9、シリウスの願い
「無事に帰って来てくれ」
それだけだった。
父が第一魔術師団に竜谷へ鱗を取りに行かせると言った時、絶対にやめさせてくれと反対した。
ーー百年行方知れずだった竜が五年前に戻ったかと思うと、元々竜の巣があった東の山ではなく、南方にある魔物の多く住む魔素の濃い谷へと住みついたと知らせが入る。
そこは、どこの国にも属さない魔素の濃い森だった。
いつしかその森は『竜谷』と呼ばれ、王家としてももはや伝説と化した竜に一度は挨拶に行くべきだと議会でも常々話題になったが簡単にはそれができる場所ではなかった。
形だけでも『竜の洗礼』を受けに行こうにも、強力な魔物が多く、攻略難易度の高い竜谷には簡単に行くことができず、そうこうしているうちに二年が過ぎた頃、突然竜が王都に攻め込んで来る。
竜が王都に攻め入るなど過去に例が無く、王都は大きな混乱に陥ったが、竜は結界を壊しただけで静かに帰って行った。
本来なら神と崇めるべき竜が、攻め入ったことで民からの王家への信頼が揺らぎ、どのように竜を扱うべきかと王家も手を拱いており、何の結論も出ないまま月日だけが過ぎていった。
そして数ヶ月前、兄が竜魔症に罹る。
これをきっかけにとばかりに、竜谷へ行く案が何度も提案されるものの、そもそも、王都を襲った竜とまともな会話ができるとも思えないし、優秀な王太子が自身の力で乗り越えるだろうと結論は出ず。ただ手を拱いていた……。
そんな時、自分までもが竜魔症にかかってしまう。
万が一の際の望みは第三王子である弟、デュオスだけが頼りだったが、父王がアリアの所属する第一魔術師団に『竜谷へ赴き、鱗を取ってこい』と勅令を出した。
俺が倒れるまでは『国の要となる第一魔術師団は派遣に使わない』と言い張っていたのに。
本来なら兄の竜魔症を治すために俺に与えられるべきだった仕事が、俺のいない副師団長という立場にいるアリアに出されたことへのショックは想像以上だった。
――「アリア、行かなくていい」
見舞いと遠征の報告に来たアリアにそう言うと、彼女はどうしてと首を傾げた。
「竜魔症は自分でなんとかする。陛下には俺からもう一度進言するから……」
「陛下としては当然のことで、シリウスの為にみんなも行く気満々よ。早く貴方に魔術師団に戻って来てほしいってみんな言ってる」
綺麗な黒髪を後ろで緩く纏めたアリアは心配しないでと満面の笑みを浮かべている。
「バカ言うな。竜谷にいるのは三年前に攻め入ってきた竜だぞ。話ができるかどうかも疑わしい。そんなところにお前を……」
やれるか。
そう言いたいのに、アリアがふっと笑った顔に言葉を飲み込んだ。
信じていないわけじゃない。
側にいないことが不安なのだ。
俺が、守ると決めたのに、彼女と一緒に戦うことすらままならない。
そんな状況が嫌になる。
何より、彼女を竜谷へと送るのが自分のせいだという罪悪感と無力感、そして何度も感じたことのある「王子」という煩わしい立場が、より一層憎らしく感じた。
アリアの暖かい手が自分の右手にそっと重なり、顔を上げると彼女の金色の目が、陽の光を浴びて妖しく光る。
「大丈夫。絶対に戻ってくるから。それであなたを必ず助ける。必ず間に合わせる。……お願いだから……、私を何も出来ない女にしないで。貴方が助かる見込みがあるのなら、どうしてもそれを手に入れたい。その権利を与えてくれた陛下には感謝しかないわ」
「アリア。……だめだ」
「お願い。シリウス。信じて待ってて。必ず貴方と、王太子殿下に竜の鱗を持って帰るから」
そう言って彼女は俺を抱きしめた。
ふわりと彼女のオレンジの香りが鼻腔をくすぐり、胃のあたりがきゅっと締め付けられたように苦しくなる。
こんなことのために彼女を魔術師団の副師団長に押し上げたのではない。
彼女の実力は疑うまでもないが、側で守る為に俺は『そこ』にいたと言うのに。
「シリウス。私のこと副師団長にするんじゃなかったとか思ってない?」
「……!」
彼女が腕を緩めて俺の顔を覗き込んだ。
「そんないらない考えはしないことね。私は貴方がいなくてもここまで上り詰めていたわよ。むしろ、貴方が居なかったら私が師団長だったはずだもの」
負けず嫌いの彼女が不敵に微笑んだその瞳がとても三歳も年下には思えず、思わず息を飲んだ。
「子どもだと思ってたんだがな?」
「だから、いつまでたってもほっぺにチューなの? それとも意気地がないの?」
ニヤリと笑った彼女のおでこを指で弾き、「十七歳はお子ちゃまだろ」とため息をついた。
意気地がないというのが正解だ。
どこかで制限をかけておかないと、欲望のままに彼女を自分のものにしてしまう怖さがあったからだ。
アリアに怯えてほしくない。
ただ、それだけ。
「戻って来た頃には一皮剥けた、ため息が出るほど綺麗な大人の女性になってるんだから。その時にキスしておくんだったと後悔しても、そんな簡単に許可なんてしないんだからね」
プンと頬を膨らました彼女の胸元と腰に視線を流して、「綺麗な大人の女性ねぇ……」とため息をつく。
冗談めいて言わなければ、欲望のままに彼女に食らいついてしまいそうだ。
今のままでも誰よりも可愛いし、時々はっとするほど綺麗だ。
それ以上綺麗な大人の女性になってもらってはこちらの身が持たない。
「そういうところだからね!」
と、彼女が置いてあったクッションを投げて来たのを甘んじて受けた。
その顔が可愛くて、ずっとどこかに閉じ込めておきたいと思うほどに凶暴な感情が荒れ狂う。
「分かった。成長を期待しておくよ。色んな意味でね」
自分を落ち着かせようと、揶揄うように言うと、アリアは少し頬を引き攣らせる。
「そうね。……めちゃめちゃ期待しておいてよね」
ふいっと振り返り、ドアに足を一歩進めた彼女の腕を無意識に掴んでいた。
「シリ……?」
「絶対、……戻ってこい」
俺が言える立場じゃない。
竜の鱗なんていらない。
アリアが無事ならそれでいい。
けれど、止めることすら出来ない。
アリアの唇に自分のそれをそっと重ねる。
一瞬の触れるだけのキス。
力づくでも彼女を行かせたくないのに、この弱りきった体ではそれすらも出来ない。
ーー俺が守れるのは『一度だけ』だ。
「シリウ……」
驚いて見開いた彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
本当は彼女の夢見たようなシーンで、幸せな気持ちで触れたかったが、溢れる感情を止めることはできなかった。
「絶対だ……」
祈るように、願うように溢れた言葉に、アリアは軽く目を見開くが、『心配性なんだから』と前髪を触りながらまだ少し赤い頬をしたまま笑顔で去っていった。
その不安で、緊張した時にする彼女の仕草にさらに胸が締め付けられた。
――それから数時間後、ヴァスが遠征計画書を持って部屋にやってきた。
「おう。どうよ?」
「どうももないな。情けないだけだよ」
「王族の血だからな。お前のせいじゃないぜ」
その王族の血で、大事なものを危険に晒すなんて……と、この家に生まれてきたこと自体が憎らしくなる。
「ヴァス……。頼みがある」
「分かってる」
間髪入れず言ったヴァスの言葉に顔を上げると、ヴァスは窓の外を見ていた。
「竜の鱗は獲れなくても、アリアの命を守れだろ?」
「……。あぁ、竜の鱗は無くて良い。お前たちを信頼していないとかではなく、三年前のあの竜が話が通じるとは思えない」
「あぁ、それは俺も思ってる。ただ……あのじゃじゃ馬が言うことを聞くかね」
ふっと笑ったヴァスは、難しいな。と笑う。
「ヴァス、『実力行使』をしてもだ」
「……怖いこと言うなよ。実力はあっちが上だろ」
「アリアは身内には弱いからな」
「確かに」
ははっと笑ったヴァスは、それからじっとこちらを見つめた。
「戻って来るまでくたばるなよ。……お前が死んだら俺が貰うからな」
その言葉に、「尚更死ねないな」と返す。
ヴァスが帰った後も、しばらく竜谷のある南の方角を眺めていた。
――俺が死んだら泣くんだろうか。
あの時のように。
森での実地訓練時、怪我した俺にアリアが流した涙を見た時、俺の中には罪悪感と満足感が入り混じっていた。
そんな卑劣な自分に嫌気がしながらも、あの瞬間、大きな金色の瞳に映っていたのが俺だということにひどく満足し、俺のためだけに流す涙をずっと見ていたいとすら思った。
けれど、あの時はアリアが思っているほど大きな傷ではなく、自分自身命の危機を感じなかった。
死んだらアリアが誰かのものになるなんて考えるだけでも虫唾が走る。
死んだらアリアの心に俺は残るかも知れないが、いつかは忘れ去られるだろう。
いつか別の男が現れ、彼女の心を癒すなど、想像するだけでも吐き気がする。
「死ねねぇよ……」
沈んでいく夕日を見ながら、その言葉だけが小さく溢れた。