愛は眉をさげた。
「あのね――」
「お久しぶりです。向坂さん」
ここには誰もいなかったはずだ。背後から男の声がし、慌てて振り返るとこの間会った木﨑の部下――合馬がいた。
「え、合馬さん……?」
どうして彼がここに? 乃愛がたじろいでいると合馬が理由を告げた。
「何故、という顔をしていますね。忙しいウィードハイム様に代わり、ディーザを回収しに来たんです。さぁそれを渡してください」
「ユーグを?」
合馬がゆっくりと近づいてくる。丁寧な口調だが妙な圧を感じる。表情からも感情は読めない。何を考えているのかわからなくて急に不安になる。
ユーグを抱いて慎重に後退する。合馬は乃愛の動きをみて「おかしいな」と首を傾げた。
「早くそれを渡した方が身のためです。そのディーザにつけた魔導具は位置が確認できる魔法がかけられている。逃げても無駄です」
「……本当に木﨑さんからユーグを連れてきてって頼まれたんですか?」
(確かに木﨑さんは最近忙しいのか、すごく疲れてるみたいだった……でも、)
もし本当に木﨑が合馬に頼んだとしてもそれでも本人から乃愛に言ってほしかった。
(私が反対すると思って、言い出しにくかったのかな)
そんな乃愛の気持ちに呼応するようにウサギのユーグがううと唸った。合馬が困った顔で手を伸ばしてきた。
「今はまだ貴女の元でディーザは大人しくしているでしょう。ですが魔力を抱えきれなくなれば暴走します。きっと貴女の大切な人達を襲い始める。……ディーザとは嫉妬深いものが多いのですよ」
「嫉妬?」
「貴女がそれに頼めば大人しく我々の元に来る。さあ早く!」
魔力の暴走? ウサギの体は雪のように白い。もう暴走する事はないのではないか。乃愛の脳裏にそんな考えがよぎった。
やがて合馬の体から黒い霧がぶわりと現れる。霧は無数の羽虫となりブブブと不快な羽音をさせ、乃愛とユーグを取り囲んだ。
羽虫の臀部には鋭利な針があった。返答次第では攻撃するという明確な意思を感じ、乃愛の背に冷たい汗が流れる。
「待って! 合馬さん、話を聞いて!」
「いいえ、それはできません」
「!」
すると乃愛達の背後にある樹が風もなく不自然に揺れた。突然、空間が歪み場の空気が一変する。風がやみ、そこにはもう一人の金髪の男が現れた。
男の髪は長く、魔術師のローブを着ている。手には長杖があった。男は乃愛と合馬を見て、驚いたように目を開く。
「おやまさか、こんな所でまた貴女に会えるなんて! 何て面白い偶然なんでしょう」
「……あなたは、ヨル……さん?」
聞き覚えのある声とその容姿に恐る恐る尋ねてみる。懐かしむ様に乃愛を見て、無邪気に笑みを浮かべる彼はユーグの師であるヨルだった。
「ああ、お久しぶりです。ノア」
ユーグ達の世界に乃愛が迷い込んだのは、今から約四年前――
ヨルは昔の彼と何も変わっていなかった。年を取っていない、若い青年のままだ。
「世界樹を見回っていたら『彼』の魔力を感じたのでね。ああそろそろ熟したのだと嬉しくなって、そのまま魔力を辿ってみたんです。――そうしたら貴女達がいた」
何故かヨルは嬉々とし興奮した様子で語り始める。乃愛のそばにいた合馬が驚いてヨルを見ている。
「もしや貴方様がウィードハイム様の師、ヨル様ですか」
「……誰ですかあなたは、」
名を確認されたヨルは合馬を一瞥した。
「私は宮廷魔術師ウィードハイム様の部下、オーマ・オースティンと申します」
「ウィードハイム?」
ヨルは、はて、と顎に手をやり瞳を瞬かせた。考えるそぶりをみせ、やがて「ああ」と首肯した。
「あれの名ですね」
乃愛も二人の会話を聞いていて、木﨑ことウィードハイムがヨルの弟子だと知り驚いていた。つまり木﨑はユーグの兄弟子といった所か。
「ふうん」とヨルは瞳を細め、疑いの眼差しで合馬を見つめる。
「あれの部下という事は味方のはずですよね。その割には異様にあれに対する情が薄く澱んでいる。ふふ、むしろお前はあれが早くいなくなれば良いと思っているのでは?」
ククッと嗤うヨルに合馬の顔色が変わった。
「図星ですか。腹の中が真っ黒だ。いや……ディーザ、ですね。半分しか魔性がないのによくもそこまで育てたものだ。……相変わらず『人間』の方が強欲で罪深い、という事か」
「う、煩い。黙れ! 出鱈目を言うな!私はウィードハイム様の事を一番に理解している!」
こめかみを押さえ合馬が頭を振り否定する。だがやがてメキメキとその姿が真っ黒な巨大な蜘蛛へと変化する。足が八本ある恐ろしくグロテスクな、人間など一溜りもなく飲み込んでしまう大きさの蜘蛛だ。異形になった合馬を見てヨルがニヤリとした。
「それがお前のディーザですね。なんと醜悪な姿か。だがお前の魔力は質が良い、世界樹の貴重な養分です。当初、考えていた目的とは違いますが、今回はお前を貰い受けましょう」
巨大蜘蛛の合馬と対峙するヨル。あまりにも異様な光景に乃愛の足が震えた。
合馬はもう言葉を発しなかった。ただギィィィと金属の擦れ合う音を発し、凶悪な牙でヨルに襲いかかった。だが蜘蛛を取り囲む幾つもの魔方陣が出現し、そこから炎が勢いよく吹き出し蜘蛛を焼く。まるで火炎放射機のようだった。
「っ、合馬さん! だめヨルさん止めて!」
これ以上燃えれば合馬が死んでしまう。立ち上がる火柱を見上げ、乃愛は叫んだ。それを聞いたヨルが理解不能と嘲笑った。
「止められるわけないでしょう。さっきまで貴女は襲われかけていたではないですか。この男は貴女を傷つけてでもそれを奪おうとしていたのですよ?」
「それでも止めてください。ヨルさんは……やり過ぎです」
内心恐怖に怯えながらも乃愛はヨルを真っ直ぐ見据えた。抱いていたウサギを地に下ろし、すぐに逃げるよう囁く。
「ユーグ、ここは危ないから向こうへ逃げて」
「……」
真剣な顔の乃愛を見てウサギは長い耳をピクピク震わせた。少し躊躇う仕草もあったが、林から抜け出し明るい所へ走っていった。
ユーグをこの場から逃れさせたのはヨルから漂う異様な気配のせいだ。少なくとも昔、エリスティンに迷い込んだ自分を保護し家で面倒を見てくれた頃の彼とは明らかに別人だった。
「ヨルさんは変わったね」
「……私は何も変わっていませんよ」
興を削がれたヨルは炎を消滅させた。同時に魔方陣も消えていく。焼け焦げた蜘蛛が力なく地に倒れ、再び人の姿へ戻っていった。
煤のような靄が意識のない合馬の体に貼り付いている。膝をつき介抱しようと彼に寄る乃愛の頭上でヨルが小さく呟いた。
「ディーザとは欲望という意味です。言い方を変えると『願望』ですね。この根源は闇、暗い感情から来る」
「……ヨルさん?」
ガシャと金属音がし彼の手元をみる。それは鈍く光る金属の腕輪だ。その腕輪には覚えがある。確かユーグが嵌めていたものだ。
ヨルは淡々とした表情で腕輪を意識のない合馬に嵌めようとしていた。それはさせまいと乃愛は合馬を守るようにヨルの前に立ち塞がった。
ヨルは奇妙なものでも見る様に目を見開いた。
「何の真似です?」
「ヨルさん待って。その腕輪、昔ユーグがつけていた物だよね? 魔力封じの!」
魔力封じの腕輪をつけると魔力が一切使用出来なくなる。今の合馬にそこまでする必要はない。体が傷ついているのだ。
そう乃愛は必死に首を横に振った。
「この男の醜悪な姿を貴女もその目で見たでしょう。放置すればいずれ暴走し、周りの人間に危害を加える。さぁそこをどきなさい……邪魔するなら力ずくで排除しますよ」
言うが否や瞬く間に幾つもの魔方陣が現れた。ヨルは元より待つつもりなどなかったようだ。魔方陣に囲まれ、結界に閉じ込められた乃愛は突然息が苦しくなる。喉を押さえ、気を失いかけた時――
パキッと何かが結界にぶつかる音が聞こえ、同時に結界がパンと砕け散った。すぐに空気が入ってきて乃愛は咳き込んだ。
「っ……けほ、けほっ、」
「大丈夫か!?」
巻き上がる風の中、ヨルから乃愛を守る様に立つ人物――木﨑こと魔術師ウィードハイムだった。いつの間に戻ってきたのか、ウサギのユーグも彼の肩に乗って一緒にいた。