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早朝のおかげか商店街は閑散としていて、人も数えるほどしか見当たらない。
ボクは、アパート近くの商店街を歩いていた。
その少し先を、Uが嬉しそうな表情で歩いている。
彼女が歩く度、その綺麗な髪がふわりと揺れる。
ボクはというと、アパートを出てから緊張で汗が止まらなかった。
足取りも重く、少しの物音を聞いただけで震えあがりそうになる。
Uはそんなボクに気を使って、時折後ろを振り返りながら、ゆっくりと歩いてくれていた。
「ずいぶん、浮かれてるじゃないか」
「そう見えますか?」
「ワタシには心がありませんから、気のせいだと思いますけど」
(このやりとりにも、もうすっかり慣れてしまったな)
「律くんの辛気臭い部屋で、2人きりで居続ける事を考えたら」
「確かに、外は空気がおいしくて、浮かれてしまいますね」
「ひどい言われようだな」
「失礼、間違えました」
「辛気臭い律くんと、二人きりで部屋で…でした」
「相変わらずの毒舌だな」
「ありがとうございます」
ボクは外に出る事が怖かった。
人の視界に入れば、笑われるんじゃないかと思っていた。
でもそれはただの自意識過剰で…
「なあ…U…聞いてほしい話があるんだ」
「ボクとボクの家族の事」
自分のつらい過去さえも
Uならば、笑い飛ばしてくれる気がする。
「うーん…」
「イヤですね」
「ええっ?」
想定していなかった返事にボクは困惑する。
「イヤです…が」
「この距離ですから、律くんの独り言がワタシに聞こえしまうかもしれませんね」
彼女はボクの目を見て笑っていた。
ボクは意を決して口を開いた。
「ボクの父さんってさ」
「海外ですごい有名なピアニストなんだよ」
「母さんもプロのヴァイオリ二ストでさ」
「音楽一家でボクは育ったんだ」
最初は両親が誇らしかった。
自分も父さんみたいなピアニストになりたいし、なれると思っていた。
「毎日練習したよ」
「友達が遊んでる時間も、ゲームなんかもちろんやった事なくてさ」
「でも全然苦じゃなかった」
「楽しかったし、ピアノが好きだったから」
その頃の事はもう思い出せない。
あれが本当に自分だったのかさえ疑わしい。
「有名な音大にも推薦で受かってさ」
「でも…」
「成績は中の中だった」
「父さんには散々罵倒されたよ」
「お前の作る曲も演奏も聴くに堪えないって」
「恥ずかしいから、自分の息子だとは言わないで欲しいって」
「ひどいよな、はは」
「……」
「母さんも口には出さなかったけど、落胆していたと思う」
「でもさ、ボク諦めなかったんだよ」
「ずっと音楽しかやってこなかったからさ」
「他にやれる事なんかないから」
たったひとつ、自分の取り柄だと思っていたことが、ただの勘違いかもしれない。
その現実が怖かった。
「そこからは寝る間も惜しんで練習したんだ」
「でも全然うまくなれなくて…」
「才能がさ…なかったんだよ、父さんみたいに」
「いつの間にか、自分の演奏を聴いてる人達が」
「クスクスってさ、笑っているような声が聴こえるようになって」
「何が楽しいのか、分からなくなって」
「何もかもが嫌になった」
Uは黙ってボクの話を聴いてくれている。
彼女はボクの次の言葉を待っている。
「ボクさ」
「自分で命を捨てようとした事があるんだ」
衝動的に、安直に。
それが、自分が楽になれる良い方法だと思ってしまった。
言葉にしてみてようやく、ボクは自分のしたことの意味を理解する。
「大がかりな手術だったみたいでさ、助からないかもしれないって言われてたんだけど」
「でも生きてた」
リハビリに3年もかかってしまったけれど、今は何の不自由もなく普通の生活ができている。
「その事がきっかけで両親からは距離を置かれてさ」
「ほら、下手に一緒に暮らしてると、また何をしでかすか分からないからって」
「今のアパートに一人暮らしさせてもらえるようになったんだ」
「音大も休学して…何やってるんだろうな」
「……」
「バカだって思うだろ?」
「その程度の事で、命を投げ出すなんて」
「どうかしてるって思うよな…」
「思いません」
Uは唐突に口を開いた。
彼女は優しく、澄んだ瞳でボクを見つめていた。
「思いませんよ…だって…」
「他でもない、律くん自身がそう思ってないから」
「ワタシには心がないし、ワタシはアナタじゃない」
「だから、律くんが何を考えていたか完璧には分からないけれど」
「大事だったんですよね?」
「家族に認められる事が」
「ショックだったんですよね?」
「家族に落胆される事が、自分に父親のような才能がない事が」
「この世界から消えたくなるほどに」
「その程度の事ではなかったのですよ。少なくともアナタにとっては」
「そう…なのかな」
Uに言われてようやく、ボクは自分の気持ちを理解できた気がしていた。
「律くんがたくさん苦しんだ事」
「限界だった事はよく分かりました」
彼女は立ち止まると、ボクの胸に向かって手を伸ばす。
「……それでも」
その手はボクに触れる事なくゆっくりと下へ降りていく。
彼女は止めていた足を再び前へ進める。
「自分の命を自分で奪おうとするヒトを」
「ワタシは絶対に許せないし、軽蔑します」
彼女の切なそうな表情を見て、ボクは今更になって、彼女がこれまで自分に厳しく当たっていた理由が分かった気がした。
多分だけど、Uはボクの過去を知っていたんだ。
Uはずっと怒っていたんだ。
ボクの軽率な行動を、心を持っているのに、それを自ら捨てようとしたボクの事を。
「ごめん」
「どうしてワタシに謝るんでしょうか?」
「謝るんなら、自分にでも謝っていて下さい」
「…そうだね…」
「ありがとうございます」
「え?どうしてお礼…」
「自分の事を話してくれたから…でしょうか」
「でも良かったです」
「最初はこんなヘタレな人の傍にいないといけないだなんて、ツイてないなと思いましたが」
「ほんの少しだけ、見直しましたよ」
Uと商店街を歩いた時間は僅かなはずだったのに、ボクは今日の事をずっと忘れないような気がしていた。
そして、この日を境に
Uはボクの前から姿を消した。