エルンスト 2
「君に贈り物を差し上げましょう」
ベルファス叔父は私に言った。
王弟でありながら王宮書物庫の司書長という、一見閑職に就いているベルファス叔父は各地に飛ばした密偵達を束ね、王宮にいながらにして隣国の地方で起きた些細な事件一つさえ知ることができた。
それゆえに、王は彼に表立った権力を何一つ持たせなかったし、護衛という名の監視役が離れることはなかった。ベルファス叔父がその気になれば王位を簒奪することなど容易いことだったからだ。
けれど叔父はそのような待遇に不平一つ言うでなく、王宮の蔵書に埋もれながら各地の密偵達と連絡を取り合い、膨大な情報を溜め込むことに満足を覚えているようだった。
私は書に淫し情報に淫するような叔父を少し気味悪く感じていたが、かといって嫌っていた訳ではない。むしろなついていた、といってもいいだろう。忙しい父に代わって話をしたり相談に乗ってくれたりするのはベルファス叔父だったし、叔父には両親にも他の親族にも聞けないことを教えてもらった。
王家を捨てた叔父の話だ。
彼の話は王宮でも私の母方の家、ヴェツェラ家でも禁句となっており、名前すら語られることはなかった。けれど人の口に鍵は掛けられない。私はずいぶんと昔から、叔父の話を知っていた。
本当に子供の頃はうすぼんやりとした憧れを持って。
もう少し大きくなってからは、興味の対象は叔父そのものより、叔父の子供に移っていった。私より三歳年下の子供。その下にも何人か子供が出来たと話に聞くことはあったが、私の興味は長子にのみあった。
王家のままでいれば、私に代わって王位を継いだかもしれない人間。
私は彼のことを想像するのがすきだった。
平民の家で育つ彼は、父親に会うのが一ヶ月に一度ということはなく、毎日両親と会っているのだろう。
食卓は家族で囲むのだろうか。平民の家では何を食べるのだろうか、おなかをすかしていないだろうか。
どんな勉強をしているのだろう。何を読んでいるのだろう、どんな教師がついているのだろう。
そんなことを教えてくれたのが、ベルファス叔父だった。
叔父は王家貴族の中でただ一人、平民となった叔父と交流のある人間だった。私は叔父から、彼の名前を聞いたのだ。
「ウルマンは賢い少年ですよ。あまり航海が好きではないようで、大概祖父と一緒に城下に暮らしています。ほら、あの尖塔が見えますか? あそこから少し行ったところにある家に住んでいるのです」
私は双眼鏡を持って叔父の指差す尖塔を探した。城下の外れ、海に近い場所にあるが、距離だけでいえばヴェツェラの家から、馬車で行けば一刻とかからないほど近い。王宮からだってさほど離れてはいない。
しかしあのあたりは商人しか住んでおらず、貴族が足を踏み入れる場所ではなかったし、王宮に足を運ぶ商人達が住む地区でもない。そういう意味ではどれほど近くにあろうとも遠い場所だった。
そしてあまりの遠さにため息をつく私の耳に、叔父は吹き込んだのだった。
「エルンスト殿下。君に贈り物を差し上げましょう。殿下の立太子には間に合わないでしょうが、即位する頃には立派な懐刀になる。ウルマンは武より文に長けているから軍部の飾りにはならないでしょうが、私のようにして使うか、他に使いようはいくらでもある」
「ウルマンを? けれど」
貴族達も王家の人間も彼の父親を許していない。先王が亡くなってからはその存在を黙殺し続けてきた。もはや王家の家系図からも消された存在だ。そんなものの息子が登城するのを、許しはしないだろう。
ベルファスは微笑んだ。
「君が懐刀一振り欲しいと言うのなら、私がいかようにもしましょう」
この叔父にならそれが出来るだろう。普段は好き好んで半ば隠遁したように見せているがその気になれば王を差し置いて王宮を専横できる人間だ。欲しがるものが権力ではなく庶民一人ならば、その出自に苦い顔もし、出自を隠すように厳命することもあろうが、後ろ暗い仕事に就かせ普段から監視を怠らない身のやましさから、父は反対しないだろう。
「……欲しい」
私の言葉に、叔父はわかっていたように軽く頷いた。
私には、兄弟がいない。私が生まれて数年ほどはまだ周囲も私の弟妹が産まれるのが期待していたらしいが、父と母の間にある冷淡さにもう諦めている。同じ王宮にあってさえ、二人が顔を合わせることはめったにないと言う。
それならば母以外に誰か寵愛する愛人でもいるのかといえば、それも無い。母が気に入らぬのであれば、と献上されてきた女性は悉く奥に迎え入れられるまでもなく返されたという。
だから私は常に一人だった。同じ地位を競う相手もおらず、生まれた時にはこの国の王となることが定められ、けれど慣習によって王宮から遠ざけられて母の生家で育てられている。
王宮にも自室はあり、好きに出入りすることはできるが、両親と会う時にすら肩書きは「ヴェツェラ公爵家の」と付き、表向きは臣下として遇される。
王は一人であり、いかに王家の血を引いているとはいっても王でなければ皆臣下だということを教え込むからだというが、王の血を引くのが私だけである当代は全く意味のないことだ。
そしてもし私に何かがあっても、国に残っている叔父達に男子はなく、女に継承権はない。慣習を曲げて女を君主にするか、他国に行った者の子を戻すか、それともすでに王家の籍から離れはしたものの、血を引くことには変わりないウルマンを迎えるか。どれも反対するものがおり、意見がまとまることはないだろう。
だから私は死んではならず、重い病気や怪我をした時にはそば仕えのものが処罰されたから、皆私を箱に入れておきたいかのように遇した。
私は、私の替わりとなる者が欲しかった。
けれどそれだけではない。ウルマンは、私にとって何かの象徴だった。当たり前の暮らしや、家族や、そんなものの象徴だった。
ウルマンが手に入る。
その夜私は酷く興奮して眠れなかった。
どのようにも使えると叔父は言ったが、使うつもりなどなかった。ただ傍において懐のうちに抱き、それだけで満足するだろう。
ウルマンが承知したのかなど、私は気にもしていなかった。私の頭はしばらく、叔父から贈られるであろう一振りの懐刀のことで一杯だった。
☆ ☆
17歳の頃、気まぐれを起こした風を装って従僕に無理を言い、公爵家の者には秘密でウルマンに会いに行くことを計画した。
驚いたことに教師をつけるのではなく市井の学校に学びにいっているという彼を見つけ、掴まえるのはとても簡単だった。
馬車に連れ込まれ驚いた顔をしている少年は、たった三歳しか違わないとは思えないほど幼い顔立ちで小さな、けれど濃茶色の聡明そうな目をした子供だった。
「殿下……」
「まだ殿下じゃない。君は私のことを知っているの? 私は君のことを知っているよ、私の従兄弟殿」
叔父から私への贈り物。
何度か会う機会を作り話をして、私はとても満足した。なるほど彼ならばどのようにも使えるだろう。顕職に付かせて貴族達への牽制に使うこともできるし、ベルファス叔父のように影で使うこともでいる。聡明で気が弱い。王家へ大それた期待や野心を抱くこともなく、与えられた役をこなす誠実さもある。
けれどやっぱり私は彼をどのようにでも使う気はなかった。けれど贈り物を断る気もなかった。傍にいて、懐に抱き、その重さを感じて、時折は取り出して見る。ウルマンは私にとってそういう存在であれば良いと思った。
彼がどんなことを考えているのかすら、私にとってはどうでも良かった。
なぜなら彼は私への贈り物だったから。
21歳の頃。王太子となって三年経ち、地歩も固まってきた。そろそろウルマンを王宮に迎えてくれ、と叔父に頼もうとしていた矢先、否それよりも直接私から頼もうと考えていた矢先。
父の航海についていく、と言って姿を消したきり、一年経っても二年経ってもウルマンは戻ってこず、その存在すらふっつりと消えてしまった時。
私は目の前が暗くなったような気がした。
ベルファスト叔父にウルマンを探すように頼んだが、行方は知れなかった。否、叔父はおそらく知っていただろう。けれど私に教えてくれることはなかった。ただ、とても楽しそうに「いずれわかりますよ」と言った。
その笑みに私は胸が悪くなるほどの苛立ちを覚えたが、どんなに懇願しても叔父は答えをくれなかった。
私がウルマンの存在を再び確かめることができたのは、それから十年後のことだった。