1・あなたの選んだ人
「愛してる」
ひんやりとした朝方の雨上がり。
少し日の差し始めた部屋の中、彼が抱きしめて言った。
震えるような、搾り出すような恋人のその声に、私の体は機能を停止する。
病み上がりの彼は、ベッドの上で起こした体をひねるようにして、『彼女』をその腕の中に閉じ込めていた。
「父上……陛下にはもう話しているから、俺の誕生日に……正式な婚約を発表しよう」
彼の腕の中で、震える白魚のような手を彼の背中に添えて、美しい顔を涙に濡らして小さく頷くのは『私の姉』ローゼリア。
その姉を抱きしめるのは、私の恋人だったはずのこのリントヴルム国の第二王子、シリウス゠リントヴルムだ。
王子でありながら、我が国の魔術師団の団長を務めるシリウスは私の上司でもある。
私は信じられないものを見るかのように、開いたドアの隙間から二人を見つめた。
つい、一週間前まで瀕死の状態だったのに、ベッドから起き上がれるようにまでなったシリウスは、離さないと言わんばかりに、力強く姉を抱きしめている。
姉の美しい銀の髪が、差し込む日の光に照らされてキラキラと輝き、少し開いた窓から風が入ってきたのか、今朝方姉に貸した私のストールと一緒にふわり、と揺れる。
それはまるで、絵画から抜け出たような美しさなのに、その光景が私の心臓を凍て付かせ、世界が黒く染まった。
「嘘だろ……」
私の後ろにいた、同じ第一魔術師団に所属するヴァスが小さくこぼした声に、体がビクリと震える。
その時、窓を背にした姉がはっとこちらに気づき、大きな紫の目を見張った。
ただ、私と姉の視線だけが絡み、お互い言葉を発することなど出来ない。
心臓の音だけが、いやに耳に響き、呼吸の仕方すら忘れたかのように、胸が苦しくなり、意識的に大きく息を吸った。
「アリア、大丈夫……」
心配そうなヴァスの掠れた声にはっと我に返り、右手で何も言わないでと制す。
混乱した感情のままその場にいることなど出来ず、踵を返してその部屋の前から去ることしか出来なかった。
――今日の訪問の名目は第一魔術師団の報告だったが、本当は来週の彼の誕生日に……と用意していたプレゼントを渡そうと思っていたのだ。
長いこと王族特有の病、『竜魔症』でふせっていた彼との面会に許された時間は、この時間しか無かった。
それに、今後完全回復していない彼にいつ面談できるか分からない。
同じ魔術師団の団長、副団長の関係であったとしても、だ。
昨日第一魔術師団に、急を要する依頼が入ったため、準備次第だが、来週の頭には数人で調査に行く予定が入り、彼の誕生日当日に祝えないなら遅れるよりかは……と先にプレゼントを渡しておきたかったのだ。
それも理由の一つだが、……本当はただ一目、彼の元気な顔が見たかった。
何よりこの数ヶ月、彼の無事だけを祈って戦ってきた。
――『今度こそ』彼を救うためだけに。
姉とシリウスが抱き合った姿を頭から消すことができないまま、遠征に行く数ヶ月前、「行くな」と、彼に引き止められた右腕に思わず触れる。
『心配しないで』、と震える心を押さえつけて微笑んだ時の不安が、今でもまだ鮮明に残っている。
あの時、自分が危険に晒されることが怖かったのではない。
間に合わなかったらどうしようと不安で堪らなかった。
『また』失うのではないかと。
『一度目は救えなかった』彼の命を。
そう思いながら遠征に出たけれど、どうやらこの数ヶ月で彼の心は、私の美しい姉に心変わりしたようだった。
私だって姉様が大好きで、彼によく姉の素晴らしさを滔々と語っていた。
彼が姉を好きになっても何らおかしいことなんて何もない。
才能があって、美人で、性格も良い。
けれど……。
パタリと零れた何かを無視するように、私は王宮の廊下をひたすら突き進んでいった。
握りつぶされたような、苦しい胸の痛みを無視して。
一度目、彼は私を置いて逝き、……――二度目の人生は、自ら私を捨てた。