【1】異世界と私
エリスティン王国。
世界樹が世界の均衡を維持する界にその国があった。緑豊かな大地と精霊の力に護られた美しい国。精霊は様々な力を宿しており、最も知られているのは《風火水土光》精霊元素と呼ばれその力を人間が魔力と合わせ行使する。所謂魔術というものだ。それらをさらに自在に操る者はこの世界で魔術師と呼ばれ敬われている。
だが魔術師という職は誰でも就ける訳ではない。精霊の力を使役する為には魔力を有していなければならず、またそういった人間は数少ない。それゆえ特別な存在である。
そんないわばファンタジーな場所に一人の少女が舞い降りた。名は向坂乃愛。生粋の非力な日本人である。
「……はっ、 え――ここどこ?」
乃愛は目の前に広がる巨大な樹を見上げあんぐりと口を開けた――……
「――ていう夢を見たのよ」
「ふぅん、へぇ。そう」
大学の食堂で昼食を摂りながら、乃愛は幼なじみの髙梨早苗に昨夜見た不思議な夢を唐突に語った。早苗は眼鏡をかけた細身の理知的な女性だ。そして見た目通りとても頭が良い。
そんなどう考えても現実思考な彼女に乃愛が見たいかにもファンタジーな世界の話を聞かせるのはほんの少し気がひけたが、今しがたその事がふっと頭に浮かんでどうしても語らずにはおれなくなったのだ。
早苗は昼食に選んだオムライスを口に運びながら、ふうんと適当に相槌をうつ。一見興味なさ気な態度だがそれは違う。意外ときちんと聞いている。何せ長い付き合いの幼なじみだから。
「それってさぁ、乃愛が眠ってた頃の、よね?」
「うん」
「……で、そのふわふわした世界で私達の事は全部忘れて、一年も遊んでたってわけね」
「いやいやいや。遊んでないから」
――一年。
確かに夢で一年、その場所にいた覚えがある。
早苗が『一年』と口にしたのは理由がある。昔乃愛は現実に一年程、意識不明の状態になっていた出来事があった。いや実際は体に何の不調もなくただひたすら眠っていた――夢を見ていたのだ。
一緒に暮らしていた家族がいうにはある日突然目覚めなくなったらしい。朝起きて来なかったので部屋に起こしに行くと眠っていた。それ以外にどこも異常はなく、とはいえ食事が摂れないので病院に入院する事はあったそうだが。
おかげで折角入学したばかりの高校を留年せざるを得なくなった。悲しい記憶である。
「で、どうして今になってそれを思い出したの?」
「それは」
幼なじみに不思議そうな顔をされ乃愛は食堂の壁に設置されたテレビ画面を指差した。それはある人物がインタビューを受けている場面が映っている。日本人離れした整った容姿の黒髪の青年だ。
「あの人、」
「なに、あれって木﨑グループの若社長じゃない。木﨑遥斗っていうのね。それがどうしたの?」
「わかんない。ただあの人見たら、何か思い出しちゃって」
不審げに眉を寄せる早苗に向かって肩を竦めてみせる。そんな目をされてもこっちもさっぱり分からない。しかもその木﨑遥斗という男は不動産、建設業を営み、手広く行っているのか最近よくCM等テレビで見かける様になった人物だ。
なまじ顔とスタイルも良いので自分自身が広告塔になったのだろう。ハッキリ言ってそういう突然進出してきた企業は結構な確率で胡散臭い。
早苗もあまりこの男に良い印象を抱いてないのか、よく見ると固い表情になっていた。
「まぁ乃愛が変な事話すのは今に始まった事じゃないから。……今のは聞かなかった事にしておくわ」
「ひどい、早苗」
「結局、大事なのは今よ。そんな事より乃愛、就活の方はどうなってるの?私はそっちが心配だわ」
「あー。うーん。……あっ、そろそろ講義の時間だ。じゃあね」
「もうっ」
既に大手企業に就職が内定している早苗とは違い、一年遅れの自分にはこれから大変な就活が待っている。心配されてるのはわかるけど、顔を合わせるたび、これを口にされるので耳が痛い。
乃愛は適当な理由をつけて彼女と別れ、そのまま大学を出た。この日は午前中で講義が終わりなのだ。
(今日はバイトも入ってないし、買い物でもして帰ろっと)
大学から電車で二駅。そこに乃愛の住む賃貸アパートがある。憧れだった一人暮らしだ。
近所のスーパーに寄ろうと電車を降り駅を出る。遥か向こうに見えるのは最近建設中の巨大なビルだ。
(あれが木﨑グループが手掛けたっていう高層ビルね。――まるで何かの塔、ううん。世界樹?)
乃愛がたまに思い出す夢の世界。エリスティン王国にたしか世界樹という天までと見紛う程の巨大樹があった。それとビルがリンクする。
「たしか天から下界の民を見守っている神様みたいな樹なんだっけ……」
眼前に迫る異常に威圧感のある建物。それが視界に入るたび夢での出来事を断片的に思い出す様になった。
「あの夢、何だったんだろ」
途中まで考え止めた。結局の所、夢は夢でしかない。幼なじみの言う通り、今を大事にする事が懸命だ。だがそんな乃愛の考えを一瞬で打ち砕いたのは、あと僅かで目的のスーパーに辿り着くという頃だった。
数メートル先に蠢く黒い影。それに気づいたのはちょうど角を曲がった時だった。それは人がうずくまり丸まった様な形で動かない。道を行き交う人々はその黒い存在に気づいていないのか、通りすぎている。
「……何、あれ」
黒い塊から発せられる異様な気配に乃愛は立ち止まった。他の人の様に通り抜けるなんて怖すぎて出来ない。それにあそこに近づくのはまずい。頭の中で何かが警告している。
(ひ、引き返そう。買い物はまた今度で)
クルリと向きを変え、もと来た道を戻る。今日はもう家に帰ろう。あの角を曲がればすぐだ。そう安堵し無意識に後ろを振り向いた瞬間、黒い塊がいた。いやそれは最早、ただの塊ではない。人間の様に足があった。禍々しい気配を放ったそれは何故か乃愛の後をついて来ていた。
「――ひっ、」
急いで裏路地に入る。ここは光が遮られるが、あと少し進めば明るい道へ出られた。だが早足で進むも動揺し足が絡まり転びそうになる。見ると黒い塊は人型に変化している。そこから伸びた手が乃愛の服の裾を掴んでいた。
乃愛は震えた。
「は、離して!」
これは絶対、霊――悪霊の類いだ。そう確信した時、突如黒い塊の顔の辺りから二つの目がギョロリと現れた。その色は血の様に赤く濡れた深紅の瞳だった。
――どこかで見たような
『見つけた』
「!」
突然脳内に声が響く。それはどこかで聞いた様な覚えのある声だった。乃愛は恐る恐る目の前にいる深紅の瞳を見る。
この声、夢の世界エリスティン王国で聞いた……。乃愛は記憶にある名を口にする。
「ユ、ユーグ?」
一瞬、その黒い塊がそうだと揺らいだ様にみえた。
◇◇◇
ユーグは異世界に迷い込んだ乃愛を森で助けてくれた少年だ。黒髪でこの世界でも珍しい深紅の瞳をしていた。彼は世界樹から大分離れた深い森に居を構える魔術師ヨルの弟子だった。
異世界から来る人間はこちらでは珍しくなく、魔術師ヨルは変わり者で面白いものを集めるのが好きだったので、乃愛は帰る方法が見つかる迄、家に置いてくれる事になった。
物知りのヨルによれば、乃愛は魔力はあるが生まれた環境ゆえ魔法は使えない。時間をかけ魔法について学び訓練すれば使える様になるかもとの事だ。帰る方法については過去の迷い人達の記録によると、乃愛がこの世界での務めを終える事で戻れるらしい。
それを聞き少し安心したけれど、では務めとは何かというのは全く検討もつかない。その為それが判明するまで、乃愛は魔術師ヨルの家で料理や掃除を任される事になる。
魔術師ヨルも見習いユーグも男で料理は苦手。これまでお互い適当に作って食べていた。
「うーん、ユーグは何食べたい?」
「何でも良い」
この世界にやって来て一月経つ。この家の事なら慣れてわかってきた。台所で火を使用する時、暖房は専用の魔導具があるので快適だし、水や湯も簡単に使える。
ヨルは身分ある高位魔術師で定期的に仕事の依頼が舞い込んでくる。この日も朝から依頼主の所に行くといって姿がなかった。因みに魔術師の仕事は様々で探し物から魔獣討伐などがある。
「ヨルさん遅いねー」
「そうだな」
パン粉をまぶし揚げた肉、スープ、サラダが夕食だ。二人で食卓につき食べながら話す。彼はとても物静かで大人しい少年、人見知りする方なのかなと思う。
それでも慣れてきたのか共に過ごす内、少しずつだが口数が多くなってきた。
「ユーグはお弟子さんになってどれ位たつの?」
他意のない質問だ。
「……さぁ、だいぶたつ」
曖昧に返される。目も未だに合わせてくれない。日中も避けているのかと思う程、乃愛のそばに来る事はない。
(普通、何年とか何歳の頃とか言葉が返ってくるものじゃないかな)
「そっか。早くヨルさんみたいな魔術師になれると良いね」
何と答えて良いか迷い、無難な言葉を口にする。が、その言葉にユーグの食事が止まった。深紅の瞳が乃愛を見ていて、ドキリとする。
「俺は魔術師にはなれない。弟子というのは師匠の元にいる為の体裁だ」
「え?でも魔法の勉強、して――」
乃愛は彼がよく色々な魔術書を読み、魔方陣を紙に書いているのを見ている。
「それも形だけだ。魔力はあるが魔術は使えない。いや禁じられていると言った方が正しい。赤目の人間の魔術は禁忌なんだ」
赤目……。乃愛は彼の瞳を見る。そんな決まりがあるのか。
ほらと目の前に両手首を出し銀色の腕輪を見せられる。腕輪は茨の蔓に似た模様が掘りこまれている。
「これが魔力封じの魔導具。師匠が特別に作ったやつで丈夫だけどそれでも二月もたない。これがないと制御を失ってしまうんだ」
魔力封じの腕輪はとても高価で、これ一つで貴族の屋敷が一つ買えるそう。
「もし制御出来なくなったらどうなるの?」
「始めは暴走し、やがて俺の体は内部から発する魔力に焼かれて消える。周りを巻き込んで」
「!」
驚く乃愛と対照的に彼は淡々としている。これは彼だけの体質ではないらしく、赤目でなくとも魔力制御が必要な者は昔から多くいる。
「普通はそれを改善する為に『祝福』という儀式を受けるんだけど」
それを聞いて乃愛はホッとした。
「なんだ、それならユーグも―」
彼は首を横に振った。
「それは出来ない。俺はその儀式を受ける資格がない」
どういう事……?『祝福』されるのに資格が必要なんて。資格というのは例えば何か試験でもあるのだろうか。
違うとユーグは苦笑する。初めて笑ったのを見た。
深紅の瞳を宿す者が魔術の使用を禁じられているわけは――
この世界は精霊の他、魔物や魔獣も存在する。それと魔王という最も高位の魔性も。
「ま、魔王!?」
ますますファンタジーぽくなってきた。
「そうだ。魔王はエリスティン王国の最果ての地。北の山に封じられている。その為今は平和だ。だが魔王の力を受け継ぐ者がまれに生まれてくる。それが赤目の俺だ」
「!」
ユーグは赤子の頃、世界樹の根の下に捨てられていた。彼を拾い保護したのは世界樹の番人ヨル。彼は魔術師でもあるが古来より続く神木を守護する存在でその日は偶然そこを通りかかった。
(ユーグの身の上話。待って、これって結構すごい重要な話なんじゃ……)
「魔王の力を受け継ぐ者は俺一人だけじゃないけど、昔から赤目の子は禁忌で見つかれば処分される。俺の場合、おそらく母親が手に余って捨てたんだろう……全く迷惑な話だ」
迷惑。その言葉がちょっと気になった。母親が捨てなければ彼は殺されていたかも知れない。自分の事なのにまるで他人事の様に語る。
中途半端に捨てられなければ他の者と同じ様に死ねたのに――ユーグはそう思っているのだろうか。
乃愛が沈黙していると彼がふうと息を吐く。折角の食事が不味くなってしまうなと自嘲気味に笑った。
「悪かったな。こんな話するべきじゃ……」
「こんな話なんかじゃない。今すごく大切な話してた。少なくともユーグにとっては!」
彼が目を見開いた。
「赤い目が何だか知らないけど、ユーグは私から見て普通の子だよ。樹の根っ子に置かれてたのだって実は違う理由かも知れないよ?お母さんも何か事情があったんだよ、どっちにしてもユーグにはどんな形でも生きてほしいって思ってた人がいた。私はそう思います!」
怒ってるわけじゃないけど。一気に捲し立て最後に「私も生きてくれてて良かったって思ってるよ」と優しく付け加えておく。そして波立った気持ちを落ち着かせようとすっかり冷えてしまったスープを口にした。
珍しく感情的になった。恥ずかしくてそのまま無言で食べ続ける。その時のユーグの顔はとてもじゃないけど見られなかった。
◇◇◇
で、現代に戻る。
ここは乃愛の住むアパート。急いで玄関を開け入ると居間の床に座る。深紅の瞳の黒い塊もいて恐る恐る尋ねた。
「ユーグ、よね?」
もう何度目か。覚えていない同じ台詞を続ける。ユーグと呼ばれた塊がまるでそうだと応える様に上部を揺らした。
これは現実。やはりあの夢は夢ではなかった。乃愛はごくりと喉を鳴らす。
「どうして真っ黒になっちゃったの」
目の前の塊は何も答えない。
本当に魔力が暴走して人間でいられなくなったのだろうか。
じっと観察していたが向こうは動かない。全身が影よ様に黒い為確証はないが落ち着いてきたようだ。お腹が空いてきたので乃愛は台所へ移動した。とりあえず何か簡単なものを用意しよう。
結局スーパーに行けず仕舞いだったので今は急遽冷蔵庫にある有り合わせの食材を使う。玉子と僅かな野菜があったので炒め物と卵焼きにする。
チラリと居間に目をやればユーグはソファーの上にいた。退屈そうにしている感じがしたのでテレビをつけてやる。すると液晶画面が光り、ユーグがビクッと反応した。
(そうだよね、初めて見るもんね)
番組もわかりやすいものに変えてみる。動物番組だ。モシャモシャと苺を食べるうさぎが映った。
「わぁ、ウサギだ。可愛い~!」
あまりの愛くるしい姿に我慢出来ず、コンロの火を止めテレビに近寄った。ソファーにいたユーグも興味が湧いたのかじっと画面を見つめている。
「良いなぁ、飼いたい。でもここ、ペットダメだし……はぁ」
一人でブツブツ呟いていると隣でポンッと奇妙な音がした。黒い塊がいない、いや黒いウサギがいる。
「え、ユーグ?」
「…………きゅ、」
(鳴き声。どうしよう、可愛い)
近寄って抱き寄せると柔らかく温かい。しかもさっきの黒い塊より遥かに小さく目立たない。
「どうしてあなたがこっちの世界にいるのか分からないけど――しばらくここにいる?」
「……」
返事はない。代わりにすり寄ってきたのでそれが答えだと判断した。あーそれにしても可愛い。癒される。
すると玄関のインターフォンが鳴った。配達だろうか。
インターフォンのボタンを押すと画面に背広姿の男が立っているのが見えた。荷物は持っていなく配達員ではないようだ。
(どうしよう、出ない方が良いかな)
居留守をつかおうか迷っているとユーグがぴょんと跳ねて足先に体を擦り付けてきた。
「あっ、だめだよ。ユーグ、そこは――」
その瞬間、ガチャリと玄関ドアの開く音がした。男は画面から消えている。慌ててユーグから離れ玄関に行くと男がいた。
(おかしい。私、玄関の鍵、かけてた)
「あ、あの。勝手に入らないでください」
「申し訳ない。ドアが開いていたので……あと先程、妙な声が聞こえた気がして大丈夫かと思いまして」
目の前に立つ男は思わず見惚れる位整った容姿をしていた。画面越しではわからない、黒髪長身、真面目そうな面立ちの人だ。
(この人の顔、どこかで見たような)
不思議な既視感に胸をざわつかせていると男がすぐに上着の胸ポケットから名刺を取り出し渡してくる。手渡された名刺には木﨑管理会社と印刷されていた。おや、と乃愛は目をとめる。
「あれ、管理会社、変わったんですか?」
「はい。先月に会社が統合されたんです。伝えるのが遅くなりすみません」
男は慣れた仕草で言葉を続け、にっこりと微笑んだ。美形の有無を言わさぬ完璧な笑み。営業スマイルだ。
「そうだったんですね」
「はい。それで先程の続きですが……変わった事は?」
まさか道端にいた謎の黒い塊がウサギに変わったとはどうしても言えず、乃愛は押し黙った。
(どうしよ、ここペット禁止だし。ウサギが、動物いるなんて言うのもまずい)
乃愛は青ざめた。だがそんな矢先、黒ウサギがひょこひょこやって来た。それを見た男の目が鋭くなる。
「その生き物は?失礼ですがここはペット禁止のはず……」
「すっ、すみません!これは、その――」
良い言い訳が思い付かない。
「とりあえず、こちらでその生き物をお預かりして良いですか?」
(どうしよう、ユーグがこの人に連れて行かれちゃう)
一方、黒ウサギは男と乃愛の間から、ただならぬ空気を感じたのかフッと部屋の奥に離れていった。
「あ、ユーグ」
「……ユー、グ?」
男の声が急に冷たく低くなる。そのまま彼は失礼しますと言い玄関を上がった。そして乃愛の目の前に左手を翳す。
「眠れ」
「……」
部屋の隅で唸る黒ウサギに男は無表情で近づきそのままむんずと首を掴んで拾い上げる。男は黒ウサギを見つめ口を開く。
「やっと見つけた。今度こそお前は消滅させる!」
同時にブツブツと何か呟き始める。消滅という言葉に乃愛は真っ青になり急いで居間に駆け込んだ。男の腕を掴む。
「待ってください管理人さん。その子はユーグは私の大事な子なんです!」
「え? 君、どうして……?」
腕をひく乃愛の様子に男は驚き目を見開いた。
「知り合いに動物好きの子がいるので、この子を預かってくれるよう頼んでみます。だからどうか保健所に連れて行かないで。お願いします」
目の前で首根っこを捕まれたウサギがバタバタともがく。茫然とする男からウサギを引き離し乃愛はそっと抱き締める。
だが何故か男は返事もなく呆けたままだ。
「管理人さん?」
「眠っていない。何故、君に魔法がかからないんだ」
気の抜けた表情のまま、男は呟いた。