15、居候の家庭教師
明日も20時ごろ更新予定です。
「私が……?」
今にもこぼれ落ちるのではないかと思うような金色の瞳を見開いて、エルピスが言った。
「そうだ」
「で、でも。私まだ赤線を越えられなくて……」
自分のスカートの裾をギュッと握りしめ、俯いてこぼした言葉に、オルトゥスが小さく頷いた。
「……であろうな。帰って来るのも早かったし、お前たちの表情だけでそれは分かった」
「だったら……」
「だが、お前が助けたいのなら、お前自身の力で乗り越えるべきであろう? 我が助けるのは簡単だが王家の人間にことある毎に利用されるのは本意ではない。アリアーナに鱗を渡したのはあれは本当に『特別』な理由があったからだ。……何より赤線を越えて、その『もふもふ』にお前が会いたいのではないか?」
二人の会話を聞いている殿下は、「……赤線?」と不思議そうに呟く。
親子の会話を邪魔しないように、小さな声で殿下に魔力調整についての話をすれば、だからあの時立ち止まっていたのかと納得したように頷いた。
「パパ……でも……私越えられる気がしないもん! アマルは出来たのに……私は……」
「一度越えられなかった程度で諦めるなら、始めから『もふもふ』など飼うな。いつも言っているが、命には責任が伴う。ましてや『飼う』など生半可な気持ちでは最後まで面倒をみることも出来ぬであろうな」
「……っ」
涙に濡れる瞳と、震える声で話すエルピスのそばに殿下が近づいた。
膝を曲げてエルピスの目線まで視線を下げ、礼を執る。
王家の人間が頭を下げるのは竜ぐらいだろう。
「エルピス。君が王都に来て、妹の魔力の解放をしてくれたなら、いくらでも『もふもふ』のいる場所に案内すると約束しよう。もちろん謝礼をそれだけにするつもりはないし、何より君に会えたら……妹も喜ぶと思う」
「でも……まだ赤線越えられないの……助けてあげられる自信なんて無い」
「アリア姉様の話だと後少しで越えられそうなんだろう? 僕ももちろん魔力調整は得意だから、練習のために協力させて欲しい。学び方も色々だから僕なりの方法で教えてあげられると思う。それから、君さえ良ければ王都に来た時に『もふもふ』と一緒に過ごしてみる練習をしてみないかな? どうやったら君がもふもふと長く、仲良く暮らしていけるか勉強してみるのはどうだろう?」
「長く……、仲良く……?」
金の瞳はまだ濡れているが、涙はぴたりと止まり、殿下の顔に穴が開くのではないかと思うほどに顔を見つめていた。
「うん。王都には動物の専門の人がたくさんいるからね。動物によっては食べてはダメなものや生活していく上で気をつけることが色々あるから……そうだな、たとえばあそこに置いてある美味しそうなスープ。犬にはあげちゃダメだよ」
おそらくオルトゥスが用意していたのであろうキッチンにあるスープの鍋を指さして殿下が言った。
「え? あのスープ? お肉だよ?」
「うん。それに入っている玉ねぎがダメだね、犬にとっては毒だから」
「ど……毒なの⁉︎」
明らかにショックを受けているエルピスに殿下は優しく微笑んだ。
「君のお父上の言うように、命には責任がある。大切に育てるためには知識は必要だし、経験もあった方がいいだろう? ここには動物のお医者さんもいないし、君しかその子を守ってあげられる人はいないんだから。……それとも、そんなことをしてまで飼うほどでは無い?」
ふるふると全力で最後の殿下の言葉を否定する。
そうしてエルピスは目の前の殿下の顔をしばらくじっと見た後、小さく微笑んだ。
「分かった。まずは、魔力調整……頑張ってみる」
その言葉に……もう一度、エルピスが頑張る気持ちになってくれたことが嬉しくて不意に鼻の奥がツンと痛くなる。
今日赤線を越えられなかった時から、エルピスはずっとぼんやりして無気力になっていたけれど、きっかけが何であれ、笑顔が戻ったことが嬉しかった。
殿下がエルピスの返事を貰った後、こちらに笑顔で振り向き、私もお礼を言おうと口を開きかけたその時……。
「もちろん、アリア姉様も来てくださいますよね?」
「は?」
「そうだな。王都に行く時はアリアーナ、お前に任せた」
「え⁉︎」
男性二人のその言葉に私の笑顔が引き攣った。
「え⁉︎ 何で私も王都に行くの⁉︎ オルトゥ……」
「我はしばらく用事があるし、アマルも行きたがるだろうしな。子ども二人で行かせるわけにはいかんであろう?」
「え、僕も行っていいの⁉︎」
ずっと黙ってことの成り行きを見守っていたアマルが、父親の言葉にパッと顔をきらめかせる。
エルピスの一件からアマルも暗い顔をしていたので、そのあまりに眩しい笑顔に思わず目が眩んだ。
「もちろんだよ。二人とも来てくれたら嬉しいな」
「お兄さん、いい人だったんだね!」
「あはは、ありがとう」
殿下の胡散臭い笑顔に、アマルが純粋な笑顔を向ける。
いや、ちょっと待って。
王都には『二人』がいる。
絶対に会いたくない二人が。
「ですが、殿下……お話によると私は指名手配中のようですし……。色々とトラブルの元になるかと」
「何をおっしゃいますか。妹を助けてくれる『竜』の母君にそんな無礼なことはさせませんよ。安心して王都に来てください」
「いや、本当に……ちょっと、オルトゥス……!」
飲み直すかと颯爽とベランダに足を向けるオルトゥスを呼び止めれば、面倒くさそうにこちらを見た。
エルピスは早速練習だと言って、『着替えてくる』と自分の部屋へ戻って行き、アマルはそんなエルピスの姿を嬉しそうにソファから見ていた。
何だかここで私一人行かない発言をする雰囲気ではない。
「保護者は必要だしな。何にせよ我はしばらく用事がある。アリアーナも久々の帰省を楽しんでくれば良い」
「いやっ、でも……」
「あぁ、そういえばデュオスとやら」
私の抗議の声を無視したオルトゥスは私の横にいた殿下に冷ややかな視線を移す。
「何です?」
「貴様、例えエルピスの魔力調整に時間がかかって、……万が一『間に合わなかった』としても、間違ってもエルピスを責めるようなことは許さぬからな。自分の指導力不足が招いた結果だと思え」
「もちろんです。協力を申し出ていただいただけで光栄ですから」
恭しく頭を下げた殿下に、「……ふん。しばらく空いている部屋を勝手に使え」と鼻息荒くベランダに出て行ったオルトゥスを彼はじっと見つめた。
オルトゥスの鋭い言葉に、私はベランダに行ってまで王都行きに関して文句を言う雰囲気ではなくなっただけでなく、言いしれない不安が湧き上がる。
エルピスが間に合わなかった時のショックを思えば、この道は最善ではない。
どちらにとってもいい結果にならなかった時、一番傷つくのは……私が守りたいのはエルピスの心だ。
それならば、私は母親として彼女のそばにいなければ。
「あの……殿下。大丈夫ですか?」
「何がです?」
にこやかに振り向いた彼に、私は素直な不安を口にする。
「魔力調整を教えるとおっしゃいましたが……殿下は、魔術よりも、剣の腕に長けていらっしゃったように記憶しております」
「そうですね。でも今はシリウス兄様と同じくらい魔術が使えると思っていただいて構いませんよ」
「シリウスと……? 確かに先ほどの結界は素晴らしいものでしたが、人にご指導された経験はおありですか? 人に教えるのはそう簡単ではないのです! 特にあの子たちはまだ幼いですし、小難しい魔術理ろ……殿下⁉︎ 何を笑っているんですか!」
こちらが真剣に話していたのに『人に教えるのは簡単ではない』と言ったあたりから殿下の口元が緩み、口元を抑えて肩が揺れ始めた。
明らかに笑いを堪えようとしているのが見え見えだ。
「い、いえ……。ふふっ……幼い頃あなたに魔術を教えていただいたことを思い出して……」
「殿下!」
その記憶は私にだってある。
楽しかった日々の大事な思い出。
「天才魔術師と呼ばれた貴女に教えていただいたのに、ちっとも上手く出来なくて突然泣き出して姉様を困らせましたね」
「そもそも天才ではありませんよ! シリウス……殿下には最後まで敵わなかったのですよ。本当に、いつも飄々としているのに、こっちがどんなに努力しても追い越せないのですから。天才というのは殿下の兄君です」
「……そう思っているのは貴女だけですよ」
どこか寂しそうに微笑んだ殿下の表情に胸を締め付けられ、何故か視線を逸らしてしまった。
「そ、それで誰かを指導した経験はおありなんですか?」
「ええ。たくさんありますよ。理論派から、感覚派、それこそ数百人に」
「感覚派も……?」
そう尋ねれば、殿下は笑顔だけで肯定する。
私のようなタイプまで指導してきたとは、まだ十七歳にも関わらず経験が豊富なんだなと驚かずにはいられなかった。
数百人ということは魔術師不足による、何か講習か、授業のようなものでも開催していたのだろうか。
王子自ら?
「で……ですが、殿下。万が一『間に合わなかった時』には、どうかそれをエルピスには悟られないようにしてください。これ以上、エルピスが……娘が傷つくのは絶対に阻止したいんです」
王族に対し、失礼極まりない内容だと分かっていながらも、私は言葉を止めることが出来なかった。
けれど、ウェイラさんが亡くなった理由を自分の力不足と感じて傷ついている彼女に、またしても『線』を越えられなかったことでさらに深い傷を負わせるわけにはいかない。
「……分かりました。ところで、今までアリア姉様が双子の魔術指導を?」
「え? そうですね……オルトゥスと担当分けをしてといった感じですが」
「なるほど」
「竜はあまり人間の魔術を必要としていないのですが、特にアマルは魔術全般に興味があるので、一応魔術学校で習ったことを順に教えて……いま……す」
ふと、そこでアマルの授業の進み具合があまり順調ではないということに思い至る。
それについてここは私のプライドの為に黙っておくべきか。
いや、こんなつまらないことでプライドを出してどうする。
と一人心の中で自問自答した。
「姉様?」
不意に黙った私に、殿下が首を傾げる。
「殿下……あの……エルピスの指導の合間でもいいので……その……」
「何でしょう?」
「アマルの魔術も少し……見てやっていただけませんか?」
「え? 僕?」
そこで、ソファで本を読んでいたアマルがパッと顔を上げた。
「アマルの魔術ですか?」
「ええ。シリウス殿下と同等の魔術が使えるということであれば、相当な数の術をご存知でしょう? 恥ずかしながら……あまり数を教えてあげられていなくて……。頭の良い子なので、私の教え方に問題があるんだと思うんです」
「……」
再び情けなさで殿下から視線を逸らしてアマルを見た。
そう。
アマルは賢い。
けれど、感覚派の私では上手く言いたいことが彼に伝わらないのだ。
指導というのはその人の言葉がストンと腑に落ちるかどうかであって、どんなに優秀な人間でも相手に伝わらないことも多い。
自分の力不足だと勇気を出して言ったものの、殿下から反応がなく、恐る恐る彼に視線を戻した刹那。
私の時間が止まった。
濃い紺碧の瞳も、濃いブラウンのヘアーも『彼』のそれとは違うのに。
目を柔らかく緩め、優しく弧を描き微笑むその姿があまりにも……シリウスに似過ぎていて……。
「俺を頼ってくれて……嬉しいですよ」
その腰から蕩けるような柔らかな声の響きは、まるであの頃の幸せな時間に戻ったようで……。
――そんな夢のようなことはありえないのにと、私の口から乾いた笑いが溢れた。




