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赤シャア少佐にドストエフスキーを  作者: 坂中田村麻呂
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赤シャア少佐にドストエフスキーを

 1


 よるべなく振れていた目が、ようやく夜に沈んだ学び舎を見あげた。

 バックライトが闇をあいまいにする。天色に染まるまなざしが時を刻む。職員室の窓明かりが消えてから、通用口の戸締りが終わるまではおよそ三分。その間、視線は幾度も高下した。でこぼこした雲のかたまりが形を保ちつつ、押し流されるように渡っていく。そこに、光の源となりそうなものはなかった。風がふくらむたびに背後のけやきが騒ぐ。土でもなく草でもない湿った匂いがして、少し不穏な感じがする。ひょっとすると、このあとひと雨あるのかもしれない。

 すわ時は満ちたというように、空の手はつばのついた帽子を深くかぶり直した。浅くひざを曲げ、腰を落とした体勢のままで焼却炉から離れて中庭をつっきる。花壇のサルビアが暗い夜にあらがうように、みっしりとした色を放っている。すぐそばで鳥の発つような気配がした。地を這う者たちの声は強かながらも、どこか濡れているようでもあった。気取られぬようにと、一個体一個体が気を逃すように密やかに泣いている。気は上空で凝結し、地上に戻る。だから降るように聞こえるのだ。

 本校舎の吹きつけタイルの壁に沿って植えられたカイズカイブキに身を寄り添え、亀のように首をのばしてあたりの様子をうかがう空は、黒のスウェットにベストという出で立ちだ。しまむらの2000店舗祭で買ったスウェットのかんたんな作りに比べて、ナイロン地のベストは前面にいくつもポケットのついた凝った仕様で、工具袋というのだろうか、よく大工さんがつけているようなポーチ様のバッグを腰に巻いている。恰好といい身のこなしといい、なんだか「スパイ大作戦のテーマ」でも聞こえてきそうな感じだ。

 唇がすぼまり、頬がふくらむ。ズボンで手の汗をぬぐうようなしぐさも見せるが、瞳の濃さはいや増している。

 誰に対してかは定かでないが空は浅くうなずき、中腰のまま窓に歩み寄って壁に背をつけた。頭上にのばした手が、なにかをまさぐるように宙を切る。やがて手ごたえを得たのか、巻き取るように人差し指が小さな円を描く。かかり具合をたしかめてから、必殺シリーズの組紐屋の竜みたいに肩にかけた糸を引くと、回転錠はからりと軽い音を立てて外れた。なんでもできますよと豪語する人がじつはなにもできないのと同じで、多目的を謳っておきながらめったに使われることのないこの教室のサッシ窓にしかけを施したのは、数時間さかのぼってのことだった。

 頭より高い位置にある窓でも、小さな影はやすやすと乗り越えて侵入を果たす。セコムにもALSOKにも入っていない盛巳中学校の防犯体制は、極めて脆弱である。

 窓を閉めることで、外の世界がいかに音にあふれていたかを知る。それと、静寂というものが水のようにすき間なく空間を満たすのだということも。どこか甘やかで丸っこい木の匂いがする教室には、まだ日盛りの暑気が残っていた。

 わずかに引いただけで、戸ははなはだ非難がましい音を立てる。空はそれ以上開くのをやめて、すき間に右肩を滑りこませた。

 あらゆる建造物で廊下はひんやりしていると相場が決まっているが、夜の学校は格別だ。月の裏側にいるみたいな、救いのない冷気が漂っている。もちろん、月の裏側なんて行ったことはないのだけど。

 真空を思わせる光が、ぽっと灯る。洞窟壁画のような引きのばされた影が、つるつるした床に横たわる。廊下のところどころには消火栓の赤い光があるから、歩くのに差し障りがあるほど暗くはないのに、空は映画でよくFBIの捜査官やSWATの隊員がするようなかまえで、マグライトを逆手に握っている。前方を照らしつつ余計な音を立てぬようにと足を忍ばせるが、その慎み深さとマグライトは明らかに矛盾している。コンパクトさのわりにしっかりとした光が、外にいる人に侵入者の存在を知らしめることは空も承知している。つまり、わかっていながらあえて危険を冒しているということになる。

 本校舎には一年から三年生の教室がある。机と椅子が乱れなく並ぶ光景は、そこから生徒と光が払われただけでまるでたがって見える。正面を向いた男性の顔がじつは横顔にも見えるみたいな、だまし絵のもう一方の見え方を発見したような感じがして、黒板に残されたのび太の落書きも、のび太が言う「こんなにこまってみせているのに」という吹き出しも、なにかべつの、心がひやりとするような意味を帯びているんじゃないかという気がしてくる。

 給食室の前には、「いじ芽なし みんなで笑顔を 咲かそうよ」の標語ポスターが貼り出されている。県の最優秀賞受賞者として三朝(みささ)凛の名前が新聞に載ってからというもの、ここを通るたびに我がことのように小鼻がふくらむことを、空自身は知らない。

 空はピストルの形にかまえた左手首にマグライトを添えた。丸いLEDがゆらめき、ペンキの匂いの残るつるりとした壁をなでるように移動する。つま先立って段をのぼり、届かない光の先まで見定めようと、虚空につかむような視線を送る。

 踊り場を継いで二階へあがると、一転、空の足は北を目指す。二年三組の廊下側の窓に古新聞が貼られているのは、壮絶な喧嘩があったわけでも、誰かが夜の校舎窓ガラス壊してまわったわけでもない。ふざけた男子が掃除の時間に寄りかかったのだ。

 三クラス分進んだところで、気配を察した空は屈みこんで反射のようにマグライトのスイッチを切り、腰の道具袋に戻した。耳を澄ませると、蚊の羽音に近い。刑務所のサーチライトみたいに後方から前方へと流れていく光の束は、窓から差すものだ。声変りしていないヤンキーのような痛々しい排気音が、尾を引いて遠退く。

 静けさが戻ってしばらく経っても、空はそのままの姿勢でいた。さすがに肝を冷やしたのかと言えばそんなことはなく、なにをひらめいたのか空は前のめりになって床に寝転び、うつ伏せたまま前進を始めた。

 両のひじを交互につき出し、蛙のように開いた左右のひざを支点にして、ずんずんと上半身を押し出す。すぐに汗がにじんでスウェットを湿らせたが、息はほとんど乱れていない。始まりはうんしょ、よっこいしょという力むような調子だったのだが、なれてきて興が乗ってきたのか、だんだんスピードがあがる。帽子のせいで目もとは隠れているが、口もとは笑んでいるようにも見える。ナイロンとタイルがこすれてかさかさと音を立てる。ピクトグラムの緑を鈍く反射する床に、波型の跡が残る。夜の学校でひとりほふく前進をしている人に出くわしたら、誰もが恐怖のあまり腰を抜かすだろう。尋常ではない速度で床を這うその姿には、機敏なゾンビみたいな気味の悪さがある。

 職員室前の掲示板に各部の活動報告が貼り出されている。女子ソフトテニス部の県大会出場が大きく報じられ、隣の陳列棚には歴代の諸先輩方の活躍を誇示するかのようにトロフィーや楯が飾られているが、いずれも自分には縁もゆかりもないものだと言わんばかりに、空はその前を通り過ぎていく。どれほど速く進もうが、不気味なほふく前進に陽の光が当たる日は訪れない。そのことに気づいたのかわからないが、空はぴたりと這うのをやめると立ちあがり、何事もなかったかのように服の前面を払った。毎日欠かさず掃き掃除をしているというのに、どうしてこうも埃っぽいのだろうと怪訝な顔をしている。

 渡り廊下に差しかかると、先ほどまでじっと息をひそめていた焼却炉と中庭が見えた。やはり雲に切れ目はない。午後九時にはすべての灯りが落ちると調べをつけて待機していたのだが、今日に限っては一時間が経過しても灯りは消えなかった。期末テストの採点に手間取ったのだろうか。本格的な夏がすぐそこまで迫っているとはいえ、長く夜風に吹かれていれば芯が冷える。

 西校舎には図書室や工芸室といった教室があり、本校舎と比べれば普段生徒の行き来がない分、空気が澱んでいるように感じられる。少しのためらいも見せず、空の足は美術室前の男子トイレに入る。なにももよおしたからではない。それが証拠に、指はベストのポケットから丸めたアルミ箔を取り出し、奥から二番目の個室を開けて便座の前に塩をまいた。

 トイレから出ると次は西校舎の奥へ向かい、一段飛ばしで三階へ到達する。その一連の動きに迷いはないどころか、むしろ作業的にさえ見えるのは、事前の準備があってのことだ。そう、空は頭の中で何度も繰り返した行動を、現実のものとしてなぞっているに過ぎないのだ。

 ベートーヴェンの光る目や、誰もいないのに流れる『エリーゼのために』にもうしろ髪を引かれるが、空は音楽室を素通りして理科室の扉に手をかける。もちろん、踊る人体模型に会うためでもない。

 事前に購入したアルコールランプに、すったマッチで火を灯す。折り畳んだものを開いても五センチ四方に満たない小さな紙になにかをしたためてから、「サトル君、サトル君、僕はあなたの仲間です」と唱えて燃やすと、ふたをして火を消し、空は理科室をあとにした。

 西校舎の屋上へと続く階段の踊り場には、古びた姿見がある。その前に立った空は、またぞろ逆手に持ったマグライトを点灯させる。たしかな光の輪が浮かび、空の上半身が後景化する。鏡の中の少年はひざを折り、マグライトを床に立ててから腰をあげる。光に煽られてぬらりとした顔が浮かびあがるが、空はユーレイの真似をして人を驚かすアレをしているのではない。かえってその顔つきは求道的なものだった。姿見に手を当てて、理科室でもそうしていたように「サトル君、サトル君」とつぶやいている。三十年近く前、この盛巳中学校で自死を選んだ少年の名前だ。

 発端は校内で起きたボヤ騒ぎにあるという。科学者に憧れていたサトル君は、放課後や休日の学校に忍びこんでは鮒の解剖をしたり、顕微鏡をのぞいたりして遊んでいた。快活で、どちらかと言えばクラスの人気者の部類に属していたサトル君だったが、アルコールランプの不始末で理科室を半焼させてしまってからは、全校生徒および教員たちからも咎人のように扱われた。

 道理と大義を与えられた悪意は、集団化することでいっそうほの暗い熱を帯びていく。無視されているうちはまだよかった。いじめがエスカレートすると、一部の男子生徒から日常的に暴力を受けるようになり、周囲の生徒たちも理由あってのことと見て見ぬふりをしていたそうだ。今ほど個人の権利というものが優先される時代ではなかった。先生も、親でさえもが、己に非があってのことと片づけてしまえば、もう逃げどころはない。サトル君にとっては、無間地獄のような日々だったにちがいない。

 ある日、西校舎二階の男子トイレの個室に閉じこめられ、消火活動と称して上から水をかけられたサトル君は、ようやく自力で抜け出した足でそのまま屋上にあがり、そこから身を投げたそうだ。田舎の町だから、中学生の飛び降り自殺は当時もかなり騒がれたが、妹に宛てた短い手紙こそ残したものの、それが遺書として認識されなかったためにいじめの実態は明るみにはならず、がためかその後潮が引くようにサトル君の名を口にする人はいなくなった。

 それから何年かして、西校舎の姿見にずぶ濡れの少年の姿が映るという噂が立ち始めた。鏡は、サトル君の同級生たちが卒業の記念として学校に寄贈したものだった。どこの学校にもありそうな怪談じみた噂だが、その話は数十年が経った今もなお、盛巳中生の間では根強く浸透している。

 それはどうしてか。

 ひとつには、実際に起こった事件にもとづいた話であるということで、現にサトル君の自殺以来、今にいたっても屋上への立ち入りは固く禁じられている。さらに理科室の壁の一部には、焼け焦げたような黒ずみがあり、いくら上から塗装しようとも時間の経過とともに現れる。それはボヤ騒ぎの証左とされるとともに、サトル君の呪いであるとまことしやかに語り継がれている。

 もうひとつの理由として挙げられるのが、目撃者の存在だ。現在の盛巳中生の親に当たる世代から始まったサトル君の目撃情報は、時代がくだっても絶えることはなく、今ではある儀式を行えば、必ずサトル君の霊に会えるというのが定説となっている。

 逆手に持ったマグライトや謎のほふく前進はさておき、今夜、空がした行動のあれやこれは、まさにサトル君の儀式を再現したものだったのだ。儀式の全容を知るまでに、空はじつに半年もの月日を要した。なぜそれほどの時間がかかったのかと言えばなんてことはない、儀式について知る者がいなかったからで、ではどうして知る者がいないのかというと、サトル君の霊を目撃した者は鏡の中に引きずりこまれて、もとの世界には戻れなくなるからだ。三年前にある女生徒が試して行方不明となったきり、サトル君について語ろうとする者はいなくなったという。いわゆる禁忌の項とされているからこそ、ここ盛巳中学校においてサトル君の幽霊譚は、ほかの怪談や七不思議と比ぶべくもなく抜群の信憑性を得ているという次第である。

 空は目をつむり、反省する猿のような姿勢でサトル君の名を六十六回唱え終えた。鏡に添えられた手の隣にはさらに小さな手の跡がついているが、それには気づいていないようだ。

 だらりと脱力したみたいに空は手をおろし、底のない静寂に沈んでいく。目を閉じたまま天を仰ぎ、息を継ぐように肺を満たす。薄い胸がふくらみ、それに合わせて肩が上下する。血液とはべつのなにかが、全身をくまなくめぐっていくのがわかる。空気を伝って、胸の高鳴りが聞こえてきそうだ。

 微細にゆれるまぶたが持ちあがる。

 鏡に映し出された自分の隣には、髪から水を滴らせ青白い顔をしたサトル君が立っている。

 いない。

 いるはずなのに、いない。

 そこにいるのは変な恰好をした、いがぐり頭の中二男子だった。

 空は仁王立ちしたまま、絵に写したように動かなかった。目縁の丸まりから、空がどれだけサトル君の話を疑っていなかったかがわかる。

 軽く咳きこむように息を吐き、急くように吸う。

 いっこうに打ちあがろうとしない花火の筒をのぞきこむようにのばした首が、ぎゅんと縮こまった。空の頭上で扉が閉まったのだ。風に引かれた感じの、配慮のない音だった。

 空は鏡に移る姿と、屋上に続く階段を交互に見た。そんな話聞いてないよと言いたげな心のゆれが眉のひそめ具合に表れる一方で、定説とはずいぶん異なっているものの、サトル君が屋上に現れたのかもしれないと瞳の底が光っていた。

 マグライトを消した空は、一歩、それからまた一歩と、実際の階段としての機能を損なっていないことを足の裏の感触でたしかめるように、上を目指す。施錠したうえでさらに端境を示すように、ドアノブにはこれでもかというほど何重にも細い縄が巻きつけられているのが常であるというのに、やはりそれもほどかれている。ということは、実体としての誰かがここから外に出たのだと考えそうなものだが、空はサトル君への期待で頭がいっぱいのようだ。

 最後の一段に足をかけ、音を立てないようにと、そっと手の平に包んだノブをまわして引く。顔を寄せるとつばが当たり、慌ててうしろ向きに帽子をかぶり直す。

 小さな背が、浅く吸った息を飲んだ。吹きこむ風が汗のにじんだ額をなでる。

 貯水タンクと給水管の荒涼に、女の人がたたずんでいる。暗くてよく見えないが、めりはりのある服を着ていることから、どうやら生徒ではないらしいと知れる。

 遠く、低い雲に淡い線を描くように、天狗の名を冠した山影が渡る。たすきをかけるように流れる川は、黒曜石に似た光をたたえている。ひざもとにまかれたざらめ糖のような明かりは手前に向けて蝟集して縒りを成し、それらの合間を縫うように、ゆるやかな弧を描きつつ淡黄の連なりが行く。

 とてもしんとしていた。地表を覆っていた虫たちの音も、ここまでは届かない。

 薄く開いた扉からのぞかれていることはおろか、つい今しがた派手な音を立てて閉まったことにさえ気づいていない様子で、柵に手をかけた女の人は夜に溶けた町の色を眺めている。そんな無防備な背中だった。風は山の向こう側から押し寄せてくるみたいに圧倒的で、のび縮みを繰り返し、女の人の肩にかかったやわらかな髪を持ちあげる。

 自ずと競りあがろうとする言葉を押しとどめようと拮抗するように、空の喉笛が震える。伝わるように唇もぴくぴくと引き攣っていた。現実にあらざるものを見るようなぽかんとした目が、わずかに開いたすき間からのぞいている。背けるどころか、まばたきさえままならないようだ。

 風音に紛れて、胸を騒がせるようなサイレンが聞こえた。山になり谷になりと反復するその高音に促されるように、女の人はひょっこりと頭を出す建物の群れに首を傾げた。一部のすきもなかった天が裂けて、雲に陰影が刻まれる。世界が一新されるみたいに塗り替えられていく。

 新しい月は、笹の葉のように細いというのに妙に冴えていて、罪を暴くように空の顔半分を照らし、等しく女の人の横顔を明らかにしていた。目尻は懐かしむようにゆるんでいるが、苦しみに耐え忍ぶように口もとは引き締められている。頬には涙の跡があった。まるでちがう表情筋を働かせているというのに、どういうわけか二人とも同じような目をしていた。どちらかがどちらかに寄るというのではなく、たまたま同じ場所に居合わせて、心の備えなく同じものを目撃しているといった感の相似だ。

 柄のないカットソーも、紺のプリーツも月明かりに染まっていて、そこからのびるしなやかな腕や脛は、月と呼応するように白い光を放っている。

 ゆれる瞳は空の心の様を表しているのか、とても生ある人には見えなかった。

 影のような形に引きのばされた時間が、二人の間に横たわっている。

 はいおしまいとぽんと肩を叩いて諭すように、あえなく月は姿を隠す。今が夜のどのあたりなのか、とたんに怪しくなった。

 へ、とも、ひ、ともつかぬ、あるいはなんの語も発していないかもしれない、あえかな声を発した空は、白目がちになって薄く口を開いている。そんなベタなとあきれてしまうが、小鼻をひくひくとうごめかせているのは、心理的な理由からではなく肉体的な作用からだ。おそらくは、芯が冷えたのだろう。

 空の息ざしに、女の人は振り返る。

 すでに閉じられた扉の向こうで、けしゅんと鼻が鳴った。

 風邪など召していなければよいのだが。


 2


 朝からずっと眺めていたせいか、空の目はすっかり雨の色だ。

 ゆうべ遅くにぽつりときて、お、と思うそばから篠つく勢いとなった雨は、夜が明けてもなお、手抜かりなくといった感じで降り続いた。ひと雨どころではなかった。丹念でやわらかな雨降りの音が、ワックスがけしたばかりの木の床からにじむように入りこんで、教室を満たしている。

 カフェオレみたいな色の校庭には、大小いくつもの水のたまりが連なっていて、むろん人っ子ひとりいない。空がぼんやりしているのは、なにも早起きのせいばかりでもない。

 二時間目の終業のチャイムとほぼ同時に、早川さんの背がすっと立ちあがり、数人の女子と連れ立って教室を出た。田中君はぷりぷりと尻をつき出しながら黒板を消して、青臭い笑いを誘っていた。ついさっきまでそこにいた英語の先生の所作を真似ているのだ。廊下側の席では、黒川と梅沢の野球部コンビが「パードゥン?」でノーガードの打ち合いをしていて、過呼吸気味に腹を抱えている。じつに不毛だ。

 いつもの風景がどこかふわふわとしているのは、目前に夏休みが迫っているからだろう。

「長尾、テラフォーマーズ読んだ?」アルデンテみたいにほどよく芯があり、耳に心地よい声がする。「まさか、やつらが地球に来るとはね」

 三朝さんは窓に背を預けて、早川さんの席に横座りしていた。斜め前の席で少年ジャンプを読みふける寺内君が、急に子どもじみて見える。

 不愛想な黒のアメピンが、小振りで利己的にさえ見えるほど形のよい耳をのぞかせていた。しみひとつない真っ白な開襟シャツがまぶしい。香水をつけているのでもないのにふんわりと華やいだ香りがする、ような気がする。気づくとそこにいたといった感じだ。

「貸してくれるの」片ひじをついて雨に顔を向けたまま、空は尋ねる。

「無理」

「どうして」

「読んですぐ売っちゃったから」

 わざわざ空を訪ねてくる人はそうはいない、というかひとりしかいない。登校した足で来たのか、三朝さんは首からヘッドフォンを提げている。足もとには、湿った通学鞄が老犬のようにわだかまっていた。持ち手にくくりつけられたダッフィーのぬいぐるみストラップは、古びているのになぜか清潔な感じがする。

「まさか、南斗六聖拳最後の将がユリアだったとはね」負けずに空は言う。

「なにそれ?」

「北斗の拳。読みたかったら、お店でどうぞ」

 空としては言い返してやったつもりなのだが、三朝さんは置き物にしたくなるほどつるつると滑らかなすねをぷらぷらさせながら、「じゃあ行く」と答えてゆるめるように笑った。背の中ほどまでのばした黒髪を結わいている三朝さんは、三井のリハウスというよりはポカリスエットのCMに出てきそうな女の子だ。

 手すさびのように、机の落書きを指でなぞりながら空は続ける。「だいたいさ、三朝さんは部長としての自覚が足りないんだよね」

「どうしてそんなこと言うの」

「当日になって行かないなんて言い出すのは、あんまりだと思うよ」

「行かないじゃなくて、行けなかったの。しょうがないじゃん、家庭の事情ってやつなんだから」

「だからなんなのさ。その、家庭の事情って」

「ただ者だな、君は。話したくないから家庭の事情っていうんでしょ?」

 三朝さんの目の先では、「昨日さあ、二時まで起きてたからマジねみんだー」、「俺なんて、三時までゲームしてたから」と、意義のかけらもない夜更かし自慢が行われている。

「それで、サトル君の霊は?」

 最善の手は尽くしましたがと目を背ける執刀医のように、空は静かに首を振る。

「なにも起きなかったの?」

「僕とはべつの誰かが屋上にいてね」けっ、邪魔が入りやがってようみたいな不満げな物言いに、空がサトル君の話をいまだに信じていることがうかがえる。

「誰かって、誰よ?」

「暗くてよくわからなかったんだ」

「先生?」

 空はまた言葉を取らずに首を振った。ただそれは先ほどとはちがって、否定でも肯定でもないあいまいな反応だった。

「女の人」幽霊みたいな人だったという言葉を飲みこんだ空の目が、またとりとめのないものとなった。きっと空がぼんやりしている理由の八割方は、昨晩のあの光景にある。屋上に心を置き忘れてしまったように、家に帰ってからもどこか様子がおかしかった。

「おかしいなあ。昨日最後まで学校に残っていたのは、脇田のはずだったんだけど」

 本当に女の人だったの、と見咎めるように三朝さんは目を細めた。

「間違いないよ。この目で見たんだから」

「忍びこんだこともばれたの?」

「見つかる前に逃げた。けど」

「けど?」

「階段の踊り場に、マグライトを忘れちゃって」

「忘れて?」

「今朝一番に来て探したんだけど、どこにも見当たらなくてね」

 机には彫刻刀で、「ありまKun LOVE!」と彫られている。「Kun」の表記が年代の古さを表している。空は「ありま君ってどなた?」みたいな、いぶかしげな表情をしていた。

「なんにせよ、しばらくは学校に忍びこむのは、よした方が賢明だね」

 三朝さんは不足そうに細い腕を組んだ。眉の角度が少し変わるだけで、印象ががらりと変わる。誰もが持ち合わせているわけではないが、十三歳の女の子特有の甘いながらもやすやすとは触れられない清潔感を、細い髪の毛一本一本まできっちりコーティングするようにまとっている。

「そうだね」と気のない声で同調する空は、三朝さんが放つそのオーラのようなものを感じることができないようだ。

「ねえ長尾」

「なに」

「あんたさ、ほんとに信じてるんだよね」三朝さんは推し量るように、上目遣いになる。

 なにをおっしゃいますやらと言うように空は頬をゆるめるが、向けられた目はゆるがない。砂に水が吸収されていくように、顔から笑みが消える。

「信じてなきゃ、夜の学校になんて忍びこんだりしないよ」

「だよね」

 三時間目のチャイムが鳴ってもみんな席に着こうとしないのは、社会の西野先生が決まって五分遅れることを知っているからだ。

「だったらさ」三朝さんはかねてよりご所望のといった感じの、たっぷりとした間を置く。「いよいよ行ってみる?」

「月野隧道?」

 言ってやったというように、三朝さんは不敵にうなずいた。「そんじょそこらの噂話とは、わけがちがうよ」

 そんじょそこらの噂話に、サトル君は含まれているのか。

「ちょっとやそっとの覚悟じゃねえ」と空も目を輝かせる。

 ちょっとやそっとに、サトル君は含まれているのか。

 戻ってきた早川さんとやけに大人びた仕草で視線を交わした三朝さんは、通学鞄を腕に引っかけて立ちあがった。

「土曜日の三時に、いつもの場所で待ってるから」

 休み時間の教室は、まさに公然の場という感じだ。はたから見ればデートの約束のようにも受け取れるが、誰も耳をそばだてようとはしない。二人が冷やかされないのは、空に異性を感じる女子がいないというのもあるが、三朝さんに余計な刺激を与えようとする男子がいないことが大きい。誰もが三朝さんに一目置いているのだ。標語の最優秀作品に選ばれたのと、BOSEでもSONYでもなく、Beats by Dreのヘッドフォンを持っているからだと空は考えているようだが、そうではない。

 大物感でもリーダーシップでもない。親和力ともちがう。ましてや、浮いているわけでもないのに三朝さんがそこにいるだけで、いつの間にか場の空気が変わっているのだ。それは現れた時より、いなくなった時にこそ顕著に表れる。

 案の定、きっかり五分遅れで現れたくせに、「もう授業始まってるだろ」と不機嫌そうな声をあげた西野先生に、三朝さんは頭をさげた。通り抜けようと先生の背後に回るやいなや、なんか言ってらあと嘲るようにべぇと舌を出して、廊下に出ると空にひらひらと手を振って自分のクラスへ向かう。

 そんな三朝さんの反抗は露知らず、教科書を開いた西野先生は川が平野を形成すると前置きなしに授業を始めた。空の目は、また雨の色に戻る。

 三朝さんに気圧されたように、窓の向こうはずいぶんと小降りになっていた。あるいは昨晩もいてくれたら、サトル君だってきちんと現れてくれたのかもしれないと思わせるなにかが、三朝さんにはある。


 放課後になっても、空の目はとりとめのないままだった。とりとめもなく椅子を机に乗せて、教室のうしろに寄せる。とりとめのない感じだから、ぎぎぃと床がこすれて耳障りな音が立つ。

 黒川と梅沢のコンビは、ガムテープを背中にくっつけ合って遊んでいる。不毛だからやめようと言わないのは、どちらもそうとはこれっぽっちも思っていないからだ。学級委員の原田さんが、「ちょっと男子、まじめにして!」と金切り声をあげても、しゅろ箒を振りまわしてユニゾンスクエアガーデンのベースの人の激しいパフォーマンスを真似したり、ブレイクダンスみたいに背中でくるくるとまわり、じつは一番清掃活動に貢献しているのではないかと思わせたりする男子がいて、誰も忠告に耳を傾けようとはしない。全英オープンゴルフの中継を観たのか、フロアブラシを長尺パターに見立てる渋い人もいるが、もう少ししたら、呼び出された担任の先生によってみんな叱られるのだ。そそくさと机を戻すと、あきらめきれぬといったように空はひとり西校舎へおもむく。

 なまなかな少年が姿見に映っていた。鼻頭に貼った絆創膏をはがすと、小さな赤い実のようなニキビが現れる。夏場の芝生のようにのびた丸刈り頭と逆毛の襟足、それに成長を見越した学生服が冴えなさを引き立てている。

 こんなことをしている場合じゃなかったと、我に返るように空は小さく顔を振って周囲を見渡すが、手すりの向こうにも段の影にもマグライトは落ちていなかった。首をのばして階上をうかがう。屋上に出る扉は厳重に封印されていた。やはり、あの女の人が持ち去ったと考えるのが妥当だ。無目的でだらだらとした、オーボエとクラリネットの音出しが聞こえる。網入りのガラスは浅黄に染まっていた。

 雨雲はどこか遠くへ去り、西に傾いた日が中庭の花壇を白く塗りつぶしていた。空は本校舎に戻り、そのまま階段をくだって昇降口で外履きに履き替える。お遍路さんみたいな恰好をした野球部が、廊下に並んで腕立て伏せをしているのはグランドがぬかるんでいるからか。教室ではふざけてしかいない黒川も梅沢も、今この時ばかりはと口もとをゆるめずに回数を数えていた。

 モッチュウー、ファイオーファイオーファイオーと声を揃えて、サッカー部が空の前を駆けていく。アスファルトがきらきらとまぶしい。Aの音が途切れて、そこににぎやかしい金管楽器が加わり、『スペインの市場で』の練習が始まる。どこからか、制汗スプレーの甘酸っぱい匂いも流れてくる。武道館へ向かって歩いていく、むくつけき男たちといった感じの柔道着姿のでこぼこは、空とは色合いのちがう、きちんと五分に刈り揃えられた精悍な坊主頭だった。

 空はどの部活動にも参加していない。その代りと言ってはなんだがユーレイ部に属している。もっとも、部とはいっても正式に認められたものではないから、周囲から見れば帰宅部となんら変わりはない。

 取っ手をランドセルのように両肩にかけて、空は通学鞄を背負う。正門を抜けたところで、適当な大きさで偏りのない形の石を見つけると、猫が前脚でじゃれるように左右の足で蹴りながら歩いた。学び舎が放つ音は、天見川にかかる橋を越えるまで聞こえる。

 力の加減を誤り、石があらぬ方へ転がってしまうと、今度は両の腕を開いてバランスを取りつつ、車道と歩道を隔てる白線に沿って歩く。きっと、空中綱渡りに見立てているのだろう。よたよたとしているのは、目をつむっているからだ。たっぷりとした母親の腕が、電動アシスト自転車のかごのあたりに園児を乗せようとしている。おかっぱ頭の女の子がつたなく手を振り、エプロンをかけた女の人が包むような顔で見送っていた。

 ユーレイ部とは、その名が示す通りユーレイに出会うための活動体である。UFOやUMAではなく、対象は霊的な存在か、霊的な世界を示す現象に限られる。中学生になってほどなくしてから、どの部にも所属していなかった空に、どの部にも所属するつもりのなかった三朝さんが声をかけて発足させた。以来、三朝凛を部長として、盛巳町に流布する怪奇譚や心霊現象をひとつひとつ検分して、これと思われるものについては実地で調査を行っている次第なのだが、一度として部の目的が果たされたためしはない。

 駅へ続く車通りのにぎやかな国道を渡る。東には団地の群れが広がり、西側はいくつもの木造家屋と、その合間を埋めるようにビニールハウスや畑の風景が続く。昨晩見たより、遠くの稜線がくっきりとしている。

 赤の地に白で「味自慢」と書かれたのぼり旗が見えると、心なしか空の足は速まる。はらぺこ亭は駅近くの繁華街ではなく昔ながらの住宅街のただ中に、間違い探しの答えのような感じでひっそりとたたずんでいる。もちろん建物の形がまわりとはちがうからよくよく見ればわかるのだが、看板がなかば朽ちていて看板としての務めを果たしていないがために、暖簾をかけたうえでのぼりを立てていないと、そこが飲食店であるとはなかなか気づいてもらえない。

 世に「はらぺこ」と銘打つ店は、ほとんどないと言っていい。なぜというに、店に名をつけるに際してはある一定の考えの型があるからで、その中のひとつに訪れた客をもてなした結果としてどのような状態、あるいは心持ちになってもらいたいのかという店主の願いがこめられているものがある。いわゆる、「萬福」だの「幸福」だのがそれである。店に来る前の状態を表す型はない。はらぺこ亭は語そのものの響きこそファニーだが、換言すれば「空腹」、それもどちらかと言えば極限に近い空腹状態を表す言葉であり、いわば「飢餓亭」と命名しているようなものなのだ。なんだか入りづらいというか、入りたくない。美容室であれば、髪をのばしにのばした状態をブラジル音楽風にアレンジして「ヘアサロン・ボッサボッサ」、スポーツジムであれば、肥満状態を横文字にして「Fatness club」と名づけているようなものだ。今となっては知るよすがもないようだが、命名者の奇をてらった独自の感性がうかがえる。

 郵便受けの中身をあらためるのは、空の習いとなっている。店のがらり戸を開けると、打ちっ放しのコンクリートを這う稲妻のような亀裂がまず目に入る。カウンター八席、四人座りの小上がりが二席と、さほど広くはない。老いるにあらがわないと決めたように褪せた壁には、土から掘り起こされたみたいな色の短冊が三つ横並びになっている。七夕で笹の葉にくくりつけられる紙ではなく、短歌をしたためる際に用いられる厚紙で、油汚れから保護する目的で覆われたラップにより、かえって文字の解読が妨げられている。よく目を凝らせば、左から中華そば六〇〇円、炒飯六〇〇円、餃子四〇〇円とあり、それがはらぺこ亭のグランドメニューであると知れる。食品衛生責任者の証がいやに白い。

 小上がりの奥には畳一枚分の狭い製麺室があり、製麺室の前には幅五十センチほどの板が立てかけられている。これはホールと厨房を仕切るウェスタン扉なのだが、蝶番が錆びていて開閉のたびにムクドリの断末魔のような音を立てるために、保健所の立ち入り検査がある以外は外されている。

 厨房の奥、開かずの扉の前のストッカーにつんのめるような姿勢で頭をつっこんだ背が見える。空の父親だ。『AKIRA』のね、と決まって自ら読み方を当てるのは、問われる面倒に先回りしているというよりは、大友克洋作品のファンだからだ。

 朝日の夕刊、西友のチラシ、電気とガス料金の請求書と仕分けて、空はカウンターに置く。

「なあ空、懐中電灯知らねー」煙草をやめても、いがらっぽい声は変わらない。マグ・インストルメント社製とか、暁には関係がないのだ。

「うん、知らない。まったく」

「そっかー」筋張った太い指が豚の骨の入った袋をつかんで、ストッカーのふたを閉める。空気の縮まる音がした。

 挙動のおかしげな空にも、暁は頓着しない。気づいていないだけか。いつもキャスケットとベレーのハーフみたいな形の変な帽子をかぶって、海とも島とも縁遠いのに、知り合いから旅行の土産として同じデザインのものを何枚ももらったという理由だけで、海人のTシャツを仕事着としている。商いをしている人には、とても見えない。ひいき目に見ても、趣味でいわくつきの商品ばかりを並べる、偏屈な骨董屋の主人といったところだ。

 暁がはらぺこ亭を継いで、もう二年になる。

 午後三時に一度店を閉めてから、六時の開店までを仕込みの時間に充てるのは、昔も今も同じだ。この時間に父は子に、店に来たお客さんの話をし、子は父に、その日学校で起こった出来事を話す。

 流しに立った空に暁は、「自分ではそう思わないんだけどね」と枕詞を置いたうえで、昼に来たお客さんから藤木直人に似ていると言われたと、無精ひげのまぶされたあごをさする。まんざらでもない証だが、空の反応は極めて薄い。それはヒョンビンだったり、田中圭だったりもするが、そう思わないと言いつつそのたび自慢げに話す。どれもそれほど似ていないのに。

 暁はラジオから流れるマーク・ロンソンに鼻歌を合わせている。豚の骨にかなづちを打ちおろすたびに、肩甲骨の線が浮かびあがる。Uptown Funk you upと繰り返すところを、そういうふうに聞こえるのか「奥さん本気モード」と歌いながら、判を押すみたいに次々と折っていく。どうやらコツがあるらしい。

 皿の泡を流し終えた空は、洗濯板のように大きなおろし金でたくさんのニンニクとショウガをすりおろしている。しなちくを炒めたり、チャーシューを煮る際に使うものだ。帰宅してから店の手伝いをするのも、空の習慣のひとつになっている。皮を剥いてフードプロセッサーに入れてしまえば、あっという間に終わる作業をあえておろし金を用いるのは、すりおろす作業を気に入っているからだ。

「僕は信じられないんです」盛巳町の十三歳、RN(ラジオネーム)スカポンコンタナスからと言って、パーソナリティがメールを読みあげた。ちなみに今日のテーマは、「信じる者は救われない」。

 世の中には食べたくても食べられない人たちもいるんだから、残さずに食べなさいと親に言われてもすなおに従えなくて、食べ物に恵まれない人たちだってお腹がいっぱいになれば残すんじゃないかと思ってしまうのは、僕の性格がねじまがっているからでしょうか。

 ほかにも、コアラのマーチで眉毛のあるコアラを見つけると幸せになれるとか、ピッチャーの人が中五日あけないと投げられないとか、キャベツを食べると胸が大きくなるとか、いろんなことが信じられません。べつに人間不信ってわけじゃないけど、まずは疑ってしまう。疑いが完全に晴れてから少しだけ信じることにしています。ことにしていますってほど意識的じゃないけど。

 みんなが普通に打ちこんでいる勉強とか部活とか、あと恋愛も、そんなことしてなにになるんだとつきつめて考えると虚しくなって、なにに対してもやる気が起きません。

「悩める少年だなあ」と聞くともなしに聞いていた暁が、ぼそりとつぶやく。

 P.S. キツネが人を化かすとか、野球は九回二死からとか、ピンチのあとにはチャンスがあるとか、本当だったら素敵なのにと思うこともあります。

 暁が店を継いですぐに、小上がりにあったテレビを二階の居間に移し、代わりにラジカセを置くようになった。パナソニックがNATIONALのロゴを使用していた、そうとう古い年代の代物だ。テレビを置いているラーメン屋に流行っている店はないという持論があってのことだが、ではラジオならよいのかといえば、そこはAMではなく地元のFM放送を流すのだからかまわないという独自の見解があるようで、店の中ではリスナーからの投稿とか、流行りの歌や懐メロが日がな一日流れている。

 今のところ、店は流行っているとは言えない。

「ばあちゃんは?」尋ねた空の目の先で、ウタロウがくわぁと大きく口を開けている。

「スペインじゃねーの」煮た豚の骨を流水で洗う暁は、それに気づいていない。

「じゃあ、ばあちゃんの部屋にいるから」

 すすいだ手をタオルでぬぐうと、空はウタロウのわきに腕を差し入れて階段を駆けのぼる。二階でおろすとウタロウはどたっと音を立てて、猫らしからぬ座り方をした。閉め切っていた窓を開けてから三階の仏間に移り、空は部屋着に着替える。映画を選び、二階に戻ってマクセルのレコーダーを起動させる。世に出たてのDVDソフトらしい、やけに凝ったしかけのメニュー画面が流れた。

 窓の向こうのどこにあるかわからないスピーカーから、『夕焼け小焼け』が流れる。お腹を空かせたような小学生の声も聞こえる。昼間たっぷりと眠ったウタロウは、しばらく所在なげにうろうろしたり、あぐらをかいた空の太ももに耳の裏をこすりつけたりしていたが、空の心が映像にさらわれてしまうと部屋のすみに陣取って、観察するような視線を一点に注いでいた。

 スパイ大作戦のテーマが流れる。IMF内部に潜入したイーサン・ハントは仲間を従え、ほふく前進で狭いダクトを行く。空はウタロウと似たような目で、液晶画面に見入っていた。部屋が暗くなっても明かりをつけようとしないのは、たぶん映画館みたいでいっそう気分が盛りあがるからだろう。

 金庫室を逆さ吊りの姿勢で降下するイーサン。機密情報の複製が完了し、ディスクを抜き取ろうとした直後、上のダクトでロープをつかんでいた仲間がネズミの動きに動揺して手をゆるめたせいで、落下しそうになるが寸前のところで停止する。空は絨毯に腹這いになって、床に触れぬようにとじたばたするイーサンの動きに同化している。それをウタロウがうろんな目で眺めている。


「ばぁんーごぉはーん、でぇきぃたぁーよぉー」

 家の中にいる友だちを遊びに誘う小学生みたいな屈託のない声が、階下から聞こえる。空は返事をしてから、テレビを消して部屋を出る。すでに日はとっぷりと暮れていて、ウタロウは部屋のすみで丸まっていた。

「Bonsoir Monsieur Sora」

 いかにも好奇心旺盛といった感じの、ぎょろりとした目が空をとらえた。いつの間に帰ってきたのか、小上がりに座ってテキストを開いている。スペインではなくフランスだ。でも、先月まではイタリアだったのだ。

「おかえり」特段これといった反応も見せず、空は答えた。

「Le repas ce soir est 麻婆豆腐」麻婆豆腐はうがいのような発音でなくていいのか。

 魔女を思わせる高い鉤鼻をひくひくさせているのは、空の祖母だ。

 てふと書いて、ちょうと読む。

 赤く染めた髪を三つ編みにして束ねるてふは、『天空の城ラピュタ』に出てくる女海賊のドーラと瓜二つだ。アニメを実写化したら、このキャラクターに相応しい役者は誰それなんてことを議論し合ったりもするが、素人ながらにてふをモデルにアニメ化したキャラクターがドーラなのだと言われたら、誰もが鵜呑みにしてしまうだろう。風貌もそうだが性格もそっくりで、どこかに出かけようとしていたてふが、だらだらと準備する空に向かって「あと四十秒で支度しな!」と怒鳴っているのを見た時は、笑ってしまうというより感動すら覚えたものだ。

 店に客がいない時は、小上がりで暁が作った晩ご飯を食べるのが一家の慣わしである。表を通りかかる人々に対して、少しでも客入りがあるように見せかける意図もあるのだが、それがこの家の日常の風景であることを、近隣住民であれば誰でも知っている。逆にその時間帯は外して来るお客さんもいるくらいだ。

「このモツうまいね」七味を振ったモツ煮込みをおかずに、空は白米を頬張る。

「スーパーのじゃなくて、金子さんとこのだから」ガラを仕入れたついでにねと、暁。

「そういやあんた、ゆうべどこかへ出かけてやしなかったかい?」空に尋ねて、てふは豚汁をすする。

「なになになに、ぜんぜん気づかなかったよ。まさか、女?」と囃したて、暁は麻婆豆腐をご飯茶碗によそう。

 もつ煮込みも豚汁も麻婆豆腐も、残ったラーメンスープを使っているから、出汁が効いていてどれも驚くほどおいしい。空も暁もぐんぐん食が進む。じきに古希を迎えようというてふも、もりもりと食べる。

「家庭の事情ってやつ」目を合わせず、空はぼそりと言う。

「意味わかんねー」

「Je suis desoleはごめんなさい。Je ne sais pasは、知りません」

「ジェヌ セパ」じゃあこっちでという諦念で、空は繰り返す。

「こえー、不良だ。無頼漢だ」と合いの手を打つように言った暁だが、ウタロウが店におりてきたのを見つけたとたんに、「おいこら、バカ猫。おりてくんじゃねえって何度言ったらわかんだよ」とこぶしを振って追い払おうとする。

「いいじゃないか、客なんていやしないんだから」

 おいでと手招きすると、ウタロウは猫にあるまじきどたどたとした足取りで、てふのひざに乗って喉を鳴らす。野良だった錆猫が家に住み着くようになったのも、二年前だ。店をやっていた頃はてふが毛嫌いしていたくせに、仕事から離れたとたんに態度を軟化させるどころか、死んだ夫の名前をつけて猫っかわいがりしているのだから世話がない。猫に似つかわしくない不器用な感じが、宇太郎に似ているのだという。

 東京でオリンピックが開催され、王貞治が放ったホームランの数で日本記録を樹立した一九六七年に、宇太郎はラーメン職人になるべく上京して修行の道に入る。てふはその頃、大学を中退して、カルフォルニアでヒッピーのような暮らしを送っていたそうだ。まったく接点のないような二人だが、数年後、なにかの縁で出会い、日本が超能力ブームに沸き、長嶋茂雄が「我が巨人軍は永久に不滅です」と宣言して引退した年、十年間の修行を経た宇太郎はてふとともに生まれ故郷である盛巳町に移り、自宅を改装してラーメン店を開業する。

 宇太郎はお客さんの「おいしかった」と笑う顔を見るのが、なにより好きな人だった。二階の居住スペースにはあまり姿を現さず、今は開かずの間となっている厨房の奥の小さな部屋で寝起きし、スープの仕込みにつきっきりだったという。不器ながらもラーメンに真摯に向き合い、試行錯誤を怠らない職人気質な人だったが、性格はいたって温厚で、怒鳴り声をあげたことがなかった。子どもがなにか悪事をしでかしたとしても、それがなぜ悪いのか、どんな人にどのような迷惑をかける行いなのかということを、懇々と諭すような叱り方をする人だった。

 爾来三十年、はらぺこ亭は町のラーメン屋さんとして人々から親しまれてきたが、五年前に宇太郎は心筋梗塞によって、不帰の人となってしまう。ひと時、てふは店を畳んでしまおうかと思い悩んだが、常連客や家族の励ましもあってひとりで店を切り盛りするようになり、娘夫婦が移住してからは義理の息子である暁に技を伝授するためもあって、二人で店に出るようになった。

 晩飯が終わると、暁はスープの仕込みに戻る。客は少ないが、百人前作るのも十人前作るのも、スープに関していえば手間やかかる時間はさほど変わらない。

 洗い物を済ませたてふはウタロウを抱えて自室に戻り、空は小上がりの奥に設けられた本棚の漫画本を読む。宇太郎健在の時代にはなかったものだ。てふがひとりでやっていた数年間は、キャンディキャンディとかガラスの仮面とかベルばらが棚を占め、暁に代わってからは棚が増設され、新たなスペースに北斗の拳とかキン肉マンとかキャプ翼が並ぶようになった。どれも当然のように全巻フルセットだ。小学生の子ども部屋のような一角を、天国の宇太郎はどのような思いで眺めるのだろうか。

 もう少し経てば、独身の勤め人がちらほらと店にやって来る。コミックを閉じて本棚に戻した空はてふの部屋に移り、「いいところだったから最後まで観ていい?」とうかがいを立てる。ウタロウはすみに四角く座っていた。

「好きにしな」と応じるてふは、晩飯を食べたばかりだというのに粒練り苺味のガルボをかじりながら、MacBookで調べものをしている。ヤマハの商品ページを眺めているあたり、ここ数カ月の語学ブームもすでに去りつつあるのかもしれない。

 空に小遣いを渡す時にお金をティッシュに包んだり、初めて歌番組でラップをしている人を見て、「どうしてあの人は歌っている人の邪魔をするのだ」と真顔で尋ねたりと、その名前にふさわしいおばあちゃんじみたところもあるが、てふはこの家で最も感度の高いアンテナを張る人でもある。

 好みのお菓子に新商品が出れば迷わず買うし、歯ブラシだってひとりだけ電動のものを使っている。日々目まぐるしく未知の情報をつめこむことで、時間の流れを引きのばそうとしているようにも見える。子どもの一日、一カ月が今よりも長いのは、世界になれがなかったからだという考えが根っこにあるらしい。

「よく飽きないもんだね」てふは昨日も同じ場面を観ていた空に、連休の直前に風邪を引いた人を見る感じの憐れむような、からかうような目を向ける。

「ばあちゃんが飽きっぽいんだって」

 家にいる空は、大半の時間をてふの部屋で過ごす。DVDで映画やドラマを観るためで、そのための機器がここにしかないからだ。仏間のライブラリーには、コメディや恋愛ものも多数取り揃えているのだがそれらには見向きもせず、ネットにもゲームにも興味を示さず、気に入ったアクションやサスペンス作品ばかりを何度でも繰り返し観ている。てふの言う通り、よく飽きないものだ。逆手に持ったマグライトは、『FRINGE』のダナム捜査官からきているのだろう。

「結局は日馬富士かい」調べものを終えたらしいてふは、ネットニュースを読んでぼやいている。昨日は、白鵬の連勝をとめた稀勢の里を褒め称えていた。

 やれ最近のGⅠレースの優勝ジョッキーが外国人ばかりだの、やれ日本人内野手が大リーグで通用しないだのと、てふは嘆く。要するに、愛国心と自尊心に満ちた人なのだ。愛国心の強さと新しい文化を貪欲に取り入れることは、一見矛盾しているようだがそうではなく、自己を相対的にとらえ、個を磨くことにより局面を打破する新たな日本人像を模索しているのだと、さながらインタビューを受ける本田圭佑のように、本人は語る。空の指摘通り、飽き性なだけなのだが。

「Amazonでアルコールランプなんか買って、なにしようとしてんだい」

 しようとしているのではなく、もうしたあとだ。

「ジュシュイ デゾレ」と空は答える。今度はごめんなさいの方だ。

「口うるさいこと言うつもりはないけどね、人様を傷つけるような真似だけはするんじゃないよ」

 てふはそう言いつけると、ネットサーフに戻った。うん、と口の中で空はつぶやいた。

 とんとんとんと、せわしい足音がのぼってくる。

 扉からひょっこりと飛び出した暁の首が、「風呂、入っちまえよー」と言う。促されて腰をあげた空の背後で、「ドアぐらいノックしなよ」と鋭い声が立つが、すでに暁の姿はない。

 どっどっどっと、また足音だけがくだっていく。

 MacBookを閉じて、てふは立ちあがる。自身の食事時を察したのか、すでにウタロウの姿もない。

 空は脱いだ部屋着をかごに放った。産毛に覆われたやわらかな頬にまだいとけなさが残るが、筋張って引き締まった二の腕には、大人への変化の兆しがうかがえる。絆創膏をはがし、脱衣所の鏡に映る顔をまじまじと眺める。夕方よりいくぶん成長したニキビは、内側でたぎる熱を押し出そうとしているかのように赤い。潰れるまでの留保みたいな感じが、なんとももどかしい。

 石けんを泡立てていつもの順で体を洗い、頭を流して湯船に浸かる。タカタッタカタッタカタッと、浴槽の縁を馬の蹄みたいに爪で叩いていたかと思いきや、「赤シャア少佐、青シャア少佐、黄シャア少佐」とよくわからない早口言葉を練習する。上手く口がまわらないと、今度は湯の中で宙返りを繰り返す。それも何度も。本当に落ち着きのない奴だ。

 タオルで水気を拭き取り、だらりとしたスヌーピーのシャツを頭からかぶる。前面には、これまただらりとしたシャツを着たチャーリー・ブラウンがプリントされている。

 三つ編みをほどいたてふが、空と入れ替わる。

 居間では店じまいを済ませた暁が、hpのProBookでYOU TUBEを見ながら発泡酒で晩酌をしていた。糖質もプリン体もゼロのやつだ。暑いのか、ウタロウは暁の足の甲を枕にして、フローリングでのびている。なされるままにしている暁は店での毛を恐れているだけで、どちらかと言えば動物が好きなのだ。

 缶を傾けながら、暁も英会話教室のうちわで襟足をあおいで「ちょべー」となにかに感じ入っている。超やばいの意だ。エアコンもあるにはあるが、稼働させることがまずないのは、暁もてふもそれを嫌っているからだ。そこにロハスみたいな考えがあるわけではない、というのはPCのかたわらには、カップヌードルカレーの空き容器があるから。晩ご飯食べたのに。昔の日本人が写真に撮られると魂を抜かれると恐れていたように、つまりは迷信のようにエアコンの、ことに冷たい風を忌み嫌っている。

「この子らはぜってーくる」暁が眺めているのは、アトランティス城というアイドルユニットの動画だ。

 AKB48の最初のライブは七人しか客が入らなかったが、そのうちのひとりが自分であり、いずれブレイクするアイドルを見抜く慧眼があるのだと、ラーメン屋の店主にとっておそらく役に立つことはない能力を自慢する人なのだ。

 空は真っ暗な店におりて、小上がりからキン肉マンのコミックを持ち出すと、二階に駆け戻り冷凍庫を覗く。風呂場から、蓄音機のようなてふの歌声が聞こえる。ウタロウは猫とは思えない明け透けな恰好でいびきをかき始め、暁はYOU TUBEに心を奪われていて、空には見向きもしない。

 仏間に布団を敷き、箱入りのカルピスバーをちびりちびりとやりながら、キン肉マンの続きを読む。からからとかすかな音を立てつつ、扇風機が首を振る。

 四次元やブラックホールよりも脱出が困難と言われている、超人墓場に送りこまれたキン肉マンを逃がすべく、ウォーズマンが「オレにかまわず行くんだ!」と自らの肉体を盾にして追手に立ちはだかる。今でいう典型的な死亡フラグだが、ウォーズマンの男気に空はふるふるしている。

 死亡フラグと思わせておいて、すでに死人であるウォーズマンにとってそれは逆に復活への伏線であり、ドクターボンベのオペによって蘇らんとするまさにその時、コミック本は手をすり抜けてぱたりと畳で閉じる。空は薄く寝息を立てていた。あーあ、まだ歯磨いていないのに。仏壇の宇太郎も、その隣に並ぶ写真もあきれたように笑っている。

 静かだ。わずかに開けた窓から、昨日より少しばかり太った月が見える。朝の早いてふも、すでに寝床に就いたらしい。好機を待っていたかのように、どこからともなく蚊が飛んできて空の頬にとまった。

 家が鳴る。のっそりとした足音を待つ。

 蛙の声と夜の気が、網戸を越してしんしんと入りこんでくる。

「いつまで起きてんだー」ようやく風呂からあがった暁が、襖を引いた。やはりノックはなかった。

 ん、という感じで眉が持ちあがる。鼻からすうと空気が抜けて、肩をゆすろうとおろした手がとまった。しゃがみこんで、ぽつりと赤くふくれた頬に耳を寄せる。つっ伏したまま、小さな唇が暁にしか聞き取れない言葉をつぶやいていた。

 扇風機のスイッチを切る。コミックとアイスの棒を拾い、タオルケットを宙に広げる。窓を閉めて仏壇に目をやり、やれやれと言うように肩をすくめて、暁は電気を消した。

 このようにして、一家の一日は終わる。



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