転がっていく
慎重に時間を選んできた甲斐あって、小さな町に一つきりの診療所に人気は無かった。
「失礼します」
「成」
一般患者向けの笑顔で振り返った青年医師は、眉を少し上げただけで驚愕を収めた。相変わらず手強い。
定期健診が月に一度になったので、ここを訪れるのは久しぶりだった。隣町にある大学病院の小児病棟で、未也子と枕を並べていた頃には想像もつかなかった生活だ。もっと前、目の前の医師が学生だった頃に相手をしてくれていた、どうしようもなく生意気な患者だった頃からは、勿論。
紋切り型の質問事項を並べる医師の声は硬い。それが聞きたくてきたのだけれど。
昨夜も未也子が帰ってきたのは外がだいぶ暗くなってからだった。だから、時間を選んで此処に来たのだ。今は出かけている院長が主治医であることは分かっていても。
「特に異常はないな。薬はまだあるか?」
「大丈夫です。堤先生、仕事には慣れましたか?」
「ああ、まあな」
「そうですか」
薄く、息を吐く。だったら、と続けて、成は口端を片端だけ引き上げた。
「ウチの義妹をもう少し早く返してくれるとありがたいな」
顔を上げた医師の指から、カルテを書き込んでいた薄紅色のボールペンが転がり落ちた。
からからからから
ペンの側面にМのイニシアルを認めて、成は拾おうと伸ばした手を硬直させた。転がっていくボールペンに、自分の中から意識が煙のように滑り出し、絡まりついていく。
からからから
止まらない。
文藝越人六〇〇第58回お題「転がっていく」投稿作品。