【4】合馬さんと私
「あの……?」
微動だにしない金髪の男に乃愛がきょとんとする。けれど返事はない。乃愛になど関心がない様子だ。
「社長、いい加減戻ってください。先方と約束した夜の会食――忘れてはいませんよね?」
憮然としたまま男は木﨑に向かって固い口調で話しかけている。いや一方的に伝えている感じだ。
「さっきも君に任せると言っただろう。今俺は忙しいと言ったはずだが」
「……」
顔を上げた木﨑の顔は冷え冷えとしていた。その目は乃愛に向けるものとは全く違う。気圧され言葉を詰まらせた男に木﨑はふんと鼻を鳴らした。
「あんな会社、所詮急ごしらえで立ち上げたもの。我々の目的さえ達成すれば何時潰しても構わない」
「それは」
不遜な態度の木﨑に男は沈黙してしまった。二人の険悪なやり取りを見て乃愛は汗をかいた。
「あの木﨑さん、この方は」
「あ、ごめんね。どうでもいいくだらない話で空気を悪くしてしまって。ここにいる彼は合馬といって私の部下なんだ」
乃愛が話しかけた途端、急に木﨑の態度が変わった。というか元に戻った。口調も柔らかい。その様子を合馬は目を見開いてみている。
合馬と呼ばれた彼は乃愛に改めて向き直り、「はじめまして」と頭を下げた。乃愛も同じく会釈する。
「合馬は私と同郷で今回の件も知っている。だから気兼ねはいらない」
「! という事は、合馬さんも?」
「はい」
周囲に客がいる為それとなく小声で問うと、合馬は乃愛の言いたい事を理解したのかそのままこくりと頷いた。
「貴女様の事はウィードハイム様よりかねがね耳にしておりました。至らない所はあるかと思いますがどうぞよろしくお願い致します」
「うぃーどはいむさま?」
丁寧な台詞だがその中に出てきた言葉が気になった。
「私の名だ」
「えっ、」
ウィードハイムとは木﨑の異世界に於いての名らしい。知らなかった。今まで尋ねた事もなかったので当然だけど……。
(ウィードハイム様! か、格好良い)
魔術師のウィードハイム。まさしくそれっぽい名前でちょっと乃愛は興奮した。その間にも時間を気にしている合馬は何度も腕時計を見ている。乃愛は助け船を出した。
「あの、私そろそろ帰りますね。ユーグが待ってるし。……だから木﨑さんも大変かも知れないけどお仕事行ってください。ね、合馬さん」
「ユー、グ」
「ディーザの事だ。もう良いわかった。合馬行くぞ。向坂さんまた連絡会するから。今日はありがとう」
木﨑が乃愛の言葉にふぅと息を吐く。すぐに合馬に声をかけ立ち上がった。そうして三人で店を出る。乃愛は買い物をしてから帰ると伝え、その場を後にした。
駐車場に停めてあった車の後部座席に身を沈めた木﨑は動き出した車から外をぼんやり眺める。ミラー越しに運転している合馬と目が合った。
「なんだ?」
「……いえ」
物言いたげな様子の合馬に木﨑は露骨に眉をひそめた。一方の合馬はそれに全く表情を変える事なく淡々とした風情だ。
「ノア。あの方がそうなのですね。ですが貴女が前に話していたのとは少し違うようでしたが……」
「変わっていない。何も。……別にそれはどうでもいい。それより何の因果か彼女の元に俺のディーザがいる。アレは他の奴より性質が悪い。魔力が強い上、異常な程執着心がある。引き離すのは厄介だ」
「貴方の様に、ですか?」
「…………」
事実を言ったまでである。合馬に図星を突かれた事でさらに気を悪くしたのか、木﨑は腕を組み沈黙した。最近の彼は感情の起伏が激しく特に怒りの感情は以前より激しさを増していた。
これも恐らくディーザの影響。ディーザとは特殊な人間の魔力から生まれ出るモノなのだから――
「向坂乃愛の元にいるディーザは貴方の魔阻から変異したものです。私達から生まれるものとは違い、力は格段に上。まぁ今はまだ周囲の人間を狂わせてはいないようですが」
「わかっている。アレは封印もしくは消滅させる。必ず俺の手で……っ、ごほっ、」
「! ウィードハイム様!」
突然、木﨑の咳き込む様子に合馬が珍しく感情をあらわにした。その光景にゾッとする。合馬が見たのは木﨑がおさえた口から真っ黒な何かが吐き出される所だった。これが魔阻。
魔阻は魔力を持つ生命の中に等しく存在するが、それは魔力量と質に比例する。
木﨑――ウィードハイムの魔力は強大だ。さらに彼は特殊な生まれ故に過酷な運命を背負わされていた。
「……いい。構うな、そのまま進め」
座したままは苦痛なのか、木﨑は後部座席にぐったりと体を横たえる。顔色は白い。合馬は車のアクセルを踏みスピードを上げた。恐らく今夜の予定はキャンセルだなと思いながら。
「ウィードハイム様。もうすぐです」
いつもの木﨑なら転移魔術を使い容易に自宅へ帰る事ができる。だが最近、体内に溜まった魔阻を吐き出すのに体力を消耗し、魔術制御が前ほど簡単に出来なくなっていた。無理に魔法を使い、万が一周囲を巻き込む魔力暴走だけは何としても避けたかった。
体内に蠢く魔阻の気配を感じ、木﨑は目を閉じた。
「まぁいい。どうせもう俺は手遅れだ。制御出来なくなるなら……世界樹に喰われれば良い。それだけだ」
小さく吐き捨てるように呟き、木﨑はそのまま意識を手放した。
◇◇◇
――あれから二週間。
木﨑からの連絡はなかった。
これまで毎日のようにユーグの状態についてやり取りをしていたのにも拘わらず、だ。
(いつもメール送ったら遅くなっても絶対返してくれるのに……、仕事、忙しいのかな)
「はぁ、」
当たり前になっていた事が突然無くなると、心にぽっかり穴が空いた気持ちになる。つまり寂しい、という事だ。
乃愛はカウンターテーブルにある珈琲をスプーンでぐるぐると混ぜる。それを見た航が慌てた。
「乃愛ちゃん、混ぜすぎ。それに砂糖とミルクは入ってないよ?」
「あ」
叔父の航が困ったように笑う。そしてミルクをカウンターに置いた。時刻はもう6時前、喫茶店に客はいなかった。こんな日は航と二人でちょっとした休憩をとる事にしている。
乃愛が珈琲を飲んでいると「そうだ」と航が冷蔵庫からプリンらしき物を出してきた。
「これ新しいメニューに加えようと思って。試作品なんだけど試食してみて?」
「わぁ、美味しそう。いただきます」
添えられた生クリームと合わせスプーンに掬って食べる。プリンは口の中でふわりと溶けた。
「どう?」
「うん。美味しい。これなら珈琲にも合う。紅茶も大丈夫そう」
航がほっとし、口角をあげた。
「良かった。早速、明日から出してみよう」
乃愛もうんと言って再び珈琲を見つめる。不意に航が瞳を細める。
「元気ないね。心配事?」
「あ……ごめんなさい」
「乃愛ちゃん、謝ることはないよ」
「……」
今日は一日、ずっと沈んだ顔だったらしい。気遣う様な視線を向けられ、乃愛は参ったなと肩を竦める。
「実は知人と最近連絡が取れなくなって……どうしたら良いかわからなくて」
木﨑もそうだが乃愛も大人だ。どうするもこうするも無い。各々、仕事や学業、予定がある。連絡云々でいちいち気にする必要はない。頭では理解しているのだが――
(だってユーグがまた黒くなったとか伝えたり……あと、この前また違うお店行こうって行ってた……それなのに)
大袈裟ではなく最近のユーグは本当に変なのだ。
日によって黒から白、斑になったり落ち着かない。あとたまに寒くないのに震えていたり……。それでも乃愛が触れると穏やかになる。何かが体の中で起きているのではないかととても不安なのだ。
(木﨑さん、何かあったのかな)
ユーグもそうだが彼も心配だ。忙しい人だし体調でも崩してるのだろうか。はぁと無意識に溜め息が出た。
「知人ねぇ。……もしかして、この間店に来た新しいお客さんかい?」
「すご、叔父……いえ、店長。しっかり見てるんですね」
「休憩中だし、おじさんで良いよ」
本当の事は話せないが、偶然木﨑と知り合ったのだと航に伝える。航は始め少し驚いた顔になったがまたすぐ元に戻り、特に詮索される事もなく話を聞いてくれた。
「まぁ、仕事が忙しいのかもね」
「うん。あと最近また変な夢みるの」
「……夢?」
昔、一年程乃愛が眠っている状態だったのを航は知っている。当時、彼は何度も姪の乃愛を心配し病院に見舞いに来ていたと両親から聞いた。
その時見た夢を乃愛は彼にも話していた。
「あの時の……そうか。でもね夢は夢でしかない。乃愛ちゃんがいるのはここ。あまりそれに惑わされないようにね」
「……うん」
航も自分用に入れた珈琲を飲んでいる。
「乃愛ちゃんが眠っている間、皆とても辛い思いをしていたよ。そう君の友達もね。何度もお見舞いに来てくれた。――そして君を起こす為に沢山の人達に力を借りた。それはもう、ね」
「……うん」
航の言う事は正しい。両親にも叔父にも早苗にもそして他の皆にも沢山心配をかけた。
「そうだ、これを渡そうと思っていたんだ」
ゴソゴソと航が奥の部屋から箱に入った何かを持ってきた。開けると木で出来た腕輪があった。乃愛の言葉に航が違うと苦笑する。
「ああこれは腕輪じゃなくて念珠だよ。それに木ではなくて菩提樹の実を幾つも繋げて出来ている。日本では作られていない珍しい物だ」
先週、奈良に行った際頂いてきたものらしい。航は趣味で寺社巡りをしている。その為、行く先々で御朱印や御守りを手にする事が多々あった。
「それは乃愛ちゃん用。干支によって御本尊が違うからね。あとそれ、悪い夢を見ない効果もあるそうだよ」
この念珠、嵌める手も決まっているらしい。乃愛は航の教えてくれた通りに左手首につけた。
「惑う夢はこれでひっくり返せると良いね」
「……うん」
本当にあれは自分を惑わせる夢なのだろうか。
乃愛の見る夢は現実世界と違う所が多い、文化の違いはあれど人々が穏やかに暮らす世界だ。その夢は時々残酷で、戦闘場面になり自分が巻き込まれ死んでしまう事もある。夢とは思えないほど非常にリアルな情景だ。
(惑う夢……?ううん、あれはきっと現実にあった出来事――)
乃愛は曖昧に笑みを返し、御守りの礼をいった。
バイトが終わりアパートに向かって歩いていると新しく建設中の建物が視界に入った。出入口とおぼしき場所から作業着姿の人が忙しく作業している。外装はすっかり出来上がっているが、内装はこれからのようだ。
その中によく知る人物の姿が目に映り、乃愛は立ち止まった。
「木﨑さんだ」
業者と話をしている。横には合馬もいた。久しぶりに見る木﨑は少し痩せていた。乃愛が彼を見ていたのはほんの僅か、だがふと木﨑がこちらを見ている事に気づく。思わず乃愛の心臓が跳ねた。
何だか急に落ち着かなくなったので、軽く会釈し通り過ぎると木﨑が駆けてきた。
「まっ、向坂さん――待って!」
彼と会うのは二週間ぶり。遠目から見ても痩せたなと思っていたが、至近距離で見ると顔色が悪く、目の下に隈も出来ている。体調は良くなさそうだ。
「お久しぶりです。木﨑さん」
送信したメールは確認してくれたか口に出せないでいると、木﨑が眉を下げた。
「ごめんね。君からのメール見れてなくて。……最近忙しくて……ごめん」
「いいんです。それより木﨑さん痩せました?あの、体調……大丈夫ですか?」
「うん」
柔らかく微笑む姿を見てほっとする。良かった、いつもの木﨑さんだ。
そばに立つ彼をじっと見る。微かに木﨑の瞳が揺れた。
「でも顔色良くない。お仕事は大事だけど無理しないで」
「うん、ありがとう。……あ、いや待って」
「?」
いつの間にか木﨑は乃愛の右手を掴んでいた。無意識だったのか彼が慌てて手を離す。
「! あっ、いや、何でもない。ごめん、また落ち着いたら連絡する」
彼らしくない挙動不審な様子に乃愛は心配になった。もしかしたらユーグの件で問題が起こったのか、尋ねようと口を開きかける。
だが建物の向こうから年輩の男が走ってきて木﨑を呼んだ。
「社長、先程の件についてお話が――」
「え? ああ……」
再び仕事の話になる。これ以上、乃愛がいると邪魔だ。彼には後日メールを送れば良い。乃愛は木﨑にまた今度連絡すると伝え別れた。
◇◇◇
その一週間前
木﨑こと魔術師ウィードハイムは転移魔術を久しぶりに使い、とある場所へ一人移動した。そこは向坂乃愛という娘の部屋だ。現在彼女はここにいない。
彼女のいない時間を計算して来たのだが、正直女性の家へ了承もなしで勝手に侵入する事は気がひけた。だがこれは緊急事態だと自分に強く言い聞かせる。
恐らく乃愛にこれから行う事を教えればかなりの確率で反対するし抵抗するだろう。だから敢えて彼女には伝えなかった。
「さてもう十分遊んだだろう。私が壊れる前にお前を封印しなければならない」
ウィードハイムのディーザは他の魔術師のそれと違い魔力が圧倒的に強く厄介だ。その為封印や破壊は他の者に任せる事は出来ず、ウィードハイム自身が行う。
ウィードハイムは部屋全体に防音、防御の結界を張り巡らせた。彼の声と魔術の気配に黒ウサギが部屋の奥からのそりと這い出てきた。
「……本当に闇の部分が消えかけている」
始めの頃の禍々しい塊から、今は黒と白が混じった斑模様へと変化していた。今朝方、乃愛が教えてくれたそのままの姿――
無垢な見た目と正反対にウサギは凶悪な牙をむきウィードハイムを威嚇する。以前、乃愛のいた時に同じように威嚇していたがそれとは全く違う。
それと一定の距離を保ちながら封印術式を展開し、同時に眠りの作用をもたらす術も組み込んでおく。すぐにウサギの真下に魔方陣が浮かび上がった。やがてそれは四角い立方体となりウサギを囲んだまま凝縮していく。
ウサギが呻き暴れ、立方体の結界を内側から体当たりし壊そうとする。そうしているうちにウサギは形を歪ませ霧状に変化していった。
「成功はしている。だが、くそっ、いつもより時間がかかりすぎだ!」
手応えはあるものの、封印完了まで想定より遅い。原因はわかっている、昔ほど魔術操作が上手く行えないせいだ。もどかしさと苛立たしさにウィードハイムは唇をきつく噛んだ。
制御を安定させる為、補助的に魔力を込めた魔導具を幾つも身に付けている。それらがまた一つまた一つと弾け消えていく。
「眠りの魔術も仕込んでいるのにこうも効果がないとは――」
「ギィイィィィィィッ!!!」
「!」
封印されまいと激しく抵抗していたウサギが一際高く鳴いた。鋭くなった深紅の瞳がウィードハイムを睨む。あと少しで封印は完了する――はずだった。
――パキッ
封印が軋み、獣のような咆哮が響いた。封印は亀裂が入り広がっていった。
パァンと、とうとう封印がガラスのように砕け散った。散った破片を踏みウサギ――ディーザが大きな闇色の塊へ変容する。その中にある赤く丸いモノは目だ。
『オマエ、ジャマ――イナクナレ』
ディーザから幾つもの触手が生え、ウィードハイムを襲う。咄嗟に防御結界を張り避けるもすぐに破られる。触手が腕に巻き付いた。
『オマエノ、マリョク、ウバウ』
「やめろ!」
懐から取り出した魔導具の短刀で触手を切断する。目的はあくまで封印。結界を張っているとはいえ、室内で戦うのはまずい。
ふと彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
乃愛はよくこのディーザを可愛らしいと言っては愛でる。その様を見るたびウィードハイムは苛々とし心が落ち着かなくなった。本性は彼女の前で猫を被り巧妙に力を隠す、したたかで凶悪な生物なのだから。
全く、彼女は誘惑されやすい。
ウィードハイムは自分が生み出した化け物を見て嘲笑った。
そうして、これは出来れば使いたくなかったがとウィードハイムはある魔導具に手を伸ばし、それを解除した。