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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを

 6


 小上がりのテーブルに両ひじをついた女の子がいる。小さな顔は、新書版のコミック本に隠れて見えない。その隣ではてふが、iPadのピアノ演奏アプリでブルグミューラーの『素直な心』を弾いている。

 いつもの場所で六時に待っているはずの三朝さんが、目の前にいるのはなぜか。

 G-BoysとBlack Angelsの全面抗争が目前に迫っていた午後五時、そろそろ出かける準備をせんければいかんのは重々承知なのだけれどもうちょっと続きを観ていたいと、だらだら葛藤する空を呼ばわる声が階下に聞こえた。

 おりてみると、店で三朝さんとてふが喋っていた。

「あれ、ばあちゃん。今日は早いね」

「駅でばったり会ってな。空に用があるって言うもんだから、一緒に帰ってきたんだ」

 いつもの場所じゃなかったっけ、と問うような目を空が投げかけると、「久しぶりにおじさんのラーメンが食べたくなっちゃって」と言って三朝さんは漫画のある方の小上がりに腰をおろした。

「うれしいこと言ってくれるじゃないの」

 下手したら泣くのではないかと危ぶまれるほどに、暁はへこんでいたのだ。連日の酷暑もあってか、何日か前に満席になった翌日からのはらぺこ亭の営業は、目も当てられぬほどの体たらくであった。これじゃあ年も越せねえなあと、真夏らしからぬぼやき方をしていたのは昨日の晩だった。

「じゃあ僕も」と空が続き、「私も久々にいただこうかね」とてふも加わる。昼の営業に出た杯数を超えた。

 三朝さんは待望の北斗の拳を手に、てふは外用として使っているMarimekkoのリュックからiPadを出して、ここのところ熱心に練習しているピアノアプリを立ち上げた。てふと一緒にいる時の三朝さんはシータのように見える。かといってパズーのようにはとうてい見えない空は、置いてけぼりを食ったように手持無沙汰になった。なんとはなしに、のばした足をぷらぷらさせてみる。

 耳を澄ませば、ラジオの奥に雨降りのような太鼓の音と、節をつけた女の人の歌声が聞こえる。近くのわんぱく公園で、盆踊り大会が催されているのだ。空は店の冷蔵庫から麦茶のポットを出して、それぞれのグラスに注ぐ。

 サンキューと返す三朝さんはページをめくりながら、「マジか。ケンシロウかっけーな」とひとりごちる。てふは左手を抑え気味に、曲に山をつけて同じところを何度も繰り返す。とても独学とは思えないほど、この数日で格段に腕前をあげていた。常になにかに向かってつき進むてふを見ていると、人生というのは長いようでじつはあっという間に過ぎてしまうのだから、好きなことをやり切るためには生き急ぐくらいがちょうどよいのだという気がしてくる。

 暖かな手僕に触れるのさ、君のハートが僕に分かるのさと、ラジオは今はもう懐かしくなってしまった、オザケンのラブリーを歌っている。

「へいお待ち」それも決まり事のように、がんこおやじ風の渋い声で暁がそれぞれの席に丼を置く。

 もうもうと湯気が立ちこめ、ふんわりと小麦のよい香りがする。各々が麺をすする音が重なり、アンサンブルとなる。

「おじさん、スープの味変えた?」

「わかるかい」待ってましたと言わんばかりに暁は口もとを明るくさせ、キャスケットとベレーのハーフみたいな形の変な帽子をかぶり直す。

「なんか魚介系の出汁のえぐみが抑えられて、品がよくなったって感じ」

「鋭いねえ、さすが三朝さんだ。ウルメの量を減らして、その分平子を増したんだ」

 暁が言っているのは、煮干しの種類だ。空は味が変わったことにすら気づかなかったようだが、三朝さんは説明にうんうんとうなずいている。

「店の味を、そうたやすく変えるもんじゃないよ」新しもの好きのてふだが、ことラーメンに関しては苦言を呈する。

 新たな店を開拓するなんて言い方もあるくらいだから、現代の人は常に変化を求めている。またその変化欲を生産に転換するテレビや雑誌によって、過剰に情報が供給されるものだから感覚が麻痺状態に陥り、がために大切なことが見落とされている。

 食事にはたんに味や量から得られる満足感とはべつに、幸福度という概念がある。日々の反復により生まれる安心感。安定を得ることで精神は癒されるのだ。「やっぱ、これだよね」といういわゆるおふくろの味や、長年お客さんから愛され続ける老舗の味は、幸福度が高いと言える。幾多のグルメ雑誌に取りあげられる美食だろうが、思わずインスタグラムに写真をアップしたくなるような見た目の華やかな料理だろうが、結局のところ幸福度の高い店には敵わない。

 新しくて話題性があり、刺激の強い味は物めずらしさからひと時もてはやされるが、すぐに飽きられる。だからこそ地道に作りあげ、お客さんから支持を得て安らぎを与えることのできる店の味は、決して変えてはならないというのがてふの持論なのだが、意外にも研究熱心な暁は自分の味を追い求めて、日々試行錯誤を繰り返している。

「でもてふさん、このラーメンすごくおいしい。駅前の店なんて目じゃないよ」

 そう言って麺をすすり、三朝さんは頬をゆるめた。画期的な治療薬が開発される、児童養護施設にランドセルが寄付される、パンダの赤ちゃんが生まれるといった感じの、世界までもがゆるむような幸に満ちた笑顔だ。心からラーメンが好きなのだろう。

 道路交通情報コーナーが終わって、ラジオのパーソナリティが今日のメールテーマは「秘策アリ」と続けた。

 盛巳町の十三歳、RN(ラジオネーム)スカポンコンタナスから。

 人にはそれぞれ信じるものがあって、ある人はUFOや宇宙人の存在を信じているし、UFOは信じないけれど幽霊は信じるという人もいる。なにも信じられなくてお金だけを信じている人もいる。そういうバラバラな感じが人の持つ個性というものなのだろうし、バラバラなことがとても自然なんだとも思います。学校でも、互いが互いの個性を認め合うことこそが大切なのだと習いました。

 でも、そうじゃないとわかってしまったんです。「そうじゃない」というのは、個性が大切ではないというのではなくて、個性を認め合うなんてわかっていると頭で思いながら、同じ頭でまったく正反対のことを考えていたということです。

 どうして僕は主様と、主様が崇める神様を信じている父と母が嫌いなのでしょうか。一緒に暮らしていると息がつまってしまうのは、なぜ? 他人に影響を受けるのは自分というものがない証拠だと二人を心の奥で蔑み、時には声を荒げて罵ってしまうのは、どうしてなのでしょうか。信じているものは人によってちがうし、そのちがいを認めることが本当の相互理解だと頭でわかっていながら、逆の行動を取ってしまうのはどういうことなのでしょうか。

 自分たちの信じているものを僕にも信じてほしいと、なかば強制的に押しつけてくるからでしょうか。いいえ、そんなものは受け入れたふりをして信じなければいいのです。やんわりと受け流せばいいだけなのです。そんなこともできないのには、べつに理由があったんです。そのことにようやく僕は気づきました。

 父と母と、根は同じです。僕もそれを動かしようのない事実のように、心の底から信じていたのです。僕の信じているそのなにかが、父や母の信じているものと相容れないからこそ、排除しようとする心の働きが生じているのだと思います。それはなにかの神様のように具体的な対象ではなく、UFOや幽霊のような存在でもなく、あえて言えば、信じていない自分を疑わない心、どこか自分を特別な存在だと信じている心、みたいなものです。

 僕はそんな心を持っている自分が嫌いです。嫌いだけど、たぶん自分が自分でいる限り変えることはできない。もういっそ、この心が消えてしまえばいいのに。

 P.S. そんなふうに自棄になっていてもなにも始まらないので、まずは昔のようにお互い向き合って、言いたいことを言い合えるような家族に戻りたいと願っています。そのためには、僕が真剣にそう考えているのだということを、父と母にわかってもらう必要があります。そのための秘策アリです。

 三朝さんがごちそうさまでしたと言って箸を置くのを見届けてから、空は腰をあげる。「腹ごしらえもしたことだし、そろそろ行きますか」

「どこかに出かけるのかい」てふは三朝さんから事情を聞いてはいないようだ。

「ヒミツ」と馬鹿正直に空は答え、三朝さんは「お祭りに行くだけですよ」と無難につくろう。都会で暮らす姉と田舎に引き取られた弟の差が埋まる日は、訪れるのだろうか。

 若い若い若い二人のことだもの、と暁は北原譲二の歌で囃したてる。

「あまり遅くなるんじゃないよ」というてふの言葉に見送られ、空と三朝さんは店をあとにした。

 暮れ残る空を背に、二人並んで歩いた。胃袋を打つような和太鼓の音が響く。アンパンマン音頭がうしろから覆いかぶさるように押し寄せてくる。ベビーカステラを焼く甘い香りと、屋台の自家発電機のエンジン音もここまで流れてくる。

 祭り会場へ向かうたくさんの人たちとすれちがった。三朝さんより二つ三つ上の女の子たちが、帯にうちわを差して下駄をからからと鳴らしている。缶のビールを片手に、前をだらしなくはだけさせたおじさんは早くも千鳥足だ。自転車に乗った男の子たちの腕には、仲間の証を示すように光る腕輪が巻きつけられている。お父さんに肩車された幼い女の子が、ブルーハワイ色の舌をなぜかしきりに空に見せてきた。

 三朝さんはどうかわからないが、引きこもりニート予備軍の空でも祭りには行きたいのだ。それでも、なによりユーレイ部の活動を優先させるのが、空が己に課したことだった。うずうずした気分を紛らわせるように空は、「おこと教室の看板って、おとこ教室に読めるよね」と切り出し、そう来るならばという反応よさで三朝さんは、「新堀ギターも、新堀キター━(゜∀゜)━!みたいに見える」みたいな、祭りとは関係のないことを言い合いながら歩いた。

 陸橋を渡って駅の反対側に着いた頃には、日はすっかり暮れていた。大型スーパーの前の電柱にくくりつけられたチワワが、飼い主に抗議するように吠え声をあげている。コンビニもファストフード店も、洋服屋も100円ショップもドラッグストアも、どの店も均一で不自然に明るい光を通りに投げ、あれほど町に充満していた祭りのそわそわした空気が、駅を隔てただけで微塵も感じられなくなっていた。

 その光の中で人々は、テスターを手首に吹きつけて香りを嗅いだり、服を体に当てたり、財布をのぞいたりしているのだけど、それらの行為はなんだか人の営みのようには見えなかった。屋台店を出しているために、あるいは自身が祭りに参加するために、どの店も早々と店じまいをしている商店街よりも便利なはずなのに、快適なはずなのに、そこで働いている人というよりは、利便性を享受している人々の人間がないがしろにされているみたいに感じるのは、どうしてなのだろうか。

 ノーネクタイの勤め人が、ネオンに彩られた通りへと流れていく。さあここからが本番だ、というように目を合わせたあと、三朝さんを先頭に二人は路地に足を踏み入れた。やはり昼前の閑散とした風情とは、まったく異なる表情をしている。

 何時から飲んでいるのか、固太りした体形のおじさんと頭髪のほとんど禿げあがったおじさんが、肩を組んでぐらぐらする互いの体を支え合っている。どちらもジャケットにネクタイをしていて、赤く染まった顔に滲むように汗を浮かべていた。チェーンの居酒屋の前では学生風の若者たちが、なにかの権利を主張するみたいに手を挙げてぴょんぴょんと跳ねていた。全面に肌を露出させるデザインの服を着た若い女の人が、道を行き交う老若の男の人に艶っぽい声をかけている。仙人みたいな髭を生やしたおじいさんが、立て看板を掲げたまま力ない視線を三朝さんに置いた。どこかで猫同士が激しくいがみ合う声がした。路地におり立ったカラスが、空を挑発するように細かくステップを踏んでいる。

 通りにいる大人たちの目が、こんなところをガキがうろついてんじゃねえと言っていたが、空は怯むどころか肩をいからせ気味に、しゃちこばって大股で三朝さんのうしろについている。重ね着したTシャツに、だぼっとしたジーンズを引きずるようにして歩く。白のキャップはうしろ被りにしていた。HIDE AND SEEK風だが、やはりどれもファッションセンターしまむらで揃えたものだ。

 つと、三朝さんの足がとまる。

 ここはオレに任せろと言わんばかりに空は小鼻をひくひくさせ、三朝さんを押し退けるように前へ出て、壁一面チラシやステッカーや落書きで埋め尽くされている地下へと続く薄暗い階段をのぞきこんだ。そこはライブ演奏が行われる会場らしく、ピンクに染めた髪をモヒカン様にスプレイで固めた人や、あらゆる感覚器に可能な限りピアッシングを施した人や、黒皮のジャケットに鉄のとげとげをつけたパンキッシュな出で立ちをした人たちが、ギターをかつぎくわえ煙草でゲハゲハと笑いながらのぼってくる。日暮先輩がここにいても、なんら不思議ではない。

 自らを鼓舞するように首のうしろあたりをさすりながら、「ああ、めんどくせえ」とつぶやく。意を決して階段をおりようとする空を、三朝さんが呼びとめた。振り返ると、こっちこっちと言うように人差し指でべつの方向を示している。どうやら空の勘違いだったようだ。目の先に、正円に近い赤い月が浮かんでいた。

 通りを進むほどに、なんだかわからない怪しげな空気が濃ゆくなっていく。赤黒い頬をした男性が、闇と埃に塗れて道のすみに横たわっている。自販機の前で金髪をドレッド風に編みあげた女の子が、両腕をタトゥーに染めたタンクトップ姿の男の子をなじっていた。生ぬるい風に乗って、日本語ではない言語同士が冗談を言い笑い合う声が聞こえた。牛丼屋の裏に置いてあるポリバケツに腰を預けて、ユニフォーム姿の初老の男性が煙草の煙をくゆらしていた。

 今度こそ、三朝さんは歩みをとめたはずだった。

 ここがそうよ、という感じで空に目配せをする。キャバクラというのか、看板のデザインからすると高級の部類に入るクラブなのかもしれないが、とにかくそこは女の人がおもてなしをすることで、男の人が楽しくお酒を飲むことができるお店だった。黒服を着て、髪をオールバックにしたいかつい感じの男の人が重そうな木の扉を開けて、中からいかにもオーダーメイドで仕立てた感じのするスーツに身を包んだ恰幅のよいおじさんと、ラメ入りの胸もとの開いたドレスを着た巻き髪の女の人が出てくる。白い肌には汗一滴浮かんではいない。

 またいらしてくださいと恭しくお辞儀をする女の人に、おじさんは一度身を寄せて耳もとでなにかを囁いてから、またと言って手を挙げて緑ナンバーの黒い車に乗りこむ。黒服の男性が扉を開き、派手なドレスの女の人とともに店に消える。あの黒服が日暮先輩だったとして、なんらの違和感も覚えないだろう。

 自らを鼓舞するがごとく帽子を外し、ない髪を掻きむしって「ああ、めんどくせえ」とつぶやく。意を決して木製の扉に手をかけようとする空を、三朝さんが呼びとめた。振り返ると、屈みこんでスニーカーの靴紐を結ぶ三朝さんの姿があった。

「ねえ、さっきからわざとやってない?」抗議する空に、三朝さんはころころと笑いながら謝り、あそこあそこと答えを明かすように指を差す。

 通りの最も奥まった場所にある店だった。ほかとはちがい、飾り気のない白い光を放っている。軒先で森下愛子似の女の人が、ハンドルをぐるぐるとまわしてオーニングテントを閉じているところだった。

「ペットショップ?」想像との落差につまずいたように、悲鳴に近い声を空はあげる。

「週四日、日暮先輩はここで働いているんだって」

 店内に戻る女の人を見送ってから、三朝さんと空はブレーメンの音楽隊みたいに上下に並んで、入り口のガラス越しに中をのぞきこむ。こちらに背を向けているために顔は見えないが、エプロンをかけた男の子がモップで床を磨いていた。店はそれほど広くはなく、犬猫用のゲージや鳥かごや水槽のほかにも、ペットフードやリード、猫のおもちゃなどのグッズがところ狭しと並んでいる。

 二人で営業しているのか、レジを開いて精算のような作業をしている女の人が声をかけると、男の子はうなずいて足もとの段ボール箱を軽々と持ちあげて店の奥へ運んだ。眉なしのスキンヘッドと、エコをイメージさせるモスグリーンのエプロンがアンバランスだが、似合わないというわけでもなかった。月野隧道で会った時よりもいくぶん小さく見えるが、間違いない。日暮先輩その人である。

 ガラスに張りついていた空を見やり、森下愛子似の女の人はおや、と小首を傾げる。もしかしたら立場のある人なのかもしれない。三朝さんは空の肩を指で叩く。

 ふんわりとやわらかな笑顔をたずさえて店の外に迎え出た女の人は、「かわいい猫がいるけど、遊んでいく?」と声をかけたが、あたふたする空は新聞の勧誘を断るような感じで、「うちにはかわいくない猫がいるので、けっこうです」とよくわからない返事をした。

 三朝さんはすかさずフォローするみたいに、「私たち、動物を見に来たんじゃないんです」と告げた。

「店長、倉庫にまだひと箱ありますけど、どうしますか」ガラス扉から首をのぞかせた日暮先輩が、女の人に指示を仰ぐ。やはりそうだった。

 店長と向かい合う空と三朝さんを見て「いらっしゃいませ」と声をあげたことから、日暮先輩が二人を覚えていないとわかる。言ったあとに、客ではないらしいと気づき、目が誰何する。

「ほら、この前あなたに助けていただいた」空は浦島太郎に助けられたウミガメみたいにぺこりと頭をさげるが、日暮先輩はピンときていないようだった。

「半月くらい前に、月野隧道の前で」と三朝さんが補ったことで、ようやく日暮先輩は「ああ、あの時の」と声を澄ませた。

「私、三朝といいます。それでこっちは」

「長尾です」

「日暮隆です」名乗って、日暮先輩は律儀にも頭をさげた。雲間のお日様みたいに、その顔はすぐに陰る。「でも、どうして?」

「話があって来ました」と言ったはいいがどう切り出せばよいのかわからないらしく、もじもじしている空を尻目に三朝さんは、「あなたが以前行った儀式について、話が聞きたくてここに来ました」と単刀直入に伝えた。

 日暮先輩はわずかばかりに頬を硬直させた。遠くに、サイレンのような赤色の音が聞こえた。

 森下愛子似の店長は、腕を組んで半歩俯瞰するようなまなざしを向けている。「ちょっと早いけど、今日はあがってもらってかまわないわよ」

 いやでもと食いさがる日暮先輩に店長は、「いいの、いいの。今日はお客さんもほとんど来なかったから、早くあがってくれた方が私も助かるんだ」とすげなく言い渡す。

 仕方ないかというふうに鼻を鳴らし、手をうしろにまわしてエプロンを外した日暮先輩は、空と三朝さんに向き直った。

「着替えてくるから、少しの間ここで待っていてくれる?」


 黒服の男もパンクな人たちもふらふらとゆれる酔客も、挑発的にくちばしを尖らせていたカラスでさえも、通りを行く日暮先輩に道を譲る。べつに肩で風を切るように歩いているわけでも、あたりかまわずガン飛ばしているわけでもなく、どちらかと言えば背筋をのばした品のある歩き方をしているのに、すれちがう者皆の目が怯えるように伏せられるのは、やはり日暮先輩の風貌によるものだろう。極彩色のアロハシャツの下には黒の長袖Tシャツ、漆黒のスラックスに黒革のワークブーツという、いかにもな服に着替えた日暮先輩を風除けのようにして、空と三朝さんは怪しげな通りを抜ける。

 ゆるみの残る夜の気が心地よい。陸橋を渡り、団地群を横目に住宅街に戻る。

「さあ、行こうか」と告げて先に歩き始めてからというもの、日暮先輩はこれといってなにも話さずに、月野隧道で会った時も乗っていたクロスバイクタイプの自転車を押している。はらぺこ亭を出発した時よりもさらに祭りの雰囲気は濃くなり、熱をはらんで漂っていたが、日暮先輩は陽気なお囃子の音にも気を取られず、りんご飴をぺろぺろ舐める幼い浴衣姿の女の子にも一瞥もくれずに、黙々とどこかを目指して歩いていく。

 古びた軒先を抜けて山道に入る。月野隧道に至る、くねくねと曲がる長い登り坂だ。外灯もない真っ暗な道に躊躇する気配を悟ってか、「こっち、近道だから」と日暮先輩は説明を添えたが、どこへの近道なのかがわからないから余計に三朝さんを怯えさせた。どこと尋ねるのに、はばかれる背をしていた。

 月野隧道の前を素通りしてちょっと行ったところで、脇にそれる道があった。さらに細い道を今度はくだっていくとやがて唐突に視界が開けて、どうやら住宅街とはずいぶん外れた場所に出たらしいことがわかった。空も三朝さんも、ほとんど土地勘のない一帯だ。空き地が目立ち、歯抜けのように建つ家屋も庭はのび放題に雑草が生えていて、今も人が住んでいるかどうかは怪しい。

 そこからさらに五分ほど進むと、切り立った土手の上に出た。フェンスのすぐ下を、ちょうど電車が通り抜けていくところだった。線路沿いにアパートが数棟建っている。

「着いたよ。ここが僕の家」

 居住者に対してスペースが足りないのか、日暮先輩は押してきた自転車を屋根つきの共有の駐輪場にはとめず、トタン板の外壁に立てかけるようにして置いた。同様におさまりきらない電動アシスト自転車が、はみ出すようにして何台も置かれている。

 日暮先輩は階段の下に潜り、いくつもの名が並ぶ集合ポストのひとつを開ける。足もとにはプラスチックのシャベルや小さなバケツが無造作に置かれ、壁には折り畳まれたベビーカーが二台立てかけられている。中に郵便物が入っていないことを確認した日暮先輩は、ブーツを履いているにも関わらずほとんど音を立てずに狭い鉄階段をのぼっていく。

 どこかの部屋から熱したオリーブ油と生姜を炒める香りとともに、アニメのエンディングテーマらしき哀愁たっぷりのメロディが流れてくる。残された二人は互いの意思を確かめるように顔を見合わせたが、ここまで来て引き返すという選択は当然のようにないらしく、日暮先輩のあとについてカンカンと音を立てて階段を駆けのぼった。

 若い夫婦が暮らすには手頃なのだろう。どの部屋の前にも、三輪車や手押し車といった幼い子どものいる証がうかがえた。コープの宅配サービスを利用している家庭も多い。汚れたおむつを嫌がるみたいな赤ちゃんの泣き声が聞こえる。廊下の蛍光管に蛾が何匹かたかっていた。どこにも建物の名称を示す文字は見当たらなかったが、コーポとかハイツという言葉がぴったりの、モルタル造りのこじんまりとしたアパートだった。

 匿名的に作り直された駅前の商店街とも、怪しげな町の盛り場とも、古い家屋の残る住宅街とも、時間の進み具合が異なっていた。きちんと一日の終わりに向かって、淀みなく流れているという感じがする。

 日暮先輩の家は二階の角部屋だった。廊下側の窓にかけられた簾と、アルミの格子に引っかけられたビニール傘から生活の温度が伝わってくる。

「どうぞ」

 日暮先輩に促され、二人は靴を脱いで玄関のフローリングにぺたりと足をつけた。部屋に入ると、中がいかに匂いに充ちているかを知る。それと、さまざまな匂いが混ざり合って時間が経つと、それが独立して部屋固有の匂いとなり、そこで暮らす人々の服に染みつき、その人が醸す雰囲気にも影響をおよぼすのだということも。日暮先輩の家の匂いは、ひと言で表すならば「おいしそう」だ。

 先を行く日暮先輩は、手前とつき当りの窓を少し開けて風の通り道を作る。玄関を入ってすぐにキッチンがあり、さらに二間が続く間取りで、奥の部屋を寝室にしているらしい。

 リビングテーブルに空と三朝さんを座らせると、日暮先輩はいったんキッチンに戻り、電気ケトルに水をくんだ。タイルの壁には網状のボードがくくりつけられていて、フックに手鍋やトングがかけられるように工夫されている。自炊は日課となっているらしく、シンクの水切り籠には皿やコップが逆さにして並べられている。コンロにはフライパンがかかったままだった。

「お夕飯は食べた?」棚の引き出しをのぞきこむ、日暮先輩の背が尋ねた。

 三朝さんは言葉を飲んで、右の眉をあげた。一拍遅れて空が答える。

「家でラーメン食べてきました」

「インスタント?」

「僕の家、ラーメン屋をやっているんです。わんぱく公園の近くにある、はらぺこ亭っていう店なんですけど」

 ごめん。顔をあげて空に向き直った日暮先輩は、あまり外食する方じゃないからとつけ加えて詫びた。「子どもの頃に憧れたよ。食べ物屋さんやっている家の子に」

 何日か前にも同じセリフを耳にした。

「西野先生から話を聞きました」と三朝さんが話を切り出した。

「小夜先生のこと?」

「やっぱり先輩たちも、そう呼んでいたんですね」

 弥勒菩薩半跏思惟像のように、顎に指を添えて日暮先輩は首を傾げた。「ということは」

「私たちも盛巳中の生徒です」

「今年中二になりました」と親戚の叔父さんに報告するように空も言い添える。

「小夜先生は、日暮先輩の担任だったんですよね」

「ぱっと見おとなしくて冷たそうにも見えるんだけど、困っている生徒がいれば親身になって相談に乗ってくれる、とても温かい先生だったよ」

 やはり数々の噂は、本人の人となりを知らぬ者たちが無責任に流した噂だったのだと確信しただろう。日暮先輩の記憶には、空も三朝さんも知らない小夜先生がいた。

 激しく湯の沸き立つ音がしたと思ったら、すぐにスイッチが切れるカチッという乾いた音が聞こえた。それを合図に日暮先輩は、再びこちらに背を向けて電気ケトルに手をのばした。

 間を埋めるように、空は室内を見まわした。二人の座るテーブルには真鍮の一輪挿しがあるが、そこに彩りはない。テレビボードの上にはテレビではなく、USB接続にもBluetoothにも対応していない古い型のケンウッドのCDコンポと、写真立てが伏せた状態で置かれていた。反対側の壁にはスライド式の本棚があり、背表紙を見ただけで難解な内容とわかる小説や専門書がすき間なく並べられている。

 ペットショップで再会してから続いていた違和感がピークに達したのは、日暮先輩がキッチンから戻ってきたのを目にした瞬間だ。トレイにはブルーローズのあしらわれたジノリのティーカップが乗せられていて、柑橘のさわやかな香りが鼻先を漂った。テーブルにトレイを置き、日暮先輩は静かな手つきで空と三朝さんの席にカップを移した。中身はともあれ、器は男の人の趣味で揃えたものではないと確信したのと同時に、彩月さんの妙に大人びた横顔が浮かんだ。

「もしかして、二人でこの部屋に」と三朝さんが尋ねる。

「たった数カ月間だけどね」日暮先輩は遠い痛みを甘受するように、唇を引き締めた。「そうだ、儀式について話を聞きに来たんだね。それも小夜先生から?」

「詳しいことは自分たちで調べました」満足な情報を得られなかったくせに、空は胸を張る。

「小夜先生からは日暮先輩が教え子だということ、儀式のようなことをしたということ、それによって恋人が行方知れずになってしまったということ」それと、と言って話は尻切れトンボとなる。

「その恋人は、今も姿をくらませたままだということでしょう?」

 空は喉を震わさずにうなずく。

「動画も見させていただきました」三朝さんが説明を補う。

「まだ残ってたんだ。データって怖いね」日暮先輩は他人事のように言って、自分だけデザインの異なるカップに口をつけた。息を吐き切るまでの間、琥珀色の液体を眺める。慎重なまなざしだ。表面のゆらぎから、記憶の断片を読み取ろうとしているようにも見える。

「あんなことをした、僕らがバカだったんだ」

「じゃあ、あの映像は本当に」心のゆれを慮るように、三朝さんは日暮先輩の目をそっとのぞいた。

「そうだよ」日暮先輩の声は、かすかに震えていた。「本当に彩月は、現実に起きたこととして、この世界から消えてしまった。いつか彩月が戻ってくるのを、僕はずっと待ち続けているんだ」

 リビングテーブルのかたわらには二人がけのソファがあり、背もたれに色ちがいのクッションが並ぶ。玄関のすみにも、女性もののスニーカーが置いてあった。ジノリのティーカップだって揃えで買ったものだろうし、見てたしかめたわけではないが、歯ブラシだって枕だって箸だって、きっとふたつずつあるにちがいない。それらの品々は、二人の時間がここでそのまま凍りついていることを、如実に物語るだろう。

「私たちに協力してください」忖度や憐憫といった感情を身の内に封じこめたような、決然とした口調で三朝さんは告げた。

「協力するって、なにを」

「一緒に儀式を、日暮先輩がした儀式を私たちに教えてください」

 言葉の行きちがいを正すように、日暮先輩は苦笑いを浮かべる。「今、言ったばかりじゃないか、あんなことをした僕らがバカだったって。後悔しているんだ。興味本位で足を踏み入れてはいけない領域なんだよ」

「軽い気持ちで言ってるんじゃありません」

「危険なのは十分に理解しています。わかったうえで、それでもお願いしているんです」

 解け残るような頬のゆるみに、二人はまっすぐ芯の通った視線を注ぐ。

「僕たち、ユーレイ部員なんです」

「幽霊部員って、何部の?」

「そうじゃなくて、ユーレイの存在を証明することを目的とした部活動です」

「そういえば、前に会った時もそんなこと言ってたね」

「私たち、これまでもいろいろと試してきたんですけど、いつも失敗ばかりで。今日こそはという思いで日暮先輩を訪ねました」

「幽霊ってさ、べつに彩月は死んだわけじゃないんだから」

「わかっています。でも彩月さんが触れた世界は、私たちが生きているこの世界とは異なるというのも事実です。自分たちが求めているものとなにかしらのつながりがあると、私は信じています。それにもしかしたら、もう一度異世界の扉を開けば、彩月さんの行方もつかめるかもしれない」

「だから、どうかお願いします」と言って空が頭をさげた直後、耳になじみのあるiPhoneの音が鳴った。

 こんな時に限ってなによと非難するような目を向けたが、手の中の液晶を見おろす表情は固まっている。ごめん、とかろうじて聞き取れる声でつぶやいて椅子を引くと、三朝さんは玄関を抜けて外へ出た。ひとり取り残された空は頭に手をやり、愛想がわりに笑んだが、日暮先輩はつき合ってはくれない。使い道のない余白のような時間が流れた。

「君たちが真剣なのはよくわかったよ」いったん仕切り直すみたいに、日暮先輩は言った。

「それじゃあ」空の顔色の変化から、断られる覚悟はしていたらしいことがうかがえる。

「でもね、仮に異世界への扉が開いたとして、そこが君たちの言うように霊的な世界と関わりのある場所だったとして、さらに幽霊の存在を証明できたとして」日暮先輩はあえてそこで距離を置くように、カップに手をのばした。

 それで君はなにをしたいの?

「それは」

 それは、という言葉を幾度か繰り返してから行きどまり、空はぐんなりとしおれてしまう。わかりやすい反応に日暮先輩は目を細め、暫定的な解に辿り着いたように鼻から息を抜く。

「じゃあこうしようか。それを教えてくれるのなら、儀式の件は考えるよ」

 壁の時計が秒を刻む、ちゃ、ちゃという音が、やけに誇張されて響いた。鋼鉄の扉を隔てては、さすがに三朝さんの話し声もここまでは届かない。日暮先輩はまばたきひとつせずに空を見ている。肌を刺すような沈黙が部屋を満たしていた。

 一度わらをもつかむような視線を日暮先輩に贈ったが、提案に変更の余地がないことを悟ると空はうつむき、観念したみたいにぼそりと言った。

「会いたい人がいるんです」

 予期せぬ言葉だったのか、日暮先輩はない眉を吊りあげる。「会いたい人って?」

 赤く染まった耳朶が、空の心を表している。「その人はもういない」

「つまりは、すでにお亡くなりになっているということ?」

 テーブルに視線を貼りつかせたまま、空はうなずく。

 少し開けた窓から、クイズ番組のシンキングタイムみたいな繰り返しのメロディが聞こえた。いとけない笑い声と織りを成すように、石鹸とシャンプーと湯気の入り混じったお風呂の匂いも入りこんでくる。

 かたんと控えめに扉の閉じる音がして、三朝さんが戻ってきた。それをしおとするように電車がレールを踏む騒々しい音が湧き、窓ガラスに白い光の筋が流れた。

 わかったよ。空を見据えたまま日暮先輩は言った。

「と言いますと?」飛びかかるような勢いでさっきまで座っていた席に着いた三朝さんの顔に、表情が戻っていた。ダメもとで来ていたのは空と同じだったようだ。

「二人は今、夏休み中だよね」

「はい。一日中家でDVD観てるか、漫画読んでます」生気を戻した空は、よくわからない暇アピールをした。

「宿題とか、塾とかは?」

「めっそうもございません」という三朝さんの受け答えも謎だ。

「今度の金曜日はバイトが休みだから、駅前の広場に一時集合でかまわないかな」

 ありがとうございます! 顔を見合わせた三朝さんの視線が、するりと空の背後に抜ける。壁にピンでとめられたカレンダーはちゃんと今月までめくられているが、なんとなく日の並びがおかしいことに気づいたのだろう。それが二年前のものであることと、さらには夏までめくられていることの意味に気づく前に、三朝さんは会話に戻る。

「でも、どうして?」

 どうしてなんだろうと自らに問うように、日暮先輩はじっと手の平を見つめた。「こんなことを僕が言うのもおこがましいんだろうけど、なんとなく長尾君の気持ちはわかるような気がするから」

「空の?」なぜか下の名前を口にした三朝さんは、惑ったように片眉をあげて空に目を移す。

「二人でなに話していたの」

 空は照れ臭そうに睫毛を伏せたまま、カップの縁を指の腹でなぞっている。

「それは二人の秘密だよ」ね、と同意を求める日暮先輩につられて、空もぎこちなく笑った。

 ひとり蚊帳の外に置かれた三朝さんも、まあいいかと同調するような感じで頬をゆるめたが、あらためて眺めればとてもかわいらしく見える日暮先輩の笑い顔に覚えた違和感を、今度こそはとばかりに言葉で表す。

「ところで日暮先輩、つかぬことをおうかがいしますが」

「儀式のことなら、金曜日に一緒に行って」

「すみません。儀式とは関係のないことです」

 先ほどとは逆行きの電車が轟音を立てて足もとを通り過ぎ、窓には闇が残る。余計なことを聞いてくれるなと、しかめた顔で合図を送る空を三朝さんは見ようとはしなかった。

「今はもう、ギャング団から足を洗ったんですか」

「ギャング団?」今まで一度たりとも口にしたことのない言葉を発するようなたどたどしさだ。「足を洗うもなにも、そんなものに入った記憶がないけど」

「喧嘩で十人を病院送りにしたというのは?」

「なにそれ、僕は喧嘩すらしたことないよ」

「じゃあ、暴力団とのつながりも」空の声にはなぜか落胆の色が混ざっているが、当然のごとく日暮先輩は罪のない目をしている。

「だったら、月野隧道であの二人組が日暮先輩を見ただけで震えあがったのは、どうしてですか」

 ああ、あれね、と日暮先輩は力の抜けた声を出した。「よくあるんだよ、ああいうことが。誰かがおもしろがって、でたらめな噂を流しているみたい。まあこんな見た目だと、みんな信じてしまうんだろうね」

 意識的なのに、やはりその口ぶりは他人を語るみたいだ。

 だろうね、と唖然と繰り返す空の横では、なぜかしてやられたみたいに苦々しく眉をしかめる三朝さんが、誰にも聞こえないような低い声で「あんにゃろう」とつぶやいた。



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