プロローグ
夕方の屋上。
校則でも禁止されているし、本来なら物理的にもここに出ることはできないのだけれど、私だけがここへ辿り着く道を知っている。
物置と化したひと気の無い廊下を抜けて埃っぽい窓を開けると、その真下にちょうど平らな屋根があり、それを伝って行くと点検用の梯子がある。
そこを登れば屋上だ。
奇跡的にどこからみても死角になる唯一の通路なので、誰に咎められることもなく屋上に辿り着くことができる。
そしていつも私はここで一人、読書に耽るのだ。
と言っても、私が読むのはあまりきちんとした本ではない。
メルヘンや童話、とりわけ不思議の国のアリスがお気に入り。
別にメルヘン趣味や電波ちゃんではない。
ただ、現実から逃げたいのだ。
--現実。
目を背けたくてもそれは頑として目の前に存在するそれは、いつだってわがままに、理不尽な選択を迫る。どうすることもできないことで責め立てて来たりもする。
人間でいえば社会不適合者も良いところだろうに、その現実というやつは自分の理想を押し付け、受け入れないものにこそ人間失格の烙印を押す。
---アリスのようにうさぎの後を追って落ちていけば、私もあの不思議の国に行けるかしら。
そう書き添えられた栞を、いつも持ち歩いてボロボロになった不思議の国のアリスの文庫本に挟む。
少し冷たい風が私を撫で、ながく真っ白い髪が夕暮れの赤と風を孕む。
私自身は、この、他人とあまりに違うこの髪の色は嫌いじゃない。
嫌いじゃないけれど、下らない現実というやつはそんな私の存在を許してはくれないのだ。
露骨に嫌悪されるか、腫れ物のように扱われるか。
その間にどれほどの差異があるだろう。
つまらない、なんとつまらない。
そんなつまらない価値観しか持てない人間に囲まれて生きるなんて、私にとって苦痛以外の何物でも無い。
何度も何度も読み返した本の背に、そっとくちづけをする。
インクと紙の匂いが私を少しだけ酔わせる。
このデタラメな世界だけが私を赦してくれる。あるいは、そんな世界こそが、私の故郷なのではないだろうか。
愛しい本を床に置いたカバンの上に優しく置く。
再び立った拍子に、くらりと世界が揺れる。
今日はほどほどに体調が良かったのだけれど、元々がそんなに良くない。
しゃがんだり立ったりするだけですぐに貧血が起きる、弱い身体である。
それが落ち着いてから、私は屋上の端に腰掛け、足をぶらぶらさせる。
このご時世で柵もない屋上というのは如何なものかと思うのだけれど…。
暖かくなってきたとはいえ、日が落ちてくればセーラー服一枚では少し肌寒い。
もう部活動の生徒もほとんど帰ったようで、とても静かな学校は少し不気味でもある。
けれど空をみれば、暮れかけの群青の空に細く白い月が浮かんでいる。
個人的には月の模様はうさぎが餅つきしているように見えない。
そもそもアルビノで弱視な私にはあまりよく見えていない。
眼鏡をかければ多少見えなくもないけど、遠くの月の模様まで見えはしない。
でも、ぼんやりするには重くて邪魔だし、風が吹くと顔の周りで空気の流れが変になって気持ち悪いので屋上では眼鏡はかけない。
--うさぎを追いかけようか。
私は月に手を伸ばし、ぶらぶらしていた足は屋上を離れる。
届くはずのないものに手を伸ばしながら、身体は宙に浮く。
高さは十分。下はコンクリート。
一瞬の浮遊感ののち、真っ逆さまに落ちて行く。
普通であればある程度の高さを超えると落ちていく最中に恐怖で気絶するらしい。
でも私は、これ以上ないくらいに醒めていた。
…もっというなら、高揚していた。
永いような短いような、最期の時間。
地面が眼前に迫り、私は目を閉じた。
その瞬間、耳元で囁かれた気がした。
『ようこそ、アリス。ワンダーランドへ』