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センセがあたしをどう想おうが、あたしはセンセを裏切っていない事を知っているし、お腹の子は間違いなくセンセの子なんだよ?

 酷い街だった。

 引っ越して来た時、幼い子供の死体を見たのを今でも覚えている。スラムの上、排他的で治安が悪い。その為、余所者の弱者はそのように簡単に殺されてしまうのだ。特に男には厳しいらしく、仮に殺されなくても迫害される。子供であっても。

 ……その子もきっとそんな子だったのだろう。

 私は本来は貴族階級の人間だった。仲間や家族に裏切られ、この街に追放されたのである。余所者で、しかも元とはいえ貴族階級の人間などこの街では嫌われる。私は殺されていてもおかしくはないはずだった。私がその街で生きていけたのは、私に医術の心得があったからだ。医者は重宝されたのである。

 街に来たばかりの頃、家族や仲間から裏切られた私の心は荒んでいた。本心からどうなっても構わないと思っていた。医者は役に立つから認められているだけで、街の連中が私を快く思っていないのは明らかだった。

 ――それは、或いはエルーも同じだったのかもしれない。私を嫌っていた。否、嫌わないまでも馬鹿にしていたのではないかと思われる。彼女は偶然私が引っ越した先の隣に住んでいた女性なのだが、毎晩のように私に飯をたかりに来たのだ。

 私が買って来た食材を勝手に食べてしまう。およそ料理とは言えないような、ただ食材に火を通しただけの料理をしてくれる事もあったが、役割分担のようなものではなく、ただ単にそのままでは食べられないというだけの話である。

 「一緒に飯を食う相手がいるだけで、気分は楽になるもんよ、センセ」というのが彼女の言い分だった。つまり、食事に同席するのが食事代代わりという訳だ。

 因みに彼女は私を“センセ”と呼ぶ。

 スラムだから当然だが彼女は痩せていて、肌は褐色。年齢よりも子供っぽく思え、それは彼女によく似合っていた。

 性サービスを提供する仕事に就いている女性は、同席するだけで男がお金を払ってくれて当然だと錯覚する場合があるそうなのだが、彼女も性サービスの仕事をしているようだった。

 ふざけた話だ。

 ただ、恥ずかしい話なのだが、彼女の言う事は間違ってはいなかった。

 私はただ彼女が一緒に夕食を取ってくれるというだけで癒されていたのである。特に面白い会話をする訳ではない。否、会話をしない事すらもあった。しかし、それでも私は彼女のお陰で少しずつ癒されていったのである。荒んでいた心は少しずつ落ち着き、スラム街の毎日を受け入れるようになっていた。

 が、ある日、エルーに異変が起きた。高熱を出し、身体に腫瘍ができている。明らかに梅毒である。私は自分でも分かるくらいに狼狽をした。このままでは彼女は死んでしまう。経験から、今ならまだ彼女が助かると私には分かっていた。

 私は、プライドを捨てて、かつて私を裏切った仲間を頼った。彼には多少の貸しがあり、また私を裏切った事に罪悪感を覚えていたのか、土下座をして懇願すると、渋々ながら薬を分けてくれた。「いつか金は払う」と言ったが断られた。スラムで暮らす身で払える額ではない事を分かっていたのだろう。

 彼から貰った薬のお陰でエルーは助かった。多少は痣が残ったがそれだけだ。

 「どうして、あたしを助けたの?」

 回復してから、彼女は私に尋ねて来た。「善人ぶっているの?」と。

 その問いに私は「違う」と応えた。

 「単に君に死んで欲しくなかっただけだ。これは私のエゴだ。だから他の人は助けなかったが君は助けた」

 それを聞くと彼女は私に体を許してくれた。「エゴだと言ったのに」と言うと、彼女は「だからだよ、センセ」と返して来た。

 

 ……私は単純だ。それで彼女と恋人同士になれたものだとばかり思っていた。が、彼女はそれからも他の男と交わるのを止めようとはしなかったのだった。相手は様々だった。犯罪組織のボス格や、喧嘩が強いと有名な男、或いはスラムの中では金を持っていると噂の男。生活の為ではない。私は医者の仕事が順調だったから、暮らしには困らなくなっていた。

 そして、彼女は妊娠をした。

 誰の子なのかは分からない。彼女は私とも肉体関係を持っていたが、私は多くの男達のうちの一人に過ぎない。

 怒りや嫉妬を覚えなかったと言えば嘘になる。だが、私に彼女を責める権利があるとは思っていなかった。ここは私が生きて来た貴族社会とは違う。彼女が複数の男と関係を持つ事を望むのであれば、それを否定する事は私にはできない。

 「怒っているの? センセ」

 ある日、夕食を食べながら彼女はそう言った。お腹は少しずつ大きくなり始めていた。流石にもう彼女は誰とも交わってはいなかった。

 私は何も応えなかったが、それが答えになっていた。彼女は軽く笑うとこう返した。

 「センセがあたしをどう想おうが、あたしはセンセを裏切っていない事を知っているし、お腹の子は間違いなくセンセの子なんだよ?」

 

 ――何を言っているのか分からなかった。だが、不思議と彼女が嘘を言っているようには思えなかった。

 

 そして、やがて彼女は出産をした。

 男の子だった。

 子供の父親は私だと彼女は断言したのに、彼女は何故か子供に私を「センセ」と呼ばせ、そして、父親はこの街にいる男達の誰かだと教え込んだ。幼い頃からそう教えていたからだろう。子供は特にショックを受けてはいないようだった。

 誰の子なのかは分からなかったが、それでも子供は可愛かった。

 この子は間違いなく私の子だ。彼女が言うように。

 そう思った。

 私の子は健やかに育った。スラムで生まれたのが嘘のようだった。虐めも何も受けていない。私が初めてこの街に引っ越して来た時に見た、余所者の子供は迫害されて痩せこけ、死んでいたのに。

 それを思い出した時に気が付いた。

 

 ……まさか、エルーが他の男と交わるのを止めなかったのはだからなのか?

 

 生まれて来る子供の父親が誰なのか分からなければ、“私の子”は余所者ではない。エルーはこの街の実力者達とも交わっていた。実力者の子供かもしれない“私の子”を迫害する訳にはいかない。

 だからこの街で、私の子は護られる。

 

 チンパンジーのメスは容易に複数のオスを受け入れて交尾をするのだという。それはオスによる“子殺し”を防止する為なのだという説がある。自分の子供かもしれない子を、オスは殺す訳にはいかないのだ。

 

 ああ、

 

 私は思った。

 やっぱりエルーは、嘘をついてはいなかったのだ。

 

 そして私は、自分が強く目に涙を浮かべている事に気が付いた。

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