魔法障害者と現実
魔法が使えて当たり前な世界って時点でもう色々と規格外なのは言うまでもないことだろうけど、私はあえて言わせて欲しいと思う。
まじでやばい。
何がやばいって全部だ。
まじでやばくてやばい。
語彙力が溶けるとはこのことである。
いやまじで。やばい。
ターミナルを出てすぐの時。
チラッとどころかガッツリ視界に入ってはいたが人が円板に乗って宙に浮いているのである。
車道と歩道の間にこの……円板で浮く装置? の、専用道路がある。
あとで勇人くんに尋ねたところ、あの円板は魔力を通すことで浮いて移動できるこの世界の自転車のようなものらしい。
年齢制限はない。
ただ、免許は必要になるとか。
これを利用しないで歩道を選ぶと向かう先によっては無法地帯と化している『裏道』を横切ることになるとか。
英明くんが身分証がないと動くに動けない、と言っていた理由はこの2つにある。
要は日本じゃない日本の治安の悪さが原因だ。
漫画でも何度か描写が入っていたという話だけれど、そんな細部の設定を流し読みしただけの人間が記憶しているはずもなかった。
アイアム凡人。おーけー?
「……というか、ああいう機械系の乗り物は使う方が珍しくなかった?」
テレポートとか。円板なしに飛び回るとか。
主人公もその周囲の人間もザ・魔法! って感じの手段で移動していた印象の方が強い。
――――廿浦専務に夢見草商店街を案内してもらったのち。
無事に辿り着くことができた新居。
外装だけなら下見に来た時と変わらないマンションの一室で一息をつきながら状況の整理を再開した、というよりもこの世界の一般常識を勇人くんと英明くんから教わっている私はなけなしの知識を掘り起こしつつ首を傾げる。
がらんどうのワンルームに荷物が届くまでの間。
外を見て回るにも問題の方が山積みなので、ある程度の方針が固まるまでは大人しくしていようという話になった。
そして、方針を固めようにも肝心の知識が欠落している私のために手間を掛けてくれているという訳だ。
ご多忙の廿浦専務は仕事に戻られて既にこの場にいないため1から10まで事情を知る息子たちを相手に取り繕う必要もない。
「あの漫画を基準に考えると捕まる。いいな?」
「アッハイ」
英明くんの話によれば、プライバシーや財産、権利の保護の観点から移動の際に生じる問題と安全性の欠如を踏まえて転移、飛行、関連する魔法を行使する者は法律の定めるところによりこれに則らなければならないとされているのだとか。
例の漫画を基準に置くとアウト寄りのセーフかアウト寄りのアウト。
社会的にも物理的にも死にたくなければ絶対に参考にはするなって。
そういや、設定として裏社会に身を置く主人公の話だもんな……。
基準に考えたら捕まるのも道理である。
「まあ、母さんの場合は魔力がないからその辺りは違反のしようがないし発言にだけ気を付けておけば大丈夫だよ」
勇人くんの言葉に思わず視線を落とす。
……魔法なんて使えないのが当たり前な世界に生まれた私に素養と言える素養がこれっぽっちもないのはある種、当然と言えば当然のことである。
ただ、その上で。
――――魔法障害者。弓立汐雫。
新居の床に落ちていた。
拾ってから置く場所もなく手に持ったままとなっている『カード』に刻まれた文字を撫でて何とも言いがたい気持ちを覚える。
意味は読んで字の如く『魔法の行使にあたりいずれかの障害を持つ者』だ。
魔力を持たない。感じない。扱えない。
三拍子揃っている私の等級はZ。
これ以上なく重度の障害者だということがその1文字によって示されているという。
そりゃあ……。
魔力を持って生まれることこそが『当たり前』の世界から言わせたら私の方がイレギュラーな『障害者』になるんだろうけど。
昔に読んだ異世界転移ものの小説だとイレギュラーな存在だからこその特別な力を持ってるとか特典があるとか。
最強無双系だと人生イージーモードもザラじゃない?
それが私の場合は障害者って。
先に言っておくが割とガチだ。
どれくらいガチかというと1人ではまともに生活を送ることすらできないレベル。
この世界の自転車だという円板のように魔力が扱えることを大前提に設計された道具ばかりが普及しているせいで蛇口から水を出すことすらままならないのである。
マンションに備え付けられたコンロも置き物の如く使えないようなこんな世の中ポイズン!
ハードモードが過ぎるので難易度設定からやり直したい。
人生のリセットボタンはどこにありますか。
為政者はもっとバリアフリーに尽力すべき。
そんな魔法障害者のため。
一応の救済措置として用意された国からの支給品が、今、手に持っているこの『カード』だという……。
知り合いか専用の窓口で職員に頼み事前に魔力を分けてもらっておくことで蛇口から水を出し、コンロに熱を灯すことができるようになる便利機能を有しているのだ。
円板に乗るだけの出力はないしそもそも魔法障害者は免許を取れないが。
英明くんの言っていた『身分証』の一種でもある。
1センチに満たない厚さ数ミリの金の縁にはめ込まれた薄桃色の透明な板。
中央に浮かぶ菊の紋が蓄積した魔力を残量を表していて、消費するごとに花びらが黄色から白色へ。
時計回りに変化するそう。
「ちょっと貸せ」
答える前に私の手から抜き取られた『身分証』が光を放つ。
何事かと驚く間もなく変形したそれが手首に絡み付く。
……ブレスレット?
何食わぬ顔で事を起こした英明くんは金の細工の出来に納得がいかないのか何度か修正を入れていた。
「こんなもんか」
「えっあの、え……?」
「アンタの好みに合わせたつもりだが気に入らなかったら言えよ」
「う、うん……?」
聞けば『身分証』をカードのままで持っていることの方が珍しいらしい。
一々出し入れするのが面倒だからって。
じゃあアクセサリーに変えて身に付けようという発想に至る辺りに文化の違いを感じる。
明らかに硬質というか貴金属の類いが使用されているそれが飴細工かのごとく形を変えられるものだなんて私は思わないよ、エリザベス……。
カードのままでもいいじゃない。
デザインだって悪くないのだし。
まあ、だからと、せっかく形を整えてくれたものを元に戻せと憤るほどカードにこだわるつもりもないのだが。
残しておく必要があるらしい『魔法障害者』の文字がシュールだ。
こだわっていた金の細工も全体的なデザインも言葉通り私の好みに合わせてくれている。
でもシュール。
――――そんな風に思うことができたのは『魔法障害者』である自覚がなかったからだということをこの時の私はまだ知らない。
▼ ▽ ▼
魔法と工学のハイブリッドで文化水準こそ近未来的だがG.Exの世界における日本の社会制度は元の世界と比べてひと昔前。
明治や大正の頃のそれだ。
旧式財閥が経済の中核を担い、立場には後ろ盾を求められ、血統がなければヒエラルキーのトップには立てない。
人々が魔法という核兵器に勝るとも劣らない強大な力を有しているため、戦争となると氷の柱が天を貫き、炎の海が大地を焼いて、鍛えられた武器が山を砕く。
場合によっては気候にも変化をもたらして生態系と自然環境を作り替えるのだ。
生活も変わる。
国として得られる利益が損失を上回ることがまずないので、内戦とその鎮圧を除き、武力が行使されるのは極めてマレなケースとなっている。
開戦に至らなければ敗戦もしない。
結果として、一新されることのなかった制度が今もなお続いている。
400年も江戸の時代を続けていたり、皇紀にして2000年を超える現存最古の国だったり、と『国家の在り方』に関して言えば抜きん出ている日本の国民性はこちらの世界でも変わらないようだし、何より身分社会というのはおおよそ人の歴史から切り離せるものではなく、内政干渉を許す事態でも起こらない限りそう易々と瓦解するものでもない。
……まあ、専門家ではない個人の見解なので一応、多分と付け足しておこう。
戦時下における急激かつ飛躍的な進歩もなく、淡々とした歴史の流れはゆるやかで、魔法という超常の力に隠された本質は先進的とは言いがたい。
人々の価値観にもそれは当てはまる。
まず、差別に対する問題意識が希薄で社会的地位の低い人間は犬畜生も同然の扱いを受けるのだ。
人権なんて言葉はないに等しく、けれど、奴隷解放宣言なんて夢のまた夢な海外と比べれば遥かにマシで『国民に優しく良心的』らしい。
G.Ex世界の闇は深い……。
魔力がない故に他者の手を借りざるを得ない『魔法障害者』の社会的地位も当然のように低く、差別の対象に含まれている。
魔抜けや寄生虫は魔法障害者の蔑称だ。
……魔法なんて使えないのが当たり前の世界に生まれてこれまで何不自由なく暮らしてきたこちらから言わせれば、そもそもとして魔力の使用を大前提においた設備機器しか開発しない技術者の柔軟性の欠如に問題があるのであって、それを棚に上げて『魔法障害者』が面倒ばかりを掛ける鬱陶しい奴みたいな言い方をしてくれるなって思う。
いや本当。
街を歩くと例の円板があるから問題ないでしょ、と言わんばかりにエスカレーターやエレベーターはともかく階段すらない場所も多い。
階段くらい設置しろ。
障害を取り除くどころか作っておいて「これだからマヌケは……」みたいな顔を向けてくるんだから、もう私は心から「設計者のクソッタレ!」と叫びたい。
配慮って言葉を知ってるか。
快く手を貸してくれる子供たちや廿浦専務のおかげでどうにか暮らせてはいるけれど……。
そのことに関して、陰口を叩かれ、子供たちを哀れむ声まで耳に届く。
控えめに言っても苦痛だ。
つらい。しんどい。
元の世界に帰らせて。
私がいったい何をしたっていうの……。
産んでもいない子供ために働いた。
時間もお金も彼らのために使った。
転職を決めたのだって養育費のため。
18の頃から私は私のものではなくなった人生を、それでも懸命に生きてきた。
その結果がこれ?
魔法障害者に認められる人権はないに等しい。
障害を持つ者の括りに入れられているだけあって、責任能力すら認められない。
——子供たちの親権。
彼らを保護する立場をも否定されるのだ。
押し付けられただけの責務に思い入れ?
そんなのあるに決まってるだろう。
私が何年、どんな思いで彼らを育てたきたと思っているのだ。
彼らの『親』としてどれだけの苦労を負ってきたと思ってる。
見返りを求めるつもりはない。
彼らの意思で望んで私の元に来た訳でもないだろう。
だから責めるつもりもない。
……ただ、思う。
彼らがいなければ私はもっと自由に生きられただろう。
正真正銘の我が子をこの手に抱けたかは……。
まあ、定かではないけれど。
それ相応の出会いでもあれば少なくとも結婚はしたに違いない。
彼らを育てるために諦め、捨てたものが確かにある。
失ったものも。
どうして私だったの?
彼らに尽くして何になる?
私から私の人生を奪っていった彼らに尽くして……。
18の若さで子供を産んだ女。
相手の分からない2人目。
周囲から向けられる蔑視を思い出す。
事実無根でもそれを証明する手立てのなかった私に張られたレッテルは『無責任で奔放な母親』だ。
どんなにつらくても自業自得。
どんなに頑張っても当たり前のこと。
……どうして私だったのだろう。
ただ漠然と。
誰でもない誰かに問い掛けたい瞬間がある。
だって、いつか彼らが大人になった時。
私の手元には何も残らない。
彼らは旅立ち、それぞれの人生を歩む。
親兄弟でさえ実家から離れたあとは季節ごとの挨拶程度なのだ。
家族の枠組みに収まりながら衣食住を提供するだけの他人でしかない私と彼らの未来なんて、簡単に、嫌になるほどはっきりと想像できる。
笑える話だ。笑うしかない話だ。
親としての自尊心すら奪われて。
つらく、惨めで。どうしようもなくて。
育てたところで残るものなどない子の側で、なおも『親』の顔を演じなければならない。
まるで道化。
どうして、私は。
――――ガッシャンガシャガシャッ!
形容するならそんな音。
無情にも地面へと叩きつけられた買い物袋には買ったばかりの食材が詰まっていた。
何が起こったのかを理解するのにまず数秒を要したし、後ろから私を追い越そうとしてぶつかったらしい相手が慌てた様子で謝罪してくるので大丈夫ですよ、なんて返しながら落とした袋を拾おうとしゃがみ込んだ。
買い出しに出掛けたスーパーからの帰り。
自動ドアを抜けてすぐのことだった。
はっきり言って、そう強くぶつかられた訳ではないので袋を落としたのは私の手に力がちゃんと入っていなかったせいであって、その点に関しては相手に非はない。
多分、その時、卵を買っていなければ袋を拾って終わりだったとも思う。
……この時の私は疲れ果てていたし弱っていた。
精神的に。
そう、疲れ果てていたし弱っていたのだ。
そういう人間は何をキッカケとしてどういった行動に出るか分かったもんじゃない。
それだけは先に伝えさせておいて欲しい。
パックの中で割れてぐしゃぐしゃになったいくつもの卵の残骸が視界に入った瞬間だったのだ。
――――あ、むり。
ピンと張り詰めていた糸が切れるようにして抑え込んできた感情が決壊して溢れた。
視界が滲む。
拾うのを手伝おうとしてくれたのだろう、同じようにしゃがもうとしていた相手がボロボロと泣き始めた女にギョッとする。
……それから、スーパーの出入り口で泣き止まない女を相手にし続ける訳にもいかないというのは、まあ分かる話で。
立ち上がる気力もすっかり失せて動けなくなった私を相手が抱き上げたのもまだ分かる。
ただ、びっくりして、ようやく確認した相手の顔に見覚えがありすぎて。
放心してる間に車の助手席に乗せられてたことに関してはちょっとよく分からない。
因みに車はシェアリング方式で専用の駐車場に停められているものを利用するのが一般的だ。
個人で所有するのは上流階級の特権に近い。
主に金銭的なハードルの高さが理由で。
シェア用の駐車場に停められているものではない辺り、相手が個人的に所有している車なのだろう……。
柔らかく艶のある黒髪。
異国の血を感じさせるヘーゼルグリーンの瞳。
勇人くんと瓜二つの顔立ちを持った青年。
――――月盛孝時。
おそらく、だが。
……G.Exの旧宮は名前だけでなく容姿も勇人くんと同じと言って過言にならない程度には似ている。
その旧宮には主人公の月盛と一卵性の双子並みに似ているという設定があった。
流し読みでも息子とそっくりなキャラのことは目に留まるし、よく覚えている。
しかし、月盛孝時と仮定するなら相手は裏社会の住人。
……どうして助手席に乗せた?
買い物袋を取り落として、あまつさえ泣き出した上に泣き止まなかった私に原因があるのは重々承知の上で。
それ以前の話。
月盛が裏社会に身を置いているのも検挙に必要な証拠品を集めるため……。
国の治安部隊と通じているスパイなのだ。
頭脳明晰で身体能力はバカみたいに高い。
チートで無双する系主人公。
後ろからぶつかってきたのが偶然?
ないだろう。
じゃあ、私に用がある?
いったい何の……?
「大丈夫ですか」
「アッハイ。大丈夫です、すみませんご迷惑をおかけして」
「いえ。元はと言えば僕がぶつかってしまったせいですから」
申し訳なさそうに眉を下げたご尊顔がお美しいですね。
差し出されたハンカチは受け取らず自分のものを……。
と、思ったが、バッグがない。
え。まっ、どこ!?
慌てた私が何を探しているかを察してだろう。
バッグなら買い物袋と一緒に後部座席に置きましたよ、と月盛孝時(仮)が言うので振り返って確認する。
確かに後部座席には私のバッグと買い物袋が置かれていた。
……よかった。
いや、よくない。よかったけどよくない。
これではハンカチが取り出せないじゃないか。
どうしたものかと悩む間もなく隣から伸びてきた手を反射的に掴みつつ仰け反る。
ちょっと待って。本当に待ってこの手は何。
「ハンカチ、よければ使ってください」
「いえ、そんな。申し訳ないです」
「構いませんから」
私が! 構うの……っ!
女の顔にはファンデーションをはじめとした塗装が塗りたくられてるんだからなっ!
お高いんだろうそのハンカチ!?
そんなお高いハンカチを私なんぞの涙を拭うために使って汚せるかバカヤロウ!
やめてやめて近付けないで……アーッ!
掴んだのはハンカチを持っていない方の手だったのでそれを離し改めて阻んだのだが……。
今度は逆にそんな私の手を彼に掴まれて涙を拭われる。
アッ……アッ……!
待っていい匂いする……!
語彙力が溶けるくらい、こう……。
すごく……すごい……。
そのまま自然な動作で汚れたハンカチを私に握らせた月盛孝時(仮)まじ月盛孝時(仮)どうしろっての洗って返せってか。
庶民の洗濯機で洗っていいやつじゃないだろう!
この肌触りの良さは!
「失礼ですが涙の理由を伺っても?」
「……えっと?」
「ぶつかっておいてこんなことを言うのもなんですが……直後のあなたの反応からして、痛みを伴うほどの強さではなかったはずです……そして、割れた卵が原因なら弁償すると言った僕の言葉で解決した……」
……えっ弁償するとかそんなこと言ってたっけ?
まったく覚えがないんだけど。
正直、私を泣き止ませようと必死に声をかけてくれてた彼の言葉のほとんどを聞いていなかったので私に覚えがないだけだろう。
申し訳ない。
「だから、卵はただのキッカケで……もっと他に、堪えきれずに泣き出してしまうような……何か大きな悩みがあるんじゃありませんか?」
申し遅れましたが、と名刺を差し出される。
――私立探偵。藤堂鏡士朗。
おや?
反射的に受け取ったそれを見つめて内心で首を傾げる。
月盛孝時ではなかった?
「お力になれるかは分かりませんが、ご相談に乗ることくらいはできますよ」
「…………お金、ないので」
「お話を伺う程度で料金をいただくようなマネはしません。これも何かの縁と思って、ね?」
柔らかな微笑みを向けられて思わず頷きそうになる。
……顔がいいって! 卑怯だなあ!
ちょっと距離を詰めただけで相手の動揺を誘えて主導権を握れるのだ。
軽率に手を取ってくる辺りとか絶対手慣れてるだろって思う。
自分の顔の良さに自覚のあるタイプ。
「どうしても気が引けるというのであればぶつかってしまったお詫びということで」
「お詫びだなんて」
「泣いている女性を放ってはおけませんから」
「…………もう泣いてないです」
すっかり止まった涙を指して言えば「そんなに口に出しづらいお悩みなんですか?」と返された。
……まあ、うん。
口に出しづらいというか出せない悩みというか。
「夕飯、何にしようかなあって」
何を言い出したとばかりに藤堂さんはきょとんとする。
本当に顔がいいなこの人。
とりあえず言葉を続ける。
「子供がいるんですけど。1週間分。ある程度は作り置きしてないと大変だから休日の内に決めちゃうんです。それぞれの好みもあるからこれが結構、悩ましくって」
「……でも、それは泣くほどの悩みではありませんよね?」
「騙されてください」
誰にだって分かる見え透いた嘘に。
「それで十分、助かります」
怪しさしかないこの男に頼る訳にはいかない。
それに、どうしてなんていくら繰り返したって無意味で、出口のない迷路に飛び込むようなものだということを私は理解している。
極論を言えば生きるか死ぬか。
選べるのはそれだけだ。
目を伏せる。
……子供たちのことを疎ましく、憎らしく思ったことがないと言えば嘘になる。
献身を生き甲斐に幸福と微笑めるほど清らかな女にはなれない。
それでも、私を思い、気に掛けてくれる子供たちのことを尊く思う。
その優しさは守られるべきものだと思う。
彼らという命の輝きを私は愛している。
どうして私だったのかなんて分からない。
周囲の蔑みを受け入れてまで彼らを育てることに何の意味があるかも分からない。
分かるのは、私の帰るべき場所に彼らがいるということだけだ。
一瞬、沈黙した藤堂さんに帰ります、と伝える。
「ご迷惑とご心配をおかけして申し訳ありません。……ハンカチ、また会えるか分からないのでクリーニング代をお支払いするくらいのことしかできませんけど」
「……本当にそれであなたは助かるんですか?」
「はい、助かります」
いくら疲れていたからと言って今日が初対面の何処の馬の骨とも知れない男を頼ったとあっては子供たちに申し訳も立たない。
特に勇人くんには。
耳にタコができるくらい繰り返し「何かあればすぐ相談すること。無理はしないこと」と言われているのだ。
……精神的に限界で泣いたとか、知れたら「何でもっと早く言わなかったんだ!」と叱られるに違いない。
私の面倒ばかりを見させるのも申し訳なくて、遊んでおいでと送り出した子供たちが帰ってくる前に目元を冷やして隠蔽しなきゃ。
「なら、今回は騙されることにします」
少しの間を置いて。
仕方ない、と言わんばかりにため息を吐き出した藤堂さんは眉を下げて笑い直すとそう言った。
片手で私の手を取ったまま、腕を伸ばしてシートベルトを締めてくる…………って、うん?
「あの」
「騙される代わりに送らせてください。……落ち着いてきているとはいえ……立てなくなっていたあなたを1人で帰すというのも心配ですので……」
「いや、あの」
「それとハンカチのクリーニング代ですが、夕飯の支度のお手伝いをさせていただくという形でどうでしょう? 僕も自分で料理をするんですが……分量を間違えて作り過ぎてしまうことが多くて……代わりに食べてくださる方がいると助かるんです」
知らんがな。
車まで送ってもらうほどの距離もない。
さすがに、とシートベルトを外すために動かした手は、しかし、上から重ねられた相手の手に押さえ込まれた。
逃がさない。
そう言われているようでもあって――。
静かに緊迫した空気が流れる。
「女性の……それも魔法障害者で、明らかに疲れて注意散漫になっている……今のあなたを見て襲わない犯罪者はいないでしょうね」
冷たさを滲ませて囁くような、けれど愚かな子供を諭すように優しく柔らかな声音で『現実』を突き付けて藤堂さんは目を細める。
挑発。脅迫。
瞬間的に血の気が引いた。
息を呑む。
ゆっくりとシートベルトの留め具から手がはがされる。
「何もしません。だから、送らせてください」
その『厚意』を拒むだけの力が私にはなかった。