【2】管理人と私
「魔術、師?」
テーブルを挟み目の前に座る男の言葉を乃愛は反芻した。男は真面目な顔で頷く。
「信じられないかと思うが私はこの世界の人間ではない。違う世界から魔術の門を使って来た。そしてそこで私は魔術師として働いている。今回ここに来た理由は君が抱いているその黒い生物を回収する為だ」
「……生き物。ユーグをどうするつもりなんですか?」
「それは元は邪念の塊。負の魔力だ。最近それが新たな形を成し人々が影響を受ける様になった。我々の世界でそれは魔物以上の存在。放っておけばさらに最悪な状態になるだろう。だからどうかそいつを私に引き渡してほしい」
邪念……。たしかに道端で初めて見た時、何か禍々しい気配を感じた。それが魔物以上の存在ということか。
彼は異世界、魔術師、魔物などそれらについて乃愛に隠すつもりはないらしい。何故か乃愛には魔法が効かないという事も判断基準かも知れない。あとはこの黒ウサギを連れてきてしまったのもある。
自称魔術師という男は尚も真剣に乃愛を説得しようとしている。聞きながら膝上で寝るウサギを撫でた。
「正直、突然あなたが魔術師と言われてもちょっと信じられないというか……」
「それでは証拠をみせよう」
承知したと男が人差し指を台所へ向ける。すると食器棚からマグカップがふよふよと浮く、インスタント珈琲が誰もいないのに二人分用意される。トレイには砂糖とミルク、珈琲の入ったカップが乗せられやって来た。
テーブルに落ち着き動かなくなったトレイに乃愛はぽかんと口を開けた。
「すごい。手品みたいですね」
「ふっ、これが魔法だ。どうやら君に魔法は効かない様だから。これでわかってもらえたろうか?」
クスリと笑みをこぼし男はカップを手に取り、どうぞと勧めてくる。
「それにしても君のような人間は初めて会った。こちらの人間は大抵不可思議な現象を見ると驚き動揺し否定する。だが君からそういった様子は確認出来なかった」
随分肝が据わっていると感心された。いえ、と魔法で用意された珈琲を口にする。
「所でその……ユーグ、という名は。それはその生き物が君にそう呼べと言ったのか?」
「! いいえ、違います」
「では何故?」
何と言えば良いのか……。黒い塊、深紅の瞳を見た瞬間、ああこれはユーグだと思った。理屈じゃない。あの時夢の世界で出会った少年の姿と重なっていた。その時の事は何故か目の前の魔術師に語るのは憚られ乃愛は別に思いついた答えを返す。
「昔、飼っていたウサギの名前なんです。ついその子を思い出しちゃって」
それを聞いた男は「そうか」と納得したようだつた。だがと困った様に眉を寄せる。
「君がそいつに愛着を持っているのは理解した。だがそれは本当に危険で魔物以上、いや魔王の力を受け継ぐ存在と言ってもいい。今そいつの魔力はとても不安定な状態でこのタイミングがチャンスなんだ」
男は相当ユーグを探し回っていたようでやっと封印、もしくは消滅させる事が出来ると肩をすくめている。
「でもあの魔術師さん、」
「木﨑遙斗。こちらで使っている名だ」
そうだ。名刺にもあった名。けれどその名前、どこかで耳にした記憶がある。
もう一度名刺をみて先程抱いた既視感の正体がわかった。テレビで見た木﨑グループの社長と顔がそっくりだったのだ。というか本人である。
「木﨑、ってあの建設会社の方ですよね」
念のため聞いてみる。目の前に座る彼はそうだと頷いた。
「そう。私はそれを捕まえる為こちらへ来た。だが捜索は想定より時間がかかり、仕方なくこの世界の人間となり捜索を継続していた」
その際、木﨑グループを立ち上げたそうだ。何だかすごくこの世界に順応している。
「本来なら今すぐそいつを消滅させなければならない。でも、そうだな……万が一にもそれに纏わりつく禍々しい力を排除出来れば、或いは……」
「排除、取り除く事が出来るんですか?」
「それはわからない。我々の世界で赤目を持つ者は昔から邪悪な存在だと畏怖されている。まぁ最近は昔あった赤目狩りは無くなったが」
(赤目狩り? ちょっと怖い)
木﨑の呟いた言葉に乃愛が内心怯えていると、不意に彼が手から青石が嵌められた二対の飾りを出現させた。本当に手品のようで面白い。
その片方を黒ウサギの耳に装着する。これは耳飾りのようだ。残り片方は木﨑が自分の耳につけた。
「この耳飾りは魔導具なんだ。身につけた者同士の居場所を確認出来る。当面の間、これをそいつにつけておく。もし万が一、君の所から逃げ出しても所在が把握出来るようになっている」
「つまりユーグはここに居ても良いという事ですか?」
木﨑は鋭い目になる。
「勘違いはしないでほしい。あくまでも当面の間というだけだ。奇妙な事だが君に俺の魔法は効かない。そして無理にそいつに手を出せば何をするか分からない。さらにいうとそいつは君に異常に懐いている」
全く理解出来ないと言いたげに木﨑は乃愛の膝にいるウサギを忌々しげに睨んだ。何か不審な動きがあればすぐにでも始末する、そういう目をしている。乃愛は震えた。
今は懐いて人畜無害の悪意の無い生物に見えるが、邪悪な存在から生まれた事を忘れないように――
「あとの事はまた後日連絡する」
何かあった際の連絡用に木﨑は乃愛とメールアドレスを交換し帰っていった。本当に彼はこの世界に適応している。
「こ、怖かった」
黒ウサギを胸に乃愛は脱力し床に沈みこんだ。苦しくなったのかウサギは乃愛の腕から器用に抜け出し、再びソファーに寝転び休んでいる。
「……ハッキリ言ってユーグより、あの人の方が怖かった」
話し込んでいるうちに夜だ。明日は午前中から大学の講義がある。その後はバイト。早く寝ないと。
(そうだ。明日ペットショップでウサギ用のご飯買って帰ろう)
今夜は丁度イチゴがあったのでそれをあげるとユーグは美味しそうに食べてくれた。
「ふふ、今日からよろしくね。ユーグ」
ウサギ用のゲージがないのでユーグの寝床がない事に気づく。今日はとりあえず一緒に寝ることにした。疲れていたのかウサギは大人しく、ベッドで横になる乃愛のそばに来て目を瞑る。それを見た乃愛もつられる様に目を閉じた。
◇◇◇
「――しろ、――ア、ノアッ!」
「…………わぁ、いけ……めん」
「は? 何言って」
目を開けると一瞬怪訝そうに眉をひそめる少年姿のユーグがいた。黒髪深紅の瞳、透ける様な美しい肌。子供ながらに綺麗な顔立ち。成長すればこの子はきっと物凄い美男子になるはずだ。
「良かっ……た。ユーグ、けほっ何ともない?」
声を出した瞬間、背中の痛みに息が止まった。
「バカッ、喋るな。傷にさわる!頼むから……」
おかしい。どうして彼は泣きそうなのか。苦痛に歪む深紅の瞳から沢山の温かなものが流れ落ちてくる。おかしい、こんな感情、見たことない。痛みで頭の中がぐるぐると渦巻く。
おかしい。彼は魔法が使えないと言っていた。それなのに私に外に出るなと言い、自分だけ外に。
沢山の叫ぶ人と矢が飛んできた。だから私は――
苦しい。
思考がうまく纏まらない。途切れ途切れだ。私はもう戻る。誰かが私の体はそちらに引き寄せられる。
「……あな、たに、しゅくふくを。……あなたのな、かに、ねむる、力は、わるいもの、じゃない……げほっ」
「っ、ノア!」
不思議ともう痛みはない。
最後に腹の底から何かがせりあがり大きく咳き込んだ。赤いものが大量に飛び散る。その紅はとても綺麗で乃愛はそのまま意識を失った。
◇◇◇
「!」
嫌な夢を見た。乃愛は勢いよく起き上がる。体は汗でびっしょりだ。周りはいつもの見慣れた自分の部屋で、横に昨日から来たウサギのユーグが寝ている。乃愛の動きに驚いたのか、目を覚ましこっちを見ている。
「むゅ、」
「ごめんね、ユーグ。びっくりさせちゃったね」
黒ウサギのユーグは気にするなと言いたげに鼻先をムズムズと動かした。よしよしと体を撫でてやるとおや、と手を止めまじまじと尾を見つめた。
「あれ、ユーグのしっぽ、白かったっけ」
僅かだが全体的に色が薄くなっている。正直昨日の状態はよく覚えていない。なので比較も出来なかった。
「そうだ、写真撮っておこう」
もしかしたらこれから何か変化があるかも知れない。比較しやすくする為に写真を撮っておく事にした。
気を取り直し身支度を整えていると、玄関からカタンと音がした。郵便受けを確認すると封書が入っている。
「……ええと、管理会社からだ。ペット禁止の条項について一部変更あり。わわ、」
読み進めると条件はあるがペットについて相談可と書かれている。驚いた。昨夜あの後、木﨑がこのアパートの条項を変更したのだ。訳アリの黒ウサギなのでここから出す事はないと思うが、万が一見られた時困らない様にするためだろう。
(それにしても対応が早い)
「何にしてもこれなら少し安心、かな」
昨夜の木﨑の顔を思い出して苦笑する。ウサギを撫でた。ユーグを家に残し大学の講義を受ける。今日も午前だけなので終わるのはあっという間。講義が終わり廊下を歩いていると早苗がいた。
「あら乃愛、今終わりなの?」
「うん」
「お昼は?」
「ううん。今日これからバイトなんだ」
「そっかー」
一緒にお昼を食べたかったのか、早苗は残念そうな顔をしている。だがふと彼女が不思議そうに口を開いた。
「どうしたの、何か良いことでもあった?」
「すごい早苗、わかっちゃった?実はねウサギを飼うことになって」
昔から動物好きであることを早苗は知っている。でもと彼女は首を傾げた。
「ウサギ?でも確か乃愛のとこ、動物ダメって……」
「最近、条件次第だけど良くなったんだ」
「へぇ、良かったね」
お昼はまた今度と約束して乃愛は大学を出る。行く先は駅近くにある喫茶店。そこが乃愛のバイト先である。
アルバイトは週三回。勉強優先の為、大抵講義のない午後に入る事が殆ど。因みに店長は乃愛の母の弟――つまり叔父である。
いつものように裏口から入るとそれに気づいた叔父、小日向航がにこりと笑った。
「乃愛ちゃん今日もよろしく」
「はい、店長」
担当する仕事は客から注文をとったり、航の作った軽食を運ぶこと。そして洗い物位である。
昔からあるこの喫茶店は穏やかな曲が流れとても落ち着いた空間を楽しめる。常連客も結構いてこの場所を好んでよく訪れてくれる。
「じゃあ乃愛ちゃん、これを片付けてくれるかい?」
「はい」
洗い物の続きを頼まれ食器を洗い片付けていく。その横で航は珈琲を準備し始めた。昼下がりの店内、客はまばらだ。暫くしその客もひけた頃、カランと音が鳴り来客を告げる。今度は背広姿の男性、あまり見かけない客だなと思ったら――木﨑遙斗だった。
(き、木﨑さん!?)
動揺して危うく高い珈琲カップを落とす所だった。危ない。
「いらっしゃいませ、席はお好きな所をどうぞ」
乃愛の声に木﨑は軽く会釈し店の奥にある席についた。水とメニュー表をテーブルに置きに行くと話しかけられる。
「びっくりしました。向坂さんはこの店で働いているんですね」
「は、はい」
爽やかな笑みを浮かべる木﨑に戸惑う。まるで偶然やって来たように振る舞っているが何だか疑わしい。
(まさかと思うけど、木﨑さん、私がここでバイトしてる事、知ってる?)
木﨑と知り合ったのはつい昨日だ。こんな偶然そうそうない。
そんな乃愛の疑念に気づく風もなく、木﨑は珈琲とサンドイッチを注文してきた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
トレイに乗せたサンドイッチと珈琲をテーブルに置くと木﨑が顔を上げふわりと笑んだ。間近で見るとやはり日本人離れした容姿だなと思う。手には仕事関係の物なのか、書類の束があった。
「向坂さんは何時までお仕事ですか?」
「あ、……と六、いえ夕方までです」
「少し話したい事があります。終わったら連絡をください」
仕事用の顔なのか爽やかな笑みを浮かべているが、何とも断りづらい雰囲気を感じる。
「……少しだけですよね。わかりました」
話したい事とはきっとあのウサギについてだという事は想像できる。昨日はあのまま穏便に帰ってくれたが乃愛の返答次第ではやはりウサギを自分で預かると言い出しかねない。とりあえずここは木﨑に反抗的な態度で接するのは得策ではないと素直に首肯した。
バイトが終わり指定された駐車場に行くと木﨑が黒い車の窓を開け手を振っている。
「車に乗って。話は食事でもしながらしよう」
乃愛は慌てて断った。
「いえ、私これからペットショップに行くので、話はここで出来ませんか?」
それに念のためカットした果物を置いてきているがユーグが家で待っているはずだ。早く帰りたいと伝えると木﨑がふ、と小さく笑った。
「わかった。それなら店まで送るよ」
木﨑にどうぞと助手席に誘導される。結局彼の車でペットショップに向かう事になった。車を走らせている間、彼がククッと肩を揺らした。
「君は変わっているな。あれを気にかけ餌を与えようとするなど……正体がわからないのに恐ろしくはないの?」
「ユーグは怖くないです。むしろ可愛いと思ってます。今朝だって布団の中で丸まって私を温めてくれてましたし、とっても良い子――きゃっ、」
急な振動で揺れ声が出た。運転していた木﨑が突然強くアクセルを踏んだからだ。さっきまでこの人運転上手と感心していたのに……。
「大丈夫ですか、木﨑さん?」
「す、すまない。ディーザをそんな風に扱う人間は初めてだから驚いて」
「ディーザ?」
「あれの名だ」
ディーザとはあの黒い塊の総称であちらの世界では皆そう呼ぶらしい。隣で木﨑が瞳を細めた。
「だから本当はディーザと呼ぶ方がいい。でも君はユーグという名にこだわりがあるんだろう。由来は?」
「信じられない話だから笑われちゃうかも知れません」
「笑わない」
車がペットショップの駐車場に入り止まる。急に神妙な顔つきの木﨑と瞳が合った。この人は異世界から来た魔術師。彼ならきっと乃愛が見た夢の話を信じてくれる。そんな気がした。
「夢を……昔、見たんです。そこでユーグという名の魔術師見習いの男の子がいて、一年位一緒にいました。黒ウサギはその子に雰囲気が似ているんです」
似ている、というか気配が。特徴的な深紅の瞳もそうだ。
「あの時ユーグは魔力を封じられてると言っていました。確か魔王の力に似ていて危険だから。それにあの世界で赤い目を持つ者は処分されてしまうって」
「……それは夢で?」
「そうです。ええと、あの時いた所は確かエリスティ……」
「エリスティン王国」
「そう、それです!」
彼と過ごした森を頭に浮かべ大きく頷く。そして同時に木﨑もその名を口にした事に乃愛は瞳を瞬かせた。木﨑が理由を説明する。
「そういえば君に伝えていなかったな。実は私もそのエリスティン王国から来た。向こうでは王宮の筆頭魔術師の任に就いている」
「王宮……魔術師」
木﨑が乃愛の反応を見て続ける。
「あの森は大分前、火事になってね。全部燃えてしまった。残念だが君達が住んでいた家はもう――」
「そんな!」
それならユーグと共にいた師匠のヨルはどうなってしまったのか。ヨルがいるのにユーグだけこちらの世界に来るなんて。
木﨑が静かに語る。感情の読めない声音だ。
「ある時、エリスティン王国に魔物達が攻めてきた。奴らの目的は王国北部にある世界樹を破壊し世の均衡を崩す事。魔物より非力な人間が優位に立つ状況を是正する。その為、世界中の赤目が召集された。同時にそれを防ぐため赤目狩りを各地に派遣し、赤目の処刑を遂行していった」
淡々と語る木﨑に乃愛は少し怖くなった。王宮魔術師とは王国を外敵から護り、そして北の最果てにある世界樹を魔物から護る。それが木﨑の本当の仕事だった。