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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを

 5


「明日、三時にいつもの場所で待っているから」とメールの文面にはあるが、待っているというわりに、三朝さんが時間通りに来たためしはない。つまり、一度として待たれたことはないのだ。

 ぱたんとケータイを閉じて、空は合皮のメニューを開いた。ページをめくるたびに、ぺりぺりとビニールの剥がれる音がした。しばし吟味したのちに手を挙げる。

 注文を受けた奥さんは、腰が悪い人特有の偏りのある、のったりとした歩様でカウンターに戻り、伝票を切り離して、腰をかばう緩慢な動きで椅子に尻を乗せる。カウンターの中からテレビを眺めていたご主人は、ちらりと横目で伝票に目を這わせると、億劫そうに組んでいた腕をおろして奥へ引っこんだ。五十絡みの夫婦に会話らしき会話はない。

 乾煎りしたコーヒー豆とトーストの香りが濃く漂う。紺に黄色の文字でKEY COFFEEの看板が店頭にあり、各席にはルーレット式のおみくじ器のある古さびた喫茶店が、空と三朝さんが待ち合わせに使う「いつもの場所」だ。

 暇を持て余すように、なにくれとなく空は窓の外を眺めた。ちょっとした信号待ちの時間でも、人々は日陰を求めて群がっていた。ほとんど直角に腰の曲がったおばあちゃんが犬を散歩させている。お歳暮のハムのように丸々としたコーギーは、太っているくせに右へ左へとせわしなく動きまわるためにかえって、運動を厭うおばあちゃんを無理にでもという感じで散歩させているように見えた。半帽のヘルメットをかぶった男の子が、カブにまたがって夕刊を配りまわっていた。配送車を路肩に寄せ、ヤマトの人が台車に荷をおろしていた。どっしりとした陽が斜めから、それらの人を慈悲なく炙っている。風は吹いていないのか、並木の枝葉はそよりとも動かない。

 こっそりと背後に忍び寄る影が、空の頭にヘッドフォンをかぶせる。こんなたたずまいの喫茶店なのに、カウベルがないのだ。

 これよくない? 相対した三朝さんの口の動きを読み、空はヘッドフォンの位置を正して音に耳を澄ませる。

「今さらゲス極?」

 社会のルールから逸脱したことでバッシングを受けたり、活躍の場を失ったりした、いわゆる「やらかした人たち」を、あえて三朝さんは応援したくなるようだ。それゆえ、「今の」ゲスの極み乙女なのだ。現に、ちょっと前はCHAGE and ASKAを熱心に聞いていた。そのやらかした人がどうのというのではなく、本来その人が有する才能を、才能以外の要素と関連づけて非難したがる人たちへの反発心がそうさせているのだろう。そんな天邪鬼な一面があるくせに、神木隆之介君が好きだったりするからおもしろい。

「私以外、の方が好きだな」ヘッドフォンを外して空は感想を述べる。

 曲はいまいちだが、音の質にはあらためて感じ入ったらしい。これでDVD鑑賞をできたらと想像を膨らませているのか、空は手の中のBeats by Dreを羨望のまなざしで見ている。空と同じうするようにメニューをぺりぺりさせながら、三朝さんは「ただ者だな、君は」とつぶやいた。さっきと寸分たがわぬ、腰の具合を気にする身のこなしで奥さんはやって来る。

「ルイボスティーください」

「ルイボス」おうむ返しに言う空の目には、未知の言葉に触れた畏れと、なんだかわからないが権威的な響きに対する憧憬が浮かんでいる。

 ん、という感じで奥さんは空を見おろしている。アンタはさっき頼んだでしょうが、と目が言っている。へえやるじゃんと思わせたくて、ずいぶん背伸びして注文したのだが、三朝さんの方がやはり数段上手だった。

 しかけで動いているように奥さんはカウンターへ戻り、伝票を千切ると、姿の見えないご主人に向けて「ルイボスティー入ったよ」と居酒屋の店員みたいに声を張った。

 店内は広いが、空と三朝さんのほかに客はひとりしかいなくて、白髪を短く刈った肌着姿のおじいさんが、コーヒーカップ片手にカウンターのすみに広げた新聞を読みふけっている。おじいさんの頭の上には神棚のような出っ張りがあり、そこに設置されたテレビがワイドショーを流している。アンティークと呼びたくなるほど古い型のレジの横には、大きなラックがある。文春や新潮、プレイボーイに女性自身、FRIDAYなどの各種週刊誌とひと通りのスポーツ新聞が並び、たいへん充実している。その代り、なのかわからないが、漫画の雑誌やコミック本は一切置いていない。

 壁には誰のものかわからないサイン色紙、しかも一枚だけ。しみだらけの天井の擬態のような色をしたシーリングファンが、からからと虚しい音を立ててまわっている。テーブルの間は籐で編まれた衝立で仕切られていて、ところどころに置いてある観葉植物はゴムの木だったり、パキラだったり、ヤシの木だったりとばらばらだ。

 トレイを受け取った奥さんは、巻き戻るゼンマイの音まで聞こえてきそうな単一的な動きでテーブルにやってきて、空の前にコースターを置き、その上にレモネードのグラスを置いた。三朝さんの前にルイボスティーのカップを置くと、カウンターに戻り、いつもの席にひじをついてテレビを眺めた。先に戻っていたご主人も、腕組みをしてワイドショーを眺めていた。各々があるべき位置に戻ったというおさまりのよさがある。

「長尾は?」三朝さんは情報の提示を求めている。

 三日前、小夜先生が帰ってすぐに、空は二階に駆けあがってケータイを開いた。十日前の発信履歴だって探すまでもなかった。待ちに待ったユーレイ部の活動再開の知らせにも、三朝さんはどこか浮かない声を返したが、お互いに日暮先輩に関する情報を集めて持ち寄ることを誓い合って電話を切ったのだ。今日のこの時間が指定されたのは、昨日の夕方だった。

「どこから話そう」そう慌てなさんなと言いたげに、空はたっぷりとした間で紙の袋から取り出したストローをグラスに差し入れ、ひと吸いしてから五木ひろしの顔真似みたいに目を細めて、小さく息を吐いた。お父さんの仕事あがりの一杯といった風情だ。

「日暮先輩が盛巳中を卒業したのは、今から四年前のことだ」

「ほう。ということは、もう高校は卒業して」

 いや、そうじゃないんだと話を遮る空はやはり得意げだ。「それが、日暮先輩は高校を二年で中退している」

「ふーん、どうして?」

「詳しいことまでわからない。でも、ある人が関わっているのは間違いない」

「それが行方不明になった恋人ってわけね」

「さつきさんって人らしい。日暮先輩と同じ高校に通っていたんだって。二人は一年の時に同じクラスで、いつからかつき合うようになった。美男美女のカップルとして、校内では有名だったそうだよ」

 へえそうなんだ、と抑揚のない声で相槌を打ってから、三朝さんはカップを吹いてルイボスティーを慎重にすする。話しながら空はストローで氷のくぼみに息を吹きかけ、貫通させようとしている。酸っぱいのが苦手なのだ。

「でもある日、不幸が訪れた?」

「それもどういういきさつがあったのかまでは知らないけど、高校二年生になった二人はある日、なにかの儀式のようなことを行ったみたい。その結果としてさつきさんは姿をくらまし、日暮先輩だけが残された。日暮先輩が高校を中退したのは、その半年後のことだよ」

 そっか、とつぶやいたきり三朝さんは、深く考えに身を潜りこませるようにカップの表面を見つめたまま、なかなか口を開こうとはしなかった。

 テレビは東京都知事の記者会見を映していた。政治資金を私的に流用した疑義について、記者たちから罵声交じりの質問にも、法的にはなんら問題はないの一点張りで応じている。都民の血税を家族とのプライベート旅行に使うのは、法的に問題がなくとも倫理的に問題があるのではと記者のひとりがなおもつめ寄るが、カウンターのおじいさんは空が店に入った時とほとんど変わらない姿勢で新聞の文字を目で追い、ご主人も奥さんもなんの批判も揶揄もせずに黙って液晶の画面を眺めている。テレビは、この店にはそぐわない薄型の最新モデルだった。

「それで?」不意に頬をゆるめて、三朝さんは尋ねた。

「それでって言われても、以上です裁判長」空はボケたつもりだが、あえなくスルーされてしまう。

「長尾の情報網はそんなもんか」暗に、人脈の乏しさを指摘しているのだ。

「そういう三朝さんだって、友だち少ないでしょ」

 空はすぐに応戦するが、三朝さんは「まあね」とすなおに認めて、さらりと受け流す。その余裕から察したのか、空はひそめた眉を開いて「え、なに、そんなすごい情報仕入れてきたの」と生気をみなぎらせて三朝さんにつめ寄った。

 まあそう急ぎなさんな旦那、という感じに今度は三朝さんがゆったりとした間を取ってカップに手をのばす。こういう不敵な笑みを浮かべているのは、たしかな釣果があった証だ。それをよく知っている空は、え、なになになに早く教えてよと、ボールを鼻先につきつけられた犬のようにさらに身を乗り出す。

 ぺろぺろと頬をなめられて笑いながら嫌がる飼い主みたいに、三朝さんは顔を背けるが、仕切り直すように一度大きく咳払いしてから、かたわらに置いていたTHE NOTH FACEのトートバッグから日記のような表紙の厚いノートを取り出して、ページの間に挟んでいた紙を空に渡した。お手柄だよ、ワトスン君みたいな口ぶりで「長尾、ついに当たりかも」と言い添える。

 ひらがな書きでも、五月でもなかった。そこには日暮先輩と彩月さんの氏名が並び、それぞれの生年月日や血液型や身長、小中高の略歴と、どのような学生生活を送ってきたのかが、Wordを使ってかんたんにまとめられていた。どちらも活発な性格で友達も多い絵に描いたような優等生で、中学校の時には生徒会長を務めていた。空と三朝さんとは対照的な二人だった。

「まあルックスもさることながら、二人とも中学の頃からちょっとした有名人だったわけね」

 日暮先輩は中学生の時に、Jリーグ所属クラブのユースチームの中心選手として、高円宮杯ベスト4の成績を収めている。サッカーの強豪高校に進んでも一年にしてレギュラーの座を獲得していて、試合をすればプロのスカウトが足を運ぶほどの注目を集めていた。

 一方の彩月さんはテニス部に所属していて、その方面での目立った活躍はなかったものの、十四歳の時に実用数学技能検定で最難関の一級に、当時としては最年少で合格したことで載った全国紙のコピーが添えられていた。

 はたから見れば、ずば抜けた才能を持つ、将来を約束された人たちだった。

「でもね、三朝さん。ここに書いてあるのは二人のプロフィールに過ぎないじゃない。僕たちの知りたいのはさ」

「儀式について、でしょ」

 いくらなんでもこんなひどい油汚れは、どうにもならないのでは? そーんな時はコレ、みたいなテレビショッピングの司会者とアシスタントのやり取りを彷彿とさせる。

「当時はちょっとした騒ぎになったって。警察が動いたのも事実みたいだから」

「でも、このあたりで人が消えたなんて。そんな事件が起きてたら、誰の耳にも入るんじゃないかな」

「そっか。彩月さんが行方不明になった時、もう長尾は東京からこの町に引っ越してきてたんだ」

「ここに書いてあるような人たちが、異世界の扉を開こうとした理由もよくわかんないし」

「なんだか、今日はやけに疑り深いね」

「疑っているわけじゃないけど、ただどうしてかなって」

「まあ、百聞は一見に如かずって言うじゃない」

「どういうこと?」

 ワイドショーはCMに入ったが、見入っているように夫婦は少しも姿勢を崩さずにテレビに顔を向けていた。

「もしかしたら、最初は軽いノリだったのかもしれない」

 話しながらも、三朝さんの目はiPhoneの画面を追っている。親指がパスコードを入力する。

「日暮先輩は、儀式の様子を動画で撮影していたの。それをYouTubeにもアップしていたみたい」

 三朝さんは腰をあげて、画面をスクロールさせながら空の隣に座った。いつも前を向いていれば必ず明るい未来が訪れるみたいな薄っぺらい内容の歌詞を、軽快なリズムに乗せる保険会社のCMソングがテレビから流れていた。

「今はアカウント自体が削除されているから閲覧することもできないんだけど、知り合いがそのデータを密かにPCに落としてたんだ」

 動画再生アプリを立ちあげてファイルを開く。マナーモードを解除する。

「すげえ」三朝さんが説明している間、空はテレビショッピングの観覧客みたいに、へえと感心の声をあげて、はあと感嘆の息を吐いていた。

「驚くのは早い」タップして動画は再生される。

 空は小さな液晶をのぞきこむ。黒い画面が白くなり、中央にひとりの少女が映し出された。深みにおりていくようにテレビの音が遠退いていく。

 目を伏せ、恥ずかしげに浅く下唇を噛んでいる。ケータイの録画機能なのか、画像が粗いために本来みたいなものはわからないが、とても整った目鼻立ちをした女の子だった。反面、化粧っけはなく、ニット帽をかぶっているためか幼く見えた。たぶん、彼女が彩月さんなのだろう。

 目線はカメラから外れ、動画を撮影していると思われる日暮先輩に彩月さんは語りかける。

「えーと、今回、我々は意を決して、この盛巳の土地に古くから伝わる、神隠し伝説の謎に迫りたいと思い、ます。そもそも神隠しというのは――」

「神隠し」と空は口の中で繰り返す。

 映像の途中でくっくっと押し殺したような笑い声が入り、のんびりとした音声が「我々は、ってさ」とツッコミを入れたために、彩月さんは何度目からか「私たち」と主語を言い直して話を続けた。USアーミーのパーカーにチノというラフな格好で、乳白色の壁を背にしている。画面がゆれた拍子に、緑色の床が一瞬映った。

 映像は一度途切れ、なにかの乗り物のような席に座る彩月さんの横顔が映る。パーカーの上に、今は黄色のピーコートを着ている。次にどこそこへとまりますみたいなアナウンスはないが、小刻みな振動からするとおそらくはバスの車中だろう。登り坂を走行しているのか、しきりにエンジンを吹かすような音も聞こえる。

 褐色の濃淡が線となって後方へ流れる。時折まだら模様になるのは、速度がゆるむからだ。彩月さんは窓枠に頬杖をついて、それを見るともなしに眺めている。光の当たり具合のせいか、心なし頬がこけているようにも見える。この前の場面でカメラに正対していた時とは打って変わって、とても大人びた表情をしていた。過去も現在も、未来さえも、すべて見晴るかしているような遮りのない目をしている。そこに気の利いたキャッチコピーでも添えれば、そのまま旅行会社のCMになりそうなほど絵になっていたが、被写体である彩月さんは撮られていることを意識していない。その証拠に、笑いをこらえきれずに鼻から息を吹き出した日暮先輩に気づいた彩月さんは、カメラの存在を知り、もうと膨れるような感じで手をのばした。そこでまた画面は切り替わる。

 次に映し出されたのは林のような場所だ。木々に囲まれているが、そこだけ開けている。どんよりと濁った空の色を背景に、高木が立ち並ぶ。

こういうのをご神体というのだろうか、カメラの正面にしめ縄を張った巨石がある。斜めに大きく亀裂の入った直径五メートルほどの岩で、上を向いたスマーフの鼻のように、接地面の少なさのわりに頭でっかちの不安定な形をしていた。たった今、どこからか降ってきてつき刺さったようにも見えるが、表面を覆う苔が経過した年月の長さを表していた。どうやら撮影者は変わったらしく、紺のブレザーにチェックのズボンという制服姿の男の子が、黒々とした土を削っていた。ブレザーのポケットに妙な膨らみがある。

「もしかしてこの人が」と空は尋ねる。クーラーが効き過ぎているのか、三朝さんはむき出しの二の腕をさすりながら、何度か小さくうなずく。

 初めて見る日暮先輩の姿だ。先の曲がった鉄の棒のようなもので、日暮先輩はいかにも粘土質な地面に円を描いている。棒に体重を乗せ、石灰のライン引きを扱うように揃えた足を少しずつうしろへずらしていく。それを少し離れた位置から彩月さんが撮っているのだ。

 大きな円を引き終わると、その内側にひとまわり小さな円を描く。さらに円の中で、細かく線を引くような動きを見せる。魔法陣のような図形を描いているのかもしれない。

 役目を果たした鉄の棒を地面に横たえ、日暮先輩はぱんぱんと手の平をはたく。ブレザーのポケットからろうそくを数本取り出して、図形の特定の位置に検討をつけては、苗を植えるようにひとつずつ立ててライターで火を点していく。風はゆるく吹いていて、小さな炎が左右にゆらめいていた。巨石の足もとに枯葉が吹きだまっていることからも、季節が秋と冬の間であるらしいことが知れる。

途中、一度だけ鳥の鳴くような鋭い声が聞こえたが、ほかに物音はしなかった。ひと言も発さずに作業に没頭している日暮先輩は、なんだか思いつめているようにも見えた。

 準備が整ったのか、日暮先輩は腰をのばしてからカメラに向き直り、二言三言となにかを話しかけたが、なぜかそこだけ雑音が混じり、なにを言っているのか聞き取ることはできなかった。

「あれ」そう漏らした空は、わずかに首を傾げた。

 日暮先輩は同意を示すように顎を引いてからカメラに背を向けると、上着のポケットから折り畳まれた人形らしきものを取り出し、円の中心に向けて放り投げた。それからしばらく首を垂れたまま、制服姿の背中は身じろぎひとつ見せなかった。

 静止画のようでもあったが、ゆらぎ続けるろうそくの炎が時間の流れを表していた。日暮先輩は目を閉じてなにかを祈っているのか、もしくは願い事を唱えているのかもしれない。そう思ったのは、神社に参拝して柏手を打ったあとの人と同じうしろ姿をしていたからだ。

 不意に、画面は大きく傾いだ。

 ずっと腕をあげてカメラを構えていることに、疲れてしまったのだろうか。アングルをぐっとさげたのちに視点は固定され、それでもなお日暮先輩の背を映し続けた。彩月さんは、どこかカメラを置ける場所に撮影ポイントを変えたようだ。

 異変を察知したように日暮先輩が顔をあげたのは、それから三十秒と経たないうちだ。なにが起こっているのかわからぬまま、異臭を嗅ぎつけたようにきょろきょろとあたりを見まわした。

 ようやく日暮先輩は、置き去りにされたカメラを発見した。猛然と駆け寄る影がカメラを持ちあげる。もとのアングルに戻る直前に、日暮先輩の顔が大写しになる。その口は泣き出す寸前の幼子のように、心もとなく歪んでいた。

 日暮先輩の心の動きをそのまま映すように、天も地も左も右もわからぬほどに激しく画面はゆれる。どたどたと駆けまわる足音と、風を切るような音がした。なにがどうなっているのか定かではないが、カメラを持って移動しているらしい。

 トンネルのような場所を抜けているのか、視界が薄暗くなる。映像の線は千々に乱れながらも、彩月さんを求める声がはっきりと近くに響く。

 その声にも空は反応を示す。

「ねえ三朝さん、この人って」

「最後まで見てからにしよう」ほらと言って、一度それた視線を再び画面に戻させる。

「彩月」声の行方が定まり、ゆれがおさまった。

 灰白色の空を、鳥の影が渡っていくのが見えた。

「こっちにカメラを向けて」

 そう言われたことでようやく手中にあるものに意識が向いたのか、天と地がくるりと引っくり返ったのちに映像は定まった。もやが立ちこめているために判然とはしないが、ニット帽に黄色いピーコートの少女が、こちらに背を向けてほこらの前に立っている。隆起した岩場にできた穴をほこらと認識したのは、朽ちかけた鳥居があって巨石と同じしめ縄で祀られていたからだ。

 彩月、ともう一度日暮先輩が呼ぶと、その声に反応するように風が渡り、白濁した視界が回復した。黄色いピーコートの少女はぴくりとも動かなかった。声が届かなかったのではない。すでに声を知っていたのだ。

「どうして」そう空が声を漏らしたのも、無理からぬ話だった。

 ほこらの奥には、もうひとつの世界が広がっていた。

 そこにはこちら側の世界と対を成すように、もうひとりの彩月さんがたたずんでいる。現実離れした光景に日暮先輩は声を発することもできずに、カメラを掲げたまま固まっているようだ。

 彩月さんが手をのばすと、向こう側の彩月さんも同じように手を差し出す。まるで金縛りにあっているようにカメラは動かなかった。指と指が触れ合う。もうひとりの彩月さんは、日暮先輩から目を背けずにカメラをじっと見据えている。その瞳はなにも訴えかけていない。問いかけもしない。嘆いているのでもなく、睦んでいるのでもなく、ただあるものとして日暮先輩を写していた。そこに存在する肉体として、肉体が放つ温度として眺めていた。

 ほどなくして、彩月さんは密やかに唇を開いた。

 あなたを残して、あちら側の世界へ行く私を許して。

「やめてくれ」力ない日暮先輩の音声が入る。

 私はいつまでも、あなたのそばにいるから。

 ふと、時間の連続性みたいなものが怪しくなった。時間は過去から未来に向かって流れているのではなく、点と点を不羈に渡るがごとく、行き来するかのごとく流れる、規則性のない連なりなのだという思いにとらわれた。

 彩月さんの目もとがゆるむ。

 生きて、と続けたような気がした。

「やめろ」日暮先輩の叫びにかき消されて、声は届かなかった。

 重ねた手がつながり、結びつき、もうひとりの彩月さんと同化するように、向こう側の世界へと引きこまれていく。風が絶え、再びもやが立ちこめて、二人の彩月さんを覆い隠そうとしていた。

 びくんと震え、なにか強い力に弾かれたように日暮先輩は駆け出し、画面は大きく振られる。大波に飲まれたみたいに、くるくると上下が入れ替わる。

 彩月、彩月とすがるような声がして、日暮先輩の顔を下から仰ぐような角度で画面はとまる。

 日暮先輩の鼓動を聞いた気がした。シンクロするように空は手を口に当てた。

 そろりと、カメラはほこらの内部へと向けられる。自然にできた穴らしく、中の足場は岩が重なり合うように起伏し、ごつごつとしていた。奥行きがそれほどないとわかるのは、淡く光が差しこみ、行きどまっているのが入り口からでも見て取れるからだ。

 人ひとりがやっと入れる小さな穴に、彩月さんの姿はなかった。

 画面は大きくひるがえる。雲や岩や落ち葉や枯れ木が黒い曲線となり、映像は暗転してぷつりと途絶えた。

 底のない沈黙がおりる。彩月と呼ぶ声が、残響のようにたゆたっていた。

 どう思った? 耳が言葉を拾えなかったのか、拾えたけどうまくなじまなかったのか。あいまいなまま、なぜか空は口もとをほころばせた。

「どうって言われても」驚きと空白と高揚が入り混じった、よるべない顔に変わった。目は惑っているが、すでに受け入れてもいる。「これって前に会った」

「やっぱそうだよね。てか眉毛も髪の毛もあるけど、どう見てもそうだよね」

 魔ジュニア。やっさん。

 異なる言葉だが、妙にハモった。読んでいる漫画で認識がちがう。三朝さんはどうやらNANAの高木らしいが、どちらも半月前に銀縁めがねとヤンキーの二人組から救ってくれた男の子を指している。

「こんなことってある?」言葉とは裏腹に、三朝さんの口ぶりから疑りの心は感じられない。こんなこともあるんだという響きだ。

 ちょっと貸してと空は言い、iPhoneの画面に触れる。三朝さんはもとの席に座り直して、湯気のなくなったルイボスティーに口をつけた。ぎこちない指がシークバーをなぞり、日暮先輩が先の曲がった棒で地面に図形を描く場面に合わせる。

 ひるがえり、大きくゆれる視界。呼びかける声、ほこらの前にたたずむ彩月さん。手をのばして、異世界に取りこまれるようにして消えていく。日暮先輩が駆け寄るがひと足遅く、穴の中はもぬけの殻となっている。

「嘘じゃないよね」

「もしこれが演技だったら、プロ並みだよ」

 だよねと言って、空はiPhoneを三朝さんに返す。

「まあ言えることといえば、彩月さんの失踪を境に日暮先輩はがらりと変わってしまったということかな」

「どんなふうに」

「まず、サッカー部をやめた」

「プロのスカウトも注目してたのに」

「もったいないよね。この動画が撮影されたすぐあとのことだって。部活をやめて、どういうわけか眉と髪を剃り落とした」

「僕らが見た日暮先輩と同じだね」

「そのうち学校も休みがちになって」

「半年後には退学か」

「それからの日暮先輩を知る人はほとんどいないらしいけど、ろくな噂は聞こえてこなかったんだって」

「たとえば?」

「悪い人たちとつき合うようになって、ギャング団みたいなのに入ったとか」

「G-Boysみたいな」

「グループ同士の争いになって、相手十人を病院送りにしたとか」

「安藤タカシじゃないすか」

「なんの話してる?」

「いや、観てないならいいや。続けて」

「あとは、暴力団の人とつながっているって噂もある」

「だからあの二人も、あんだけ恐れていたってわけか」

 カウンターのすみに座っていたおじいさんは、号令のように一度大きく背中をのばすと、ていねいに新聞を畳んで立ちあがった。それを見た奥さんはテレビを眺めるのを中断して、腰に手をあてがいレジに向かう。

「そう言えばさ、三朝さんのお兄ちゃんって、たしか日暮先輩と同じくらいの歳じゃなかったっけ」

「あれ、そうだったっけ」窓の向こう側を歩くおじいさんに、三朝さんはあごの先を向けた。年齢のわりにしっかりとした足取りだが、よれよれのランニングシャツのすき間から肋骨の浮いた脇腹がのぞいていた。

「でも、そんな感じに見えなかったけどな」と言って、空は組んだ指を頭のうしろにまわした。「怪我はないって声かけてくれたじゃない」

「とにかく、彩月さんの件が影響したことは間違いなさそうね」

「日暮先輩は今でも彩月さんが戻ってくるのを待ってるって、小夜先生も言ってたけど」

 テレビは、イチローのメジャー通算三〇〇〇本安打突破のニュースを流している。偉業達成の知らせに、各界著名人たちの祝福のコメントを紹介しているが、ご主人も奥さんも都知事の会見やCMを眺めるのとほとんど変わらない表情をしている。そこにあるから見ているという目だ。アニメでもドラマでもクイズ番組でも、ひょっとしたら映像ではなく目の前で人が消えたとしても、眉ひとつ動かさないんじゃないかと思わせる不変性がそこにはある。

「なんにせよ、確認しないことには始まらないよね」空に視線を戻した三朝さんは、仕切り直すような口調で言った。

「確認ってなにを」

「決まってるじゃん、会いに行くんだよ。教え子だったら、今どこでなにをしているのか知っているんじゃないの」

「え、小夜先生のこと?」驚いたように、空は目を丸める。「聞いたけど、教えてくれなかったんだ。それくらい自分の力でなんとかしなさいって」

 そっかあ。あっけらかんとした三朝さんの声にまたなにかを察したらしい空は、おやという感じに目の色を明々とさせる。

「日暮先輩がどこにいるかなんて、三朝さんも知らないでしょ」でもお高いんでしょうみたいに、またぞろ空の言いぶりがテレビショッピングじみてくる。

 なんと今なら期間限定で、とは言わないまでも、不敵に笑う三朝さんの顔はすべてを物語っていた。

「明日、六時にここで待っているから」



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