2、聖女『ローゼリア=レイルズ』
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夜もふけ、静かになった頃、まだ飲んでいる皆よりも先に一人魔術師団の寮に戻る。
寮は、自分の家の公爵邸から通える距離ではあるのだが、呼び出しの多い職業のため、師団の寮で暮らしていた。
生まれ育ったレイルズ公爵邸よりも、よっぽどかここのほうが自分の居場所だと感じることが出来る。
大きな門を超えて、足元の石畳をぼんやり見ながら、玄関までの長い慣れた道をとぼとぼと進む。
「アリアーナ……?」
玄関の前で小さく呼ばれたその声に驚いて振り向くと、そこには月の光に照らされた姉が立っていた。
神々しいという言葉が相応しく、ふわふわと月の光を集めるように柔らかな髪が輝き、彼女は月から舞い降りてきたのだろうかと、そんなことさえ頭を過ぎる。
いつもは姉の顔を見ると元気になるものだが、今は会いたくなかった。
笑顔を作れる自信なんてどこにもない。
それでもなんとか口角を上げようと頬に力を入れるも、上手く笑えているとは思えなかった。
「ね、姉様。どうしたの? こんな時間に一人でなんて。何で……早くお屋敷に戻らないとお父様もお母様も心配するわ」
「貴女に、これを返そうと思って……」
「あぁ……。今日じゃなくてもよかったのに」
気まずそうに姉が差し出したのは、今朝会った時に貸した私のストールとそれを留めるブローチだ。
朝早く、薄手の聖女の衣装で私の怪我の様子を見にきてくれた。
そのまま神殿の医療スタッフとしてシリウスのところに行くと言ったので、風邪をひいてはいけないと貸したものだった。
私も後から行くと言えば、姉に「ちゃんと怪我を見てもらってからにしなさい」とコツンと優しく頭を小突かれるも、「治してあげられなくてごめんね」謝られたことを思い出す。
何故か、竜の鱗を取りに行った時の私の傷は、姉の治癒魔法でも治すことが出来なかったのだが、他のメンバーの傷を治癒してくれた姉には感謝しか無かった。
そんなやりとりをした今朝は、『こんなこと』になるなんて夢に思ってもいなかった。
文字通り、私は久々にシリウスに会えることに浮き足立っていた。
「それに、……あなたに。あや、……謝りたくて」
『何を?』
思わずそう意地悪な言葉が口を衝いて出そうになり、唇を噛み締めて言葉を呑み込む。
遠征に出かける前、引き留めてくれたシリウスの辛そうな表情が、私の中にある彼の最後の記憶だ。
シリウスを襲った竜魔症とは王家特有の病気で、体の中を巡る魔力が暴走するものだが、発症するもしないも個人差がある。
竜魔症は自分自身の力で乗り越えるか、竜の鱗を治療薬として服用するか、竜自身に魔力を制御してもらうかの三択。
暴走した魔力を制御できれば今までに無いほどの魔力を手にすることができるが、制御できない場合、高熱が続き、数ヶ月で死に至る。
王家の祖先は竜と言われており、代々魔力の抜きん出た者が王位を継承してきた。
書物によれば、昔は竜魔症を発症しても王家の森の近くに住んでいた竜に魔力の制御をしてもらっていたようだが、年々薄くなる血によって竜魔症を発症する者が減っていった。
更に百年前に突然竜が森から姿を消したが、竜魔症の発症が減った上に、発症しても軽い症状しか出ず、自分の力で乗り越える者が多く、王家の血が途絶えることを心配する者も少なかった。
それから百年近く姿を消していた竜が王都の近くの森に戻ってきたのは約十年前。
書物に記された竜の棲家とは別の場所に新たに住みつき、そこが『竜谷』と呼ばれるようになったが危険な魔物の多い森の奥の奥だった。
そして今から四ヶ月前に王太子殿下が数代ぶりに竜魔症を発症した。
王宮としては優秀な第一王子は自分自身の力で乗り越えられると期待していたのだが、症状は重くなるばかりで、さらにはシリウスまでも竜魔症を発症してしまう。
二人の症状が重くなる上に、万が一にも第三王子まで発症し、王位継承者が全員命を落とす可能性もあるのではという不安から第一魔術師団に竜の鱗を取りに行かせることを決定した。
竜の力を借りて治癒するにしても竜谷に出向かなければいけないことに変わりはないのが、王家はとある理由により『竜の力を借りるのは不可能であろう』と判断をし、『鱗』を最優先にと私たちに言った。
竜谷と呼ばれる新しい竜の棲家に行くなど誰も経験がなく、事前情報のない魔物たちとの戦いにこちらの被害は大きかった。
『一度目』は間に合わなかったが、『二度目』も決して楽では無かった。
なんとか取ってきた竜の鱗だったが、後処理や遠征で負った怪我の治療もあったし、シリウスに会える時間の調整が上手くいかず、彼に会うのに時間がかかってしまった。
やっと面会時間が取れたのは今朝しかなかったのだが……。
……いや、むしろこれで良かったのかもしれない。
顔を合わすことなく、彼の気持ちを知ることができて。
「アリアーナ……?」
私を呼ぶ震える声と、涙を滲ませた姉の瞳に、足が縫い付けられたように動かなくなった。
キラキラと輝く紫水晶のような瞳は、まるで宝石のようで、吸い込まれてしまいそうだ。
同じ両親から生まれたというのに、姉のシルクのような銀の髪に透き通る紫の瞳は、私の黒髪と金の目とは正反対。
性格も、出来も、全てが違う。
「シリウスと……いつから……か、聞いても?」
「……貴女が、『竜の鱗』を取りに行く為に王都を離れて、貴女の代わりに彼の命を繋がないとと思って……。でも、私の癒し魔法なんて竜魔症には大して効果もなくて、それでも……、貴女が戻ってくるまでに彼を、彼の命を消してはいけないと……、ずっと彼の側に。ごめんなさい。言い訳にもならないわ。こんなのが最強の聖女と呼ばれるだなんて……自分が恥ずかしい」
俯きながら、足元の芝生に姉の涙が染み込んでいく。
元々優秀な癒し魔法の使い手だった姉は、三年前の留学から戻った後から更にその魔法を急成長させた。
本来ではあり得ないが、千切れた体の修正や、瀕死の状態の怪我ですら治してしまう。まさに『稀代の聖女』『最強の聖女』と呼ばれるに相応しい力を持っている。
それは、恵まれた才能だけでなく、彼女の努力が手にしたものであり、誰もが『稀代の聖女』と尊敬していた。
けれど、その聖女の力を以てしても『竜魔症』はどうにもならなかった。
「……いいの。だって、姉様を選ぶのは当然だもの。私では、きっと彼を支えられないし、いつも怒ってばかりだし、喧嘩も多くて……」
思わず言い訳が口を衝いて出て、「アリアーナ……」と姉の困ったような、申し訳ない様な視線に戸惑った。
「あ、お姉様達の婚約発表は来週でしょう? 私、調査依頼が来てて……。ほら、今朝話したと思うけど魔物の生息確認調査の……」
「ええ。そうだったわね……」
これで良かったのだろう。
姉とシリウスの婚約発表なんて、一体どんな気持ちで聞けば良いのか。
笑って、おめでとうだなんて言えない。
……けれど。
「ちょっと早いけど……婚約、おめでとう」
「……ありがとう」
「姉様、暗くなる前に、帰った方が良いわ。お父様もお母様も心配するから」
「そうね。アリアーナ……」
姉が、ぎゅっと私を抱きしめて腕に力を込めた。
「ごめんね。それから、シリウス様を助けてくれてありがとう……」
姉の言葉に、暗い感情が湧き上がるのをなんとか堪える。
『姉様の為に、シリウスを助けたんじゃない』
そう言いたかったけれど、もう言葉にしてもどうしようもない。
これ以上惨めな気持ちになりたくなんてない。
大好きな姉に嫌味を言いたいわけでもない。
なのに、この重く、暗く、渦巻く感情の制御がどうにも上手くいかない。
――シリウス。
どうして選んだのがよりによって姉様なの⁉︎
他の女性だったら、シリウスに罵詈雑言を投げつけて、声が枯れて気分が晴れるまで彼に罵声を浴びせられるのに。
震える姉の細腕にそっと手を添えると、姉がなんとも言えない苦しそうな表情でこちらを見た。
朝方の雨のせいかまだむわっとした湿気を帯びた風が頬を撫ぜていく。
「姉様、私……明日の朝も仕事だから、準備をしないと……」
――二人が揃って王家のバルコニーから手を振る姿なんて見たくない。
大好きな二人なのに……。
姉のためにも、シリウスのためにもこの命を投げ出してもいいとさえ思ったのに。
祝福をできない自分が嫌になる。
「そうよね。ごめんなさい。お父様達にも貴女が仕事でここを離れることを伝えておくわ」
「ありがとう。そうしてくれたら嬉しい」
「アリアーナ、気をつけて行ってきてね」
「ありがとう」
そう言って姉の儚げな後ろ姿を見送ったあと、受け取ったストールとブローチを片手にゆっくりと寮の自室に足を向けた。