赤シャア少佐にドストエフスキーを
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しゃくしゃくと歯に心地よいしなちくと、納豆の粘り気はとてもよく合う。ピリ辛の醤油味と大豆のうま味、それと炊き立ての白米の甘みが混然となるたびに、マリアージュというこざかしい言葉がどうしても頭に浮かぶ。
空は薄く目を閉じてマリアージュを楽しみ、永谷園のCMみたいに熱々の味噌汁をすする。朝餉は店の小上がりではなく、二階の居間で済ませる。いつもの長尾家の食卓である。
起床の早いてふの姿はすでにない。家の近くに畑を間借りしていて、そこでゴーヤやらピーマンやらナスやらオクラやらを育てているのだ。一緒に出るのか、雨の日以外はウタロウも午前中いっぱいは外に出ている。
早食いの暁は、空が食べ終わるまでの時間をテレビを眺めて過ごす。サラリーマン時代からずっとめざましテレビ派だったのだが、男性キャスターの醸す、いや醸すというか押しつけるがごとく発する、「仲よしでしょ、僕たちって!」みたいな身内感、それと、「ね? ほら笑って。あなたも笑えばきっと楽しくなるんだから。ほら!」と言われているような、女子アナたちのきらきら笑顔の圧をいつしか感じるようになって、ある日、改正された法が施行されるみたいに、長尾家の朝はおはスタで始まるようになったのだ。まさに、方針の大転換といった感じだ。おかげで世の中の流行りには疎くなったが、妖怪ウォッチとポケモンには詳しくなった。
ただ、それで不満は解消されたのかと言えばそんなことはなく、子ども相手なんだからこうしときゃいいんだよと言わんばかりにリズムネタを連発するお笑い芸人に対しては、子どもをなめんじゃねえと毒づき、緊張のためか名前を問われても黙りこくっている電話出演の小学生に、自分で応募したんだろうが大人をなめんじゃねえと、「※個人の感想です」と注釈を入れたくなるような文句ばかり言っている。要するに言いたがりなだけなのだが、朝からやかましいことこのうえない。
夏休みに入って二日が経った。
以前は毎年この時期になると、家族で旅行に出かけたりもしたのだが、盛巳町に越してきてからというもの暁は店をやっているし、てふはてふで家業から離れたとたんに、趣味や習い事に明け暮れ多忙に過ごしているため、現在の一家に旅をするという習慣はない。それでも空は文句ひとつ言わない。
「虹色だってよ」ふんっ、と鼻で笑うような言い方だ。
またぞろ暁はテレビにいちゃもんをつけているのだ。番組の最後に、ニワさんというマスコットキャラクターの着ぐるみが産むタマゴの色を当てる占いのコーナーがあるのだが、いつもの青、ピンク、黄ではなく、まれに虹色を産むことがある。その日は全員がラッキーデイとなるそのシステムが暁には解せない、らしいのだ。みんながハッピーなら文句ないっしょという安直な大人の発想に対してではなく、予想した労力や時間が無駄になったということに対してでもなく、勝負をはぐらかされた肩透かし感に憤っているのだ、そうだ。むきになった自分がバカらしいじゃないかと。
でも勝負ってなんだろう、という顔で咀嚼しながら空は暁を眺めている。
おはスタが終わると、それでも少し満足そうな顔をして、麺の仕込みと開店準備のために暁は店におりる。洗い物を済ませた空は、てふの部屋に移る。
月野隧道の探索から十日が過ぎたが、あれ以来、三朝さんとも会っていない。それは、ユーレイ部の活動が行われていないということも示している。学校でも姿を見かけていない。クラスがべつだから、たまたまタイミングが合わなかっただけかもしれないが、終業式に出席していなかったのはたしかだ。
夏休み初日から宿題に取り組んで早めに終わらせようとか、計画的にコツコツとこなしていこうという殊勝な考えは、残念ながら空にはない。だから一日中のべつ幕なしにライブラリーのDVD作品に没頭し、小上がりの漫画を読み漁って時間を過ごしている。仏間には本棚もあり、そこには青少年の精神世界を豊穣にしてくれる、古今東西の文豪たちがものした名作も所蔵されているのだが、それらには目もくれない。
有意義な時間を送っているとも言えないどころか、こんなタマゴの殻の中でぬくぬくとするような生活を送っていては、引きこもりやニートになる日もそう遠くないはずだが、本人がそれで満足しているのだから、いかんともしがたいところだ。
そんな空をどやしつけるような音が立った。
いかなる禍事かと、眉をひそめて声の主に目を向ける。īRobot社製のルンバ885だ。この家で誰よりも新しい物好きなてふにしては、めずらしく慎重な姿勢を保っていたのは費用対効果がつかみ切れなかったためか。しかし検討を重ねた末にようやく購入に踏み切ったのが、春先のことだった。「じゃない方のやつじゃない」とか「日本語とか喋らないから」と、わかりづらい表現で自慢していたのを思い出す。月、水、金の十時にタイマーがセットされていることを、普段、平日の昼間に家にいない空は知らなかったのだ。
「どいたどいたどいたー」と言わんばかりに、ルンバは前方のブラシを激しく回転させながら、予測不可の軌道を描いて空に向かってくる。いつまでも部屋でだらだらしている空を叱責し、追い立てるてふの魂が憑依したようだ。
とめ方すらわからない空は、おろおろするばかりだ。たまらずテレビとDVDを消した空は、逃げるように階段を駆けのぼりうしろ手に襖を閉めた。首にひと筋汗が流れた。階を隔てたというのに、ルンバの怒声がなおもくぐもって聞こえる。
カーテンから細長い陽が差していた。手持無沙汰になったのか、空はせっかくあがってきたのだからという感じで着替え、まあ外着になったのだからという感じで階段を駆けおりた。狭い製麺室で作業をしている暁の背中が見えたが、行ってきますの声はかけずにそのまま表へ出た。
上へ上へと背をのばす雲が、天の高みを際だてていた。どっしりとした陽は道端に濃い影を作っている。たっぷりと熱を吸ったサドルが空の顔をあいまいにする。家を出たはいいけど、どこに向かうのか欲する心が見当たらず迷っているのだろう。
とりあえずという感じで空はペダルを踏み、駅に向かってこぎ始めた。少し経って、プールにでも行けばよかったと後悔したらしく、「あー、プールバッグ持ってくればよかったなりー」といかにも気怠そうにひとりごちた。わかりづらいが、てふの部屋で観ていた『池袋ウェストゲートパーク』の窪塚洋介演じるタカシに影響されているのだ。
この夏一番の暑さになると、天気予報のおはガールも言っていた。遠く、アスファルトがゆらめいている。まだ朝の領域だが、すでに三〇度は超えているだろう。この世の夏を謳歌するように、蝉が盛大に鳴いている。ゲートボール場の年経りた人たちはとっくに避難していた。焼けつくような陽にさらされているというのに、畑の野菜は内から押し出すようなみずみずしさを放っている。道を行く人々はもれなく日傘を差すか、帽子をかぶるかしていた。どの家の軒先でも洗濯物がゆれていた。
ひとり自転車にゆられる空は、夏休み三日目の中学生らしからぬ生気のない顔をしている。団地の折り返しスペースに広げたビニールプールで、小さな女の子が手応えを試すようにぴちゃぴちゃと水面を叩いていた。集合ポストの前では、腕カバーをした若い主婦とサンバイザーをした中年の女性が、細い声をあげて笑っている。ベビーカーの赤ちゃんは、外界の騒々しさなど届いていないかのように健やかにまぶたを結んでいた。コンビニほどの広さの公園で男の子たちが水遊びをしている。ガトリング式のものや、ゴーストバスターズが持っているプロトンパックの銃のような水鉄砲は、まさにウォーターガンという感じの重厚感で、空はしばしペダルをこぐ足をとめて撃ち合いに目を奪われた。
陸橋を渡り線路を越えると、それまでとは町の雰囲気ががらりと変わる。昔ながらの住宅地やベビーブーム真っただ中の七〇年代に建てられた団地群に比べ、地主の代替わりによって開発の進んだ東側は駅ビルを中心として、ドトールだの富士そばだのブックオフだのといった、どこの町でも見かけるような商店が建ち並ぶ。
給料日なのか、銀行の窓口にもATMにも列ができている。首にスカーフを巻いた制服姿の女の人が、出入りする人ひとりひとりに恭しくお辞儀をしている。UFOキャッチャーとプリクラしかないゲーセンに、ジャージ姿の黒川と梅沢の野球部コンビを見た。おそ松さんのフィギュアを手にはしゃぐ姿に不気味なものを感じたのか、空は自転車をこぐ足を速める。ばりばりと音を立てて咀嚼しながら、パッカー車がゴミの収集所を巡っていく。いつも行列を作っている流行りのラーメン店は、看板の躍るような文字といい、窓越しに見えるインテリアといい、テーブルを拭いてまわる女の子のきびきびした感じといい、はらぺこ亭と同じ業種とは思えないほどちゃんとしている。
普段はめったに通らない道に向けて、空はハンドルを切る。パチンコ屋の前で、吹き流しのバルーン人形がはたはたと踊っている。ポリバケツに陣取る一羽のカラスが、「冷やかしかい」と咎めるようにじろりと空を睨みつける。大衆居酒屋やキャバクラや消費者金融の窓口が軒を連ねる裏通りへ侵入したのには、理由がある。
陽が落ちてからは光や音で満たされるこの一角も、午前中とあってはさながらゴーストタウンの様相を呈していた。どの店も人の気配はしないが、最も奥まった位置にあるペットショップだけが営業をしている。目玉商品を陳列するように、店頭に子犬や子猫のケージがある今どきの店ではなく、どちらかと言えば古さびた金物屋といったような風情だ。
店の前でモスグリーンのエプロンをした華奢な体つきの女の人が、鳥かごを洗っていた。視線に気づいた女の人は、なにか用かしらといった感じで首を傾げ、たじろいだ空は立ち漕ぎになって通りを抜けた。
大通りに出てしばらく進み、警察署の隣にある文化会館の駐輪場に自転車をとめる。自動扉の前でもらったチラシには、水木しげるさんメモリアルとある。駅前の立て看板に入場無料の文字を見た空は、最短距離でここを目指した。
上映開始時間ぎりぎりだったが、五百人は収容できるであろう広いホールに人は疎らだった。壇上で、市の担当者を名乗る男の人が上映会の趣旨を説明していた。ぱらぱらと拍手が起こり、照明が落ちる。音もなく幕が開く。
上映されたのは、四十年以上も前に放送されたTVアニメ版のゲゲゲの鬼太郎「妖怪屋敷」の回だった。ぐずって泣き始める子もいたが、空は色褪せたアニメーションを食い入るように観ていた。次いでスクリーンに映し出されたのは、さらに昔の実写版『悪魔くん』だ。どう見ても悪魔くんは命令するばかりで、メフィストしか活躍していないツッコミどころ満載の白黒の物語に、たんに涼を求めてきたであろう若い人たちの中には鼾をかき始める者もいて、暁よりもっと上の世代の人たちが昔を懐かしむための上映会となっていたが、合わせて一時間ほどの作品に、当時の子どもたちばりに空は心を奪われているようだった。
会が終わると先ほどの担当者が再び登壇し、夕方に劇場版のゲゲゲの鬼太郎「おばけナイター」と「妖怪大戦争」を上映する予定だと告げた。几帳面にチラシを折り畳んでズボンのポケットにしまったところを見ると、空はもう一度来ようと心に誓ったにちがいない。
一度引いた汗がすぐに噴き出して、シャツを湿らせる。お日様は中天にかかり、暑さはさらに盛ったようだった。もったりとした風が肌をなでる。文化会館をさらに東に行くと、新しいマンションが目につくようになる。駅前の開発もこれらの高層マンションがあってのことだ。盛巳町の半分は、地方都市のベッドタウンとして生まれ変わったのだ。天をつくようにそびえる巨大な建物を仰ぎ見る。かつて自分もこんな場所で暮らしていたのだと、いまだ我身の内にある日常を反芻するように、空はそっとまぶたをおろした。
このまま道なりに行けば大きな病院がある。毎日のようにこの通りを行き来したのは、たかだか一年半前のことだ。思いを断ち切るように自転車をひるがえす。空の体からすれば不相応に大きなママチャリを、本当に持ちあげて百八十度向きを変えたのだ。猛烈な勢いでペダルをこぎ始めたかと思えば、サドルに腹を乗せてうつ伏せに水平になり、また体勢を変えて今度はサドルに足を乗せてひざをのばし、さらには荷台に腰をおろしてハーレーに乗るような恰好になりと、出初式の梯子乗りのように次々に体勢を変える。くだり坂に差しかかると、目をつむってどこまで行けるか度胸を試してみる。垂れさがる街路樹の枝葉を、見切ったように寸前のところでよける。わざと頬にかすらせて、ふっと笑う。
誰もいないことを確認してから、大声で叫ぶ。
なにかにあらがうのでもなく、受け入れようとしているのでもない。とどまっていられないことへのかすかな恐怖と、今という時間を切り取ることで得られる心安さと、触れられそうで触れられないもどかしさがない交ぜになったような、よるべのない心の叫びだ。
それらはまったく意味のない行動の連なりだが、どういうわけか見ていてぐっとくるものがある。かつて誰もが抱えていた、いや、今も抱えているはずなのに心の奥底に埋もれてしまって自分でもわからなくなってしまった言語化できない思いが、共鳴するかのように心を震わせる。
丹念になめされたように、時間は平たくどこまでものびていた。その気になりさえすれば、どこまでだって行けるのだ。でも空はどこにも行かない。それはなぜか。日々の暮らしが町を作るように、町がそこに暮らす人々を作るからだ。
月野隧道の前で空はブレーキをかける。林冠からこぼれ落ちる日が、黒々とした地面に濃いまだら模様を写している。もとの形をとどめていない紙のかたまりが落ちている。互いを呼び合うような鳥の声がしきりに聞こえる。空気はひんやりとしていて、やはり日没前の気配がする。前日の、あるいはそれよりもっと前の日暮れが、夜を越えても解消されず残留し続けているから、昼前でも一日の終わりのように感じるのだろう。
ユーレイ部の活動予定は白紙のままだ。サトル君の時がそうだったように、必要に迫られれば空ひとりでも行動を起こす場合もある。それでもこうして眺めているだけで今一度足を踏み入れようとしないのは、また不良にからまれるんじゃないかと恐れているからではなく、こんなところにユーレイはいないと断言されたからだろう。その言葉には、真実を知る者だけが口にすることのできる、くっきりとしていて妙に生っぽい響きがあった。銀縁めがねとヤンキーをあれほど怯えさせたあの男の人は何者なんだろうか、なにもかもが謎だという感じの情けない顔で空は来た道を戻る。なにかの決まりごとのように、くだり坂で目を閉じるのは怠らない。こらえられず、すぐにまぶたを開いてしまうのだけれど。
午前のうちに戻ったのは、腹が減ったのと時間がつぶせなかったからばかりではない。
二階へはあがらず、空は自転車をとめるとそのまま店に入った。暁を手伝うためだ。年に、十三日の金曜日が訪れるほどの頻度だが、本日はらぺこ亭は満員御礼だった。ラジオの音が聞こえないほど、店内は話声で活気づいている。というのも、常であれば家で用意するのも駅の方へ出るのも億劫なひとり暮らしの老人か、はたまた近くにたまたま現場のある大工さんや道路工事の作業員が、お通夜のろうそく番みたいにぽつりぽつりとやって来るだけなのだけど、今日に限っては家族連れや学生風の若い人がグループで来ているからこんなにもにぎわっているのだ。あまつさえ、スマホ片手に丼鉢を撮影している人までいた。これがまた暁を助長する。
狭い店とはいえ、満席ともなればひとりで客をさばくのは難しいが、暁は安全標語を実践するように焦らず麺を茹で、騒がずスープを注ぎ、急がず具材を盛りつける。いつもの調子で配膳し、注文を聞いてお会計をする。当然その間、調理の手はとまるから客は待たされることになるのだが、せんないことと暁は割り切っているようだ。回転率みたいな商売の基本の「き」さえ、暁には乏しいのだ。じつに泰然とした態度だが、初めての来店で心証を悪くすれば味なんて二の次三の次となる。二度と来ようとは思うまい。それならばバイトを雇えばいいようなものだが、先にも述べた通り今この状況がイレギュラーケースなのであって、常ではない事態に備えるほどの金銭的な体力は、はらぺこ亭にはない。
空は手早くエプロンをかけて水を運び、食べ終わった丼をさげてカウンターを拭き、できた料理を運んだ。あいた手は洗い場で動かす。暁は調理に専念し、滞っていた作業がぷよぷよの連鎖みたいに見る間に片づいていく。見知ったお客さんは、まるで幼い頃を知るような口ぶりで声をかけてくるが、空は返す言葉につまってしまう。行列こそできないものの、からからと絶えず戸の鳴る音がして、しばらくの間は満席状態が続いた。
「ようやっと俺の時代が来た」と言って、暁はあごの無精ひげをさする。
商売っ気はないのに、ラーメンを褒められるとすなおにうれしいらしく、食べログに写真がアップされるから始まり、ムック本の掲載を経て王様のブランチで紹介されるところまで、妄想をたくましくしていく。あくる日にはぱたりと客足が途絶え、数日は閑古鳥が鳴き続けるなんてことはざらなのだが、そのまま海外出店を果たして情熱大陸で密着取材を受けている姿までを思い描くのだから、めでたいことこのうえない。
食事時を過ぎて空席ができ始めると、空のための麺が茹でられる。ラードで炒めた豚肉とたっぷりの野菜をラーメンに乗せて、仕上げに生卵を落としたものを暁はスペシャルと呼び、空は労働の対価としてこのまかない飯を受け取る。
居間にあがって吹き冷ましながら、空は麺をすする。朝の残りがあると思い出して、台所に立ってご飯をよそう。卵の黄身を崩して、野菜とからめて白米と合わせる。マリアージュと感嘆するように目を細める。どこにも行けなくても、何者になれなくても、体を動かせば腹が減るのが道理だ。
そんな健全な肉体を反古にするように、腹を満たした空はてふの部屋に戻ってDVDをつける。もとの位置にひとりでに戻ったルンバは、午前のヒステリーなどまるでなかったかのような涼しげな顔をしている。いつの間にか帰宅していたウタロウも、部屋のすみで丸くなっている。
サウナでキングことタカシが、長瀬智也演じる主人公のマコトにG-Boysに入らないかと誘っている。空はマコトの口癖を真似して、「めんどくせえ」とつぶやいたがまったく様になっていない。
あ、空の口から声が漏れる。自転車をこぐ足をとめたわけが、今になってわかったからだろう。ヤクザに追われるアリに、「焼きそば食べてく?」と問いかけるマコトの母親リツコ役の森下愛子と、ペットショップの店員がそっくりだったのだ。
幼い子たちの駆けまわる声が聞こえた。桟のすき間から入りこむ風が、遮光カーテンをふわりと持ちあげる。
その節は――とか、――とおしゃってとか、階下から聞こえる耳なれぬ暁の敬語によって、空は気づかないうちにまどろんでいたと知る。ウタロウはすでに目覚めていて、音のする方へ耳を向けている。相手の声は聞こえないが、なおも会話は続いているようだ。空は眠そうな目をこすりながら階段をおりる。
「似てますよね」
「そうですか? あ、いや、自分ではあんまりそう思わないんですけど、お客さんからもよく言われるんですよ」暁が言っているのは、藤木直人とかヒョンビンのことだ。
「目もとなんて、長尾君そのまま」
「空?」なんだ、そっちかという落胆は飲みこむ。
女の人だとわかるが、もみ手をするようにキャスケットとベレーのハーフみたいな形の変な帽子をくしゃくしゃと丸める暁の背が邪魔で、顔が見えない。立ち話をしながら、彩りのない細い指がペプシマンのボトルキャップを転がしている。券売機などありようもないはらぺこ亭で、書いた伝票が風で飛ばないようにと重し代わりに使われるもので、ほかにエヴァの零号機やアナキン・スカイウォーカーもいる。ボトルキャップだけでなく、M&M'Sのキャラクターマグネットなんてものもある。
柱の陰から顔を出した空を見つけ、女の人はひらりひらりと手を振る。皇居一般参賀の雅子様みたいな所作だ。
「小夜先生」夢から急に現実に引き戻されたみたいに、空は素っ頓狂な声をあげる。
下の名で呼んだのは親しくしているからではなく、学校に西野姓の先生が二人いるからだ。社会の先生と区別するための「小夜先生」は、生徒同士でのみ交わされる通り名のようなものだ。
「どうして?」親しいどころか、きちんと会話をした記憶すらない先生がここにいる理由を、空は問うているのだ。
「近くに用事があって。せっかくだから、食べていこうかなって」
暁は時計を見ることもなく、そうだったんだどうぞどうぞと、早くも言葉を崩して小上がりの席へ迎え入れる。
「ほら、空。こっちに来て、先生をおもてなしして差しあげて」お相手ではなく、おもてなしらしい。漫画じゃない方を選んだのは、見栄からか羞恥心からか。
まだ腹に落ち切らない顔をしながらも、空は小夜先生の向かいに座った。尻をつけてから、ようやく少し緊張したように居住まいを正す。暁は厨房に入り、麺を茹でるための湯を沸かし、寸胴から手鍋にスープを移す。ラジオの時報で四時を過ぎたことを知る。
「おいで」と言って、小夜先生は手招きする。
今し方の空のように、ウタロウは柱の陰から推し当てるような目をのぞかせていた。暁は厨房のすみからその様子を眺めていたが、空と目が合いそうになると慌てて顔をそらした。ウタロウは猫らしからぬよたよたとした足取りで歩み寄り、小夜先生の細い腕に抱きすくめられた。
小夜先生は、「ごくせん」で仲間由紀恵がかけているような縁の細いめがねをかけている。化粧っ気はほとんどない。折り返しに薄いチェックの入ったジャケットの下は白のカットソーで、ジャケットと同じ色のひざ丈のスカートから、ストッキングに包まれた形のいいふくらはぎがのびる。足首はきゅっとしまっていた。肌は生命の温もりみたいなものを感じさせないほど白いのに、透き通る血管を巡る血液はいかにもさらさらとしていそうだ。エアコンはついていないが、涼しげな顔をしている。
いつもこんな感じだったような気がするが、いつもこんな感じなのかと問われれば胸を張れない。学校でしか見るはずのない人が日常の光景に紛れこんでいることに違和感を覚えるのか、空はちらちらと小夜先生を盗み見ているが、見られている当人はとんと意に介さず、服に毛がつくのも気にならない様子で、ウタロウの耳の裏を指の背でなでている。
がらり戸の内側にかけられた暖簾、ひとつだけ形のちがうカウンターの椅子、変色したメニューの札と、小夜先生は店内をひと渡り眺め、昔を懐かしむような声をあげた。
「子どもの頃ね、すごく羨ましかった。お店やってる家の子って」
「お寿司屋さんはたしかに憧れますね」
「ラーメン屋さんもいいじゃない。忙しい時に洗い物したり、お客さんに料理を運んだりして手伝って。きっと親と一緒にいたかったんだろうね、うちは共働きだったから」
何年か前までは自分もそうだったと、賛同するように空は無言で相槌を打った。
「長尾君も、お店手伝ったりするの」
そりゃあもう、という感じで空は深くうなずく。
「アルバイト代とかもらえるの」
あ、それならさっきいただいたところです、という感じの笑顔でこくり。
小夜先生は切り返すように真顔になった。「中学生はアルバイト禁止だけど」
いやあの、と言ってへどもどする空に、カウンターからひょっこり首をつき出した暁が、「ラーメンはアルバイト代じゃねーから」と訂正する。その耳聡さに、猫だましを食らったように目をぱちくりさせる空を見て、小夜先生はぷっと吹き出し心地よさげに相好を崩した。
「僕の両親は、ボランティア活動に熱心でした」盛巳町の十三歳、RNスカポンコンタナスからとパーソナリティが続ける。
以前は僕も一緒に参加して、入院しているおじいちゃんおばあちゃんとお手玉したり、ピアノを弾いたり、掃除を手伝ったりしていましたが、今ではもう病院に通うこともなくなりました。数年前に起きたあの大震災がきっかけで、父も母も少しずつ考えを変えていったからです。クソがつくほど真面目な人たちだから、きっと無力感みたいなものに打ちのめされたんだと思います。
その代りなのかわかりませんが、ボランティアで知り合った人の紹介で、主様と呼ばれる人のところへたびたび出かけるようになって、今年に入ってからは、うちにも変てこな服装をした人たちが出入りするようになりました。主様の教えを忠実に守っているらしく、家からテレビや本がなくなりました。僕にもそれを強要します。いつでも連絡を取れるようにと、持つことを許されているスマホでラジオを聴くことが、今の僕にとっては唯一の心のよりどころとなっています。
僕は納得できません。困っている人を助けることから、自分たちの幸福に目的が変わったことじゃなくて、幸福でいなくてはならないと頭から決めつけていることが、僕にはどうしても解せないんです。だって、幸せじゃない時の僕も、本当は幸せだったりするのだから。なにが幸福でなにが幸福じゃないかなんて、あとにならなければわかりようのないことではありませんか?
P.S. 幸福や平和を願って夜も昼もなくお経を唱えるのはいいけど、その前に家族の平和が危ういっつーの。
テーマは「ここがヘンだようちの家族」どんどんメール送ってくださいね、とパーソナリティが言い添えてジングルが鳴る。
「ああ、そうそう」
忘れないうちに渡しておくねみたいなさりげなさで、小夜先生はかたわらに置いていたChloéのレザーバッグをちょこんとひざの上に乗せた。「長尾君、心当たりある?」
心当たりもなにも、空がずっと探していたマグライトである。
「さあ」
なんとか一度飲みこんだエクスクラメーション・マークを、空は噴き出してしまった。小夜先生がめがねを外したからである。三朝さんとは逆で、スイッチをOFFからONに切り替えるようにその場の空気が一変した。月明かりに染まったカットソーと面前の白が、頭の中で像を結んだのだ。
「それって、うちの懐中電灯じゃね」暁にとっては、防災用も警務用も関係ないのだ。半月ぶりに姿を現したマグライトに、三者三様の視線が注がれる。
「でもどこに?」
「そこですよ。ほら、棚のうしろ」
「そっかー、そんなとこにあったのか。いや、なくなったと思って探してたんすよ」
マグライトを受け取る代わりに、暁はグラスを小夜のテーブルに置いた。冷蔵庫にあったブレンディのボトルコーヒーを移したものだ。
「すみませんね。こいつ、気がまわらないもんで」
「おかまいなく」
手の中でマグライトのスイッチを入れたり切ったりしながら、暁は厨房に戻っていった。表から、母親が子どもを叱る声が聞こえた。
「これでもしらを切るつもり?」怒らないから正直に言ってごらんみたいな感じで、小夜先生は声をひそめる。
「すみません」さすがにフランス語では答えない。
「じゃああの夜のことは、長尾君と私だけの秘密ってことにしよう」
小夜先生は、ぴんと立てた小指を差し出して微笑む。人の目の奥をのぞきこむように見るのは視力の悪さに由来する癖なのだが、そうとは知らない空は耳を真っ赤にしている。
「でも、どうしてあんな時間に」
「うちの学校に伝わる怪談を知ってますか」
「もしかして、サトル君?」
「ホントに現れるのか、試したくなって」
「まだ信じている人いるんだ」
そうなんすよ、じつは今でも信じてるんすよ、という感じで照れ笑いを浮かべていた空がぴたりととまった。眉間にしわが寄る。「まだ?」
「だって、私が中学生の頃にはすでにあった話だから」根強い人気だねと、SMAPについて語るような物言いだ。
「ということは」
「私、盛巳中学校の卒業生なの」
そもそも年齢からして不詳なのだ。まだ二十代のようにも見えるが、いやそうではなく四十を超えているのだと言う者もいる。空が小夜先生について知っていることといえば、体育教師の脇田と社会の西野先生から言い寄られているとか、盛巳中に赴任したのは前の学校で教え子と付き合っていたことが発覚したからだといったことだ。でもそれは、生徒たちがおもしろ半分で語る尾ひれのついた噂話に過ぎなくて、その中に盛巳中の卒業生だという事実が含まれていないことからも、その信憑性は極めて低いと言えるだろう。とどのつまり、美術の先生であるということ以外はなにも知らないに等しいのだ。
グラスに口をつけて、おいしーと澄んだ声をあげてから小夜先生は続ける。「それで?」
「サトル君は現れませんでした。もう少し続けていれば結果はちがったのかもしれないけど、先生が屋上にいるって気づいたものだから」
「そういうことじゃなくて」
「と言いますと」
「どうしてサトル君の儀式をしたのかって」
「いやだから会いたくて」
「会ってどうするつもりだったの」
「どうって言われても」
「ただの興味本位?」
そこで空は、喉に言葉が引っかかったように咳払いをする。本当のことを話すまでいつまでも待っているからと言わんばかりに、小夜先生は淡くたたえた笑みを動かさなかった。今こそというように空は厨房を見やるが、暁はラジオから流れるブルーノ・マースに声を合わせ、ふくふくとした顔でチャーシューを切っている。ここぞとばかりに手をかけて、心をこめて作っているのだ。
視線を戻した空は、観念したようにぼそりとつぶやく。
「ユーレイの存在を、証明したいんです」
「どうして」
「ユーレイがいるってことは、死者の世界があるってことですよね」
「まあ、死んで終わりってわけじゃなさそうね」
「死者の世界があるってことは、生まれ変わりもある」
「それはどうかな。残留思念って言葉もあるから、ただ漂っているだけの存在なのかもしれない」
空は顔をあげて、打ちつけるような視線を送る。
「でもなにかがあるってことはその先になにかがあるから、そこになにかがあるんだと思う」人民の人民による人民のためのみたいな言いまわしだ。
数秒だが、ラジオの音にざらざらとしたものがこすれ合うようなノイズが混じる。火がついたみたいに泣く子どもの声が聞こえる。小夜先生は興味とはべつの色をした目で空を眺めていたが、ほどなくして「そうかもね」と自身に対するように言った。
「へいお待ち」わざと声を作った暁が、二人に割って入るようにラーメンを置いた。
商売をわきまえているわけではあるまいが、ウタロウはくわあと大きくあくびをしてからのっそりと起きあがり、そのまま小上がりを降りて柱の陰に姿を消した。
スペシャル中華そばと言い添えた丼には案の定、海苔やしなちくのほかにも、煮玉子や白髪ねぎ、なるとに青菜といった具材が豪勢に盛りつけられている。チャーシューなんて五枚も乗っているし、普段は使っていないゆずの皮も香りづけとして添えられている。
まさにデコレーションといった盛りつけのそのスペシャルは、いつも空に供されるスペシャルとは彩りがずいぶんちがっていたが、扱いの差に抗議するのではなく、暁に向けられた目が言いたいのは、余計なことしないで、だ。女性は引きそうな見た目だというのに、小夜先生はわんぱくっ子がヤッホイと声を弾ませるような勢いで箸を割り、いただきますをして麺をすくいあげた。キャンプファイアーのように盛大に湯気がのぼる。
チャーシューをはむ。しゃくしゃくと口の中でしなちくが鳴る。箸の先で器用に煮玉子を割る。レンゲの中に小さなラーメン丼を作り食べ進めていく小夜先生は、今幸福のただ中を行く女という題を与えたくなるほど画になっていた。それを暁は、納車されたマイカーでも眺めるような目で見ている。
ごちそうさまでした、と言って小夜は箸を置く。昼を抜いていたのか、平らげるという言葉そのままスープまで飲み干された幸福な丼をさげて、暁は厨房に戻る。シンクに水を流す音が聞こえた。
「きっとあるよ」
それが死者の世界を指していることに、一拍遅れて空は気づく。
「どうしてですか」
「思い出した。私、知ってるの。あっちの世界に行ってしまった人の話。もちろん、生身のままね」
「誰ですか」梅雨明け一番の青みのように、空の目は輝いている。
「もう何年も前の話だけど、生徒に日暮君って子がいて、つまりは長尾君の先輩ね。彼の恋人がある日行方不明になった。日暮君の話によれば、異世界に足を踏み入れてしまったんだって」
「その話、本当ですか」
「その顔は、もう会いに行くつもりになっているでしょう」
空は頬に手をやる。なになになんの話と、匂いを嗅ぎつけた犬のように尻尾を振って暁が寄ってくる。
「お父さん、ラーメンとてもおいしかったです」話をはぐらかすように、小夜先生はお会計してくださいと言って立ちあがった。
「これぐらいいいですって。空がいつもお世話になってるんだから」
「ダメです。気を使われると、次に来づらくなっちゃうから」
財布を開く小夜先生を、暁が押しとどめる。その後ひとしきり二人は、いいからいいからを連呼してお会計を譲らないおばちゃん同士みたいなやり取りを交わし、結局、折れることになった暁は、絶対ですよ絶対にまた来てくださいよとしつこく念を押しながら、渋々代金を受け取った。
「でも、十分に気をつけてね」小夜先生はバッグに財布をしまうと、ヒールを履きしなに空に顔を寄せた。
「日暮君は、今でも待っているんだって」
結んだ唇のゆがみが、どういうことですかと問うている。
「その子、あっちの世界に行ったきり戻ってこられなくなったって話だから」
じゃあまたと言って頭をさげた小夜先生の背を、空は見えなくなるまで眺めていた。というのも、見送るというよりは呼びとめるような勢いで手を振る暁が、その場から動こうとしなかったからだ。廃品回収車の間のびしたスピーカーの声が聞こえる。去りゆく一日を惜しむように、嗚呼、嗚呼とカラスが鳴いていた。
きれいな人だなとか、なあ先生いくつなんだよと、たるんだあごの肉をつまみながら繰り返す暁の隣で、うずうずしていた空ははっとしたように薄く口を開いた。小夜先生に、あの夜屋上にいた理由を聞きそびれたことに思い至ったにちがいない。そのすぐあとで慌てて暁に時間を尋ねたのは、ゲゲゲの鬼太郎の上映会を思い出したからだろう。