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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを


 川が平野を作るとは、社会の授業で習う。河川が山から土や砂を運ぶことでできる沖積平野は地下水に富み、水はけもよいから農耕に適するのだと、遠い親戚を自慢するように話していたのは西野先生だ。

 北の天狗岳を源とする天見川がはぐくんだ肥沃な平野の西端に、盛巳の町は位置する。有史以前から農耕の盛んな土地であったそうで、人が国を定めて以降、幾度となく戦の場となろうとも、土着の民は実り豊かな田畑を守り続けてきた。

 都から遠く離れたこの地に経済的な潤いがもたらされるようになったのは、交通が整備されてからだ。隣国の月野に至る峠の宿場として、商いをする人たちが周辺地域から集まってきたのだ。旅籠や茶屋を筆頭に、馬具や籠、薬にお守りと、峠越えの旅人を相手にする店が軒を連ね、時代がくだるほどにたいそうなにぎわいを見せたという。この地を終の棲家と定めた商人と百姓が、代を重ねることで今日の盛巳は形作られた。

 明治に完成した月野隧道は旅人のためではなく、山の中腹にあったという病院に勤める地元住民の生活道路として、また峠越えの主要道路へ抜ける裏道として利用されていた。ところが昭和になってこの地にも鉄道が通り、さらには峠の病院が閉鎖されると、人々の足は次第に隧道から遠退き、今から十年前に新しい道路が開通したのちは、その用途を完全に失った。老朽化もあって月野隧道は現在、通行禁止となっている。いわゆる廃トンネルだ。

「まあ、こんなもんかな」家具の配置でもたしかめるような調子で三朝さんは言った。

「さすがの貫禄ですな」一方、空は横綱を讃えるような口ぶりだ。

 二人の前で月野隧道が口を開けている。そのサイズと内部の暗さのためか、本当に崖があんぐりと口を開けているように見える。ようやく車一台が通れるか、それもSUVとかの車高のある車だったら、ボンネットが引っかかってしまうほど低く狭いトンネルだ。

 ところどころ剥落している煉瓦に絡みつく木蔦と、サンデーだかビックコミックスピリッツだかもわからないほど雨を吸ってぐずぐずになった漫画雑誌が、いかにもという禍々しさを醸している。立ち入り禁止の立札もあるにはあるが、立ち入りを禁じているわりには柵もフェンスもなく、誰もが容易に侵入できるようになっている。

 風を感じないのに、頭上で梢がさわさわと音を立てている。

「虫よけスプレーしてくんの忘れた。長尾、持ってないよね」やぶ蚊を払いながら、三朝さんはぼやいている。

 住宅街を抜けて、くねくねと曲がる細い山道を三十分も歩いた。葉の旺盛に茂る匂いがした。人通りはまったくない。日が暮れるにはまだずいぶんあるはずだが、日没前の気配が密にたゆたっている。

「これって笑ってるの?」ひざを折った三朝さんが、苔むすお地蔵さんの顔をのぞきこんでいる。

 月見隧道が廃トンネルの憂き目に遭ったのは、利用する人がいなくなったからなのだが、その前段として利便性が失われたこととはべつの理由がある。二人がここへ来た目的がそれだ。すなわちユーレイ話である。たびたび戦の舞台となったこともあり、落ち武者の霊が頻繁に目撃されるらしい。鎮魂のために奉納された地蔵菩薩が笑っていると、無事にトンネルから抜け出ることができないという噂だが、お地蔵さんは笑んでいるようにも笑んでいないようにも見える。慈悲深いお顔をなさっているとしか言えない。

「知ってる?」気づけば、三朝さんは手を合わせている。意外と信心深い。

「なにを?」空も並んで目を閉じる。

「私たちは百年前の人とすら、ちゃんと会話ができないんだって」

 いわく、若者の言葉が乱れていると大人たちは嘆くけれど、そんなものは今に始まった問題ではなく、どんな国の言葉でも百年経てばがらりと変わってしまうのであり、昔の人、ましてや落ち武者ほど年代をさかのぼってしまえば、よしんば霊と出会えたとしても意志の疎通は叶わないという。

「三朝さん、恐いの?」

「ただ者だな、君は。どうしてそんなふうに思うの」

「だって、無理しているみたいに見えるから」

 待ち合わせの場所からの道行、嫌なことを頭から追い払わんとする人みたいに三朝さんは饒舌だった。恐怖心がそうさせていると、空は解釈したのだ。

「べつに、恐くなんかないよ」

「そう? じゃあ行きますか」

「え、行くの?」

「行かないの?」

「だよね。はい、行きます」

 嫌なことはべつにあるようだが、三朝さんの声にはいつものポキポキとした腰がない。

 セブンのアイス売り場みたいに、そこに物の隔たりがあるのでもないのに、外と中では空気がたがっていた。黴臭く、肌にまとわりつくようにもったりとしていて、台風の前に吹く風に似た不穏な感じがする。

 人工の明かりを投じると、淀みにマーブル模様の乱れが生じる。ダンジョン探索のように気持ちが昂らないのは、この空気のせいか。たいまつだったら、少しは感じが出たのかもしれない。

「なにその持ち方?」

 マグライトと同様に空は明かりを逆手に持っているが、肝心の懐中電灯が下手したらラジオだってつきかねやしない、防災を主眼としているごつい代物だけにダナム捜査官とはほど遠く、運動会で我が子の晴れ姿をハンディカムにおさめようとがんばるお父さんにしか見えない。

 咳払いをすると、実際以上に大げさに響いた。

「なにも落ち武者だけというわけじゃないんだ」三朝さんの問いを、空は聞いていないことにしたようだ。「もともとこのトンネルは、なんのために使われていたのかわかる?」

「この先にある病院に行くため?」

「正しくは、あった、だ。今は取り壊されて跡形もない」

 そんなことは知っているというように、三朝さんは鼻を鳴らす。「だから人通りもなくなったんでしょ」

 地面に吹きだまった枯葉が腐っている。コンクリートで覆われたトンネルを、空を先頭にして歩く。三朝さんは何度もうしろを振り返った。十数歩進んだだけなのに、坑門が遠くに見えた。日暮れ時のように感じていたが、中から見ると外がどれほど明るいのかということがよくわかる。図体は大きいというのに、光はマグライトよりはるかに心もとなく、前方の闇を薄めるばかりだ。

「じゃあその病院は、どうしてなくなったんだと思う?」

 誰にもなり切れていない分、空の声は落ち着いている。その物言いに不吉な影を覚ったのか、三朝さんの手にぎゅっと力が入る。

「結核を専門に扱っていたんだ」

「結核って、あの?」

 昔はテレビドラマで不治の病といえば、心臓病か結核と決まっていた。咳きこみ、口を押えた手を見て「血だ」なんて、今ではパロディでも使われない。

「もっとも、治療っていったって有効な方法のない時代だから。意味合いとしては、隔離施設といった方が近い」

「どうしてなくなったの?」

「そこなんすよ」空の饒舌は、三朝さんとはべつのベクトルを持つ。

 湿った足音が交互に響く。三朝さんの息ざしが乱れている。二人の後方で、天然の明かりは早くも絶えようとしていた。目が暗がりになれる一方で、明かりの向こう側に現実の世界が広がっていたという実感が、早くも薄れつつある。

「院内感染だよ。病院の中で、結核の菌が広まってしまったんだ」

「先生とか、看護婦さんにも?」

「ほぼ全滅だったそうだよ。施設は閉鎖され、役場の人が入って消毒を終えるまで、この道も封鎖されたという記録が残っている」

 空はそれを、図書館にあった文献の山からひとりで掘り起こしたのだ。その努力と饒舌の根は一緒だ。

「じきに封鎖は解かれたけど、それ以来このトンネルでは、たびたび口から血を流したユーレイが目撃されるようにもなった」

 喉が鳴った。木枯らしが桟のすき間から吹きこむような、冷え冷えした音だった。三朝さんはサスペンスドラマで死体を発見した主婦がそうするように、口に手を当てている。

「どうしたの」

 空はユーレイの真似をして人を驚かすアレをして振り返ったが、三朝さんはあらぬ方を見ている。

「い、いま、ワタシ、ナンカ蹴った」イントネーションがどこかおかしい。

 前方にライトをかざすと、奥の方で白くて丸い物体がころころとゆれていた。

「骨? 長尾、あれ絶対に骨だって。人の頭」

「どれどれ」おじさんに見せてごらんと、機械の不具合でもたしかめるような調子で空はひとり先へ行き、しゃがんで物体に光を合わせる。

「ヘルメット。いい感じに汚れているから、そう見えたんだよ」

 なにがいい感じなのかはいまいちわからないが、入り口付近では紙パックの空き容器や煙草の空き箱だったものが、奥へ進むうちにタイヤのホイールや、ブラウン管の割れたテレビが目につくようになった。ヘルメットぐらい落ちていてもおかしくはないのだが、そんなことよりもこれらの粗大ゴミが示す可能性が、空の面ざしを曇らせる。考えを打ち消すように、空は立ちあがって進むべき方向を照らした。

 しずくが地面に触れる音がする。ところどころで水が伝う壁にあいた手を添えて、点検するみたいにひたひたと叩きながら空は歩く。小さな水たまりを踏むたびに、三朝さんは背筋を打ち震わせた。

「それだけじゃない」歩みをとめた空は、己を鼓舞するように言った。

「まだなんかあるの?」

 ほらここ、という感じで、空は壁に当てた光を小さく左右にゆらした。ひびの入ったコンクリートに、高さ一メートルほどの鉄板が埋めこまれている。右手の位置に輪っか型の引っかかりあることで、扉だとわかる。そうとう古い造りのものだ。

「この一帯は特に空襲がひどかったのは知ってる?」

 三朝さんは、すくみあがるようにふるふると首を振る。輪に指をかけて何度か引いても、扉はびくともしない。

「戦時中、このトンネルは防空壕としても使われていたんだよ」

 押すのだということがわかると、空はそっと左手を添えた。錆びた音を立てながらも、扉は意外にもあっさりと開いた。その奥には、さらに濃い闇がガスのように充満していたものの、空は躊躇するそぶりも見せずに首をすくめて仕切りをまたいだ。え、マジすか、みたいな顔で三朝さんは見ていたが、こんなところに置いて行かないでよと声を震わせ、慌てて空にならう。

「みんなここへ逃げこんだんだけど、なにぶん狭いものだから、仕方なしに当時の人たちはもとあった道に、さらに横穴を掘り進めたそうだよ。だけど、ここはそんなに地盤も強くないし、ましてや急ぎ仕事だったもんだから、作業中に天井が落ちて生き埋めになった人も出たらしい」

 支道はそれまでの道よりさらに狭く、天井も頭すれすれの高さだった。まさに穴という感じがして、アニメのようにコウモリの群れが逆さに張りついていてもおかしくはない雰囲気だったが、コウモリどころか生の気配は微塵もしなかった。

「生き埋めになった人たちが助けを呼ぶ声が、今も聞こえるんだって」

「幽霊のデパートみたいな場所なんだね」さすがに見本市とかは言わないけど、Amazonとかドンキと形容されないことに妙に打たれた。

 息を吐くやいなや、三朝さんはびくんと跳ねた。喉は鳴らなかったものの、つかんでいたシャツを引っ張ったために空の首が絞まり、光がひるがえった。

「今度はなに」

「い、いま、ヒトのコエ、キコエタ」心の乱れた三朝さんはカタコトになるらしい。

「助けてくれって?」早くも空の声は踊っている。

「そうじゃなくて、笑い声、男の人の」

 空は支道の先に向けて、かき分けるような光を送った。目をつむって耳を澄ませても、なにも聞こえなかったらしく、自分の顔の横に手の平をかざして「空耳じゃないの」と返したが、三朝さんにはダジャレに反応する心の余裕はないようだった。

 真っすぐだった道は、大きく右へ傾いだ。道を掘り進めた人々が、巨大な岩につき当たって迂回したのだろうか。分岐はなかったから迷う心配はなさそうだが、今自分たちがどのあたりにいるのかあいまいになってくる。ただ足を踏むほどに、闇はどんどん深くなっていくようで、核心に近づきつつあるという予感だけがひしひしと感じられる。

「オルフェウスの話って知ってる?」ビブラートのかかった声で、三朝さんが尋ねた。

「うちにあるよ」空が言っているのははらぺこ亭の小上がり、てふのテリトリーにある池田理代子作『オルフェウスの窓』のことだ。

「最愛の妻を取り戻すために黄泉の国へ行ったオルフェウスが、どうして最後の最後に振り向いてしまったのか、長尾にはわかる?」

 空は、はてそんな話だったかと、腑に落ちない表情をしている。

「ねえ長尾、やっぱりさ」

 三朝さんの言葉は背に遮られた。前を行く空が、急に立ちどまったのだ。

「着いたよ、三朝さん」肩越しに行きどまっているのが見える。そこに、さっきと似たような鉄の扉がある。「ここが月野隧道の最深部だ」

 飲み物の容器や不法投棄の粗大ゴミは、そこに人の立ち入りがあったことを示しているが、そもそもこの月見隧道はおいそれと誰もが踏み入ることのできない、盛巳最恐を誇る心霊スポットなのだ。そしてこの最深部、禁断の部屋と呼ばれる扉の向こう側は、月野隧道でも吹きだまりのように霊が集まる場所とされている。過去に遊び半分で入り、帰ってこられなくなった者や、恐怖のあまり気がふれて廃人となった者の噂はあとを絶たない。

 持っていた懐中電灯をひざの間に挟み、両手で軽く頬を叩く。なんだか、助走前の走り高跳びの選手みたいだ。手の汗をズボンでぬぐい、明かりを持ち直す。目に薄っすらと涙を浮かべていやいやと首を振る三朝さんをよそに、空は光を扉に当ててぐっと押し開く。

 さらに広がる、あらゆる色を混ぜこんだようなぬばたまの闇には、自らの首を抱えた落ち武者や、胸もとを鮮血に染めた白衣の看護婦や、生き埋めにされた国民服姿の骸骨たちがいる。

 いない、のかどうかもわからない。というのは内部に明かりを差し入れたと同時に、こちらを射す光に目がくらんだからだ。あとから来る者に気づいて、待ちかまえていたといった感じの照らし方だった。

 ただ、視界を奪われたのは向こうも同じようで、手で顔を覆いつつ「誰だお前!」と怒りをはらんだ太い声が立った。しん、という文字が見えそうなほど短く濃ゆい沈黙がおりる。

「長尾、やばいよこれ」

 草庵風の茶室を思わせる狭い空間を、地面に立てたZippoが照らしている。

「なんだよ、まだ子どもじゃないの」中指で銀縁めがねのブリッジをあげたのは、これといった特徴のない、どちらかと言えば進学校に通っていそうな普通の男の子だった。

「あんだよ。ビビらせんじゃねえよ」怒声をあげたのはこっちだ。白に黒のドット柄のだぼっとしたジャージ姿で、リーゼントに剃りこみを入れた絵に描いたようなヤンキーだ。

 こんなとこなにしに来たんだよ、あ? 竜馬。Gペンで引いたような眉を吊りあげて、空の鼻先にヤンキーは額のしわを寄せる。

 ユーレイでなくてさぞかし落ちこんでいるのかと思えば、空は小鳥を見つけた猫のような目をしていた。ろくでなしBLUESの実写版を見たような心持ちなのかもしれない。

 高校生だろうか。スカルのネックレスがなんとも青臭い。漫画なんかだと、膂力に勝るヤンキーが銀縁めがねを従えているように思わせて、そのじつ裏でヤンキーを操っているのは一見おとなしそうに見える少年という支配関係があるのだが、はたせるかな「いいことしようとしてたんじゃねえだろうな、マセガキがっ」とすごむヤンキーの肩をぽんぽんと叩き、「そんな怖い顔することはないんじゃない?」と銀縁めがねがたしなめた。

 咳きこんで手に血がくらい古典的な組み合わせだが、悠長に笑ってもいられないのは、ヤンキーの足もとを見れば、ビールの空き缶のほかに乾燥した草を小さな紙に巻いた跡があり、かつなにかを炙った匂いが漂っているからで、現に銀縁めがねの奥は焦点が合っていない。おまけに、手にはナイフを持っている。こういう奴の方が、心の根がねじくれていそうで厄介だ。ヤンキーが口にした「いいこと」とか「マセガキ」という言葉が、かわいらしく思えてくる。

「ねえ、この子よくない?」銀縁めがねの興味は、三朝さんに移ったようだ。

 同様に、ヤンキーもへらへらとしている。勢いごんでいたから呂律の乱れには気づかなかったが、目は潤み、だらしなくゆるんだ唇から透明な糸が伝い落ちたような気がした。

 あとじさりしながらも、三朝さんは距離を測るようにすばやく視線を走らせた。その目は空とはちがって、現実的な手段を求めて発色していた。ヤンキーがじりりとつめ寄るように半歩足を進め、銀縁めがねが手をのばす。

 風もないのにZippoの炎は大きく形を変え、壁に映る影を躍らせていた。

 不意に、寝返りを打つような気勢のなさで、空は三朝さんと向き合った。つまりはヤンキーと銀縁めがねに背を向けたのだが、その目は二人を睨みつけている。

「三朝さん」空は両腕を広げて、かばうような姿勢になる。

「へ?」

 小鼻がぴくぴくとうごめいている。

「オレにかまわず行くんだ!」

 ウォーズマン!

 銀縁めがねとヤンキーが「はぁ?」と声を揃えるより早く、「ばがっ」と濁点が一個か二個では足りないくらいの、腹の底に響くような叫びがあがった。

 こういうのを火事場のなんとかというのか。三朝さんはもぎ取るように空の手首をつかんだ。銀縁めがねとヤンキーに顔を向けたまま空は、布のように後方にたなびく。足を踏ん張ってみたが抵抗むなしく、次の間には空の体は扉の外に引きずり出されていた。恐ろしいほどの瞬発力である。

 呆気に取られていた銀縁めがねとヤンキーも、我が秘め事をチクられると危ぶんだのか、「ちょっと待ちなよ」、「ふざけろよ!」と口々に声を尖らせてあとを追おうとするが、やはりラリっていたのか足もとがおぼつかない。

 天井の低い支道でも、小さな二人は難なく走り抜ける。背丈のある二人は中腰になる分、どうしてもスピードに乗れず、両者の差は広がった。この期におよんでも不承の声をあげる空に三朝さんが、「お願いだから言うこと聞いて!」と怒鳴りつけると、どうやら心を入れ替えたらしい空はすぐさま三朝さんを抜き去り、今度は逆に空が三朝さんの手を引く恰好となった。運動を司る神経にだけは恵まれなかった三朝さんは、校内一二を争う鈍足なのだ。

 扉を引いて支道から本道に戻る。銀縁めがねとヤンキーのコンビは、怒声をあげながらなおも執拗に追いかける。毛穴が開いたことで多少は意識がまともになったのか、広い道に出て思うさま体が動かせるようになったからか、またヤンキーの方はなにかのスポーツをしていたのかしているのか、手足を短距離選手のように猛然と振って駆ける。二つの光が不規則な軌道を描き、ひるがえる。

 空に引っ張られる三朝さんは人骨と言っていたヘルメットを蹴り飛ばし、途中何度もつまずきながらも、そのつどなんとか体勢を立て直して走るが、その差はどんどん縮まっていく。

「もう少しだから」空は背後の三朝さんに声をかける。

 自然の明かりが見えた。点はゆれながら、にじむように広がっていく。外に出たからといって逃げ切れたことにはならないが、それでもここさえ乗り切ればなんとかなるという算段が、空にはあるのだろうか。ヤンキーの後方で銀縁めがねが発したうめき声は、あきらめの響きを帯びていた。

 あと数歩というところまで来ていた。オルフェウスのように振り返らなかった。

 生ある世界へ帰還したはずの生身が、外に出たとたんに弾き返され、尻もちをついていた。勢いそのまま三朝さんもつんのめって、覆いかぶさるように倒れた。ぎゃっ、と尻尾を踏まれた猫のような悲鳴があがる。

 最初は見えない壁にでもぶち当たったのだと思った。明るみに目がなれて、それが人であるらしいとわかったのか、仰ぎ見た二人の目が似たように丸まった。まさにそびえ立つように前方をふさぎ、空を見おろしているのは、銀縁めがねとヤンキーよりもさらにひとまわり上背のある男の子だった。

 胸に般若と炎があしらわれた黒のロングTシャツを着ていて、体に張りつくようなぴったりとした生地を透かして隆起した筋肉が見える。幅の狭い金フレームのサングラスを外した時に、菊十六文の数珠ブレスレットが鈍く光った。天津飯でなく魔ジュニアを思い浮かべたのは、スキンヘッドにしているだけではなく眉まで剃り落としているからだ。一般の市民には見えない。どう見てもあっちの人だ、というのは言い過ぎだとしても心健やかな生活を送っている人には、とても思えなかった。

「だいじょうぶ?」見た目とはかけ離れた、ひどく鷹揚な口調で魔ジュニアは言った。

 相当の勢いでぶつかったはずだが、蚊に刺されたほどの反応も示さない。空も三朝さんも、音がしそうなくらいみごとにぽかんと口を開けている。

 魔ジュニアは顔をあげた。

 追いついたヤンキーは息を弾ませながらも、「逃げられると思うなよ」とするどく啖呵を切る。ジャージの柄は101匹わんちゃんだった。日頃の運動が不足しているのか、三朝さんと同じくただ音痴なだけなのか、はたまたその両者なのか、銀縁めがねは息も絶え絶えトンネルを飛び出しひざに手をついた。

 いかつさからすれば柴犬とドーベルマンほどの差があるが、それでもヤンキーたらんとする意志がそうさせるのか、そのまま接吻でもするんじゃないかとひやひやさせられる距離に顔を近づけたヤンキーは、「おめえ誰だぁ? てぇー出すんならただじゃおかねーぞ」と噛みつくような声を張った。

「逃げられると思うなよ」とか「ただじゃおかない」とか、いちいちまっとうだ。本式という感じがする。伝統や格式を重んじるタイプなのかもしれない。

「おいバカっ、ちょっと待てよ」銀縁めがねが舌打ち交じりで吐き捨てた言葉は、空に向けられたものではない。というのもどうやら魔ジュニアを知っているようで、顔をあげてその存在を認めたと同時にはっとした顔をしたからだ。表情を変えたというよりは、すとんと色が抜け落ちるような感じだった。

 仲間同士の耳打ちが行われ、ヤンキーは大衆演劇の役者のように細く整えた眉をあげる。

「てっちゃん、ヤバいよ」わなわなと震え、二歩三歩とうしろに引き、銀縁めがねは疲労が足にきているのかつまずいて尻を地面につき、ぎこちない動きで背中を見せて、こらえ切れなくなったみたいに、言葉にならない声を喚き散らしながら駆け出した。「覚えてやがれ!」とか言ってくれたら、完璧だったのに。

 銀縁めがねとヤンキーだけがどたばたと舞台で立ちまわり、残された三人は背景の書き割りのように動かずにいた。いや、少なくともうち二人は動けずにいたのだ。

「怪我はない?」さっきの続きみたいに、つまり銀縁めがねとヤンキーなど登場しなかったような口調で尋ねた魔ジュニアは、二人に手を差しのべた。

「私たちなら、だいじょうぶです」三朝さんだけが手を取った。

「こんなところでなにしてたの」

「幽霊です」と答えたのも三朝さんだ。空はぺたりと尻をつけたまま、石化したみたいに動かなかった。「幽霊が出るって噂だったから、自分たちの目でたしかめようと中に入ったんです」

 そうか、とつぶやいた魔ジュニアは、ようやく表情らしい表情を見せた。なぜか我が身の醜態を恥じるように、口の端をゆがめたのだ。

「それで、会えたの?」

「いえ。奥にさっきの人たちがいて、追いかけられただけです」

 魔ジュニアは苦しげな面ざしを保ったまま、声をあげずに笑った。飛び抜けて肌が白いから、口の粘膜が血のように見えた。

「こんなところに幽霊はいないよ」

 それを逆説的に、べつの場所ならいると言っているのだと都合よく解釈したらしい空は、ようやく己を取り戻し慌てた様子で腰をあげた。

「あなたは?」悪漢から救われた町娘が言う、せめてお名前だけでもみたいなしおらしさで空は尋ねるが、魔ジュニアは「ここはああいう奴らのたまり場だから、近寄らない方がいい」と言い残してペダルを踏んだ。またがったことで、初めてかたわらに自転車があったのだとわかった。Tシャツの背中は梵字でびっしりと覆われている。

 二人とも、引き留める言葉を持ち合わせてはいなかった。頭上で騒いでいた梢が今はおとなしい。トンネルに入る前より、いくぶんひんやりとした空気が漂っていた。

 あ、遠ざかる背を眺める空の足もとで声があがる。お地蔵さんが、今ははっきりと笑っていたからだ。ただそれは不吉な感じはまったくせずに、よきものの兆しのように見えた。


「ありゃきっとヤバい人だよ」自販機で買った三ツ矢サイダーで喉を鳴らしてから、三朝さんは言った。月見隧道ではがたがたと震えていた声の根も、すっかり平常に戻っている。漫画で死んだはずのキャラが、次の巻ではなに食わぬ顔で復活しているみたいな太々しさだ。

「でもさ、怪我はないって気づかってくれたじゃない」

「言葉なんて、うわべだけのもんでしょう」

「三朝さんも見た目だけで言ってるじゃん」

「ただ者だなあ、君は」

 飲む? 勧められてもいいやと首を振る。今回もユーレイに会えなかったという事実がボディブローのように効いているのか、空は言葉少なげだ。

 魔ジュニアが去ったとたんに、舞台がみすぼらしい楽屋に変わった。気づまりを覚えたのか、どちらからともなく歩き始めた二人がそれでもなお黙りこくっていたのは、うまく現実を取り戻せなかったからだろう。曲がりくねった道をくだり、通りを行く人の気配がするようになって、ようやく三朝さんが「喉乾いた」と口を開いた。

 遠く、ししししとヒグラシが鳴いている。横に並んであてもなくぶらぶらと足を動かした。行きもそうだが、けっこうな距離があっても自転車を使わないのは、やはりテクニカルな理由で乗れない三朝さんを慮ってのことだ。

 天然の光が頬に優しい。じめっとしていない空気がこれほどありがたいとは。とうに梅雨は明けているのではないかと思うほど風はからからと軽く、もう何日も雨の匂いを嗅いでいないと遅れて気づく。大きな円を描きながら、ムクドリの群れが寝床に戻っていくのが見えた。

 背の中ほどまでのばした黒髪がゆれる。デコルテのラインに沿ってフェイクパールのついたカットソーに、デニム風のガウチョパンツを合わせる三朝さんは、ニッセンのカタログに載っている娘役のモデルみたいだ。洞窟探検には向かない服装だが、せめてという感じで履いているデッキシューズがこれまた似合っている。銀縁めがねはろくでもない奴だったけど、「この子よくない?」と言っていたのにはうなずける。

 それに引き換え空は、暁に海人Tシャツをプレゼントした人が、べつの旅行の土産としてくれた「竜馬」と胸に大きくプリントされたシャツに、ケミカルウォッシュのような味わいのジーンズという恰好だ。そのシャツだって、三朝さんが終始つかんでいたせいでだるだるにのび切っていた。おまけに、でかい懐中電灯を持ち出すためのリュックサックを背負っている。三朝さんと親密な関係にあるとヤンキーは勘違いしていたが、どう見ても姉弟、それも両親が離婚して姉は東京に引き取られ、かたや弟は祖父母の住む田舎町に引き取られて早五年が経つ、みたいな落差がある。

 排ガス臭い国道を避けて、一本入った通りを行く。どこかの家から酸化した揚げ油の匂いが流れてくる。野菜を煮る甘やかな匂いも、肉を炒める香ばしい匂いもする。

 今さらビックリマン? 誰がどうやってあんなところにヘッドロココを貼ったんだろうと思わせる一方通行の道路標識も、塀からはみ出るほど枝振りの立派な黒松も、ビニールハウスでぱんぱんになるまで育ったトマトも、ただ遠ければよいというわけでもなさそうなルールで靴飛ばしをするブランコの子どもたちも、みんな等しく夕暮れていた。

 古い住宅地を越えて、それより若干新しい団地の群れを横目に歩いていくと、商店街が見えてくる。デザインし直された駅の東側とはちがい、西は代を継いで営む商店が多い。時流に沿って生まれた店でも、ヤマザキショップとかカネボウ化粧品とか、ホビーショップ何某とか、風景としては昭和の世から動いていない。

 買い忘れたのか、ぺしゃんこのエコバッグから白ネギだけをのぞかせた女の人が、小走りですれちがう。売り残すまいとしゃがれた声を張る八百屋さんの隣では、ゴムホース片手に魚屋の主人がトロ箱を洗っている。郵便ポストの上で、毛づくろいを中断した三毛猫がうしろ脚をぴんとのばしたまま、横目で空を睨んでいる。豆腐売りのラッパが、通りをとろとろと流れていく。統合された意志によってではなく、こういう日常の営みによって町は形作られるのだし、今もなにかの形に向かって絶えず進んでいるのだ。

 懐かしく、どこか物悲しくもあるオルゴールのような単音のメロディーをなぞりながら、アイスの移動販売車が行く。プールバッグを振りまわしながらそれを追いかける男の子たちが、空の横をすり抜けていく。

「もう夏休みだね」手をつないで横断歩道を渡る親子を、三朝さんは眺めている。

 空は聞いているのかいないのか、よくわからないあいまいな声を返す。ぷくぷくとしたやわらかそうな手を、節くれ立った太い指と、つるりと彩られたしなやかな指が引く。女の子は宙ぶらりんになったまま、もっともっとと甘く鼻にかかった声をあげている。

「私たち、なにしてんだろ」三朝さんの言葉は、目の先を行く女の子と今の自分との距離を省みているように聞こえる。

「次はどうしよう」空は尋ねるが、三朝さんは意味を取りちがえたようで、「まだ時間あるから、カラオケでも行く?」と声を明るくした。

「帰んなくて平気なの」空もあえて訂正しようとはしない。

「今日は、パパもママも遅くなるって」

「じゃあ、うちでご飯食べていく?」

「マジ? 行く行く」北斗の拳読まないとだしね、と今度はここにいる自分を説き伏せるように言って来た道を戻ろうとした矢先、iPhoneの音が鳴った。だから空の着信ではないと、すぐにわかる。

 三朝さんの眉があがる。一天にわかに掻き曇るといった感じで、風の吹く向きまでが変わった。手の中で鳴き震えるスマートフォンを異物を見るような目つきで三秒ほど眺めてから、あきらめるように深く息を吐き、指をスライドさせて耳に当てる。きゅるきゅると音を立てて排水溝に吸いこまれるみたいに、それまで漂っていた親密な空気が渦を巻いてなくなっていく。

 うん、うん、そう、うん、うん、わかった。受け答えに否定はなく、表情にも動きはなかったが、それらのことがかえって三朝さんの感情を表していた。

「長尾ごめん。帰らなきゃいけない用ができちゃった」北斗の拳はまた今度ね、と言って努めるように広げた唇に薄っすらと色がついていることに、今さら気づく。

 ねえ。呼びかける空の声よりわずかに早く、思い出したように三朝さんは言った。「あれ、やっぱり人の骨だったんじゃない?」

 遠くにたなびく雲が、藍色に染まっている。夜と、夜ではないものの狭間にいるのだと、強く意識する。細い月が空を引っ掻くようにかかっているが、星はひとつも見えなかった。

 じゃあ、と言って手を振る三朝さんの頼りなげな背中は、頭から追い払いたかったなにかを明らかにしていた。


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