アンナ
濃い闇は怖くなかった。蟠る影も動物の気配も夜鳥の鳴き声も。夜の森は私を脅かさなかった。
当然だ。森は人と違って何も忘れない。この森は狼達を覚えている。だから狼と契約をした狼殺しのことも知っている。
否、そんなことよりも、同じ悲しみを持つ私を、森は傷つけることはないだろう。森はいつも、失う悲しみに満ちている。得る喜びに満ちている。
普段ならば彼らの喜びに耳を傾けているが、今は彼らの悲しみに身を浸すばかりだった。
月さえ姿を消した森は私に優しかった。木の根は私を転ばせようとしなかったし、枝や草が私をぶつこともなかった。羽ばたきと水音が私の行く先に導いてくれた。風が私の足に宿り、足を進めさせた。
行き着いた先は森の奥、エミーリア様とネイェドリー様の墓だった。
今夜は星の光しかないのに、彫像は内側からほのかに輝いて、はっきりとみえた。
おかあさまに少し似ている。前に見た時にもそう思ったけれど、夜に見るとまるでおかあさまそのもののように見えた。
私はいつのまにか駆け出して、花に向かって伸ばされた手を握り、腰に抱きついた。
「おかあさま、おかあさま、おかあさま!」
棺に入れられ埋められたおかあさま。おとうさまの隣に埋葬されたおかあさま。
エミーリア様の彫像が暖かくなってきたように感じて、私は声をあげて泣いた。
「おかあさま! 私も連れていって。いっしょにつれていって……」
これから君たちは城に住むんだよ、と従兄弟のアウグストは言ってくれたけど、私は家を離れたくなかった。アウグストも城も好きだけど、そこは私の家ではないし、おとうさまもおかあさまもいないのだ。
二人がいない場所で、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。
森の夜など怖くない。私はおとうさまとおかあさまが亡くなった日からずっと、こんな闇よりもっとずっと暗い、地面すらわからない暗い場所に放り出されたような気持ちでいるのだから。
「おねがい私もいっしょに……!」
「君がそんなふうに思っていたら、アウグストもパヴェルも、君の両親も悲しむよ」
不意に、足音もさせず下草も揺らさず、男の人がエミーリア様の彫像の隣で同じように私を見下ろしていた。
なんてきれいな人なんだろう。
私は思って、けれどこんなに美しいものが「人」であるわけがないともすぐに分かった。
今夜は見えない月が人の形をとって降りてきたように内側からほのかに輝く肌を持つ人など、いるわけがない。
そうして私は人ではないものがこの地にいることを知っていた。
「……ヴィクトル様?」
最後の狼。
彼の名前だけは聞いたことがあった。
彼は頷き、私に手を差し出した。
「アンナ。夜に一人でこんなところに来てはいけない」
「夜はこわくないです、森も優しい」
「うん。君はまだ幼いから、夜も森も君に優しい。けれどアンナ、人は夜を、森を怖がらなくてはいけないよ。……だけれどもアンナ、君は今、夜よりも森よりも怖いものがあるんだね」
「……」
「いいんだ、それは口に出すべきではない。さあ帰ろう。アウグストとパヴェルにおやすみを言ったら朝が来るまで眠るんだ。大丈夫、眠りは死ではないよ、君は死なない。パヴェルもアウグストも皆死なない。朝日が上れば人は目覚めて起き出すよ。私は朝になったら眠るけれど、それまで君のそばにいてあげる。さあ、夢の中でお父様とお母様に会いにいこう。朝になったら起こしてあげるから、安心してお父様とお母様に会いに行っておいで」
そう言って微笑みながら差し出された手は爪の先まで美しかったけれど、とてもひんやりとしていた。
ほほえむ目の色は碧色の炎のようにきらめいていた。
口元は牙がかいま見えていた。
抱きよせられた胸元から、かすかに生臭いような鉄のようなにおいがした。
新月の夜は、狼の夜だ。彼らは一ヶ月に一度、人間の血で飢えを癒す。
ああ、彼は今夜、人の血を貪ったのだ。
恐怖を煽る姿であるのに、私はヴィクトルをとても美しい、と思った。胸元に抱きかかえられ、冷たいが力強い腕がぎゅっと私を抱きしめた。
ゆっくりと歩いているはずなのに、疾走する獣に抱えられているような気がした。
さっきまでただ優しいばかりだった森が、怯えと歓喜にふるえているのを感じた。
ヴィクトルは夜の王、そしてこの森の王なのだ。夜鳥は鳴き声をひそめ、夜歩く獣達も足を止めて身を隠す。命あるものは怯えながらそれでも王の手に掛かるのを心待ちにしている。
ヴィクトルは、私を薄く暖かなマントで包み、森を歩きながら低い声で話をしてくれた。
私はいつのまにか眠ってしまっていたらしいけれど、約束どおり朝まで彼は私の枕元にいてくれた。
『おはようアンナ』
そう言う声を、聞いた気がする。目を開けたとき、部屋には誰もいなかったけれど。
幼かった私はただ一夜の出来事だけで、熱烈にヴィクトルに恋をした。
少し大きくなって、恋心は変わらないまま、ヴィクトルはすでに私が生まれる何年も前にアウグストを選んでいたことを知り、嫉妬と悔しさに眠れない夜を続けた。
今は。今は…そう。
「アンナ」
数年前、夫となった人が私を呼んだ。私は枯れた花を摘み取る手を止めて振り返った。
出会ったときには、思慮深く穏やかな……、とても官吏には向かないと思っていた人だが、王に寵愛され、またそれをただの身びいきだとは言わせない能吏として王都で活躍していると兄から聞いたのが、アウグストが床に伏すようになる少し前。アウグストとヴィクトルを送り、辺境伯の名を継ぐために王都に上がるという兄に強引に連れていかれた時、私は、ウルマンと私の婚儀が正式に決まっていたことを知った。
それでも、ウルマンは誠実だった。
求婚したその後で「あなたがヴィクトル様のことを愛していらっしゃるのは存じています。私は称号もなく、つまらない男です。あなたはヴィクトル様のようではなくとも、少なくとも私などより素晴らしい方に数多く求婚されていることでしょう。私の世迷言はどうか忘れて、私の求婚など断ってください」と言うものだからその時は腹が立って殴ってしまったけれど、どうして腹が立ったのか考えてみればそれはあの人が卑屈なことを言ったからで、私はウルマンに卑屈になどなって欲しくなかったのだ。
あなたはもっと堂々としているべき、立派な人だ。
そう思い至った時、私は彼の求婚を受けようと決めた。
それからの三年間は目が回るようだった。お兄様は辺境伯の名を返上するために奔走し、ウルマンもお兄様と領地と領民の為に尽力してくれた。
そして気付けばウルマンは王の退位とともに職を辞し、私達は王都で私塾を始めることになった。
私塾は館の一角を開放して始めることにしたものだから、ウルマンが秘書官をしていた頃とは顔ぶれが随分違うけれども毎日賑やかで、私は商人や役人が集って賑やかな昔よりも、子供達で賑やかな今の方がずっと好きだった。
そんな館でも、裏庭には子供達はもちろん、庭師も立ち入らせない私達だけの庭がある。
あの森でしか咲かないはずのエディルが、その庭に咲いていた。この館に越すことが決まり、森から種を持ってきたのは私だが、まさか根付くとは思わなかった。
今では小さな庭のあちらに一群れ、こちらに一群れと随分と増えた。
「ずいぶん精が出るね、少し休んだ方がいい。朝から働きづめだ」
「今夜は新月ですから。綺麗にしておきたくて」
「ああ……、本当に綺麗だ。きっと喜ばれるに違いない」
ウルマンは私の言葉に目を細めた。
この庭はヴィクトルのために丹精していることを知っていて、私を咎めることも責めることもなく受け入れてくれる。
それを申し訳ないと思わないのは、もう私が恋に身を焦がす子供ではないからだろう。
今でもヴィクトルに恋をしている。
けれどそれは初めてヴィクトルと出会ったあの夜に捧げられた恋だ。未来のない、ただ一晩だけの思い出。
決して叶うことがないからこそ、持ち続けていられた恋。
私はウルマンの腕に手をかけた。私を見て微笑む顔に微笑み返す。
私は今でも、夜も、森も、ちっとも恐ろしいとは思わない。
けれどもしも、ウルマンが夜や森の闇に彷徨うことがあるとしたら、恐怖に歯を震わせながら森の中、夜の中を駆けるだろう。
どうか無事でいて、と祈りながら、森の嘆きにも喜びにも耳を貸すことなく、ただウルマンの声と彼の気配だけを一心に探すのだろう。
王の気配にも王の声にも気付くことなく、ただ一心に。