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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを

 

 7


 漆黒のリネンに縫い表された金の昇り龍がまぶしい。オラオラ系の服装はどうやら日暮先輩の趣味のようだが、その見た目とは相反してベンチに座る姿形は、やけに背筋がのびている。約束の十分前に空は到着したものの、日暮先輩は少なくとも三十分はそこにいるみたいなたたずまいで文庫本のページをめくっていた。折り目正しい性格なのだ。

 声をかけるとサングラスを外し、目を細めて空の顔を見あげる。血が通っていないかのように肌は白いが、ムラなく剃りあげられた頭皮にはうっすらと汗がにじんでいた。

 広場の中央にある噴水では、おむつを履いたままの幼子が水遊びをしていた。ぷくぷくと指でつつきたくなる腿の隣で、黄色のアヒルがぷかぷかとゆれていた。跳ねあがる水しぶきが、陽を受けて白く光っている。駅前のバスロータリーには、リュックを背負って手をつなぎ合う子ども連れの姿が目立った。麦わら帽子をかぶり、頬を膨らまして早くも浮き輪に空気を入れている。野球帽の男の子は手の平でビーチボールを弾ませている。きっとズボンの下は、ブリーフではなく海パンだろう。戦闘態勢は万端という感じだ。

 おーいこっちこっちというように大きく手を振りながら、一時ぴったりに三朝さんは現れた。二人を待たせてしまって申しわけないみたいな空気を微塵も漂わせていないのは、現実に即した性格だからだ。それでもいつものように時間を過ぎてまで待たされることがなかったのは、日暮先輩に対する配慮の賜物と言える。

 三朝さんはラコステの白のポロシャツに、ブルーデニムのオーバーオールというボーイッシュな恰好だ。コンバースのオールスターを履いて、登山にも使えそうな大きめのバックパックを背負っている。もはやどこの土産なのかもわからない、100%果汁ポンジュースとプリントされたTシャツを臆面もなく着こなしている空には、いつもとのちがいに気づかないだろう。三朝さんよりは控えめな3WAYバッグを、日暮先輩は肩にかけた。手ぶらで来たのは空だけだ。

「さあ、行こうか」腰をあげると、せわしなく地面をついていた鳩の群れが、いっせいに飛び立った。

 日暮先輩につき従い、駅に向かう。PASMOユーザーの三朝さんと日暮先輩は、切符を買う空を待つ。間もなく電車が到着しますという構内アナウンスに焦った空は、小銭を床にばら撒き、おまけに切符を通せない自動改札に戸惑ったが、それでもなんとか発車のベルを響かせる各駅停車にすべりこむようにして乗った。駆けこみ乗車はおやめくださいという注意とともにドアは閉まり、時間差でじわりと額に汗がにじんだ。電車は一度大きく息を吐いてから、重い足取りでホームを発った。

 車内は大人を伴なわない子どもと、子どもを引き連れていない大人ばかりだった。席は空いていたものの並んで座れないからか、三人ともドア近くの吊り革につかまって、「暑い日が続くね」とか、「日本列島に台風が近づいているらしい」とか、沈黙を遠ざけるような会話で時間をやり過ごした。

 途中、日暮先輩はちらりと仰ぎ見るような視線を、窓越しに送った。建物の姿は見えなかったが、たぶん自分が住むアパートの近くに差しかかったのだろう。そういう無自覚な仕草だった。

 体に張りついたシャツがちょうど渇いた頃に、電車は目的の地に着いた。乗降客が数えられるほどしかいない寂しげなホームにおり立つと、制服を着た若い男性が掃き掃除の手をとめて三人を見やった。この子たちはどのような間柄なのだろうかと推し量るような表情をしているが、日暮先輩と目を合わせると駅員は慌てて顔を背けた。何度も目にして、今ではすっかりおなじみになってしまった反応だ。

 狭い改札を抜けて振り仰ぐと、いつもは遠景の一部にしか過ぎない山が間近に迫っていた。盛巳町の北にそびえる天狗岳を目指して、三人は電車に乗ってきたのだ。

 駅前には小さな土産物屋が一軒あるだけで、他に商いをしていそうな建物は見当たらなかった。シャッターの閉じられたその店を土産物屋だと思ったのは、名代てんぐまんじゅうと記された色褪せたのぼりが風を受けてゆるやかにはためいているからで、あるいは土産物屋なんかではなく、住民の生活に根ざした雑貨店のようなものなのかもしれない。蝉の声が足もとから湧くように聞こえた。駅舎の背後には、濃い緑が押し寄せるようにして続いている。

「あと三十分で来るみたい」

 盤面に小さな文字盤がいくつもある、ごつい金の腕時計と時刻表を何度か見比べたあと、日暮先輩はそれがとても幸運なことであるかのように声を明るくした。停留所の時刻表は風雨にさらされて錆びついているうえに、なにかのシールを貼ってはがしたような跡があり、かろうじて読み取れるかどうかといった感じだったが、たしかにバスは一日に数本しか通っていないようだった。がためなのか、バス停には丸太で組まれたかんたんな造りの待合小屋があった。

 壁に煙草の火を押しつけたような焦げ跡が残っていたものの、掃除は行き届いているようでゴミひとつ落ちていない。雲が出て、お日様を隠していたおかげでいくぶん暑さはおさまっていたが、とりわけ見るべきもののない三人はおとなしく並んでベンチに座った。日暮先輩は足もとに置いたバッグのファスナーを開いて、だるま模様の風呂敷に包んだ箱をひざの上に置いた。

「二人は、お昼ごはん済ませてきた?」

 布の結び目をほどくと、はたしてそれはお重だった。ふたを開けると中には小さめに握られたおむすびが、計算されたようにつめこまれていた。

 空の目がゆれる。どちらにするか迷った挙句、家で昼食を食べてから待ち合わせ場所に向かうことにしたからだ。もしも、集合して腹ごしらえをしてからということになっても、断らなくてもいいように軽く済ませるつもりだったのだが、今日に限って献立が空の大好物だった。ここ数日続いたはらぺこ亭の営業不振により、餃子が大量に余っていたのだ。ええいままよと、空は賭けるような覚悟で、胃袋にすきがなくなるまで思うさま食したのだ。

 一時にと待ち合わせの時間を決めた日暮先輩の家で、事前に確認してさえいればこんな悲劇は生まれなかったのだけれど、なんだか遠足の前におやつの購入金額の上限を尋ねる小学生のように浅ましく思われるのではないかと、はばかれたのだろう。そんな自分を今さら呪うように、空は口をゆがめた。

 日暮先輩のこしらえたお重には、ちゃんと中の具がわかるようにと、三角形の頂点に鮭や梅や焼きたらこの切り身をちょこんと乗せたおむすびが、ざっと数えただけで二十個はある。さすがにいらないとは口にできなかった。「あざっす」と言って手をのばした空の対岸で、三朝さんは食欲が湧かないのだとバックパックから保冷材の入ったタッパーを取り出し、あとでいただきますと言っておむすびをつめ替えた。言葉の真偽はさておき、端倪すべからざる慧眼である。

 なかば自棄になって頬張り、勢い余って喉をつまらせる空を見て日暮先輩はあきれるように笑い、サーモスの水筒に入れたお茶を注いで渡した。

「そんなにお腹が空いているなら、僕の分も食べていいよ」

 涙目の先を、軽トラックが通る。ツーリング目的と思しきスポーツバイクが、何台も連なって横切っていく。

 時刻表の時間が迫ると、どこからともなくといった感じにバスを待つ人々が集まってきた。そんな気配はまったくしないものの、どうやらバスは予定通りに来るようだ。両手に買い物袋を提げたおばあさんに、日暮先輩は座っていた席を譲る。つられて立ちあがった空と三朝さんの代わりに、真っ黒に日焼けした小学生ぐらいの男の子たちが、わあわあと騒ぎながらベンチに座った。お孫さんかと思ったが、どうやらおばあさんとは関係のない子たちらしい。小屋の外にも数人が列を作っていた。

 やはりぴったりの時間にバスはやって来た。ボンネットバスのようなちんまりとした古い型をなんとなく想像していたが、市街を走っているのと変わらない大型のバスだった。それでもさすがにPASMOには対応していないらしく、三人で順繰りに整理券を取って通路を奥へ進んだ。

 バス会社と同系列のデパートが催すイベントとか、町の診療所とかインドアテニススクールの広告が窓の上に並んでいる。小学生は前うしろになって座り、体をひねってドラゴンボールヒーローズのカードダスを見せ合っている。おばあさんは横向きの優先座席に腰をおろし、カボチャや牛乳パックの輪郭が浮き出たビニールの買い物袋をひざの上に乗せて、扇子を開いた。他の乗客たちもぞろぞろと連れ立って乗りこみ、席の半分ほどが埋まる。

 空たちは一人用の席も二人用の席も素通りして、最後部の横に長いシートに並んで座った。窓側が三朝さんで、日暮先輩は真ん中だ。バスを待っている間も同じ並びだったのは、まだ二人とも日暮先輩との距離をどう取ればよいのかを測りかねている証拠だ。

 緑色のけばけばとした生地に尻をつける寸前に、空はミラー越しに運転手さんと目が合った。五十年配の、いかにも人好きのしそうな男性だ。耳を澄ませるような間を置いてセーラー服姿の女の子が駆けこみ、通学かばんを抱えこんで最前列の他より高くなっている席に座る。

 もうこれ以上は乗る人がいないことを確認すると、ガガガと車体を細かく震わせて運転手さんはエンジンを始動させた。よっこらせと勢いをつけるように重い体を旋回させて幅広の道路へ出ると、車内アナウンスがバスの行先を告げる。

 しばらくは畑と家屋の風景が続いた。どの家も等しく古びていて、母屋とはべつの小屋を持っていた。軒先にはトラクターがとめられていて、農作業用の手押し車があった。窓の上の吹き出し口からおりるエアコンの冷風に混じって、どこかでなにかを燃やしているような臭いがした。三朝さんはとりとめのない目を窓の外に向けている。その横顔は、どこか彩月さんと通じるものがあった。日暮先輩は、取り立ててほかに見るものがないからといった気のなさでフロントガラスに映る道の先を眺め、空は頭脳を振り絞って考える人みたいに、うつむき加減で額に手を当てていた。また新たななにかになりきっているのかもしれない。

「彩月さんはどんな人だったんですか」いつの間にやら、三朝さんは日暮先輩に向き直っていた。涼しい顔をして、ずっとタイミングを計っていたのかもしれない。というのは、言葉の表面がざらついていたからだ。

「三朝さん」こらよさないか、とたしなめるような語気で名を呼ぶ空を手で制して、「いいんだよ、長尾君」と起伏のない声で日暮先輩は言った。

「知恵熱ってあるじゃない」

「頭を使い過ぎて熱が出るあれですか」

 そうとは言わずに、日暮先輩は続ける。

「じゃあ初めてバイキングに行って、欲張って食べ過ぎてお腹を壊したことは?」

「今でも行けば必ずそうなります」と空が答える。

「ぬいぐるみとか。寝る時も肌身離さず大事にし過ぎて、ボロボロにしてしまったことは?」

 それ私だ、と三朝さんは言わない。探るような目を向ける空を気にもせず、日暮先輩の横顔をじっと見つめていた。

「そんな感じの人だったよ」

 クイズ番組で正解を出した時みたいな軽くて丸みのあるチャイムが鳴り、次とまりますと女性の声がアナウンスする。

「初めて彩月を意識したのは部活の帰りだった。うちのサッカー部は練習が厳しくて、どの部よりも終わるのが遅かったんだけど、帰りがけにいつもひとりでコートに残って練習している彼女を見かけたんだ」

 Wordの打ち出しに記されていたことを思い出したのか、あれでもという顔をした空を遮るように三朝さんは言った。「努力に勝る才能はなしってやつですね」

「すなおにうれしかったんだろうね。子どもの頃からあまり体の丈夫な方じゃなかったみたいだから。高校にあがったらテニス部に入るって、お父様お母様とも約束していたんだって」

 お父様、と空は繰り返す。こんないかついなりをしていても、あくまでも日暮先輩は育ちのたしかなお坊ちゃんだ。お夕飯とかお布団とかお日様とか、意識せずともていねいな言葉を選び取ってしまうのだ。

 病院の前でバスは停車する。乗った時と同様に、ひどくゆっくりとした動きでおばあさんは買い物袋を手にしてステップを踏んだ。

「彩月が僕といてなにをどう感じたのか、今となっては聞くこともできないけど、少なくとも僕は彼女と一緒にいると、自分という人間がいかに不足しているかを思い知ることができたよ」

「サッカーの超エリートだったのに」

「サッカーしかなかったんだ、僕には。なにかがあるというのは、その分べつのなにかがないということでしょう」

 自分にはなにがあるのだろうと考えこむように、空は眉根を寄せて腕を組んだ。人より劣っていることはいくらでも挙げられるのに、勝っているものはなにひとつ思い浮かばないのだろう。でも日暮先輩が言っているのは、そういうことではない。

「でもそれは劣等感とかそういうマイナスな感情じゃなくて、なんというか彼女といると正しいものに触れているみたいな、よりよい方向へ導かれているような、そんな感じがしたんだよ」

 公民館前でバスはまたとまり、そこで大方の乗客がおりた。運転手さんは、最後におりた小学生の男の子たちがバスから十分に離れるのを待ち、さらに指差しで安全を確認したうえでバスを発車させる。おばあさんをおろした時と同じだ。当人にとっては日々の繰り返しに過ぎず、さほど意識的ではないのだろうけど、細かなことをおろそかにしない仕事振りというのは見ていて胸のすく思いになる。勇気づけられるのでも戒められるのでもなく、ただ晴れ晴れとした気分になるのだ。

 営業しているんだか、閉まっているんだかわからないガソリンスタンドが、道行に一軒あった。そこを境とするように、次第に家屋の間隔があくようになり、その間を畑ではなく鬱蒼と茂る木々が埋めるようになった。道幅も狭くなり、勾配も急になる。どうやら峠越えの道に入ったようだ。ここぞとばかりに、エンジンのうなりも高まる。

「でも、どうして儀式なんて」今度は空が質問をする。

「僕らも、君たちと似たようなことをしていたんだ」

「ユーレイ探しですか?」予想していなかった答えだったらしく、空は座り直すような調子外れの声をあげた。

「そんなたいそうなものじゃないよ。ほら、十階以上あるエレベーターとか『飽きた』とか、寝る前に手の平をじっと見つめるとか、そういうのよくあるじゃない」

 空は自分の手の平を見つめて首を傾げた。その顔からすると、日暮先輩が挙げた例をひとつとして知らないようだ。

「パラレルとか夢の世界とか。そういう現実とはべつの場所に入りこむ方法を、僕と彩月は調べては試していたんだ」

 カーブに差しかかるたびに三人の体は、手足が連動して動くダンサー人形のように右へ左へと大きく振られた。車窓に、緑の濃淡が線を引いて流れていく。色合いこそちがえど、あの動画で彩月さんが眺めていたのと同じ景色を、バスは走っているのだ。目の前にいるはずの日暮先輩の声が、どこか遠く響いた。

「僕らが求めていたのは、そういう隔絶された二人だけの世界だった」

 え、の形に三朝さんの唇がのびる。まっすぐ前を向いたまま動きのない横顔に、空は井戸に石を放るような視線を送る。心ここにあらずとはちがう。そこにあるのは知っていても、ちゃんと見ようとはしないといった感じの乖離が、日暮先輩の話しぶりに含まれているような気がした。

「現実の世界は、苦しいことや悲しいことに満ちているから。そういうことから彩月は自由になりたかったんだ」

 薄暗い葉群れの視野が突然開けて、砂利敷きの平地に入った。麓の停留所を発った時と同じように、バズはぐるりと大きくまわってからとまる。犬が水を払うようにぶるぶると体を震わせ、エンジンも停止する。ドアが開き、ひとり残っていた女子高生が外に出る。アナウンスの声が告げていた終着地点だ。

「そんな僕らが辿り着いたのが、この天狗岳だった」

 さあおりよう、声がいつもの安閑とした調子に戻っている。

 遮られていた体がすっと立ちあがると、三朝さんと空は睦み合う恰好になった。気恥ずかしさが勝ったのか、それまで縛りつけていたものから解かれたように、二人は日暮先輩の背を追ってバスをおりた。

 近くに目ぼしい建物のある様子はうかがえないものの、セーラー服の女の子はのぼってきた山道の方へ、砂利に足を取られることもなく走り去った。急ぐようなうしろ姿に合わせて、栗色の髪がやわらかにゆれる。結局一度も顔を見ることはなかった。

 折り返しの運転までには時間があるのだろう。運転手さんは背もたれに明治コナミルクと記された青いベンチの前で、缶コーヒーを飲みながら煙草の煙をうまそうにくゆらせていた。どことなしに、休憩の取り方まできちんとしているように見える。時間を確認するためか、三朝さんはiPhoneの画面を眺める。どうやらこのあたりは電波が届かないらしい。山道に入ってそれほど長い距離を走ったわけではないから、さして標高は変わっていないはずだが、それでもバスに乗る前と空気の質みたいなものがまるでたがっているのは、四方を深い緑に囲まれているためだろうか。

「こっちだよ」

 日暮先輩が先導して登山道のように整備もされていない、獣道をいくぶんしっかりさせたような脇道に入った。峠を越えるための道ではない。人の立ち入りがめったにないのか、荒れ放題の枝葉が腕をのばすように行く手をふさぎ、歩みを邪魔する。三朝さんは忌々しげに眉をしかめ、空の背後に隠れるように首をすくめてついて行く。

 しばらく進み、傾斜がきつくなり始めたところで、台座の崩れかけた白い鳥居が見えた。その先には、山の傾斜に沿って狭い石段がはるか先まで真っすぐに続いている。両側はブナの木が生い茂り、一定の間隔を置いて石でできたような像が立っていた。全部で何段あるのか、数えるだけでも気が遠くなりそうだ。

 行く末を仰ぐ三朝さんの口がぽかんとしているのは、状況から察するにこの石段をのぼることが避けられなさそうだからだ。迂回するような道はない。その目が嘘でしょと問いかけていたが、空も日暮先輩も真っすぐのびる階段の先に挑むような視線を送っているために、その訴えはむなしく宙に浮いていた。

「神隠しの伝承は、日本各地に伝わるんだ」

 そう切り出して、日暮先輩は最初の一段を踏んだ。空もそれにならい、尻ごんでいた三朝さんも心を決めたように、バックパックの肩かけを両手でぎゅっと握りしめた。

「それらのほとんどは、飢饉の際に村ぐるみで間引いた子どもたちを、人々が神隠しとして語ったものだそうだ」

「間引くって、どういう意味ですか」

 日暮先輩の背に尋ねた空を、三朝さんの声が追い越して答える。「生まれたばかりの赤ちゃんをあやめる、ってことでしょ」

「どうしてそんなむごいことを」

「食べるものにも困るような貧しい土地では、生きるためにそうせざるを得なかったのよ」

「ある種の免罪符みたいに、罪の意識から逃れるために昔の人々は、神隠しという概念を用いたんだ」

 アブラゼミとかオオルリとかコオロギとか、そのほか名前も知らない山に暮らす者たちの声がする。風が葉を鳴らす音や沢の音が総和となって、さんさんと降るように聞こえた。数段先のあたりをじっと見据えたまま、さらに日暮先輩は続ける。

「間引きに限らずとも、漁や狩りに出たまま帰らぬ人となった者を神隠しになぞらえて、いつの日か戻ってくるようにと願いをこめたという考え方もある」

「要するに、村の人たちの精神的な負担を和らげるための手段としての神隠し、というわけですね」

 そこまで話して三朝さんは、ふうと息を吐いた。懸念していた通り、早くも息が切れている。石段は古いうえにほとんど人の手が行き届いておらず、ところどころで崩れたまま放置されているから、危なっかしいことこのうえない。踏み外さないようにと注意をそらせないのも、疲労を早める要因のひとつだ。


「この土地には、昔から天狗の目撃情報が絶えなかった」

 へえ、と感心するような声を空はあげる。「天狗岳という名前もそこからきているのか」

「こんな山の中腹に、ごたいそうな石段まで作っちゃって」余計なことしやがってようと罵るみたいに、三朝さんの声はなんだかとげとげしている。「天狗と神隠しに、なにかつながりがあるんですか」

「今言った目撃情報というのは、大半が天狗にさらわれたという人の話なんだよ」

 もう無理みたいな悲愴なうめき声をあげて、三朝さんは台座にへたりこんだ。ヤツデの葉の形をした扇をかまえた天狗の石像が、上から見おろすように立っている。

 んもう、仕方ないなあという感じで鼻から息を漏らし、空は三朝さんに背を向けてしゃがみこんだ。もちろん、乗りなよという意味だ。

 三朝さんは一瞬泣きそうに顔をゆがめて、「ただ者だよ、君は」と小さくつぶやき、不承不承ながらも空の肩に腕をまわして体を預ける。

「僕はね、いると思うんだ」空は軽々と三朝さんを抱えあげて、再び階段をのぼり始めた。

「実在するか、架空の存在かはさておき、天狗に遭遇したと名乗る人は、時代が移るにしたがい現れなくなった」

「じゃあやっぱり、天狗の話はおとぎ話の域を出ないということですね」空の背にゆられて、三朝さんは少し元気を取り戻したようだ。

「ところが、そうかんたんに話を片づけるわけにもいかないんだよ」

 林冠から、鳥が何羽か連なって飛び立った。切れ味の悪い刃で雲を裂くような音を立てて、セスナ機が上空を渡っていくのが見えた。

「たしかに天狗の目撃談は、明治より前の文献にしか残っていない。それでも、神隠しの話も消えたかと言えばそんなことはなくて、何十年かに一度という割合で行方不明事件という形で新聞をにぎわせた。そこには、滑落や遭難といった事故も含まれているのかもしれないけど、人々はそれを天狗の人さらいと呼んでいた」

「なにかべつの原因がある、ということですか」と尋ねたところで、今度は空がひざに手をついた。鏡に向かって上唇をめくりあげて鼻毛を切る人のような顔をしている。

 長尾、大丈夫? 三朝さんは心配そうに眉を寄せたが、背中からおりるつもりはないようだ。日暮先輩も腰に手を当てて、ハンカチで汗をぬぐっている。前後の位置を変え、三朝さんをおんぶする空の尻をうしろから日暮先輩が押すような体勢で、残り半分ほどの石段をのぼった。さすがに三人とも無言だった。

 もとはサッカー部のエースだった日暮先輩も、体力だけには自信のある空も、最後の一段を踏むやいなやひざから崩れるように地面に手をついて、喘ぐままにしばらく身を任せていた。そこに互いをねぎらうような言葉こそなかったが、バスの座席にただ座っていた時とはちがって苦しみを共有したためか、のぼりきった時には表情が達成感に満ちるとともに、連帯感のような空気も芽生えていた。

 朽ちかけた鳥居をくぐると、長い石段の延長みたいなひびだらけの石畳の道が、正面にある拝殿まで続いている。まわりはやはり、鬱蒼としたブナの木々で囲まれている。人の気配はしない。左手に手水舎があるが、水は枯れている。社務所らしき建物も見当たらず、人の管理下から外れて久しいことが容易に想像できるような、そんな寂れ方をしていた。

 振り向けば、停留所にとどまっていたバスが、砂利敷きの駐車場を旋回して来た道へ戻るところだった。ついさっきまで自分たちがそこにいたとは思えないほど、小さく見える。深い緑の海のさらに奥には、人々の暮らす領域が広がっている。白くかすむその先に、丈の高い建物がちらほらと建っているのはわかるが、再開発によって整えられた駅前も、昭和を引き継ぐ商店街も、空や暁やてふが日々の生活を送る住宅街も、ここから見れば微妙な濃淡のちがいに過ぎなかった。

 空の息が整うのを待ってから、日暮先輩を先頭にして参道を進んだ。

「二十年前、ある少女がひとりでこの神社を訪れた直後に姿をくらませた。それが直近で起こった行方不明の事件だ」

 石畳の裂け目につまずき、三朝さんは言葉にならない声をあげた。大丈夫? 何度口にしても決して嘲るような響きのない日暮先輩にさすがに恐縮したのか、小さな声で「大丈夫です」と答えると、日暮先輩は小さくうなずいてから話を継いだ。

「僕と彩月は当時の新聞記事を手がかりにして、失踪した少女を知る人たちを訪ねては話を聞いてまわった。なにせそうとう前の出来事だから、すでに県外へ越した人もいて、ひと筋縄にはいかなかったけれども、中にひとりだけ気になる話をしてくれた人がいた」

 ばさばさと頭上でカラスほどの羽の鳴る音がしたが、鳥の姿は見えなかった。二人は日暮先輩の背に視線を戻し、話の続きを待った。

「少女の同級生という男の人だった。その人の話によると、少女はこの地にまつわる天狗の伝承と神隠しの事件にはなにかしらのつながりがあると考えていて、たったひとりで熱心に調べていたそうだ。少女が失踪したあと、事情を聞きに来た警察の人にもその話をしたけど、相手にはしてくれなかったって」

 これだから大人は、と憤るように三朝さんは鼻を鳴らした。

 日暮先輩は拝殿の脇の狭いすき間に、横歩きで入りこむ。空、それから三朝さんと、一列になってあとに続いた。途中、蜘蛛の巣を避け損なったのか、三朝さんはあられもない声をあげてぶんぶんと手を振りまわした。建物の裏手はさらに野放しといった様子で奔放に草木が茂り、回廊を侵食する勢いで迫っていたが、日暮先輩は3WAYバッグから鉈のような棒状の刃物を取り出して、競り出す藪に分け入る。野性に立ち向かうような勇ましさが、川口浩探検隊というよりは藤岡弘を彷彿とさせる。

 当然のごとく三朝さんは怯んだが、空に背を押され嫌々ながらも茂みに足を踏み入れる。満足に陽が届かないからどの樹木も枝振りが貧弱で、禍々しさに拍車をかけている。腐りかけた落ち葉が歩みを妨げる。無数の羽虫がむき出しの肌にまとわりつき、手で払いのけながらじりじりと前へ出る。どこか遠くの方で野趣に富んだ吠え声が聞こえたが、三朝さんはびくりともしない。目の前に山積みされた問題への対処に追われ、そんなことにかまってられっかという感じだった。

 茂みの中を方角もわからずに、ただ日暮先輩の背中だけを見失わないようにとくっついてつき進んでいくと、やがて見覚えのある場所へ出た。下草は生えているものの、そこだけぽっかりと開いた空間の中央にご神体が鎮座している。ここが天狗神社の最奥部なのだと、日暮先輩は教えてくれた。

「話してくれた男の人は、礼を言って帰ろうとする僕らを呼びとめて、迷うようなそぶりを見せながらも教えてくれたんだ」

 少女は同級生の男の子に、こう言い残して姿をくらませた。「私はついに、異世界への扉を手に入れた」と。

「それって」三朝さんは乱れた髪を指ですいている。

「そうだよ。古くから禁足の地とされ、人の目にさらされてしまわぬようにと封じられていたものがなにかのきっかけで開いてしまい、村人が向こうの世界に迷いこんでしまう事象を人々は天狗の所業とした。それがこの地に伝わる神隠しの真相だと、僕と彩月は結論づけたんだ」

「その封印を解く方法が、例の儀式というわけですか」

 よくバランスを保っていられるものだと、感心してしまうほどいびつな形をした巨石に、仄暗いしめ縄が張り巡らされている。石が人の手によってここまで運びこまれたものか定かではないが、このエアポケットのような場所が人為的に均された土地であるらしいことはたしかだった。さらにはここに至るまでの道が整えられていないのも、立ち入りを禁じられているがゆえであれば、うなずける話だ。

「儀式の詳細まで、その男の人は知らされていなかったようだった。それでも異世界の存在を知った彩月は、はたから見ていて心配になるほど懸命に儀式の方法を調べていた」

 なにか、得体の知れないものに憑かれているような感じさえしたんだと言い添えて、日暮先輩はやはり3WAYバッグから鉈のような刃物とはべつの棒を取り出した。動画でみたパイプのようなものよりはコンパクトだが、持ち重りのしそうな鉄の棒をサングラスをかけた日暮先輩が手にしていると、なにかの武器のようにしか見えず、もはや同じバッグからかわいらしいだるま模様の風呂敷に包まれたお重が出てきたことが、嘘みたいだった。

 そのままご神体の前まで歩み寄ると、日暮先輩は足もとにバッグをおろして「じゃあこれから準備を始めるよ」とも、「本当に後悔はしないね」とも言わず、いかにも粘土質な土の地面に鉄の棒をつき刺した。動画の日暮先輩と同じ、揃えた足をちょっとずつうしろへずらすようにして線を引く。

 空と三朝さんは黙って作業を見守っていた。周囲を取り囲む樹木が、高い位置でざわざわと騒いでいた。灰色がかった厚い雲がすき間なく空を覆っているために、太陽がどこにいるのかを知ることができない。つと、切り取られた時間の中に囚われてしまったような感覚が起こった。高い木々の塀をものともせず、尾の長い二羽の鳥が世に自由を知らしめるように渡っていく。鳥の呼び名を知ってか知らずか、三朝さんは姿を見定めるように凝らした目でその影を追っていた。

 なにか手伝うことはありませんかね、と空は尋ねたが、日暮先輩は答えなかった。作業に没頭していて声が届かなかったのではない。拒否の理由を思いつくことができなかった、そんな感じの惑いが背中に表れていた。やはり大きな円を描いてから、内側にひとまわり小さな円を引いて二重の丸を作る。

 三朝さんは位置を変えようとはしなかったが、空は日暮先輩の斜めうしろまで近づいて線を引く様子を眺めていた。ことに正確に円を引かなければならないというわけでもないようだ。外周は若干縦に長いアーモンド形をしていたし、内側は外側の線とくっつきそうなほど近づいたり、不自然に離れたりしているところがあった。それほど地面は硬くなさそうだが、線を引くのに邪魔な石が埋まっているようで、鉄の棒が当たるたびに日暮先輩は掘り起こした石を脇によけて作業を続けた。空気はひんやりとしているものの額には玉のようなしずくが浮かび、あごを伝ってぽたぽたと地面に落ちた。何度か日暮先輩は作業の手をとめて、ズボンのポケットから、長い石段で広げたハンカチとは別のハンドタオルを出して汗をぬぐった。

 内側の円の中に三角形を書いて角度をずらし、もう一度三角形を描き六芒星を作る。中心の六角形の頂点と頂点を三度結ぶと、小さな三角がいくつもできた。平行に走る外周と内周の線の間にジグザク模様を引く。動画では魔法陣のような図形を描いているように見えたが、実際は魔法陣ではなく、かといってなんの図形かと問われれば答えることもできない。あえて言えば外円の周囲に黄色の花弁を描けばヒマワリのように見える、無数の三角形で構成された円状の図形だった。

 誰も口を開かなかった。長い石段を支え合ってのぼってきたことで生じた親密な雰囲気も、今ではすっかり失せていた。ただ重苦しい静寂が、もやのように立ちこめていた。図形を描き終えた日暮先輩は鉄の棒を地面にそっと横たえて、動画の中でもそうしていたようにぱんぱんと手を叩くと、ハンドタオルを取り出したのとは反対側のポケットに手を差し入れた。長い指が、赤く小さなろうそくを数本握っている。法則のようなものがそこにはあるらしく、日暮先輩は指を差して位置を確認するような動きでろうそくを立てて、ライターで火を点けていく。

 手にしていたすべてのろうそくに明かりが灯ると、日暮先輩は小さく息を吐いた。所要した時間は二十分にも満たなかったはずだが、それでもその間にあたりが薄暗くなったような気がする。山の天気は変わりやすいというが、頭上を覆う雲が厚みをさらに増して不吉な色合いを帯びていた。

 日暮先輩はひざを曲げて、足もとのバッグをまさぐっている。もうなにが出ても驚きはしないが、中から取り出されたものは布に綿をつめただけの、かんたんな作りの人形だった。目も鼻もない、アウトラインが人の形をしているというだけだ。パーマンのコピーロボットのように見えなくもない。案の定、空にも三朝さんにも意思を確認することもなく、日暮先輩はそれを引いた図形の中心に向かって、そっと花でもたむけるかのような手つきでもって放った。

 うなだれるように、日暮先輩は地面に顔を向けてなにかを囁いている。空は背中に耳をつけるように顔を寄せたが、なにを言っているのかは聞き取れなかったようだ。声量の問題ではないらしい。そんな二人とは距離を置く三朝さんは、そういえばほこらはどこにあるのだろうかと思い出したかのように首を巡らせているが、ここからではそれらしき洞は見えない。

 異世界への扉が開くどころか、変化の兆しはまったくと言っていいほどうかがえない。たしか、彩月さんがカメラのアングルを変えたのもこのタイミングだった。ためらうような感じで風向きが変わり、あたりを見渡していた三朝さんの動きがぴたりととまる。空は日暮先輩の真うしろにつき、真似をするようにうつむいていた。だから二人とも、その異変には気づかなかった。

 三朝さんは小さな舞台の上から見えない糸で操られている人形のように、覚束ない足取りでご神体とは反対の方向へ歩き出した。雲の色と同じ灰色がかった黒目に、意志らしきものを読み取ることはできない。

 日暮先輩の囁きが、ぷつりと途絶える。肩を落とし、明日にでも世界が終わってしまうんじゃないかと思わせるほど深く、重々しい息を吐いた。その息ざしに、空はうっすらと片目を開ける。力ない背がゆっくりと振り返る。その口もとはなぜか自虐気味にゆがんでいたが、同時に変わりようを悟った目が、そのまま空を通り越して微細にゆれていた。波紋が広がっていくように、震えは唇に伝わる。

 凍りついたような表情にようやく異変を察知した空は後方を見やるが、時すでに遅く、どこにもその姿を認めることはできなかった。

 三朝さん! 切迫した二人の声が重なった。

 なにが起きているのか事態を見定められず、ただ惑うばかりにゆれる袖を空がつかんだ。

「ほこらです! ほこらはどこですか」

 その刹那、この子はなにを言い出すんだといぶかしむように日暮先輩は眉間にしわを寄せたが、せがむような、責めるような空の声に押し切られ、あっちだと声を張りあげて走り出した。全力疾走に近いが、空は引き離されない。

 ご神体である巨石をぐるりとまわった先も、藪が壁のように立ちはだかっていたが、ここへ抜けてきた地点とはちがって繁茂する草木に穿たれた穴みたいに、低い鳥居が連なってトンネル状の通路を作っていた。頭を低くして前傾姿勢になった日暮先輩は、速度を保ったまま鳥居の下をくぐる。空も距離を置かずに追走する。

 木漏れ日さえほとんど届かない薄闇の中を、腰を低く落として駆けていく。どさどさと、腐った葉を踏む音が散らばる。鳥居はなだらかな曲線を描きつつ続いた。細かな枝が爆ぜるような音を立て、空の頬を薄く裂く。どうしたらよいのかわからないという混乱が、言葉となって口の端からこぼれ落ちた。

 鳥居が終わり、頭上を覆っていた木々が取り払われた。ご神体の祀られていた空き地と比べると、はるかに狭い。切り取られた天から、薄曇りのような光が差している。行きどまっているのは、前方を断層のような岩の壁がふさいでいるからだ。

 ご神体と同様に、しめ縄と鳥居で祀られている。手の平におさまる液晶画面で見ただけなのに、繰り返し夢で見た光景の中に、ぬらりと入りこんでしまったような既視感に襲われた。

 うっすらと漂うもやが、視界を妨げる。

 彩月さんの姿と二重写しになる。

 こちらに背を向けて、ほこらの入り口に三朝さんが立っていた。

「そんなことって」空の声は呆気に取られている。

 洞口の奥には闇ではなく、もうひとつの世界が続いている。さらには対を成すように、三朝さんとまったく同じ見た目をした少女が、そこにたたずんでいた。

 ねえ嘘なんでしょ、と問いかける声に反応して三朝さんは静かにこちらに顔を向ける。目尻がかすかに震えたような気がした。日暮先輩は声を発することもできず、目を見開いたまま立ち尽くしていた。

 空、それから日暮先輩、もう一度空と、視線はゆったりとたゆたった。

 やめてくれ。吐息のようなかすれた声で、日暮先輩は言う。

 腕を差しのべると、三朝さんの黒髪がさらりと流れた。巻きあがるように、濃いもやが立ちこめる。合わせた手と手が結びつく。するすると、向こう側の世界に取りこまれるように、もうひとりの三朝さんと融合していく。

 白くかすみ、二人の姿が見えなくなる。

 強い力で打たれたみたいにびくんと肩を震わせ、そのまま弾かれるように空の体は猛然とほこらに向けて駆け出した。我に返ったように、日暮先輩もあとに続く。

 すうと音が遠退いていく。震えているのに、空白に呑まれていく。

 深い沈黙に無効化されていくようにもやは薄らぎ、視界は回復する。映像を目撃した空がそうしたように、日暮先輩は口に手を当てていた。さらさらと乾いた砂が落ちるみたいに力が失われ、がくりとひざに手をついて空は体を支えた。

 けほん、と三朝さんの咳きこむような声を耳にした気がしたのか、すがるような目で洞の中をのぞきこんだが、それは空の心が聞かせた幻だったようだ。

 人ひとりがやっと入れるぐらいの狭い横穴には、誰の姿も見取ることはできなかった。

「そんなバカな」現実としての言葉が、空の耳に届く。


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