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魔術の都

金銀妖瞳

作者: 方円灰夢

【1】 左は金色、右が銀色


ゴットリープ・エンゲルバインは生まれながらにして左右の目の色が違っていた。

母親はそれに気づくと徐々に気味悪く思うようになり、物心つく頃には遠ざけようとした。

彼には既に兄がいて、成長するに従い聡明な若者に育ち、後から生まれた弟と妹も、普通の子どもとして生まれ、育っていった。

まだ乳児の頃はそれでも母は可愛がってはいたが、次々と弟、妹が生まれていくと、ゴットリープだけが異常なのだと思い始めていく。

信心深い、逆に言うと迷信深い父親はもっと露骨で、悪魔の子だとして近づかなくなる。

そんな彼に「ゴットリープ」という不似合いな名前を付けた彼の祖母だけが唯一の救いだったが、その祖母はゴットリープが就学する前にこの世を去った。


両親はその近在に普通にいる半農半商の家庭で、畑で作物を耕し、市場でそれを売買し、ほんの少しばかりの余剰金で投資などもしていた。

兄マックスは成長して学校を卒業すると、仲買人になり、地道に資産を増やしていくが、それはもうしばらく後の話。

弟、妹達はマックスやゴットリープほどの頭脳には恵まれなかったので、両親や親族のように農夫になる。


さて、そのゴットリープは初等学校へと進むが、当時はまだ教育制度が浸透していなかったため、教育を受けられるということは、まだ恵まれている方だった。

瞳の色を気味悪がっていた両親も、決して嫌悪していたわけではなく、教育を授けてやるくらいの愛情はまだ残っていたのだ。

しかし就学したゴットリープにとって、それは悪夢のような日々の連続になる。


入学してすぐに、その目の色をからかわれ、学友たちの攻撃対象になっていく。

決して顔立ちそのものが醜かったわけではなく、美少年、イケメンとまでは言えなくても、それなりに整った顔立ちだった。

だがそれが返ってたの少年たちの嫌悪感を刺激することになる。

加えて、成績もそこそこよく、それがさらに嫉妬となって、いじめの対象となっていった。


ある日のこと、そんないじめっ子のボスのような少年が、ゴットリープをからかっていた。

初等学校入学時分だと少しは反撃もしたが、腕力でかなわないだけでなく、たいてい周囲の人間がそのいじめっ子側につくから勝ったためしはなかった。

それで極力無視することになるのだが、この日はその「無視」がいじめっ子の癇に障ったらしく、ついになぐりかかってきた。

ゴットリープは耐えながらも、相手を睨みつける。

その異様な目が相手をひるませたのか、

「ちっ、気持ち悪いやつだな」

と言ってその手を止めた。

後年、そのいじめっ子が病気をわずらっていたらしく、この日の数日後に心臓が止まり死んでいたことを聞いた。

(ざまあみろ)

と腹の中でしか思うことができなかったが、これ以降、ゴットリープは外からの攻撃には反撃しなくなった。


11歳の頃に、初恋のようなものを体験した。

彼女が通っていたのは別の初等女学校だったが、近在に住んでいて、両親の農作業の手伝いに来ていた。

彼もまたその少女の実家へ兄弟とともに手伝いに行くこともあり、子どもの頃から良く知っていた、いわば幼馴染だった。

だが成長するにつれ、彼女もゴットリープの瞳の色に違和感を感じるようになる。

ゴットリープの方は、成長するに従い、少女らしい美しさが花開き始めるこの幼馴染に、いつしか好意を抱くようになっていた。


ある日の夕べ、たまたま農道で二人きりになってしまったゴットリープが彼女を見つめ、何かを言おうとすると

「あんまり見ないで。気持ち悪いわ」

そう言って顔をそむけ、走り去ってしまった。

かくして彼の初恋は、告白すらままならず、見事に打ち砕かれた。


この村の者たちは多くがブルネットか黒髪で、瞳の色は黒か茶色だった。

彼の両親もそうで、父は黒髪、母がブルネット、瞳の色はどちらも茶褐色だった。

ところが彼の両眼は、右目が水色、左目が黄色。

両親はもとより、近在にそのような色の瞳を持つ者はいなかった。

髪は黒色で父譲り、顔かたちも両親の形質を色濃く受け継いでいたが、この瞳の色だけが違っていた。

しかもこの色が、歳を経るに従って、どんどん濃くなっていく。

右目が水色から青銀になり、やがて銀色に、そして上級学校を卒業する15歳のころには深い銀色になっていた。

左目の方も少しずつ変化していって、黄色が濃くなっていき、やがて金色になっていく。


学校の教師にも気味悪がられていたが、成績そのものは良かったので12歳になると上級学校に進み実業学校で学ぶことになる。

その過程で、商業や会計とともに、外国語を習得していく。

言葉の勉強は初等学校入学時からゴットリープ少年の数少ない楽しみとなった。

最初は子供向けのお話から入って行き、やがて外国の、見たこともない土地の話に焦がれるようになる。

現実は辛く悲しい。

他人から好意ある視線を向けられたことがない。

両親でさえ極力自分を見ないようにしている。

そんな中、お話の世界は夢と希望があるように感じられた。

最初は母国語で書かれたものや訳されたものを読んでいたが、中小都市の図書館や学校の図書室では限界があり、やがて外国語を使って読み始める。

これがゴットリープの外国語との出会いの始まり。

そのせいもあって、実業学校でも、語学の成績はだけはとびぬけて良く、校長なども

「語学に関しては、開学以来最優秀だ」

とまで言ってくれた。


他科目の成績は普通だったが、この語学の優秀さで、ゴットリープは15歳で卒業後、近くの大都市に支店を持つ貿易商に就職できた。

そこにはいろいろな国、いろいろな色の肌、いろいろな色の瞳の持ち主が勤務していた。

ゴットリープの瞳の色は、確かに異質ではあったが、ここではそこまでとびぬけた違和感を抱かせるものでもなかった。

つまりゴットリープにとって、最適な就職先だったのだ。


仕事の内容はもっぱら文書の翻訳。

もちろん物語や小説の翻訳ではなく、特許や契約書などの翻訳だったが、それでも自分の能力を発揮できる初めての環境。

ゴットリープはここで5年の歳月を過ごし、それなりに蓄えもできてきた。

だがその頃、瞳の色だけでなく、髪にも異変が現われ始めた。

白髪が増えたのだ、

白髪それ自体は、初等学校の頃から少しあった。

最初の頃は抜いていたのだが、抜いても抜いても増えてくるため、あきらめていた。

それが十代後半になるとぐっと増えてきて、地毛の黒色と一緒になり、遠目には灰色に見えてしまうくらいになる。

白髪まじりの胡麻塩頭それ自体は珍しいわけではなかったが、ゴットリープの若さでは、さすがに人目を引く。

この頃から、ゴットリープは室内で仕事をしている時でも着帽するようになり、目元も隠すようになっていった。


就職してしばらくの頃から直属の上司が彼の頭髪をからかうようになった。

身体の特徴についてからかわれるのは初等学校の頃から慣れていたし、さほど気にも留めず、ゴットリープ自身も無視するわけでもなく下手に出て対応していた。

最初はほんのジョークらしかったので気にもとめてなかったのだが、ある日、事件が起こった。

その上司が何やら仕事で失敗したらしく、相手方を怒らせてしまった、とかいう話だった。

いつになくイライラしていたその上司に、周囲の人間は腫物でも触るように、距離を取っていた。

それが返って上司の気に触ったのか、周囲の人間に当たり散らす。

そしてその矛先がついにゴットリープに向けられた。


「お前も俺のことをバカにしているんだろう」

そんな口ぶりだったが、上司自身が混乱していてはっきり聞き取れない。

しかし八つ当たりをしているというのは理解できた。

ゴットリープは子供の頃の癖が出て、ついつい視線をそらして無視してしまう。

すると上司が逆上して、

「なんだその態度は」

と、ゴットリープの帽子をはたきおとし、胸倉をつかんだ。

「だいたいなんで室内で着帽してるんだ。ふざけるな」と。

だが帽子を叩き落として、正面からゴットリープの顔を見た上司がぎょっとなった。

髪が白黒まじりなのも、両目の色が違うことも、もちろん知っていた。

しかし顔を見る時はだいたいその視線をお互いに外していることも多かったのだ。

それが今、真正面からゴットリープの顔を見たのだ。


ゴットリープの方は帽子をはたきおとされ、胸倉をつかみ上げられた。

そこで咄嗟に上司を睨み上げてしまう。

その視線の力が、上司の目を通して中に入って来る。

なにか貫かれたように感じた上司は、少し驚いて手を離した。

鋭い視線、だけでは説明のつかない、鋭い痛みが胸を貫いた。

しかし気がおさまらないのか、

「髪だけじゃなく、目まで気色悪い色しやがって」

と吐き捨てるように言って、その仕事部屋から立ち去っていった。


ハラハラしながら見守っていた周囲の職員も、上司の怒りが収まった形になるのを見て安堵し、元の仕事に戻っていく。

ゴットリープも海外からの書簡を訳す仕事に戻っていったが、胸の底で何かがチラチラ蠢いているのを感じていた。


その日は仕事が終わった後、胸の底に何かがくすぶっているのを感じたため、すぐには自室のあるアパルトマンへは戻らず、外食することにした。

帽子を深くかぶり、髪の色だけでなく瞳も隠すようにして、ある軽食屋に入る。


秋の夕暮れ時。

人々が襟を立て家路に急ぐ姿を、店の窓越しに眺めていた。

すると一人の男が目にとまった。

酔ったような足取りでフラフラしながら、帰宅方向からやってくる。

(酔っ払いが町にあふれかえるにはまだ早い季節、時間帯だが)

と思いながら、ぼんやりとその男を見ていた。

だんだん近づいてくるその男。

それが窓の前まで来て、中にいるゴットリープを見た。

ゴットリープは背筋が凍り付いた。

その男の両眼の色が違っていたのだ。

しかも色が自分の目の色と同じ。

ただ左右が違っていた。

ゴットリープは右目が銀色、左目が金色。

その男は右目が金色、左目が銀色だった。


男の方もゴットリープに気づいて、にたぁ、と笑顔を見せる。

年恰好もゴットリープに似ていた。

だがそれ以上のことは起こらず、その男は来た道とは逆の方へ向かっていき、消えた。

(あれは何だ?)

ゴットリープは自分以外で両目の色が違う人間を初めて見た。

しかも個々の色それ自体も珍しかったのだ。

運ばれてきたパスタを口に入れるが、まったく味が感じられなかった。



【2】 魔少女の髪は黒い


翌日、出社して書類を整理していると、女子職員の会話が耳に入ってくる。

上司が病で倒れた、という内容だった。

聞くとはなしに聞こえてくる会話をまとめると、なんでも脳卒中で帰宅後倒れたという。

もともと大酒飲みだったらしく、そこへ仕事の大失敗があって、興奮したことによるものらしい。

職場では飲んだ様子は感じられず、終業後によく飲み歩いていたらしい。

前日も顔を赤くして周囲に当たり散らしていたが、飲酒によるものとは思えなかったのだが。

やがて別の部署の人が来て、上司が脳卒中で死んだことが伝えられた。

その時は漠然と聞き流していたゴットリープだったが...。


その日の仕事、訳した特許文書とその解説に簡単なレジュメをつけて提出した後、帰宅の準備。

いつものように作業机の上を片付けて退社する。

とぼとぼと帰路についていると、途中にある居酒屋の前が何やら騒がしく、人だかりができている。

上司、今となっては元上司だが、それが突然急死したことがやけにひっかかっていたため、いつもなら通りすぎるそんな騒ぎに心が囚われた。

ほんの好奇心だった。

いつもはそんな騒ぎに首をつっこむようなことはしなかったのだから。


人だかりの間からチラリと見てみると、二人の酔漢が取っ組み合いをしている。

周囲の人間もあきらかにやじ馬で、中には

「誰か止めてやれよ」

と笑いながら言ってる者までいる。

(ただの酔っ払いのケンカか)と思って、その場を離れようとしたとき、偶然片方の男と目があってしまった。

今まさに殴り合っていた男が突然拳を止めて、驚いたような表情でゴットリープの方を見ている。

その様子に気づいた群衆の何人かも、ゴットリープの方に視線を向けた。

ゴットリープは一瞬しまった、と思い、ベレー帽を深くかぶり直し、その場を離れようとする。


「そこのおまえ、ちょっと待てよ」

今までケンカをしていた男が相手を放り出し、人だかりをかきわけてゴットリープに迫ってくる。

ゴットリープの足がとまる。

本当は逃げ出したかったのに、足がすくんでしまっていた。

「何逃げようとしてるんだ、こっち向けよ」

男はゴットリープの肩をつかみ、自分の方に顔を向けさせた。

そして、その髪と目を見てギョッとする。

「なんだ、きさま、その目は、なんだ」

言葉にならず、酔っ払いの怒りと恐怖だけがわきあがってきているように感じた。

そして...。

弁解をしようとしたゴットリープに、その酔漢がなぐりかかってきた。

拳はまともに頬にあたり、唇が少し切れて、出血した。

「悪魔みたいな顔しやがって。何か文句があるのか」

と酔っ払いが一方的にまくしたてる。

命の恐怖、とまではいかなかったが、暴力への恐怖が渦巻き、その酔っ払いから視線をそらすことができなかった。


地面に尻もちをついてしまったゴットリープに、酔漢がやってくきて胸倉をつかみ直して立たせようとする。

さすがに周囲の人達も、

「おい、テオ、その人は関係ないだろ」

「やりすぎだ。酔いをさませ」

と言って、後ろから押さえてくれた。

だが恐怖のため、ゴットリープはまだその酔漢の目から視線をはずせない。


しばらくして、その酔漢が「うっ」と漏らして、胸を抱きかかえて蹲る。


「だから飲みすぎだ、って言ってんだ」

「さあ、こっちへ来てヤノシュとも仲直りしな」

人だかりの中にいた、恐らくなぐりかかってきた酔漢の友人たちであろう人たちがその男を抱え上げて、運んでいった。

「あんたも災難だったな。まぁ、酔っ払いのことなんで、大目に見てやってくれ」

と言って、ゴットリープを介抱してくれた。

だがその場を立ち去ろうとしたゴットリープの背後で、騒ぎが別のものになっている音、声が聞こえてくる。

「おい、テオのやつ息をしてないぞ」

「脈もない。心臓が止まってるんだ」

「医者を呼べ」


背後の声がこだまのようになって、その場から立ち去ろうとしたゴットリープに纏わりついてくる。

こだまのように。

悪夢の中の声のように。


季節はもうすぐ冬。

雪こそまだ降っていないが、冷涼たる大気が町を、通りを包み込んでいる。

家路に向かうゴットリープの足はいつしか速足となり、寒い空気の中なのに、汗がにじみ始めていた。

コートの襟を立て、深く冷気を吸い込んで立ち止まる。

(何を怯えているんだ。酔っ払いに絡まれただけじゃないか)

頭の中で、群衆の声を振りほどこうとした。

(あれは酔っ払いだ。飲みすぎて激しくケンカしたので、急性中毒がなんかになったんだろう)

今起こった状況に、できる限り合理的な理由をつけようとした。

だが、その時。


「恐ろしいことをするのね」


綺麗なよく通る、子どもの声が聞こえた。

ふりかえると、そこに黒髪の少女の姿があった。

ゴットリープは、ぽかん、と馬鹿みたいに口を開けたまま、しばらくその少女を見続けた。

年の頃は十代前半か半ばくらい。

よく整った綺麗な顏だ。

だがどこか人形のような、人工的な綺麗さだ。

こんな下町にふさわしい顔じゃない。

瞳の色も黒。

どこか異国的な感じを抱かせる、黒髪黒瞳。

鼻梁や口唇は少し小さめで、それゆえに瞳の黒さが際立って、強い力を発しているように見えた。


首筋からスカートまでつながった白のワンピース、その上に灰色の分厚い上衣を羽織っていた。

スカートはひざ下まであったが、その下には白い脛が覗いている。

綺麗な顔立ちだったが、それでいて恐怖を抱かせるような冷たさも感じさせる顔。

しかしその顔はわずかに笑みを浮かべているように見える。

とにかく場違いな美しさを秘めたその顔に、目が吸い寄せられてしまった。


「やめて。私はあなたに敵意はないわ」

そう言って、その少女はゴットリープの視線から瞳をそらし、横を向く。

「ただところかまわず力を解き放っていると、いつか周りの人も気づくわよ」

と、よくわからぬことを口走って、その場を立ち去ろうとする。

「待って、それはいったいどういう意味だ?」

その去りかける後ろ姿に、ゴットリープが声をかけた。

だが少女はその声がまるで聞こえなかったかのように、夜の闇の中に消えていく。


アパルトマンに戻って寝台に入ったゴットリープだったが、さきほどの少女の声が耳の奥に残っていてしばらく寝付かれなかった。

力を解き放つ? 敵意? 俺があの酔漢を殺したとでもいうのか? バカな。

腕力に自信がある方じゃない。

反撃すれば、もっとひどい目にあうことは子供の頃からの経験でわかっている。

だからじっと耐えるだけだ。我慢するだけだ。

今までそうやってきたし、これからもそうだ。

だいたい俺がまったく手出しをしなかったのは、あそこにいた連中が見ているはずだ。

胸倉をつかまれたので、ただ睨みつけただけじゃないか。

そう考えながらも、頭の中では決着がつかず、あの少女の声がぐるぐると回っていたのだった。


それから何事もなく、数日が過ぎた。

いつものように仕事をして、いつものように帰路に着く。

そしてその夜、またあいつを見た。


帰り道の途中にあり、ときどき夕食を食べることもある軽食屋。

そこの前を通ったときだ。

背後に不気味な気配を感じて、後ろを振り返った。

二十歳前後の若い男だ。

帽子を目深にかぶり、ほとんど足音も立てずにゴットリープの後ろからついてきていた。

いつだったか、その軽食屋でパスタを食べた時、窓越しに見たあの男。

同じくらいの背丈で、あの時は帽子はかぶっていないようだったが、今は着帽しているあの男。

ゴットリープと同じように、左右で目の色が違う男。

しかし、ゴットリープとは左右が逆だ。

ゴットリープは右が銀目で左が金目。

その男は右が金目で左が銀目。

ゴットリープがその男に気づくと、その男もゴットリープを視認したらしく、あのときと同じように、にたぁ、と笑った。

ゴットリープは、背中に何か冷たいものが走るのを感じた。

だがその男は、何か言うでもなく、その冷たい笑顔のままゴットリープの脇をすり抜け、立ち去っていく。

ゴットリープはしばらくその場で動けず、その男が立ち去っていく方角を見ていた。


雪辺が舞い始めた。

ほんの少し、ゴットリープのコートに、それが積もっていく。

だがそんなことも気にならないほど、ゴットリープはあの男のことを考えていた。

あれはなんだ? 誰だ? 

俺は知っているはずだ。知っているんだ、という声が頭の中で響く。

だがわからない。


からだが冷えてきて、ようやく家路に向かい始めるゴットリープ。

どうやって帰って来たかさっぱりわからないまま、自室の寝台に崩れるように倒れこみ、深い眠りに入っていった。



【3】 瞳は語り、やがて沈黙する


仕事は順調だった。

いつものように渡された外国の特許文書を訳し、レジュメをつけて渡す。

もくもくと仕事をこなしていく。

何も考えず、ただひたすらに、淡々と。


その日は午前中の仕事を終え、昼休みに洗面所に行き、顔を洗っていた。

ハンカチで顔を拭いて、鏡の中の自分の顔を見る。

生まれた時からの、左右で色の違う目。

どんどん白くなっていく髪。

まぁ、髪はいいさ、これだって仕方ない。

そう思いながら、改めてまた自分の目をまじまじと見る。

どうも最近変なことが起こる。

あの俺とよく似た、でも左右が違う変な男、不気味な男。

わけのわからないことを言う、あの黒髪の女の子。

ふん、まあここは都会だ。

俺の田舎の基準で考えたら、そりゃ変なことだって多いさ。

そう考えなおして、少し気持ちが落ち着いてきた。

その時、何か背後に気配を感じた。

再び鏡を見ると。

すると...。


鏡の中のゴットリープが、にたり、と笑った。

「え?」

思わず声を出してしまったゴットリープ。

鏡の中に映っているのは、まぎれもなく俺だ。俺の顔だ。

遠目だと灰色に見える白髪交じりの髪。

右目が銀色、左目が金色の、左右で違う色の瞳。

そいつが自分を見て、にたり、と笑っているのだ。

その笑顔は、自分のものであると同時に、あの夕方の軽食屋で二度にわたって見た、あの自分と左右が逆のあの男のものにも思えた。

笑っているのに、その冷たさは不気味さを増幅させている。

そう考えた時、あることが頭の中でひらめいた。

左右が逆?

鏡の中の像は、左右が逆に映るものじゃなかったか。


頭の中で何かがパリン、と割れたような音がした。

ゴットリープは気を失ってしまうのではないか、と思えたが、なんとかとどまり、その日は気分が悪いから、と午後から半日の有休を取って帰宅することにした。


帰路の途中、フラフラとさまようように歩く、昼の繁華街。

珍しく快晴だ。

冬の日、雨や雪が降っていないとき、この都市ではいつも曇天。

だが珍しく雲がなく、晴れ渡っている。

いつもは会社にいる時間。

フラフラと歩いていると、例の繁華街に出た。

道路の向こう側に、あの酔漢に絡まれた居酒屋。

道路のこちら側に、ときどきパスタを食べにいく軽食屋。

その空間は、まるで手入れの行き届いた水族館の水槽のように、透明で奥行きが深く感じられた。

太陽の下、その空間だけが動きのない、透明な水底のような空間。

すると前方から、ゆらり、と揺れながら、おぼろげに灰色の影が近づいてくる。

人だ。

あの人も、会社を休んで昼日中、散歩にでも出てきたのだろうか。


だんだんと近づいてくる影。

どこかの会社員のような制服を着た男で、少しずつ近づいてくる。

ようやく顔が判別した時、ゴットリープは硬直してしまう。

その男はゴットリープと同じように、左右の目の色が違ってて、ゴットリープとは左右が逆だった。

右目が金色、左目が金色。

時が止まったように感じた。

思わず息が止まってしまい、しばらくしてゼーゼーと息を吐きだして、その男を見つめた。

そいつはまたもや、あの表情をした。

にたぁ、と笑ったのだ。


ゴットリープの胸の中で、冷たいガラス片がきしむような音を立てて、踊るように回った。

そして熱がたまり、その熱が頭に上り、やがて両眼に伝わる。

ゴットリープはその男を睨みつけていた。


晴れた昼の路上。

二人は身動きせず、お互いをにらみ合っていた。


ようやくゴットリープの唇が動いた。

「おまえは...だれだ」

そして、相手の男も動き始めた。

しかしそれは生物の動きとはとても思えず、前後へ振動するように揺れたかと思うと。両手で胸を抱きしめながら、膝をつき、蹲った。

視線の位置が下がってもなお、その男は瞬きを忘れたかのように両眼を開けたまま、ゴットリープを睨みつける。

だが鋭い視線がゴットリープの肺腑をえぐろんとばかりににらみつけていながら、その顔はまだあの不気味な笑みを湛えている。


やがてその男は、きゅぅぅぅ、という、何か金属ネジを巻いた時のような音を立てて、路面に崩れ落ちた。


ゴットリープの胸の中で、またガラスが割れるような音がした。

今度はパリン、ではなく、ガチャン、ともっと大きな音になって。


めまいに耐えながら、ゴットリープはその男が倒れた煉瓦敷の路面に手を伸ばす。

その手に触れたのは、石造りの路面。

ハッとしてそこを見ると、倒れたはずの男の姿はなく、自分がただ路面に触れているだけなのがわかった。

途端に曇ってきたかのようになった。

今まで明るかった四方の空気が、くすんだような色合いになっていく。

ゴットリープが空を見ようとして顔を上げると、上を向く前に、また別の人物の姿を視認する。


「恐ろしいことをするのね」


なんだか以前、聞いたようなセリフ、聞いたような声だった。

ゴットリープは、あの男にかけたセリフを、その黒髪黒瞳の少女にもかけた。

「おまえは...だれだ」

「私はゲルダ。魔女の家の使い魔ゲルダよ」

少女がそう言って名乗るのを聞いたあと、ゴットリープは頭を起こす。

「こんな明るい陽の光の下で、あんなことをするなんてね」

明るい?

ゴットリープは不審に思って空を仰ぎ見る。

暗い。

薄暗い空だ。何を言っているんだ。

不審そうなゴットリープの顔を見て、ゲルダは追い打ちをかけるように言う。

「雲一つない、明るい空だわ。ここじゃかなり珍しい」


それを聞いて、ゴットリープはもう一度空を見た。

確かに雲一つ見えない晴れ渡った空だ。

なのになぜこんなに薄暗い?



【四】 あなたはだあれ?


どうやって自分の部屋に戻ったのか気づかずに、ゴットリープは安ベッドの上で目を覚ました。

まだ夜明け前だったが、空は白み始めていた。

ゆっくりと起き上がり、顔を洗って着替えをし、軽い朝食を摂ったあと、重いカラダを引きずりながら、出社する。

会社に行かなくては。

生きていくためには、多少辛くても、からだがだるくても、会社に行って働かなければ。


早く起きたせいか、のろのろと準備をしていても時間には間に合いそうだった。

定刻、会社の門前についた。

だが、そこで門番に呼び止められる。

「お客さん、何か用ですか?」

こいつは何を言ってるんだ。

いつも俺の方から挨拶するのに、今日はしなかったから、ボケてるのか?


そう思いゴットリープはそれに応ずることなく門をくぐり、社屋の中に入っていく。

自分の仕事場、文書課へ行くのだが。

見つからない。

なんで見つからないのか、不審に思い、総務課の女性に声をかけた。

彼女とは以前、前の上司について愚痴りあったこともあり、親しい、とまではいかなくとも、良く見知った相手だった。

「文書課は移ったのですか?」

そう声をかけてみたのだが。


その女性は何か不思議なものを見るような目で言った。

「うちに文書課なんてありませんよ?」

いかにも他人行儀な言い方だ。

「そんなばかな。私は昨日まで...君だって」

こう言いかけて、ゴットリープはこの女性の名前が何だったのか、忘れてしまっていたことに気づいた。

言葉につまったのを見て、その女性はさらに不審の度合いを強めて、

「あの、失礼ですけど、どちら様でしょうか」


周りに何人かの人が集まってきている。

ゴットリープの胸に冷たいものが流れてくるのがわかった。

だがその中に、もう一人の知己を見つけると、その前に言って、まくしたてた。

「課長、課長、文書課はどうなってしまったんですか」

「課長だって?」

その男性は、確かに新しく彼の上司になったはずの男性は、奇妙なものを見るような目つきで言った。

「君は誰だ? 私は課長なんかじゃないが...」

「私です。エンゲルバインです。ゴットリープ・エンゲルバインです。前の課長が急死されて、あなたは新しい課長として上司になられたではありませんか」

その男は、何か困ったものを見るような目つきで

「課長ですか。そうなら嬉しいんですけどね。誰かと間違えられているようです。受付に行かれた方が良いですよ」


ことここに至って、周囲から忍び笑いが聞こえて来た。

「なんだあいつは?」

という声とともに。


ゴットリープは顔から血の気が引いていくのを感じた。

足元から何かが崩れていくような感覚になる。

震える足をかばいながら、ゴットリープはその場を走るように逃げ出した。

門を出て、酒場と軽食屋がある途中の広間までやってきた。

軽食屋の前で立ち止まり、考えを整理しようとする。

「俺はどうなってしまったんだ?」

こうつぶやいた後、ある考えがひらめく。

「これはなんかのいたずらか? みんなが示し合わせて俺をからかっているのか?」


「違うわ。あなたは自分の影を殺してしまったのよ」

その声に驚いて、後ろを振り向くと、そこには昨晩の少女、ゲルダが立っていた。

「できればあなた自身で気づいてほしくて、昨日ヒントをあげたのだけど、気づかなかったのね」

そう言ってゲルダはまだ開店前の軽食屋のガラス扉を指さした。

そこにはゲルダが映っている。

「うん、何だ?」

そう言って、ゲルダの姿が映っているガラス扉を見ていたが、あることに気づいて、ついに小さな悲鳴を上げてしまった。

そのガラス扉には、真横に立っているゲルダだけが映っていたのだ。


「あなたは社会生活を送っているように見えた。だから全てわかった上でそうしていたと思っていたのだけど」

「どういうことだ? 何を言っているんだ?」

「金色と銀色を同時に持つ者。念ずるだけで、相手の存在に干渉できる力。あなたほど強い力を持つ妖瞳の持ち主には初めて会いました」

「何を言って...」

「睨むだけで呪殺できる力。そしてあなたはその力を使い、自身の影法師さえも殺してしまった」

「俺が影法師を殺してしまったって? そんなバカな。俺の影はここに」

そう言ってゴットリープは自分の足元、太陽とは逆の方向に出ているはずの影を指さした。

だが、影の色は薄く、今にも消えようとしている。

建物の影、ゲルダの影とはそうとうに違う、色のうすい、ぼんやりとしたものになっていた。

ゴットリープはそこに目が釘付けになってしまう。

「あなたはもう影を見ることができない。明るい太陽の輝きも見ることができない」

自分の影を見つめるゴットリープの耳に、ゲルダの声が通りすぎていく。


膝をつき、頽れるゴットリープ。

「私も勘違いをしてました。あなたが自分の力を認識していないのであれば、正しく指摘しておくべきだったのかもしれません」 

膝まずいていたゴットリープがようやく立ち上がる。

「俺はどうなってしまうんだ」

空気がもれるような声で、呟いた。

「影に続き、存在が薄れていき、やがて消えるでしょう」

自身の消滅が語られているにも関わらず、どこか別の人の話のように、耳に響く。

「でもあなたがその力を正しく操れるようになれば、あるいは...」

何を言ってるのか理解できずにいると、

「もしよろしければ、私の主が住まう魔女の家にお越し頂けますか? そこであなたにその力の手ほどきができるかもしれません」

それを聞いて、憔悴のゴットリープはとぼとぼと少女のあとをついていく。


この日を境に、文書翻訳士ゴットリープ・エンゲルバインの姿は消えた。



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