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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを

 

 9


 水のきわを、つがいのトンボが飛んでいる。

 父の背にしがみつく幼い手がつかもうとするが、ひと連なりの線は尾を水面にちょんちょんとつけながらひらりと身をかわし、陽の光と重なって消えた。夏の盛りなのにと意識することでかえって、ゆるやかに渡る風にほんのり秋の気配が忍んでいることを悟る。

 暁はアサヒのロゴ入り紙コップを片手に、デッキチェアで手足をのばしている。学生の頃から運動とは無縁ながら締まった体つきをしているのが自慢だったのに、今では晩酌の習慣が祟ってだらしなく腹だけをたるませている。しなやかな腰つきや、窮屈そうな胸やお尻が前を通るたびに、つられるように目の玉が右へ左へと動くのが、サングラスをしていてもばればれだ。

 Speedoの競泳水着に身を固めたてふが、早々と50メートルプールへ移ってから一時間以上が経過するが、いっこうに戻ってくる気配はない。きっと、リオデジャネイロオリンピックで金メダルを獲った萩野公介に触発されて、400メートル個人メドレーを泳ぎつつ、頭の中で実況を再現して悦に入っているのだろう。

 運動神経には恵まれているのに、なぜか泳ぎとなるとからきしダメな空は流れるプールで浮き輪につかまり、ただ流されるままに流されている。これより子ども用プールでアンパンマンショーを開催しますという場内アナウンスにはさすがに関心を示さなかったものの、特設ステージで行われるというダンススプラッシュショーには興味が湧いたようで、浮き輪を腰にまわしてひとり波のプールへ向かった。

 行動は三者三様でまとまりがないが、お腹がすくタイミングだけはぴったりで、昼時になると申し合わせたようにどこからともなく集まって売店に並ぶ。

「二十分も待たされてこれかい。しかも800円だと、バカにするのもいい加減にしろってんだ」てふは毒づき、発砲スチロールの容器に口をつけてずずっとスープをすする。

「でもさ、ひと昔前のこういうところのラーメンって、もっとひどかったじゃない。この麺なんて、ほんと手打ちっぽいからさ」麺をすする暁が謙虚なのは、相変わらずはらぺこ亭の客入りが芳しくないからだ。

「ほのはこ焼ひおいひい」と口の中をはふはふさせながら空。アメリカンドッグとかフライドポテトとか、さっきからジャンクなものをここぞとばかりに選んで食べている。

 太陽は惜しげもなく顔を出し、水しぶきを白く輝かせている。小さなビーチハットの下にのぞくぷくぷくとした頬に、繊細な髪の毛が張りついている。薄っすらとはんこ注射の跡の残る左腕がやわらかげな体を抱え、髪を払い、水筒入りのジュースを分け与える。時計台のもとで甲高い声があがった。水を弾く男女の腕がのびたり縮んだりしながら、手をつき合わせている。女の子の手が空振り、つま先立ってなんとか均衡を取ろうとするが、あえなくビート板の狭い陣地を踏み外してしまう。あちいあちいと喚き、まだ男とも女ともつかない足がぴちゃぴちゃと水を跳ねあげながら駆けていく。肌を露出させた生身を見ていると、腕や足が腱に引っ張られることで動いているのだとよくわかる。

 腹ごしらえも済んだことだしもうひと泳ぎするかねと言って、てふは水泳帽に髪をたくしこみゴーグルをかける。

「ねえ、お父さん。寝てばっかいないで、ウォータースライダー行こうよ」

「ああ?」

 どうして俺がそんな危険を冒してまでみたいな顔を暁はするが、てふに横目で睨まれると言葉を飲み下して笑顔を引きつらせ、「そうね。行こうか、空君」と妙に取り繕った言葉遣いで浮き輪を肩にかけた。

「だったら私もつき合うとするかね」てふもゴーグルを外して、ぎこちなく口角をあげる。

 あの晩、銀行員風の刑事につき従って、小夜先生は警察におもむいた。もちろん、三朝さんも一緒にだ。事件性がないと判断がくだされたのは、失踪直後に駅の防犯カメラで三朝さんの行動が確認されていたためだった。任意の同行で、形式上の事情聴取に過ぎなかったのだが、警察署に出向いたという事実だけがひとり歩きして、しかも三朝さんが「あの一件」を思い立ったのは、すべて自分に責任があると話したために、以降何度か小夜先生は学校に呼び出されたらしい。そこでも小夜先生は、自身の非を全面的に認めるような発言を繰り返したために、さすがに懲戒処分とまではいかないまでも、なんらかのお咎めは免れないだろうと、電話口の三朝さんはひどく気落ちした様子で空に説明した。それが七月の終わりだった。

 空は何度か小夜先生のマンションを訪ねてみたが、いずれの時もインターホンに応答はなかった。その足で日暮先輩のアルバイト先にも寄ってみたが、一度目はペットショップの定休日で、二度目は森下愛子似の店長の姿だけがあった。事情を聞くと、驚くことに日暮先輩はアルバイトを辞めたという話だった。アパートも訪ねてみたが、すでに引き払われたあとだった。そんなふうにして、気づけば登場人物たちはすでに舞台から降りていて、空だけが不格好に立ちまわっていた。

 そのまま八月に入り、早くもお盆を迎えようとしていたが、ユーレイ部の活動は自粛したままだ。それは同時に、空が三朝さんと会っていないということも意味するが、ユーレイ部どころか両親にこってりと絞られたらしく、「あの一件」以来、三朝さんは家でおとなしくしているようだった。ついでに言うと、さっきから「あの一件」と伏せているのは、あれは家出なんかではないのだと、三朝さんが頑として譲らないからである。

 これだと本当の幽霊部員だ。ユーレイ部の幽霊部員は下手な洒落みたいだが、そもそも部の活動自体がないのだから幽霊部員とも言えないか。日がな一日、家で腐っている空を見かねたのか、たまにはみんなでぱあっと遊ぶかと暁が言い出したのが昨日の晩だった。

 店を引き継いで以来初めてとなる、はらぺこ亭の臨時休業を決めた当の本人は、水着から着替えたあともチケット売り場前のベンチで、ホセ・メンドーサとの激闘で真っ白な灰になるまで燃え尽きた矢吹丈のごとく、満足げな笑みを浮かべつつもうなだれている。三半規管が人一倍弱く、普段から乗り物さえめったに乗らないくせに、もう一度もう一度とせがむ空につき合って、都合六度もスライダーを滑ったがゆえの成れの果てだ。

 暁の隣では、日に焼けた空とてふが涼しい顔をして、自販機で買ったセブンティーンアイスをぺろぺろと舐めている。

「もっと夏休みらしいことをしようじゃないか」とちおとめ苺味のてふが言う。

「そんなこと言われても思いつかないよ」とソーダフロートの空。この数年、夏休みらしいことから遠ざかっていたのだから無理からぬ話だろう。

「花火でもやるか」胃から競りあがる酸っぱいものをこらえるような顔で、暁は提案する。

「スイカも外せやしないよ」

「俺、とっておきの怖い話持ってんだ」

 プールに花火、スイカに怪談話とベタなものばかりだが、てふも暁もあえてそれらを挙げようとする。古典を愛する人たちなのだ。

「プールで十分だよ」困ったように笑って家に帰ろうと言う空は、筋金入りのおうち大好きっ子だ。「でも、怖い話は聞きたいな」


 盛りを過ぎても、陽はまだ力を余していた。

 日傘も差さず、はらぺこ亭の前に女の人がひとりたたずんいた。手で庇を作り、帰ってきた三人にまぶしいものを見るような目を向ける。ソフトボール部のエースとして名をはせた学生時代からそうだった。どんな強い日差しにさらされても、肌が赤く染まることはなかった。その白さは、彼女の強さを象徴しているようでもあった。

「小夜先生?」誰よりも先に見つけた空は、声を裏返した。

「ラーメン、とてもおいしかったから。また食べたくなっちゃって」

 そう言って微笑む小夜先生とは対照的に、空の背後で巨大な鳥にさらわれたような悲鳴があがった。

「先生、ごめんなさい。今日は店閉めちゃったから、スープの仕込みしてねえや」

 えー、と眉を八の字にして落胆の声をあげるのだから、存外小夜先生は本当にはらぺこ亭の味を気に入ったのかもしれない。その反応は、失われつつあった暁の自信を一瞬にして取り戻させる。

「まあ、入んなよ」鍵をがらり戸に差したのは、てふだった。「中華焼きそばでよかったら、私が作ってやるよ」

 中華焼きそば? 暁はおうむ返しに問う。

「醤油ダレは変えていないだろうね」

「ああ。そこだけは変えんなっつーから、受け継いだまんまだよ」

 そっか、そんならよかったと胸をなでおろすような顔をして、てふは店に入る。続いて敷居をまたいで、漫画のない方の小上がりに三人は座る。

 ぱちぱちと照明を灯していく小さな背に、優先順位を正すように暁は尋ねる。

「それよりさ、ばあちゃんって小夜先生と知り合いなの?」

「なに寝ぼけたこと言ってんだ」カウンターからひょっこり首だけをのぞかせて、てふは答える。「知り合いもなにも、おしめが取れないうちから面倒見てんだよ」

 はあ? 声を出さずに、空と暁はぽっかりと開いたような目を見合わせる。その隣で、小夜先生だけがくすくすと笑っている。

「知らなかったのかい? 小夜ちゃんは、うちの夕子と幼なじみなんだよ」


 鋼の刃が木を叩く音が、静まった店内に響く。リズミカルで、輪郭はしっかりとしているのに角は丸っこく、耳に心地よい。厨房で青ネギを小口切りにするてふは、久しく見ていなかった表情をしている。慌ただしさに不機嫌で、それでも食べさせなきゃならないという使命感のようなものを帯びていた。生々しい母の顔である。

「三人でプールにでも行ってたんですか」

「そうなんすよ。こいつにも、たまには夏らしいことさせてやりたくたね。だから店も閉めたんです」ダスターでテーブルをぬぐいながら暁は応じる。

「よかったね、長尾君」

「ウォータースライダーなんて、十回も乗っちゃって」暁はすぐに話を盛りたがる。「今度、先生もご一緒にどうですか」

「余った麺はどこにあるんだい?」

 厨房から飛んでくる声に、暁は「ああ?」とさも面倒臭そうに声色を変え、舌打ちをして小上がりの席を立った。店の奥から引っ張り出してきた蒸し器を、てふはすでにガス台にかけている。手渡されたバットから、人数分の麺を平皿に移し替えてふたを開けると、盛大に湯気があがった。

 蒸しあがるまでの時間で、てふは切った肉と野菜をラードで炒める。塩コショウをして中華鍋を振るなれた手つきを、暁は厨房のすみに残って興味深げに眺めている。

 この前来た時と同様に、小夜先生は内側にかけられた暖簾、カウンターに並ぶ椅子、古びたメニュー札と、店内をひとしきり見まわした。黒のブラウスに白のフレアスカートというよそ行きの服装が、この店のうらびれた雰囲気とは不釣り合いだった。

「憧れたな」飲食店やっている家の子に、とは続かなかった。

 二の腕のあたりをじっと見ていることから、それが肌の色を言っているのだと遅れて気づく。空の肌は陽に当たったそばから黒くなる。たった一日の夏休みらしいことでも、その外見は夏を始まりから謳歌している人のように変貌を遂げている。人は、自分にはないものに憧れるのだ。くだらないと一笑に付す人もいるだろうが、空が架空の人物になり切るように、暁がてふの手さばきを凝視するように、なにかに憧れる心がなければ人は成長しないのかもしれない。

「それに引き換え、三朝さんは青っ白い顔をしてたよ」

「会ったんですか」驚きに打たれたみたいに空は居住まいを正す。

「本当はもっと早くに行くべきだったんだけどね、ここに来る前にお邪魔してきたの。今回の件はすべて私に責任があるって、三朝さんのご両親に会って説明する必要があったから」

 小夜先生も家出とは言わないらしい。

「三朝さん、小夜先生のこと気に病んでいました」

「長尾君は?」

 すっとあげた空の目には、「へ?」という文字が書いてある。

「長尾君も私のこと、心配してくれたの」小夜先生は、空の瞳を真っすぐにのぞきこむ。

 それが、ドがつくほどの近眼のせいだとわかっていても、空はどぎまぎするように顔を背けてしまう。「もちろん、心配してました」

「ごめんね。三朝さんのお父さんとお母さんにも、ひどい心配をかけてしまった。けど、もう一度きちんと家族のことを考え直す、いいきっかけになったって言ってくれたんだ」

 厨房から言い争うような声が聞こえた。目を向けると、麺を摘まんで、なにやらてふが文句のようなことを言っている。負けじと、暁もなにかを言い返したが、二人ともなにについて意見を戦わせているのかまでは聞き取れなかった。

「これでもう、三朝さんも大丈夫だ」

「三朝さん、も?」

「私」と言って、小夜先生はにっこりと微笑む。「来月で先生を辞めることにしたの」

「もしかして、お咎めですか?」空は丸くした目を瞬かせている。

「お咎めって、時代劇みたいだね」

「じゃあどうして」

「私、結婚するんだ」

「相手は誰ですか?」

「社会の西野先生。同姓だから、結婚しても名字変わらないんだよ」なんか損した気分、とカッコ書きのようにつけ足して笑う小夜先生に、空は完全に置いてけぼりを食わされていた。あまりの急展開に情報処理能力が追いつかず、ハードディスクが回転するカタカタという音が聞こえてきそうなほど、みごとにあんぐりと口を開まま固まっている。

「教師を辞める前に、心残りはすべて解消しておこうと思い立ったんだ」

「三朝さんのことですか」

 ううん、と言って小夜先生は首を振る。

「日暮君のこと。彼は心に深い傷を負っていて、いつまでも同じ場所をぐるぐるとまわり続けていたんだ。一概に、それが悪いことだとは言い切れないけど、彼の場合は自分でもそれがよくないことだとわかっていながらも、あえてそうしているところがあったから。そうして、自分を罰するみたいなところが」

「髪の毛や眉を剃り落とすことですか」

「それくらいのことならまだよかったんだけど、日暮君の心は疲弊し切っていた。彩月さんがお亡くなりになって、もう二年が経つんだもの。日暮君はね、それほど積極的にってわけではないけど、あわよくば自分を損なおうとしていたの。春先に病院に運びこまれたばかりなんだ」

 あの肌の白さは病み上がりだったからだろうか。小夜先生は言葉を濁したが、決まって長袖を着ていたのも、ためらい傷を隠すためだったのかもしれない。

「日暮君が前に進むためには、誰かが背中を押してあげる必要があった。共感できる傷を持った人がね」

「それじゃ、あの儀式の話をしたのも」

「きっと君は、日暮君に会いに行くと確信していたから」

 焦がした醤油の香りが立った。てふは炒めた具材と麺にレ―ドルでタレを加え、荒々しく中華鍋を煽っている。

「日暮君、ご実家に戻ったんだって。大学に入るために勉強に専念して、将来は獣医さんになるって、控えめに張り切ってたよ」

「だからペットショップのバイトもやめたんですね」

「いつか夢が叶ったら、長尾君や三朝さんにも報告するって。それまではユーレイ部に幽霊部員としていさせてくれって」

 そうだったんだとため息交じりに言って、空は小鼻をひくつかせた。日暮先輩の場合は幽霊部員と言えるだろう。だがそのためには、獣医になるその日までユーレイ部を存続させなければならない。そんなの無理ではなく、よっしゃがんばるぞという意気ごみが鼻の膨らみに表れたのだ。

「で? 長尾君はまだ、ユーレイ探しをしているの」

 空は救いを求めるみたいに厨房に顔を向けるが、暁は馬鹿笑いをしながらてふの肩を叩いている。炒めた麺を皿に盛りつけるてふも、照れ臭そうに笑っていた。どういうきっかけでそうなったのか定かではないが、さっきまでのいざこざが嘘のように解消されていた。

 まったくしょうがないなあと、あきれるような感じで小夜先生は息を吐いた。

「あとは君だけだね、長尾君」

「僕ですか?」

 何週間か前に同じ場所でマグライトを手にしたように、小夜先生はかたわらに置いていたChloéのレザーバッグをちょこんとひざの上に乗せた。「これ、ずっと預かってたんだ」

 小夜先生の色のないしなやかな指が、封筒をテーブルの上に乗せる。手に取った空の目はそれをしげしげと眺めたが、宛名も差出人も記されてはいない。ただの白い封筒だった。

「手紙、ですか」

「そう。この世界で、一番君のことを心配している人から預かったの」

「誰ですか」

「読めばわかるよ」

「へい、お待ち」とやはり声を作った暁が、二人の間に割って入る。ほかほかした湯気が、空の頬を優しくなでる。

「なになになに。先生、空にラブレターなんか渡しちゃって。俺には?」

「ないです」

「そんなんじゃないから」頬を膨らませて空は反論する。

「なにさ、顔真っ赤にしちゃって。先生、生徒をたぶらかしてはいけませんぞ」と言って暁は、厨房の続きのような馬鹿笑いをする。

「いいから、残りの皿をテーブルに並べちまいなよ」うしろからてふが小づくように言う。「さあ、できたよ。冷めないうちに食べちまおう」

 見た目はソース焼きそばだが、匂いがぜんぜんちがう。しなちくに半分に切った煮玉子、チャーシューがトッピングされ、上には青ネギがまぶされていた。ぱちんと音を立てて箸を割る小夜先生は目を細め、口もとをきりりと結んでいる。なんだか、食べる前からすでに満たされているようだ。

「いただきまーす」と元気よく声を張りあげて、暁は麺をすする。

「うんまい」暁に続いて旺盛な音を立てる空も、感嘆の声をあげる。

 これ店の品書きに加えるから、今度作り方教えてくれと頭をさげる暁に、作り方って今見てたじゃないかと、てふはそっぽを向いて箸で麺を持ち上げる。そのやり取りを見ていた小夜先生は遅れて麺を口に運び、子どものような怠りのない笑みを浮かべた。

「ああ、懐かしい」


 夜闇が押し寄せるベランダに、蝉が仰向けになっている。絶命しているのかと思いきや、わらわらと動かした脚を物干し台に引っかけて、なんとかという感じでうつ伏せの体勢になる。それでも飛び立つだけの力はもう残されてはいないようで、じりじりとなおも脚をうごめかせて体の向きを変えるばかりだ。その朦朧とした足掻きは自らの末期を悟り、ならば最後にと、この世界を目に焼きつけんとする意志の表れようにも見える。

 すぱっと縦に割られたような月が窓に張りついている。思い出したみたいに吹く風がカーテンを丸く持ちあげ、隣家の庭の葉と葉をこすり合わせてさらさらという音を立てる。

 空は北斗の拳をぱたんと閉じて、和机のすみに置いた封筒に目を這わせる。何度そうしたのか、もう数えきれない。いつもはてふの部屋でごろごろと転がっているウタロウも、なぜか今夜ばかりは寄り添うように空の隣で四角く座っている。

 ああ、と言葉にならない声を漏らし、レイとユダの決闘に戻ろうとするが、千々に乱れた思いをまとめることができないらしい。鼻から息を押し出して立ちあがり、これまで見向きもしなかった本棚に手をのばしてから座り直す。

 カーテンは風に引かれて網戸に張りつき、窓の向こうで肩を叩き合うような笑いが起きた。カーテンが膨らむと、醤油とみりんを温め直すような甘辛い匂いが漂った。

 空は壁に背を持たせかけて、顔に近づけた文字を追う。そのまなざしはつっかえつっかえしながらも離れようとはせず、線の連なりの中からなにかをつかみ取ろうとするような、求心的な光を宿している。ようやく物語の地平に降り立ち、おどおどとしながらもあたりを見渡せるようになった頃、階下に名を呼ぶ声が立ち、空は現実の世界に引き戻された。

「風呂入っちまえよー」空はのびをしてから立ち上がる。

 居間のテーブルにMacBookを開いて、てふはインターネット動画のオリンピックハイライトを閲覧している。この家に越して以来、初めての一番風呂に歓喜していた暁は、タニタの体重計に乗って、湯船に浸かる前と比べて体内年齢が五歳も若返ったと言ってはしゃいでいる。

 メダルを逃したものの、いくつかの歴史的勝利をおさめたラグビー日本代表の健闘をてふは称え、「うー、喉乾いた」と短パン姿の暁は冷蔵庫を漁り始める。

 空は部屋着を脱いで、脱衣所のかごに放った。白いパンツを履いているみたいに真っ黒だ。半月前に潰れたニキビの跡がうっすらと残っている。この数週間で、いくぶん締まった大人の体つきになったように見えるのは、たんに日に焼けたからだろうか。

 赤くなってはいないとはいえひりひりするのか、空は桶にためた湯をおっかなびっくり肩にかける。石鹸を泡立て、昨日と同じ手順で体を洗い、桶にくんだ湯でシャンプーの泡を流してからざぶりと湯船に浸かる。

 組んだ手を浴槽の中で膨らませ、すき間から天井へ向けて湯を飛ばしているかと思いきや、「ドストエフスキー、レストエフスキー、ミストエフスキー」とよくわからない早口言葉を練習する。上手く口がまわらないと、今度は天井から落ちてくる水滴を手刀で切る。それも何度も何度も。

 本当に落ち着きのない奴だ。だけど、それがいかにも空らしい。

 水気を拭き取り、今ではすっかり部屋着のエース格となった龍馬Tシャツを頭からかぶる。三つ編みをほどき、空と入れ替わりで脱衣所に入ろうとするてふが足をとめた。

「なあ空、明日は空いてるかい」

「明日どころか、夏休みの間中暇だよ」それなら早く宿題をやりなさいと、横槍を入れたくなる。

「そんなら、明日部屋をかたすのを手伝っておくれ」

 かたすもなにも、ばあちゃんの部屋かたづいてるのにと首をひねりながらも、空はわかったと返事する。

 居間では、暁がペヤングの麺をすすりながら晩酌をしていた。さっき焼きそば食べたのに。発泡酒はプリン体も糖質も、人工甘味料もゼロのやつだが、暁はこの先着実に、こつこつと脂肪を体に貯めこんでいくのだろう。そんな己の行く末など毫も案じていないような呑気な顔で、YOU TUBEを眺めている。

 猫らしからぬよたよたとした足取りでどこからともなくやって来たウタロウは、椅子を伝ってテーブルによじのぼり、ノートPCの角に額をこすりつけてから暁の腕を枕にしてごろりと横たわる。てふは人様が飯を食うところだとウタロウを容赦なく叱りつけるが、暁はほとんど頓着せずになされるがままにしている。

「この子らはぜってー来る」暁が見ているのは、生ハムと焼きうどんという二人組アイドルの動画だ。前に来ると断言していたアトランティス城は、どこへ行ったのだろうか。

 空は冷凍庫の扉を開ける。てふが風呂場でラップらしき歌を口ずさんでいるのが聞こえるが、その声はやはり蓄音機から流れるみたいだ。ウタロウは猫とは思えない、あられもない恰好でいびきをかき始め、暁はYOU TUBEに心を奪われていて、空には見向きもしない。

 仏間に布団を敷き、カルピスバーをちびりちびりとやりながら、空は小説の続きに取りかかる。蝉はなおも、同じ場所にとどまり続けていた。からからと空疎な音を立てつつ、扇風機は首振りを繰り返す。

 一度降り立った世界にはすんなりと入りこめるらしく、すぐさま空の心は文字の連なりと一体になる。だから机の上に放置したケータイが震えていることにも、しばらく気づかなかった。

 辛抱強くかけ続けていたのは、三朝さんだった。どうしても今日のうちに伝えたかったことがあるのかもしれない。

「気づかなくてごめん、今ね」言いわけしようとする空を遮ったのか、言葉は宙ぶらりんのまま立ち消えた。「ただ者だな、君は」という声が聞こえてきそうだ。

「さっき小夜先生から聞いたよ。そう、三朝さんの家を訪ねたあと、うちに寄ってくれたんだ。うん、先生辞めるってこともその時に聞いた」

 それにしても西野先生がお相手なんてねと続けたあと、「そう言えばさ、知ってた?」と、とっておきの話を披露するようなもったいぶった口ぶりで空は尋ねた。

「うちの母さんと小夜先生は、幼なじみだったんだ」

 電話口の三朝さんがさすがに言葉を失ったのが、にじむような空の笑みからわかる。推し量るような沈黙が降り、ならばという感じで反撃に転ずる三朝さんの言葉に打たれたのか、今度は空が猫だましを食ったような顔でケータイの持ち手を変える。サトル君?

「あの夜、小夜先生が学校の屋上にいたのって」

 二人の応酬で断片がパズルのように組み合わさり、しだいにひとつの大きな絵を表していく。相槌を打ちながら耳を澄ませていた空は、隠れていた事実をようやく手に入れたように目を開き、そのことで興奮して小鼻を膨らませる。

「じゃあもしかして、サトル君の噂が立ち始めたのもうちの母さんと、その、小夜先生が?」

 うん、うん、そう。わかった、ありがとうと言って通話を切ろうと持ち手を耳から離した空は、なにか伝え忘れたことを思い出したらしく、慌てて三朝さんを呼びとめた。

「三朝さん、前に月野隧道でヘルメット蹴ったじゃない」

 だからあれは人の骨だったんだって、と反論する姿が目に浮かぶようだが、意外にも空はうんわかってると同調した。

「僕もそうだと思う。あれは人の頭蓋骨だったんだ」

 きっと三朝さんは笑っただろう。そう思うのは、空も笑っているからだ。笑いながら、じゃあまたねと誓い合ってケータイをもとの位置に戻した。

 隣に置いた封筒に視線を寄せる。言葉を尽くしても表せないほど小さな無数の感情が、炭酸のあぶくみたいにその目に浮かんでは儚く消えた。しゅわしゅわさせたまま、空は自らの背を押すように小さくうなずく。小さくゆれる指が白い封筒をつかみ、まるで手紙から勇気をもらうみたいに龍馬の馬の字にそっと押し当てる。また物語に深く意識を潜りこませるようにまぶたをおろし、天井を仰いで息を吐き切る。

 瞳の小さな泡は消え去り、それまでに見たことのない光を帯びていた。青くゆらめく炎を移したような目だった。もどかしげに封を解き、慎重にと自身に課するほどにかじかむように震えの大きくなる指で、折り畳まれた便箋を広げる。

 右あがりの角文字は頼りなげに振れ、山になり谷になりと丸く折れながらも、縦に連なっていた。筆圧の弱さをインクでごまかしている。紙をつかむ手の甲に筋が浮かんでいた。始め、文字を追うまなざしは静かだった。上から下へと視線は流れるように移ろい、便箋をめくる指が束ねた紙の順序を入れ替える。

 半分に欠けているというのに月は妙に冴えていて、身のまわりをたゆたう雲を親しげな色に染めていた。ここからだと、三角形の頂点を担う星だけが見える。コオロギやキリギリスが前翅をこする。カエルが鳴き袋を膨らませる。それらの音がひとつに合わさり、さざ波のように押し寄せて部屋をあふれさせていた。するすると入りこむ風に、カーテンが舞っている。

 すうというかすかな呼吸の音を残して、空は手で口をふさいだ。

 ぶわりと、目の縁にまで涙が押し寄せる。便箋を持つ指の震えはおさまっていた。あふれたら負けという決めごとでもあるかのように、空は上を向いて口をムの字に結ぶ。

 まばたきひとつ許されないようだった。わななくのをぐっと押さえこむように前歯で上唇を噛むと、鮮やかな赤が白く染まる。心をなだめるように鼻から深く息を吸い、吐き出す。それを何度も繰り返したのちに、ようやく視線は便箋に戻る。

 問いかけるように、すがるように、咎めるようにと、目の中の表情は目まぐるしく変化した。ついえる寸前の線香花火のみたいに、その芯はぶるぶると激しくゆれ動いた。

 つうーっと、糸を引いて透明な液体が鼻から落ちる。それでもきわのところで涙はとどまっていたが、次の一行に移る眼球の動きであえなく張力は失われ、まっすぐ頬に線を描いてあごから滴り落ちた。

 一度氾濫した流れをとどめることは、もはやできなかった。手の甲でぬぐっても、ぬぐってもとまらなかった。それほどのものが今の今まで身の内にあったとは到底信じられないという戸惑いが、便箋の文字をにじませた。暴れる情動を抑えこむみたいに畳の目に額をこすりつけるが、心は昂る一方で過呼吸のように肩を震わせるばかりだった。

 空は全身で泣いた。

 うつ伏せから横倒しになり、ほどけてしまわぬようにとつなぎとめるみたいに背に腕をまわしながら、空は腹の底から絞り出すような声を吐いた。

「見えなくてもいいから、そばにいてよ」


 仏壇の写真が、あーあまだ歯磨いてないのにとあきれるように笑っている。

 静かだ。さっきまであれほど盛大に騒いでいた虫もカエルも嘘みたいに鳴りをひそめ、今では間を埋めるようにマツムシがぴりりと鳴くばかりだ。網戸から吹きこむ風に、季節は夜から移ろっていくのだと知らされる。

 好機を見計らったようにどこからともなく蚊が飛んできて、乾いた涙の跡にとまった。薄く寝息を立てる空は、もちろんそれに気づかない。もはやベランダの蝉も、じりとも脚を動かさなかった。

「おい空、怖い話してやろっか」すき間からこぼれる明かりに、暁は襖を引く。当然のようにノックはない。

 なんだよつまんねえな、という落胆で眉尻がしなびる。肩をゆすろうとした手がとまり、ひざを曲げてぽつりと膨れる浅黒い頬に耳を寄せる。ぷふぅーと息を吐く丸い唇が、父子でしか通じない言葉をつぶやいていた。

 アイスの棒を拾いしなに、和机に開いたままの手紙にも気づくが、読まずに折り畳んで封筒にしまう。タオルケットを宙に広げ、窓を閉めて仏壇に目をやり、やれやれと言わんばかりに肩をすくめて暁は電気を消す。

 居間に戻ると、さっき自室に引きあげたはずのてふが、まだ起きていた。MacBookでラジコを立ちあげ、流れる音を聴くともなしにワインのグラスを傾けている。酒を飲んでいる姿も、めったに見かけない。

「めずらしいな」と声をかけて、暁は正面の椅子を引く。

「今夜はなんだか寝つけなくてね」

 哀愁漂うトランペットに続いて、雨降りのようなピアノソロが流れる。どこかで聞いた覚えがある。たしか、誰かが誰かの死を悼んで作った曲だった。

「店はどうするんだい」

「明日いっぱい仕込み作業して、またあさってから開けるよ」

「そっか、まあ今は苦しいだろうけどな。そういう時期は、そう長くは続いてくれやしないんだから」せいぜいがんばんなよと肩を叩くような、普段は耳にしない優しげな言葉をてふはかける。

 店継いでからずっと苦しいんだけどなあと軽口を叩いたあと、そういやあさ、と暁は思い出したような声をあげた。

「はらぺこって、いい名前だよな」

 グラスを傾けたてふの小鼻が、ひくひくとうごめいている。

「なんかお気楽で、悩みなんかないんだって気にさせてくれる」

 曲が終わり、ラジオパーソナリティがリスナーからのメールを紹介する。今日のテーマは、「お盆休みの過ごし方」だ。

「夕子、帰ってくんのかな」

 ふん、とてふは魔女のような鼻を鳴らすが、そんな迷信私は信じないね、とは言わない。

 最初のお便りは盛巳町の十三歳、RN(ラジオネーム)スカポンコンタナスから。それが深夜のジャズ番組なんかだと、おっと思う。

「どうしてあんたは、ここに居続けるのさ」嫌味ではなく、心から不思議がる語調だ。

 今の今までそんなこと考えもしなかったというように、暁はつくづくと無精ひげのまぶされたあごをさすりながら、正面から向き合うように宙を睨んだ。

「見つけるためじゃねえかな」見つけるってなにをさと問われるまでもなく、暁はてふの背後の柱を指差している。「先月気づいたんだけど、そこにつけられた傷って、夕子の背くらべの跡だろ」

 古傷のように、流れた年月によって均されてすっかりなじんでいるが、たしかに目を凝らせば横に引かれた数本の線が、座ったてふの目の高さまでのびている。

「先月って、あんた何年この家にいるんだい」

「ここで暮らしていると、たまに見つけるんだよ。夕子が生きてた、しるしみたいなもんをさ。だからどうってこともないんだけど、まだこの家に夕子がいるような気になるんだ」

「未練がましい男だね」

 てふは天井を仰ぎ、グラスに残ったワインをひと息に煽った。

「今日プールで、空が何度もウォータースライダーに乗りたいってせがんだだろう」

「そのせいで、あんた廃人みたいになってたじゃないか」

 頭のうしろを掻きながら、暁はあはははと文字のように笑った。

「でもな、俺、それがすっげーうれしかったんだ。あんなふうにわがままを言えるようになったんだよ、空のやつ」

 私の夏休み大作戦が功を奏したってわけだね、という軽口は軽く受け流される。

「そんでもって気づいたんだよ。幸せっていうのはさ、本当はもう身のまわりにあるもんなんじゃないかって。すでにあって、それを見つけられるかどうかなんだって」

 てふは目を見張った。黒目の動揺を取り繕うように目を細めるが、その意志に反して顔中のしわが興味深げに動く。なんだよ嘘言ってるわけじゃねえぞと暁は言うが、なにもてふは疑っているのではない。かつての宇太郎とまったく同じ言葉を、暁は口にしたのだ。

「そろそろ寝るとするかね」と言って、てふはMacBookを閉じた。

「あれ、寝つけなかったんじゃなかったのか」

「バカ息子が気がかりでね。けど、どうやらいらぬ心配だったらしい」

 てふは干したグラスを持って立ちあがる。

「そっか。じゃあ俺も、もう寝るよ」もう寝るよ、の声にあくびが混じる。

「ああ、おやすみ」

「また明日」

 てふは自室の扉を開け、暁の筋張った太い指が電気を消した。このようにして、一家の少しだけ特別な一日は終わる。


「ほら、いつまで寝てんだい」

 尖った声が、空のまつ毛を震わせる。頭を起こすとしずくが頬を滑り落ちた。涙ではない。壁の時計は七時前を差していたが、窓から差す陽が噴き出したそばから汗を蒸発させ、早くも部屋は蒸し風呂のような暑さだった。怒声の主はとうに去っていた。空は窓を開けて、生まれたての空気を部屋に招じ入れる。

 ベランダに蝉の姿はなかった。

 階段をおりると、厨房の流しで暁が鶏ガラを洗っていた。奥の扉が開け放たれ、腰を落として荷物を運び出すてふの姿が見える。

「ばあちゃんどうしたの」と空は耳打ちするように暁に問う。

「あの部屋かたして、ピアノ入れるんだと」はっ、と鼻で笑うような言い方だが、すばやくこちらに向けられたてふの目はゆるまない。

「いいから、ぐずぐずしてないでとっとと朝飯済ませちまいな」

 午前中いっぱい、空はひたすら一階と二階を行き来して、開かずの間にしまわれていた荷物をてふの部屋へ運んだ。古いLP盤のレコードだの、空には用途すらわからない昭和の電化製品だの、こんなもの誰が着ていたんだろうと首を傾げたくなる洋服だの、そんなのばかりだ。おかげで一時間と経たないうちから、空の龍馬Tシャツは黒々と染まってしまった。

 途中、作業の手を休めて着替えようとした空はふと気になったらしく、階段に腰をかけて、おろした荷の菓子箱のふたを開けた。たとう紙をめくりあげると昔、写真屋さんで現像するともらえたようなポケットアルバムが何冊も入っていた。ページを開いていくと、面影をわずかに残した少年時代の宇太郎や、こんなもの誰が着ていたんだろうと首を傾げたくなる洋服を着て笑うヒッピー時代のてふが次々に現れた。

 モノクロからセピア色のカラー写真へ時代は移り、小上がりの席で近所の子どもたちに囲まれて莞爾と笑う宇太郎や、お盆に乗せた丼を運ぶ割烹着姿のてふと、背景が店のものばかりとなる。ソフトボールのユニフォームを着た、小夜らしき抜けるように色の白い少女もいる。

 中に一枚だけ、一家勢揃いの写真があった。ちょうど実家に遊びに来た時に撮ったものだ。今よりもいくぶん新しい外観のはらぺこ亭を背に、宇太郎は親指を立て、がらり戸にかかる暖簾をてふが指差している。二人に挟まれる暁はまだ二十代の中頃で、少年のようなあどけなさを残しているが、指の曲がった不格好なピースサインは今と変わらない。

 みんな、包み隠さずに笑っていた。

 暁の隣で、女のわりにたくましい腕に抱かれる赤ん坊だけが、カメラを見ずに上へと手をのばしている。まるで初めて人の笑う顔を眺めるような、未知のものに触れようとする目だ。空が振り仰ぐその顔は、じつに母らしげな表情をしていた。

 いがみ合うようなとげとげした声を階下に聞き、空は慌ててアルバムを菓子の空き箱に戻して立ちあがった。金子精肉店のおじさんが納品した大量のモミジをてふが見咎め、店の味をそうたやすく変えるもんじゃないって言ってるだろうが、と声を荒げている。

「たやすくじゃねえよ」どこ吹く風といった感じの暁は、またぞろスープの材料を変えようとしているらしい。

 みんなこうやって生きていくんだと、しみじみ思った。写真の中で明け透けに笑っていた人々に、淀みながらも等しく時間は通り過ぎたのだと妙に実感した。ここにいない人にも平等に時間は流れ、ここにいる人たちの心にそれは積もっていくのだ。

 そうめんと茹でトウモロコシと焼き餃子の昼ご飯の休憩を挟んでもなお片づけは続き、ようやく作業から解放された頃には、窓の端が暮れかかっていた。今日二度目の着替えを済ますと、空はさっそく仏間に移って和机に向かった。片づけの最中に出てきた未使用の便箋を引き取った時から、そうしようと決めていたらしかった。

 どうやら誰かに宛てた手紙みたいで、空は語りかけるように、心模様を写すように、ほとんど机につっ伏すような姿勢で文字をしたためている。この数週間の出来事について書いているのか、三朝さんと日暮先輩の名前が何度も現れる。

 うっすらと茜色に染まる部屋に空だけがいた。盛りは過ぎたものの、まだ夏は終わらせないと言わんばかりに蝉が声を枯らしていた。天の高みを叩くように何度も号砲が鳴り渡り、花火大会の開催を知らせている。寝ぼけて迷いこんだみたいに、くわあとあくびをしながらウタロウが襖のすき間に顔をのぞかせた。

 しばらくはその太々しい影にも空は気づなかったが、ようやく書き終えたらしく小さな背をのばすと、視界のすみに踏み入ったやわらかな肢体を抱きかかえてひざに乗せた。部屋の色は濃さを増し、今では藍へと移りつつあった。

「ばぁんーごーはーん、でーきぃーたぁーよー」やはり子どものままなのであった。

 家の中にいる友だちを遊びに誘う小学生みたいな屈託のない声が、階下から聞こえる。空は折り畳んだ便箋を封筒に入れて腰をあげた。猫らしからぬ不細工な足取りで畳におり、迷惑そうに見あげるウタロウの顔を見た空は、不足を思い出したようにぺたりと畳に尻をつけて、再び便箋を広げた。

 考えをまとめるように部屋を見渡すが、ついと動きがとまり、宙の一点に思いがけないものを見つけたように薄く口を開いた。よるべなく振れていた目が定まり、口が横に広がる。

 とこしえと見まがうほど引きのばされた時間が、二人の間を別つ。空は手紙に目を落として、最後に一行を書き加えた。その文字は大きく、角張っていてたくましい。

 さらに名を呼ばわる声に応えて立ちあがった空は、なぜか不機嫌そうに目を澄ませた。


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