赤シャア少佐にドストエフスキーを
8
まなうらに映る記憶を反芻するように、空は目を閉じて天を仰いだ。
梢の向こうの高みは容赦なく青い。肺にためた空気を鼻から吐き出すとともに、静かにまぶたを持ちあげる。濃い土と吐息のような緑の匂いがした。なんと呼ばれているのか知らないが、足もとで黄色の花が色を足したように鮮やかにゆれていた。
頭を屈め、ほこらに半歩足を踏み入れて内部をのぞいてみるが、ごつごつとした岩場に人が身を隠せそうな余白はない。
三日前のこの時間に、三朝さんはいなくなったのだ。
胸に封じていた光景がまざまざとよみがえったのか、日暮先輩は動くこともままならないようだった。空は喉が潰れるほど声を張りあげてあたりを駆けまわったが、それもそうするしかないからという感が否めなかった。
日暮先輩が加わって二人がかりで捜したものの、三朝さんは見つからなかった。目の前で消えたのだから、いくら名を呼んだからといって木の陰からひょっこり姿を現すとは考えづらかったが、それでもそうしないわけにはいかなかったのだろう。四方を包む木々がざわざわと騒ぎ始めていた。途方に暮れる二人をよそに、日は慈悲なく暮れていった。引き際を申し渡すように、不吉な鳥が鳴いていた。
「残念だけど、もう時間がない」空の肩に手を置いて、日暮先輩は言った。
全身汗だくになって駆けずりまわった末に、精も根も尽きたというように空はひざに手をついてうなだれていた。その日最終となるバスの発車時刻が迫っていたのだ。脇を抱えられるようにして空は立ちあがり、旺盛な葉をかき分け拝殿の裏手に出て、長い石段をおりた。足取りは重く、どちらもひと言も発さなかった。
乗せてきた客が下山するバスにまだ乗っていないと、気にかけていてくれたのだろうか。予定の時刻は多少過ぎていたものの、運転手さんはバスを発車させずに待っていてくれた。やはりこの近辺に住んでいるのか、あるいは最終より前のバスで麓の村におりたのか、行きで同乗した女子高生の姿は見当たらなかった。一緒にいた女の子はどうしたの、とは問わずに運転手さんは淡い笑みで空と日暮先輩を迎え入れ、指差しで安全を確認してからバスの車体を震わせてエンジンをかけた。
あたりはとろりとした闇に覆われていて、黄色のヘッドライトが頼りなげに振れる道の先を照らしていた。一方で、車内は白々しいまでの明かりに満ちていた。空は手中のケータイをまんじりと眺め、通話が可能な地点まで戻るとすぐに三朝さんの番号にかけたが、女性の抑揚を欠いた声がおかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりませんと繰り返すばかりだった。バスから電車に乗り換える間にも試してみたが、何度かけても結果は同じだった。
駅をおりたその足で、空と日暮先輩は三朝さんの自宅へ向かった。何年かぶりに空が会った三朝さんの両親は、以前とは人がたがっているように見えた。なんというか表情に動きというものがなかったし、かつては親しげだった言葉遣いもどこかよそよそしかった。
やはり三朝さんは自宅にも戻っていないようで、最後の望みはついえたというふうにがっくりと肩を落とす空の隣で、日暮先輩は電話で説明したことの繰り返しになって申しわけないと前置きしたうえで、三朝さんの姿を見失ってしまったことの顛末についてあらためて話し、何度も頭をさげたが、お父さんもお母さんも気のない返事をするばかりであった。もっと実際にもとづいた手段なり手続きなりについて考えを巡らせているようで、すでに警察に捜索願を出したとも言っていた。というのも、天狗岳の周辺では不審者の目撃情報が絶えなかったし、何年か前には実際に身代金目的の誘拐事件も起きていたからだ。
ただ、それよりも空が腑に落ちないようだったのは、三朝さんの両親がほとんど気落ちした様子を見せなかったことだった。最悪の事態なんて起こり得るはずもない、自分たちは不幸とは遠く離れた場所にいるのだというニュアンスを、言葉の端々にひそませていた。
三朝さんの家を出ると、二人は文化会館の隣にある警察署へ足を運んだ。事情聴取のために呼び出されたのだ。窓のない狭い部屋に空を通したのは、真夏にも関わらずすきなくネクタイをした三十前後の男性で、刑事というよりは銀行員のように見えた。べつの部屋で話をしたため、日暮先輩がどんなふうに話したのかわからなかったが、空は自分が目にしたありのままを伝えた。
暁も手を挙げて参加した町の自警団が、夜を徹して天狗神社の周辺や麓の村を捜したものの、三朝さんの発見には至らなかった。二次被害を防ぐためにも決して表へ出ることのないようにと、釘を刺されて二人は家路についた。いつもはとっくに寝ている時間だった。
いつまでも明けそうにない夜を、空は過ごした。明日に備えなくてはと頭ではわかっていながら、体が休息を受け入れてはくれなかった。目をつむると異世界へ取りこまれていく三朝さんの姿が鮮明によみがえるらしく、頭から追い払うように声をあげて寝返りを打った。
うつ伏せになって全身を包むようにかぶっていた布団を跳ね飛ばしたのは、にわかに窓の色が明るんだ頃だった。とはいえ、時間のわりにはだいぶ薄暗い。風がなぶる音を耳にしたのか、もどかしげに窓の鍵を解くとすでに横殴りの雨が降り始めていた。全身ずぶ濡れの暁が帰宅したのは、そのすぐあとだった。
すでに嵐の中にいたのだ。
大型で非常に強い台風七号が、勢力を維持したまま太平洋沿岸を北東に向けてゆっくりと進んでいると、早朝のニュース番組が報じていた。当然のごとく、空の外出は禁じられた。雨風がおさまる兆候が見られればすぐにでも三朝さんを捜しに出かけようと、腕を組んで額に手を添えた姿勢でじっと動かずに雲の来し方行く末を観察していたが、天候は崩れていく一方だった。
こんな日ははらぺこ亭の客入りもなく、てふも朝からずっとウタロウとともに自室にこもって、iPadのアプリでピアノを練習していた。朝も昼も食欲が湧かないと言い張って仏間からおりてこようとしない空を、めずらしく暁が叱りつけた。普段、ほとんど聞くことのない怒声がよほどこたえたのか、夕ご飯の時間になると仏間の襖はするすると開かれ、空は誰になにを言われずとも小上がりにおりて支度を手伝い、てふよりも暁よりもてんこ盛りにしたご飯を、丼二杯分きっちりと平らげた。なにも依怙地になってそうしたわけではないようだった。凛とした顔つきには、戦に向かうための腹ごしらえという勇ましさがあった。
喉仏の動きから、暁のためらいが読み取れた。ごちそうさまをして食器をさげようと腰をあげた空の背に、てふは言った。
「そうかんたんにあきらめるんじゃないよ。男には、自分で見つけ出さなきゃならない答えがあるんだからね」
三朝さんの足取りは一向につかめないようだったが、身代金を要求する電話もなければ、周囲の聞きこみでも不審な人物と一緒にいるところを目撃した人もおらず、状況から警察は極めて事件性は薄いと判断して、しばらくの間は様子をうかがうという結論に至ったと聞いた。彩月さんの時と同じだ。日暮先輩を除いて、三朝さんが異世界へ行ってしまったのだと本気で考える人は誰もいなかった。
すぐに見つかると高をくくっていたのか、行方をくらませて二日が経ち、空が三朝さんの家を再度訪ねた時には、なんと声をかけたらよいのかわからなくなるくらいにお母さんは憔悴していた。お父さんは、出ずっぱりで人捜しのビラを配り続けているという話だった。
空は朝早くから家を出て、そうしないことには気が済まないのか執拗に天狗神社周辺を捜しまわり、三朝さんの姿がないことをたしかめると今度は盛巳の町へ戻り、三朝さんが立ち寄りそうな場所をしらみつぶしに歩いた。暁やてふとの約束は守り、どんなに食欲がなかろうとも朝と夕は自宅で、昼は暁のこしらえた特製弁当で腹を満たしたが、どれほど肉体が疲弊していてもやはり夜はうまく眠れないらしく、見る間に空は衰弱していった。
そのようにして、三朝さんの失踪から丸三日が過ぎたのだ。
この日も空は天狗神社に来ていた。午前中はバスの停留所から獣道とほとんど変わらない脇道へ入り、長い石段をのぼって天狗神社の境内を捜し歩いた。拝殿の腐りかけた回廊に座って弁当を食べ、裏手のみっしりと茂る草木に分け入り、昼過ぎからご神体のまわりと、鳥居のトンネルを抜けてほこらの周辺を探った。
おとといの台風のせいか、麓の村では風で飛ばされたトタン板や折れた枝が、いまだ路上に散乱していたが、ご神体からほこらにかけては不思議とそれらしき変化は見られなかった。日暮先輩が地面に描いた儀式の跡も、ほとんどそのままの状態で残っている。
空は身を乗り出してほこらのごつごつとした足場に手をつき、そのままそこに生身を横たえた。三日前には気づかなかったが、横向きのまま体育座りのようにひざを抱えると、空ほどの身の丈であればちょうどおさまるくぼみがある。それでもあの時だって、三朝さんがそうして身を丸めていれば、さすがに気づかないはずはなかったのだ。
上体を起こしてほこらから出ると、空はまた腕組みをしたまま、しばらくあたりをうろうろと歩きまわった。はたせるかな、揃えた指先をおでこにつけて、えーとか、あーとか、しゃがれたうなり声をあげている。
変な奴だ、という点を差し引いたとしても、東京の小学校から転校してきたばかりの空がなかなか周囲になじめなかったのには、べつの理由もある。
自身を取り巻く環境が劇的に変わり、我身の内に次から次へと沸き起こる感情を、空は持て余しているようだった。いろんな気持ちが同時にあって、中には矛盾するものもあり、でもそのどれもが本当過ぎて惑っていたのだと思う。そういう深い惑いの中にあっては、心を開いて人と接することはおろか、見知らぬ級友たちに目を向ける心の余裕すらなかったにちがいない。
そんな空が心から嬉しそうに笑ったのは、新しい生活が始まって三カ月ほどが過ぎたある日の夜だった。レクリエーションルームの前で、精神一到何事かならざんという感じでじっと己が手を凝視する空を見て、なにをしているのだとある女の子が尋ねたそうだ。
「気孔波を打つために気をためているの」と答えると、女の子は目を縦に広く開いて「ただ者じゃないね、君は」と感嘆の声をあげたらしい。
「体の不自由な人のために、ここでボランティアをしているんだって。まったく、僕も負けてらんないよ」病室に戻ってきた空は、まるで我がことのようにがんばらなきゃと小鼻をひくひくさせながら、熱っぽく語った。
通う学校も学年も同じだというその女の子こそが、三朝さんだった。またなにをがんばらなきゃならないと誓ったのかも定かではないが、そうやって話す空の顔からは、嘘みたいに屈託が消えていた。
空と三朝さんは病院で顔を合わせれば、自然と連れ立って帰るようになった。どんどん暗くなり、日一日と冷えこみの厳しくなっていく帰り道を肩を並べて歩きながら、二人がどんなことを話していたのか、今となってはわからない。それでも三朝さんとの出会いをしおに、空は落ち着きを取り戻していったように見えた。
繰り返しになるが、あの頃の空は深い混沌にいたのだ。自身の心のありようを誰かに言葉として表すことで、空は自分なりの気持ちの整理をつけていったように思う。話せる誰かなんて、三朝さんをおいてほかには誰もいなかった。暁にもてふにも話せない心のうちをさらけ出せる存在があったからこそ、あの時期を乗り越えることができた。それを一番よくわかっているのは、ほかならぬ空自身である。
眉間のしわを中指でなぞりながら、もう一度ほこらの中をのぞきこむ。あの時と同じように、名も知らぬ尾の長い鳥が二羽、心のままに小さな青空を渡っていく。どうして僕は三朝さんから目を離してしまったのだろうと、悔いるように肩をすくめて息を吐く。
つかず離れずという感じで、空と三朝さんはともに中学生になった。常に行動をともにするという間柄ではなかったが、なにかつらいことや悲しいことがあれば、お互いが持ち前の不器用さでもって思いやり合った。ユーレイ部を立ちあげたのも、そこに空を誘ったのも、ぎこちないながらも三朝さんの空に対する思いやりの顕れだ。空の小さな世界は、三朝さんによって彩りを与えられていた。かつて、日暮先輩が彩月さんといることによって自らの不足を知らされたように、三朝さんの不在によって世界から色が失われたことに気づかされただろう。
空は地べたに座りこみ、バッグからタッパーを取り出して残りのおにぎりを食べた。あいかわらず食欲はないようだが、戒めのように大量にこしらえた暁の不格好なおにぎりを、空は何回かに分けてこなしていた。日暮先輩が分けてくれたおむすびと比べると、一個一個が大きく形も不揃いだ。中の具がわかるようになっていないのは、配慮がない以前にどれも同じ具だからだ。
おにぎりを口に運ぶ手がとまる。季節がら、時間が経ち過ぎて食材が傷んでしまったのかとも思ったが、そうではなかった。残りを口につめこんで立ちあがると、腕を組んで眉間を指でもみながら同じ場所を行ったり来たりする。一度こぶしを握り、人差し指をぴんと立てる。その目が、急速に力を取り戻していく。
指を水平にのばし、おひけえなすってみたいなポーズのままもう片方の手を腰に当てて、ほこらの脇の茂みを目指して真っすぐに進む。とはいっても、歩き方は小股でちょこちょこといった感じだ。立ちどまり、腰を落として指でなにかをつまみあげる。空が誰になりきっているのかが、ようやくわかった。
えーとしわがれた声を出し、あいた手でまたぞろ前頭骨をさすりつつ、あたりをうろつきまわる。起ちあげたばかりのPCみたいに、かたかたとかすかな稼働音が頭から聞こえてきそうなほど難しい顔をしている。やがてなにかをひらめいたように刮目し、人差し指を立ててちゃっと舌を鳴らす。ここで古畑任三郎なら、場が暗転するとともにスポットライトが灯り、解決編へと導く語りが始まるのだが、そんな舞台の用意されていない空はなにも言わず、ただ身をひるがえしてその場を去った。
雲の端は一日の名残に染まっている。乗り合わせが悪く、盛巳の町へ帰り着いた頃には夕暮れが終わろうとしていた。真っ黒になった子たちや、部活帰りのジャージや退勤客でごった返す改札を抜けて、駐輪場にとめ置いた自転車にまたがると、空はひと息にトップギアに入れて全力でペダルを踏んだ。ギアといってもただのママチャリだから、それは気分的な表現に過ぎないのだが、肌にまとわりつくような暑気を切り裂くように空は進んだ。
上体を横に傾けて、色のついた通りへ侵入する。夜も更けきらない中途半端な時間だというのに、人の行き来は旺盛だった。ヤニに染まった歯が笑う。独立した生物のようにぬらぬらと赤く光る唇が、閉じたり開いたりして声を吐き出している。薄くすり減ったワイシャツが透けて、肌着の白とよれが見える。ぷつぷつとした苺のような鼻頭に汗の粒が浮かんでいる。縦爪の小さなダイヤが鈍く光り、耳の近くでパールの珠がゆれている。ベルトに乗った脂肪がゆるく弧を描き、太く短い毛が前腕に張りついて無数の線を表している。
鮮やかで生々しい肉体で、通りはあふれ返っていた。それらの部位をすり抜けるようにハンドルを操り、ペットショップの前で急ブレーキをかける。横滑りするタイヤの音で顔をあげた店長は、初めて見かけた時と同様に軒下の蛇口からのびるホースで鳥かごを洗っているところだった。肩を上下させ荒々しく息をする空を見て、あらまあという顔をした。
「あなた、たしかこの前の」
「長尾と申します」
にこりと笑って内ポケットに手をやるそぶりを見せたが、警察手帳は現れない。というより前に空はジャケットすら羽織っていない。
「日暮君でしょ」
空が伝える前に察してくれたが、残念だけどさと言って店長は首を振った。「今日はね、仕事休みの日なんだ」
いつもの気安い調子で「いやー、マジっすかー」とは言わず、空は揃えた指先を額に当てる。口の端を引き締めて余裕の笑みをつくろい、「どうもありがとうございました」と慇懃に頭をさげた。そのゆったりとした所作とは対照的に、再び自転車にまたがり地面を蹴って急発進させた背を見送りながら店長は、はてあんな話し方をする子だったかしらと首をひねった。
薄い雲が月にかかり、幾重もの虹色の円を描いている。車通りの多い国道を、空はハンドルに覆いかぶさるように前傾姿勢になって自転車を走らせる。人馬一体ならぬ、人車一体という感じだ。道に沿って植えられた百日紅の白が、緑と赤を交互に写していた。
ぽつぽつと団地の窓明かりが灯り始めている。遠く、藍色に染まる空に天狗岳の山影が黒々と渡っている。道しるべのように続く外灯のどれにも蛾や羽虫が集まっていた。自転車にしては驚異的な速度だが、しょせんはママチャリだから数えきれないほどの車やバイクに追い越されていく。長距離輸送の大型トラックが体すれすれのところを走り去っても、空の目はゆるがずに道の先を見すえていた。
天見川にかかる橋を渡り、古びた家々の連なりを抜けて、月野隧道へ至る暗く曲がりくねった山道に入る。細く長い急勾配の登り坂を、空は立ち漕ぎのまま走りきった。
日暮先輩の住むアパートに辿り着いた頃にはとっぷりと日は暮れていて、星が南の空に大きく二等辺三角形を描いていた。駐輪場の外壁に立てかけるようにして、クロスバイクタイプの自転車がとめられている。その隣に両足スタンドを立てて、空は鉄の階段に足をかけた。水が流れ、食器が触れ合う音がした。加熱したニンニクの香りがして、じゃじゅうとフライパンで野菜を炒めるみずみずしい音がした。どこからか、幼子の脇腹を指でつついたような笑い声も聞こえてくる。やはりここだけは、淀みなく、正しく時間が流れているという気がする。
鉛色をした鉄製の扉を中指の背で叩くと、廊下に音が硬く響いた。推し量るような沈黙があり、かちりと錠が開かれる。すき間からのぞいた目はぎょっとしたように丸まったが、わけを聞かずに「入りなよ」と促したことから、いつか空が自分を訪ねてくることを知っていたことがうかがえる。
あざっすではなく、ここでもありがとうございますだった。森下愛子似の店長にも見せた余裕の笑みを浮かべたまま、空は靴を脱いだ。
「これで汗を拭きなよ」と言って日暮先輩はタオルを手渡す。
よれよれになってしまったことで部屋着にしていた竜馬Tシャツのグレイが、黒々と染まっていることに今さらながら気づいたらしい。ふわふわの生地を広げると、品のよいフローラルの香りがたゆたった。
リビングテーブルに空を座らせると、日暮先輩はキッチンに戻ってコックをひねる。さっきまで音楽を聴きながら本でも読んでいたのか、ケンウッドのCDコンポにはアダム・ランパードのCDジャケットが置かれ、その上に書店のブックカバーのかけられた文庫本が重ねられていた。
それが定まりのように、日暮先輩はジノリのカップに沸いた湯を注いだ。初めてこの家を訪ねてから、まだ一週間も経っていない。今回は日暮先輩と揃いのカップで、柑橘ではなく濃いコーヒー豆の匂いがした。口をつぐんだままテーブルを挟んでカップに口をつける。空の眉間にしわが寄ったのは田村正和の真似をしているからではなく、一度言ってみたかったという感じでブラックでと答えたコーヒーによるものだ。
「長尾君は、三朝さんとつき合っているの」カップを置いて日暮先輩は尋ねた。
さすがに古典的なドラマみたいに口に含んだ液体を吐き出さなかったものの、熱いコーヒーを目を白黒させながらなんとか飲みくだし、空は答える。「まさか、そんなことないです」
「ただの友だち?」と重ねられて、空は窮してしまう。
三朝さんを除いては友人と言えそうなほど親しい人のいない空にとって、ただの友だちという存在がどのような人のことを指して言うのかわからないという以前に、三朝さんは自分にとってなんと呼べる人かと、自問したことさえなかったからだろう。
「とても大切な友だちです」口にしてはみたもののなんかちがうと感じたのか、空は目を泳がせる。
「そう思えるのは、すばらしいことだと思う。人は、いや僕は、それを失って初めて気づかされたから。まったく、愚かだよ」ディクレッシェンドで言葉が途切れると、日暮先輩は内に取りこまれるように沈黙してしまう。
子どもの泣き声も、家事をこなす音も、テレビやお風呂の音も聞こえなかった。まるで、窓の向こう側を埋める闇に吸いこまれて消えてしまったように、人が生活を営んでいる音が耳には届かなかった。
「もし間違っていたら、ごめんなさい」一度写真立てに移した目を戻してから、空は言う。
この部屋に入った時に、そこはかとなく感じた違和の正体に行きついたのだ。空の物言いに不穏な影を見たのか、日暮先輩の顔から表情が消えた。
「異世界なんて、初めからなかったんじゃないですか」
日暮先輩の心がきしむ音を聞いた気がした。
「それは、どういう意味かな」
「なにかしらの方法を使って、彩月さんは姿を消したように見せかけた」ちがいますか、と念を押す声がわずかに震えているのは、人の心に傷をつけてしまうことへの恐れからだろう。
日暮先輩のまわりだけ、空気が冷えていくようだった。血の温度がすっとさがるような感じだ。テーブルの上に組んだ指を、身じろぎひとつせずに見つめていた日暮先輩は、やおら絞り出すようにして言葉を紡ぐ。
「どうしてそう思ったのかな」
「三朝さんが消えた直後、日暮先輩は『そんなバカな』と口にしました」
「そんなこと、言ったかな」
「この耳でたしかに聞きました。どうしてそんなこと言ったんだろうって、ずっと引っかかっていたんです」
「大切な友だちが目の前で消えたっていうのに、ずいぶん冷静だったんだね」言葉とは裏腹に、その声に揶揄するような響きはなかった。
「こう考えることにしたんです」空はグーにした手から人差し指をつき出す。「あの時、日暮先輩にとって予期していなかった事態が起こった。状況を受け入れることができなかったからこそ、そんなバカなという言葉が口をついて出てしまったんじゃないかって」
へえ。言われて初めて気づいたといったふうの、すなおに感心したような声を日暮先輩はあげた。
「ということは、裏を返せば日暮先輩は、人が本当に消えてしまうなんて考えていなかったということになります」
「たしかに、そういう推測も成り立つね」
「それだけじゃありません」
「まだあるの」
「ほこらの前に漂っていた、もやです」そう言って空は、かたわらに置いていたバッグのジッパーを引く。「彩月さんがどうしたのかまではわかりませんが、今日ここへ来る前に、ほこらの近くの茂みの中にこんなものを見つけました」
「タッパー?」
「覚えていますか。日暮先輩が僕らにおむすびを勧めてくれた時に、三朝さんは食欲がないからと言って、保冷剤入りのタッパーに中身を移し替えた」
「やけに用意のいい子だなって、感心したんだ」
「僕もそう思いました。妙に勘の働くところがあるから。でも、さすがにあれは偶然です。お弁当を腐らせないために用意したんじゃない。もやを発生させるためだったんです」
日暮先輩は思い出し顔になる。「ドライアイス?」
「どんなしかけをするにしても、あの明るさだったらすぐに見破られてしまう」
「タッパーに入れたドライアイスに水を注いで、目隠しとなるもやを発生させた。そういうこと?」
黙したまま、空はこくりと頭をさげた。日暮先輩もしばらくはなにも言わずに、自分の手を観察するようなまなざしで眺めていた。やはり人の暮らす音は聞こえない。静けさがちりちりと耳の奥を障る。ふっと、日暮先輩はボードの上の写真立てに視線を移すと、昔を思い出すみたいに小さく吹いた。
「彩月は枯葉を燃やしたんだ」
「あのもやの正体は、煙だったんですね」
「ミラーペーパーってあるじゃない、100円ショップとかでも売ってるの。あれの大きなもので入り口を覆ったんだよ」
「だから行きどまっているはずの穴の向こうに、鏡写しのような世界が見えたというわけですか」
「真ん中に縦に切れ目を入れておいて、ほこらの中に入ったら地面のくぼみに横たわり、引き入れたシートを今度は上からかぶせる」
「鏡はほこらの天井部分を写すから、足場には誰もいないように見えた」
「あとはじっとして、消えたと勘違いした僕がその場を離れるのを見届けてから、穴の外へ出る」
「よく考えましたね」
「それもそうなんだけど、煙の充満した穴の中でよくむせずにじっとしていたと感心するよ」
「だけど、どうして彩月さんは行方不明になったふりなんて」
日暮先輩は視線を空に戻した。黒目の輪郭は、しっとりと濡れている。透明なのに底が見えず、空をとらえているはずなのにそこには誰もいない。深い悲しみを見た目だった。
「僕を気に病んでのことだと思う。自分がこの世からいなくなってしまえば、その現実に、弱い僕の心が押し潰されてしまうにちがいないと危ぶんだ。だから、異世界へと旅立ったように見せかけようとしたんだよ」
日暮先輩の言っていることが解せないらしく、空は眉を八の字に曲げた。
「もっともあの体じゃ、そう遠くへ行けるはずもないんだから、すぐに見つかって病院へ連れ戻されるのがオチなんだけど」
「それって」言葉の含意にようやく気づいたことで、空はそれ以上の言葉を続けられなくなったようだ。
「多発性骨髄腫といって、骨髄の細胞が癌化して全身の骨を壊していく病気だった。あの儀式を再現したのは、余命三カ月を言い渡されたあとだった」
痛みに耐えるように歯を噛んで、空は日暮先輩の話を聞いていた。その小さな体に、さまざまな感情が渦を巻いて巡っている。細かな睫毛のゆれが、それを表していた。
「でも、それから半年も生きてくれたんだ。おかげで短い間だったけど、夢だった二人の生活も叶えることができた」
「どうして動画をYouTubeに?」尋ねる空の声はかすれている。
「バカみたいだよね。彩月が死んだことを、僕はどうしても受け入れたくなかった。だから彼女はあの儀式によって、本当に苦しみのない世界へ行くことができたと、それで今でもこことはべつの世界で暮らしていると自分に言い聞かせた。思いこむことにしたんだ。SNSに動画をアップしてそれが周知の事実となれば、自分をだませると信じていたんだ。ゆがんだ自己防衛手段だよ」
さっきから泣いていたように日暮先輩は泣いていた。どこでその涙が落ちたのか、だから気づかなかった。泣きじゃくるのともちがう、さめざめ泣くというのともちがう。いつかどこかで見た泣き方だった。深い色をたたえた瞳から、まるで意思や感情とは無関係であるかのように、涙は流れた。鼻もすすらず、それをぬぐうこともせず、ただ涙に身を任せるように日暮先輩は話を続けた。
「でもね、そうじゃないことは自分が一番よくわかっているんだ。どうしようもなく知ってしまっている。冷静に受けとめて、事実としてちゃんと認識している。彩月がした心配なんて、杞憂に過ぎなかったんだ。僕の心はそんなことじゃ壊れない。僕が呪ったのは、そんな冷めた目をした自分だった」
もう一度、ボードを見やる。写真立ては伏せられていなかった。
日暮先輩はサッカーのユニフォームを着ている。寄り添うように、栗色の髪を三つ編みにしたセーラー服姿の彩月さんがやわらかく笑んでいる。
淀みなく流れていた時間が永遠に等しく引きのばされ、過去と混ざり合った。ジノリのカップに彩月さんが湯を注ぐ。日暮先輩と向かい合って座り、取っ手ではなく両手で包みこむようにカップを持ち、たわいのない会話を交わす。未来でも過去でもない、今の話だ。それから二人はベッドに身を横たえ、どちらかが眠りに落ちるまで話し続ける。あるいはそこに言葉はなかったかもしれない。いずれにしても、ここで親密な時間が取り交わされたのだ。彩月さんも日暮先輩も、体に刻みつけるように、心に染みこませるようにそれを抱きかかえた。
そして日暮先輩は、今でもそことここを行き来している。彩月さんがいなくなったあとも、髪と眉を剃り落としていることがその証だ。しがみつき、同時に自分を縛りつけ、すり減っていく記憶を何度も再現している。それはきっと、とてもしんどいことであるはずだ。
うしろ向きでなにが悪い。
がたんと騒々しい音が立ち、日暮先輩は顔をあげる。うつむいたままの空が急に立ちあがったために、椅子がうしろに派手に倒れたのだ。
僕と! 空は深くお辞儀した姿勢で、右手を日暮先輩に差しのべている。
「ユーレイを探してください!」なんだか、お見合い番組で男の子が女の子に告白するみたいだ。「ユーレイ部に入ってください」
ぽかーん、というオノマトペが背景に字で浮かびそうなほどみごとな沈黙が生じた。
そのまま十秒ほどが過ぎても、空は頭をさげたままだ。
面食らったように目も口もきょとんとしていたが、やがて雲間から月の光が差すみたいに日暮先輩は涙の残る頬をゆるめ、笑みが顔全体に染み渡るように広がった。
「どうして」
「日暮先輩が、ユーレイの存在を信じているからです」
「僕が?」
「だから、だから彩月さんが死んでしまったことも、現実のこととして受けとめられたんだと思います」
「長尾君にわかるの?」
ようやく空は頭をあげて、日暮先輩と向き合った。
「わかります。僕も、同じだから」
日暮先輩は、写真の中の彩月さんを見た。
「もしかして、君は会いたい人を」
空と同じように、その瞳にはさっきまで見られなかった色がマーブル模様を描いている。空に視線を戻して、なにかを引き受けるように日暮先輩は何度か小さくうなずいた。
「そういうふうに考えたことはなかったけど、言われてみればたしかにそうなのかもしれない。今も僕は、どこかで彩月のことを感じているんだ」
雲間から太陽の光が差すように、空の顔がぱっと明るくなった。
「じゃあ、ユーレイ部に」
「僕でかまわないなら、喜んで入部させてもらうよ」
「あの。部長は三朝さんですけど、問題はありませんか」うかがうように、空は上目遣いになる。
「頼りがいのある部長さんだね」
ありがとう、と言い添えて日暮先輩は破顔した。今まで見たどんな笑みより明け透けで、かわいらしい表情だった。つられて空も目尻をさげるが、自身の発した言葉で思い出したらしく、惑うような目に変わった。
「でもどうして三朝さんは、彩月さんの真似をしてまで消えたふりなんてしたんだろう」
「僕が聞きたいくらいだよ。長尾君がうちを訪ねてくるまで、二人で示し合わせてやったことなんだと思っていたんだから」
倒した椅子をもとに戻し、空はまたぞろ眉間に寄せたしわを中指でなぞった。日暮先輩もテーブルの上に指を組んで黙考する。コーヒーは放置されて久しい。
「そういえば、彩月さんに儀式の方法を教えたのは誰だったんですか」
ああそれね、という感じの息を抜いたような声を日暮先輩はあげた。空が知らなかったということを知らなかった、というニュアンスだ。
「小夜先生だよ」
「小夜先生?」口写しに空は言う。「だけど、彩月さんは日暮先輩とべつの中学校に通っていたんじゃ」
「二十年以上前に行方不明になって、新聞に載ったっていう話をしたじゃない」
「同級生の男の人に、話を聞きに行ったっていう?」
「どういういきさつがあったかまでは知らないけど、その男の人から辿っていって行き当たったのが、女の子の幼なじみだという女性だったらしい」
「その幼なじみが?」
「小夜先生の名前を彩月の口から聞いた時は、僕も驚いたよ」
空と日暮先輩は似たようなすすり方で、すっかり冷めてしまったコーヒーを飲んだ。世界は広いようで狭いのねえ、と互いに感心し合うような空気が流れた。いやいや、ほのぼのしている場合じゃないとばかりに空は首を振った。
「そうか、だからか」
「なにがだからなの」
「日暮先輩が教え子だったということを、僕は小夜先生本人から聞きました」
「そう言ってたね」
「けど、おかしなことに僕がそれを伝える前に、どうやら三朝さんも知っていたらしいんです」
「小夜先生は、三朝さんにも同じ話をしているということ?」
「その可能性は高いと思います」
「ねえ、ひょっとして三朝さんって、三朝裕樹の妹?」
「やっぱりお兄さんと同級生なんですね」道理でとひとりごちたのは、だからあれほど短時間で日暮先輩と彩月さんについて詳しく調べることができたんだと、納得がいったからだ。
「きっと今回の失踪事件は、三朝さんが小夜先生から彩月さんの話を聞いたことが発端です」
日暮先輩はかけ時計に顔を向けた。針は八時前を指している。
「お父様もお母様も、さぞかしご心配になられているだろう」日暮先輩はそう言うと、椅子を引いて立ちあがった。
一度寝室に移った日暮先輩は、外着に着替えて戻ってきた。
「これからどこかへ出かけるんですか」
「決まっているじゃない」小夜先生に話を聞くんだよ。ガスの元栓を閉めるパーカーの背には、牙をむいて咆哮する白虎の刺繍が施されていた。
それを言うなら、そんななりをしていてご両親は心配しないのかと、がぜん日暮先輩に問いたくなる。
直線的で余剰を削いだようにコンパクトな自転車の隣にいると、空のママチャリは頭のよくないゴールデン・レトリバーみたいに見える。右ハンドルにつけられたバックミラーが、なんとも痛々しい。駐輪場がどこにあるのかすらわからなかったから、二人はエントランス前に自転車を並べた。
天に向かって先細るようにそびえるマンションを、あらためて空は見あげる。
「ここに住んでいたんですね」
大規模な建物の少ない盛巳において、駅の東側に建つ数棟のタワーマンションはまさに威容だ。どこにいても視野に入る巨大な建造物は、町の住民にとって感覚としては公共の場に等しい。そこで暮らす人にかすかな嫉心を抱く大人は多いが、空の声はすなおに高鳴っている。
ここからでは、横倒しにした細長い三角形を描く星も、おぼろに輝く月も見えなかった。足もとの明かりが、コンクリートの壁や自生していない樹木を照らす。つるりとしていて、なんだか画面の中の風景を眺めているような気がしてくる。日暮先輩は、断ち切れそうになる記憶の糸を手繰るような繊細な目で建物の名を確認し、足を踏んで自動ドアを開いた。
大理石敷きのエントランスホールは、五、六人のチームだったらドッジボールくらいはできそうなほど広い。木目調の壁に、いくつもの横に長い郵便受けが埋めこまれている。どの郵便受けにも部屋番号は記されているものの、そこで生活を送る人々の名前はない。反対側の壁に管理人室の窓があるが、時間が遅いためかカーテンが引かれていて、中に人のいる気配はなかった。ホールのすみで観葉植物の鉢が対になっている。
正面にさらに自動ドアが続く。その脇には『インディ・ジョーンズ』の古代遺跡のシーンに出てきそうな石造りの操作盤があり、実際に日暮先輩は暗号の謎に挑むジョーンズ博士のような顔でテンキーを入力していた。
インターホンの音が鳴り、少しの間を置いて「はーい」と急くことのない声が流れた。眉の形を崩した空は、耳を澄ませるようにすばやくスピーカーに顔を寄せる。
「小夜先生、日暮です。ちょっとお話があって来ました」
「え、日暮君? やだ、久しぶりじゃない。ちょっと待ってて、今開けるから」
待っていてというわりには、通話が途切れる音がするやいなや自動ドアは開かれる。行こうかと目配せをする日暮先輩に従って、空はドアをくぐる。
短い通路の先にエレベーターが二基あった。マンションというよりはホテルのような、しっかりとした造りの両開きの扉だ。どうやら三十階建てらしい。三年前まで空が暮らしていたマンションよりはるかに高層だ。階数を示すランプがぐんぐんとおりてくる。
扉が開いて、中から若い男女が出てきた。どちらも二十代の半ばで、すぐそこのコンビニにでも行くような気安い恰好をしている。夏らしいアクアブルーのマニキュアとラインストーンに彩られる指が、短い毛の密集した指に親し気に絡みついている。抜かりなくといった感じに染まる細い眉があがり、日に焼けて薄皮のめくれた頬が引き攣る。
男女の反応を気にするそぶりも見せず、入れ替わりにエレベーターに乗りこんだ日暮先輩は、十九階のボタンに人差し指を当てる。
「やっぱり、僕の思い過ごしかもしれない」扉が閉まると同時に、日暮先輩は言った。「なんか、いつも通りののんびりとした返事だったし」
「いえ、思い過ごしじゃありません。きっと三朝さんは、小夜先生の部屋にいます」空の声は確信に満ちている。
「どうしてそう思うの」
「ゲス極ですよ」
ゲス? バンド名すら知らないのか、日暮先輩はわけがわからないといったふうにない眉毛をひそめる。
扉が閉まるのと同じく、エレベーターは音もなくするすると上昇する。音どころか振動さえ感じない。とまるのもまたしかりだ。十階で一度扉が開き、空と同じ年代の制服姿の男の子が乗りこむ。
男の子は空を見て、それから日暮先輩を見るが、不思議がるのでもおののくでもなく、表情を動かさずにくるりと扉に向き直る。日暮先輩が怪訝な顔で閉ボタンを押したのは、男の子のうしろ髪が風呂あがりのように濡れていたからかもしれない。
再び扉は音もなく閉まり、エレベーターは上へ上へと引きあげられる。男の子が階数のボタンを押そうとしないのは、空たちと同様に十九階でおりるつもりだからか。風呂に入ったあとに、わざわざ制服を着直して十階から十九階へ移動する理由はなんだろうかと考えたが、不自然な仮説しか成り立たない。いずれにしても、同じマンションに知り合いがいるのだろう。
思いを巡らせるうちに、エレベーターは目的の階に到着した。はたせるかな、扉が左右に開け放たれると男の子は廊下へ飛び出して、日暮先輩とは逆の方向へ駆けていった。おくびにも出さなかったが、見るからにヤバそうな男の人とたまたま乗り合わせてしまった己の不運を呪い、早く早くと心が急いていたのかもしれない。
回廊のような造りになっているのか、廊下は直線にのびて、行き当たりで直角に折れてさらに続いている。道の片側に整然と扉の並ぶ様は、やはり日暮先輩のアパートとはだいぶ趣が異なっている。壁にベビーカーも立てかけられていなければ、窓枠の簾もない。子どもの泣き声もクイズ番組のシンキングタイムも聞こえない。カレーを煮る香辛料の香りもしないし、野菜を炒める油の匂いもしない。人が日々を営む温度を、ほとんど感じることができなかった。
日暮先輩は立ちどまり、部屋番号をたしかめるとドアホンを押した。スピーカーに反応はなく、ややあって内側からドアは開かれた。いつもより、さらに化粧っ気のない色白の顔がひょっこり現れる。それとともに、温めた牛乳の匂いが流れた。
「どうしたの。二人揃って」
インターホンのカメラで見られていたのだろう。日暮先輩の隣に空がいることを、小夜先生の目はすでに受け入れている。無地のTシャツに七分丈のストレッチパンツというかんたんな服装で、料理の最中だったのか、髪をうしろでひとつに束ねて、サックスブルーのエプロンをかけている。
えー、としわがれた声をあげて眉間に指を這わせつつも、空はすばしっこく玄関に視線を走らせた。「小夜先生に、おうかがいしたいことがありまして」
「なんだか、刑事ドラマみたい」
ヒールや革靴やスニーカーが雑然と並べられている。それらしいものもあるが、三朝さんのものかは判断がつかない。シューズボックスの上にタンブラー型の花瓶があるものの、そこに活けられている花はもとの色がわからないほど干からびて、うなだれている。ビニール紐で束ねられた古雑誌が床のすみに積みあげられている。斜めになっている足拭きマットを直そうと、屈んだ日暮先輩がべつのなにかに気づいて摘まみあげると、はたしてそれは画鋲だった。そのままあげた目の先に、どこか外国の港町の風景を写したポストカードが飾られているが、右端が湿気でめくれあがっている。なにも言わず、日暮先輩の指はもとの位置に画鋲を刺し直す。
「どうぞあがって」
あっさりとした小夜先生の笑顔に促されて、空は靴を脱ぐ。今度は日暮先輩があとに続いた。廊下の左手にトイレとバスルームに通じると思しき扉があり、右手にキッチンがある。リビングに続く磨りガラスに、黒髪の人影が映っている。
戸を引くと、ほどよく冷えた空気があふれ出る。
「どうしたの、長尾。あ、日暮先輩も」
ソファに身を沈めたまま首だけをのばす三朝さんの顔は、きょとんとしていた。iPhoneをつなげたアンプから、ゲスの極み乙女の新譜が流れている。
そうとうな啓蒙したがりだ。
「どうしたの、じゃないでしょ」憮然というよりは、純粋に驚いた声を空はあげる。
「だよね。ごめん」ソファから腰をあげた三朝さんは、コンポの音楽をとめた。
まあまあとなだめるみたいに小夜先生は背を押して、日暮先輩と空をリビングテーブルに座らせた。「二人とも夕飯は食べたの?」
「いえ、まだです」
「もうすぐできるから、待ってて」ほら三朝さんも、と言って小夜先生はキッチンに戻り、オーブンのスイッチを入れた。
床でランプが点滅している。てふが言うところの「そうじゃない方」の国産お掃除ロボットが、ダストボックスが満杯になったと知らせているのだ。さっきまで三朝さんがくつろいでいたソファの背もたれには、ちょっとした外出に羽織るような萌黄色のカーディガンが駆けられている。さすがに下着はないものの、窓のカーテンレールにはタオルや靴下が干してある。今日の天気からすると、何日もそこに吊るしっ放しなのだろう。
散らかっているというわけではないが、お世辞にもきれい好きとは言えない。なんと言うか、とても生活感にあふれた部屋だ。ここに来るまでの印象も相まって、人間の体内を胃カメラでのぞいているような気分になる。
小夜先生はシンクの前に立ってニンニクを刻んでいる。少量のオリーブオイルをまな板に垂らし、包丁のみねに手を当てる様は料理なれしているという感じだが、日暮先輩のキッチンとは異なり雑然としている。キッチンボードの上には大きめの平皿から順に、小さく嵩のあるものへと皿がパズルのように積まれ、フライパンの上に手鍋と水切りざるが重ねられている。
気まずい沈黙の中、くとくとという湯が沸き立つ音が流れていた。束ねきれず、耳介からも外れた毛がしっとりと濡れている。長い休みの終わりを受け入れるように、三朝さんは静かに観念していた。対岸に腕組みをしたまま膨れる空の顔があり、その隣に興味深げな目で三朝さんを眺める日暮先輩の顔がある。
「三朝さんって、サナドゥの妹さんなんだってね」
その節はお世話になりましたと言って、ぺこりと三朝さんは頭をさげた。兄が友人たちから、なんだか深いゆえんのありげなあだ名で呼ばれているのも知っているらしい。
「サナドゥは今、なにしているの」
「あ、はい。大学に進学して、東京でひとり暮らしをしております」
日暮先輩とサナドゥは、高校のサッカー部で一緒だったそうだ。
「だいたいのところは、察しがついてるから」三朝さんと日暮先輩の話がひと段落つく頃合いを見計らって、空は小鼻をひくひくさせながら告げるように言った。だいたいのところは察しがついていると三朝さんが察していることを、察していないからだ。
「それで? 今まで、どこでなにをしていたの」
「どこから話そう」いつか空が喫茶店でしたように、三朝さんはたっぷりとした間を取ってから言った。
「ねえ、ふざけてるの」
「ただ者だな、君は。ユーモアってやつでしょ」
「今はいらない」
「はい、すみません」三朝さんは左右の眉尻をさげて続けた。「日暮先輩がご神体の方へ移動したのを見届けてから、私はひとりで山をおりてバスに乗った」
「あれだけ必死になって探している人を、よく放っておけたね」
「だからこうして謝っているじゃない」
「だからあのバスの運転手さんも、あえて聞かなかったわけだ」
「私は聞かれましたけどね、一緒にいた男の子たちはどうしたのって」
「なんて答えたの」
「二人とも虫捕りに夢中で、私だけお払い箱になったって」
「人でなし」
「虫捕りって。長尾君はともかく、日暮君は似合わないよね」キッチンにいても、話す声は聞こえるらしい。小夜先生がオーブンを開けて耐熱皿を取り出すと、焦げたチーズの匂いが流れた。
「電車を乗り継いて豊長まで出て、とりあえずその日は漫喫で朝まで過ごすことにしたんだ」
「よく泊めてくれたね」
レモン色のサマーニットにホワイトデニムという恰好の三朝さんが、実年齢よりずっと大人びて見えることを空は知らない。やはりあの大げさなバックパックには、服や靴が入っていたのだ。
「でも、次の日台風だったじゃない。漫喫から出るに出られなくなって、結局連泊するはめになっちゃって。そうなると、さすがに店員からも変な目で見られるようになって」
早くも気が移ったのか、空の目はキッチンの方をちらりと見やった。取り戻した食欲がふごふごと小鼻をうごめかせる。
「朝方、コーヒーを取りに行ったら奥の方で、警察とか連絡とか言ってる店員さんの会話が耳に入って、慌てて店を出たの」
「昨日はどうしたの」
「昼間はデパートとか図書館とか涼しいところで休んでて、そういうところが閉まってからはカラオケボックスとかゲーセンとか、あとは夜の町をぶらぶらと歩いてた」
「変な人に声はかけられなかった?」日暮先輩は心配そうに剃った眉をひそめる。
「かけられまくりましたよ。無視しても、しつこくて。なんか、場違いなところをほっつき歩いてる私をみんなが責めているような気がして、すごく怖くなって」
「それで盛巳に戻ってきたんだ」
「うん。結局、どこにも行けないんだってことがよくわかった。今のところ、私の場所はここ以外にはないんだって」
もう一度、ごめんと小さな声で言い添えて、三朝さんは下を向いた。今のところ、に傍点を振るように話すところが、いかにも三朝さんらしい。
えー、と思い出したように眉根に力を入れて、空は古畑警部補になり切り直す。「あなた、肝心なことを隠していらっしゃる」
「なにその話し方」
「なぜ、今回の事件を?」
「事件って」三朝さんは心の底から驚いたような声をあげる。
「つまりは、犯行動機というやつです」
「そんな、大げさな」
あきれたというように、空はお手上げのポーズを取る。「こんなにもたくさんの人を心配させておいて、まさか罪はないと?」
空はさておいたとして、三朝さんのご両親の心労を考えたら、今ばかりは空の言葉が正しい。
「どうして家出なんて考えたの」
「家出じゃないよ」
「じゃあ、なによ」
「それは」と言ったまま、三朝さんは口ごもってしまう。
「それは?」空は身を乗り出して追及する。
「年頃の女の子は、フクザツなの」はい、そこまでと仲裁するみたいに小夜先生は空と三朝さんの間に分け入り、トレイに乗せた皿をテーブルに置く。
「家庭の事情ってやつ」と三朝さんつぶやいた。
「これ食べたら、家に帰るんだから」
ね、と同意を促されて、三朝さんはこくりとうなずく。「もう目的は果たせたから」
「あとは、あなた次第だね」
そう言って、女二人は笑い合う。合点のいかない空だけが日暮先輩と顔を見合わせて、こしらえたような座り心地の悪い笑みを浮かべる。
小夜先生がペットボトル入りのお茶を注ぐ器は、マグカップだったり湯呑み茶碗だったり、グラスだったりと色も形も不揃いだ。そういう細かなところにこだわらないところが、いかにもという感じだ。「さあ、いただきましょう」
長尾家に並ぶことのない彩りのある料理に、空は目を明々と輝かせている。
日暮先輩は千切ったバゲットにソースをつけて、品よく口に運ぶ。三朝さんは器用にフォークに巻いて、トマトとバジルのパスタを食べる。すぼめた唇に挟んだマカロニから、息を出し入れする空の行儀が嘆かわしい。
不意に三朝さんはグラタンをつつく手をとめて、思いを寄せるように窓の外を眺めた。スニーカーソックス越しに、夜の色に染まった町が広がっている。ちょうど、緩やかに弧を描く天見川と黄色の光を放つ電車が交わるところだった。家々の窓明かりは、模様のように大地に散りばめられ、光を吸った闇が細々とした路地のすみずみまで行き渡っている。このマンションは町のどこにいても見えるというのに、はらぺこ亭のある住宅街も団地の群れも駅前の商店街も、等しく均されて夜闇に沈んでいた。ここからでは、町のどんなちがいも見分けることができないのだという発見があった。
「そう言えば」空ははっとした声をあげて、残ったサラダを取り分ける小夜先生に向き直る。「あの夜、どうして小夜先生は屋上に」
「あの夜って、長尾君がサトル君の儀式をしていたっていう?」
空が顎を引くと、小夜先生は意味ありげに口もとをゆるめる。
「じつはね、サトル君って私の」そこまで言いかけた唇の動きが、不意に途切れる。
間の抜けたチャイムの音が、答える間を奪ったのだ。
おろしかけた腰をあげて、小夜先生は「はーい」とやはり間のびした声をあげる。来訪者はどうやらエントランスではなく、部屋の前まで来ているようだ。
「誰だろう」迎えに出る小夜先生の背を見送る日暮先輩の目は、いぶかしんでいた。
テレビボードのデジタル時計は、八時五四分を表示している。たしかに、こんな夜更けにという感じの時間に空は首を傾げる。玄関のドアを開けた小夜先生は誰かと言葉を交わしている様子で、耳を澄ませると低い男の人の声が聞こえる。
「私、ちょっと見てくる」
ぎぎっと床を鳴らす三朝さんに続いて、空と日暮先輩も椅子を引く。小夜先生の肩越しに、グレーのスーツを着た男の人が見える。
「つかぬことをおうかがいしますが」と言って、ジャケットの内ポケットに手をやる銀行員のような風貌に、空は息を呑む。
「行方不明で捜索願の出されている少女が、このマンションに入っていくところを見たと通報がありまして」男は二つ折りの警察手帳を開いた。
本物とは色も形もちがうんですよと、古畑任三郎が得意げに説明する台詞を思い出した。




