運が良いのか悪いのか
「はぁ、はぁ、くそっ、何でこんなことに……」
重々しい雰囲気が漂う迷宮の深層。
呼吸もままならないほど濃い魔力漂う通路に一人の少年がいた。武器も防具も持たない軽装は場違いに浮いている。ただ傷だらけの服装から、元々は最低限の装備を身に着けていたのだと分かる。
「何処かに、もう一度転移罠さえあれば……」
少年を迷宮の底に落としたのは、転移罠だった。
転移罠の特徴は、一方通行で迷宮の何処かに転移させるというもの。
これを上層で踏んでしまった場合、高確率で身の丈以上の下層に挑むことになる。初級パーティが踏んでしまえば、運良く他のパーティと合流できた場合を除き、まず間違いなく全滅するのだ。
荷物持ちとして最低限の勉強を怠っていなかった少年はその事を知っていたが、動けなくなるのでただ考えないようにしていた。
「これは……?」
息を殺して慎重に歩くこと数分、少年は通路の先で大きく開けた場所に辿り着いた。
暗くて周りが見えない中、少年は何度も人骨らしきものに足を取られる。
「この死体の量…、そして大きく開けた空間、もしかして墓地ーー?」
視線を上に向けると天井は闇に包まれて見えないほど高く、迷宮の通路がかなり高い壁の端々に沿っているのが見える。
少年はその場所の特徴に覚えがあった。冒険者が酒場で話していたのを聞いたことがあったからだ。
曰く、迷宮の60層を越えた辺りから、底無しの大穴が迷宮の一定区域に存在する。
曰く、その区域周辺はそれより下の階層の飛行種の魔物や壁を移動できる魔物が現れることがある。
曰く、落ちたら下層の魔物に狙われ、二度と戻ってこれない。
此処がもし冒険者達の言う『大穴の底』なのだとしたら、少年が生き残れる可能性は万に一つも有りはしない。
――少年は嫌な予感がして、咄嗟に亡骸の山に身を伏せた。カチカチカチッと歯を噛み合わせるような音が頭上で鳴り響く。
少年は目の端で音の正体に目を向け、息を呑んだ。
人を軽く飲み込める程大きな百足が、壁を這って蠢いていたのだ。トグロを巻くように壁に張り付いており、その胴体は闇の中まで続いている。
「ーーハッハッハッ」
あまりの恐怖に、少年は人生で初めて過呼吸になった。息を殺さなければ見つかる、しかし恐怖で息が苦しい。
――気づけば眼の前に百足の脚があった。
「あ」
少年は百足の脚に引っ掛かり、地面に轢き下ろされる。たったそれだけで少年の身体のあちこちは骨折する。
「ぃたい……」
無様に引き摺られた先で、硬い何かにぶつかって止まる。
鎧を着たミイラが横たわっていた。
近くにはお伽話にしか見たことがない巨大な生き物の骨があり、鎧の主のモノと思しき剣が突き立っている。
(きっとこの人なら、あの化け物も倒せたんだろうな……。)
少年の手元には、一本の蘇生薬があった。
非常時でも使えるようにポケットに入れてあった唯一の薬だ。
パーティの荷物係だったことに、生まれて初めて感謝したかもしれない。
「僕に使ってもどうにもならない、なら……」
蘇生薬の効果対象は、“死後数分”の魂が拡散するまでの間だと言われている。
少年はそれを百も承知だったが、自分を蘇生してもここから脱出することはできないのなら、他人に賭けるしかないと考えていた。
「え?」
蘇生薬に当てられたミイラはみるみる内に健康的な瑞々しい肉体を取り戻し、鎧の中にすっと収まった。
その見目麗しい相貌は女性そのもので、目を開くと、その力強い瞳が少年へと注がれた。
「まさか地の底で蘇生されるとはな。恩に着る、少年」
「生き返った……あ、えっと、僕はこの通りもうすぐ死ぬので……、帰還まで頑張ってください」
「ん? その軽装で魔法使いじゃないのか。待って、今治療魔法を掛けてやる」
女性が鎧の手を少年に向けると、緑の光が少年を包み込む。
痛みは消え去り、ダンジョンに入る前よりも爽快な体調に戻っていた。
少年は体を起こし、漲る体を確認して驚愕した。
「治療魔法ってーー、剣士なのに凄いですね」
「はは、深層では前衛も最低限の治療魔法ができないと後衛が大変だろう」
「そう、なんですか? 僕は転移罠でここまで来てしまったので、冒険者としてはズブの素人なんです」
「ーー! ここは90階層だぞ?君は運がいいのか悪いのか……」
女性の呆れた目に少年ははぁ…とため息を付く。
運が悪い一択だろうと少年はツッコみたかったが、明らかに最上位の冒険者である彼女を蘇生できたことは運が良い以外の何者でもない。この場合は悪運が強いというべきなのだろうか。
「でも、何故蘇生できたんだろう?」
「ああ、それはこいつのお陰だ」
女性は手甲で巨大な白骨を小突く。まさか本当にこの巨大な骨の主を倒したとでも言うのだろうか。
「こいつをパーティー全員の命と引き換えに倒した直後、古龍の血が私の身体に混じった。生きた古龍の血を浴びたものは魂が肉体と結びつき、より強大な力を持つ。死ぬ直前、可能性を考えてはいたが、まさか本当に蘇生されるとは思わなかった。普通は効果がない死体に貴重な蘇生薬を使おうとは考えないからな」
「ははは、自分を蘇生しても何にもならないので、自棄になってぶっ掛けたんです」
「それでこの状況で唯一できる賭けに勝ったわけだ」
女性は古龍と呼ばれた骨から長剣を抜き回収すると、薄暗い天井を見上げる。
「ジャイアントムカデか、人を庇いながら戦える魔物じゃないな」
「ど、どうするんですか?」
「こうする」
女性は少年の腰に手を回して軽々と抱き上げ、深くしゃがみ込む。
フワリと良い香りがして思考が真っ白になっていると、次の瞬間には凄まじい重力が少年を襲う。
「うわぁあああああ」
「静かに、魔物が寄ってくるぞ」
「むぅりぃぃいぃいい」
壁の穴から穴へ次々と跳躍し、強引に上昇していく女性。
当然のように飛行系の魔物と百足がわらわらと集まってくるが、邪魔になる個体だけを処理して華麗に空中で攻撃を躱していく。
「大空洞は慣れれば近道でしかない。古龍に待ち伏せされるようなことがなければな!」
「僕の知ってる話しと違ぅうううう!」
絶望から一転、二人は大穴の底から60階層まで一気に駆け登った。