パヴェル
夏から秋に向かいつつある領地の隅々を案内しながらパヴェルは、アウグストの命令とはいえ、なぜ自分はこれほど饒舌にこの男に話をしているのだろうと思った。
パヴェルの話にいちいち頷きながら熱心に領地をみてまわる、遠い王都からやってきたウルマンは、王の命令を持ってやってきた収税官だ。しかし王の命令が無理なものだと分かっている、と口に出すところは普通の官吏とも思えず、王の望み……この国にあるかもしれない金鉱を探しに来たのだと明言する度胸の良さは、気の弱そうな、よく言えばおとなしそうな外見に見合うものではなく。
パヴェルはこの得体の知れなさそうな男の監視を兼ねて案内役を買ってでたのだが、そんなことは承知の上だろうにパヴェルのすることにいちいち礼を言い、恐縮し、小さいが宝石のようだとパヴェルが自慢に思っている領土を感嘆の目で眺めていた。
不審で得体も知れない。にも関わらず好感のもてる男。
それが、パヴェルがこのいくつか年上の男に抱いた感触だった。
パヴェルは森へと続く道を隣を馬で進むウルマンにからかい混じりに声をかけた。
「次は隠し金鉱にご案内しますよ」
「いやあそれは。見てしまったら陛下に報告申し上げなければならなくなるので、もし実際にあるのだとしても私の目に触れさせないでください」
「あなたはそれを探しにきたのでしょう」
「無いことを確認しにきたのです。咎もないのに領地の税をあげるなど、いかに陛下の申し出といえども許されることではない。陛下とてそれは分かっていらっしゃるはずです。金鉱がないと確認できれば諦めるでしょう」
ウルマンの言葉の端々に王に対する気安いような親愛が透けて見え、パヴェルはまた少し違和感を覚える。
爵位も役職も持たない一介の官吏が、王と面識があるとは思えず、ウルマンは面識もない人間に親和するような人間には見えなかった。むしろ過ぎるほど友好的に振舞うパヴェルとアンナ兄妹にすら他人行儀な態度と口調を崩さない彼は、人間関係には慎重すぎるほど慎重に振る舞う人間のような印象がある。
王の非公式な命を受けるほどだからもしかしたら面識があるのかもしれないが、アウグストから聞いた情報では今の王はまだ若く、気に入った人間はどんどん身近に取り立てるという。それで政が破綻しないのだから、人を見る目があるのか重臣達が目を光らせているかだろうが、そんな王がウルマンと面識があってなお彼を取り立てないとは考えられない。
「諦めるでしょうか。我が領が不相応な税を納めているのは事実です」
「……そうですね。もう少し山間の領土にふさわしい額ならば。いえ、領地の広さも正確な場所も知らぬ土地があるということ自体、陛下はお気に召さないのでしょう」
「沈黙を買うための多額の納税です。そもそも我らは王になんの借りもない。我らは王など必要としていない」
「その通りです。無用な争いを避けるためだけの恭順ということは周知のこと。代々の王は沈黙と不干渉の代償に財貨と駿馬を手に入れてきた」
「今度の王は強欲がすぎる。いや、あなたが忠誠を誓う主に暴言をはくつもりはないが、私にはどうしても納得がいかぬのです」
「……私は、あなたが羨ましい」
ウルマンは唐突に呟いた。どういう意味だとパヴェルは聞き返そうとしたが、横目に見るウルマンの顔があまりに寂しげで、言葉を飲み込まざるを得なかった。
「ところで、本当はどちらへ向かっているのですか? どんどん森が深くなるばかりですが」
ウルマンの言うとおり、茂る木々は夏の強烈な日差しを遮り、辺りはあちらこちらに木漏れ日が小さな日溜まりを作っている他は薄暗い。この辺りの森は杉など葉の色の暗い木々が茂り、足下には羊歯や苔が生えているからより暗く感じる。
いったいこんなところに何があるのかと、ウルマンは馬上から周囲を見回しているが、視界には森しか映らない。
「ああ、すみません。この先に生えている花を摘みに行くんです。アウグストの好きな花なんですがこんなところまで摘みにくる時間がなかなかとれなくて」
「花、ですか」
「我が一族にとっては金鉱よりも重要な場所です」
「はあ」
ウルマンの不明瞭な返事にパヴェルは喉の奥で笑った。嘘をついたつもりはない。現にその場所のことは一族のものしか知らない。否、知っている者もいるだろうが誰も立ち入らない。
そこは狼と一族にとって大切な場所だからだ。昔は狼と縁のあった領内の人々も訪れたというが、この二百年、狼は領主の一族としか交わらない。
この領内でも狼の存在は遠くなったのだ。
暫く暗い森を進むと、男の足で十歩歩く程度の幅を持つ円形の広場に出た。元は石組みをして美しく整えられた広場だったが、長い年月の間石の間から草が生え、石も割れたものや草の勢いに負けて浮き上がったものがあり、所々に石を敷き詰めた広場だった名残があるのみだ。
その、広場の中央を貫くように一群の、すらりとした葉を持つ濃い紫の花が咲いている。そして花の列の一番奥に、等身大の彫刻があった。不思議にぬめるような、光と色を内に閉じこめたような黒い石でできた、たおやかな女の彫刻だ。彫像は花を愛でるように目を伏せ、少し腰を曲げて手を花に伸ばしている。
彫刻は土ぼこりが洗い流されたような筋がいくつもつき、足下には草がまといついていたが、美しさが損なわれることはなかった。
この広場の頭上に木々は無く、ぽかりと日溜まりになっているが、頭上をよく見れば枝は人の手で落とされている。
「エミーリア様です。ネイェドリーはエミーリア様の死が定まったのを知り、この地に彼女の為の墓を作らせたんです」
「墓? ではここにエミーリア様が」
「それに、この花の下にはネイェドリーも眠っているそうです」
パヴェルは花の根元近くからナイフで茎を切る。エディアルド・ネイェドリーをエミーリアがそう呼んでいたことから、エディルと呼ばれる花だ。もっともその名も、一族以外に知る者はいない。
パヴェルは滑らかな彫像の頬を指の背で撫でる。アウグストが何を考えているのか知らないが、彼はウルマンに何もかもを明かす気でいる。ヴィクトルにも会わせるつもりだと、そう言われた時にはパヴェルも反対したが、しかしアウグストは決めたことは翻さないし、すでにヴィクトルも承知であるというのならば、パヴェルが口を出すことではない。
だから近々彼もこの石の正体を知るだろう。あまりにおぞましいと狼達の手によって人間の姿に削りなおされた、これがエミーリアの遺体そのものだと。
狼自身ですら嫌悪し憐れむ、狼の遺体。
それがこの領地を潤しているのだと、ウルマンは知ってどう思うのだろうか。狼殺し、という名は元々ネイェドリーの自嘲だ。しかしいまやその狼の死体を漁るハイエナにも等しい存在へと堕ちている。
いとおしむ狼すらいない自分たちはすでに狼殺しの名に値しない。パヴェルはそう思って唇をゆがめ、それを隠す為にうつむいて花を摘んだ。
傍らでウルマンがしゃがみこみ、危なっかしい手つきで短剣を取り、花の茎に触れた。一本、二本と不器用な手つきで切っている。力加減がわからないためか茎はつぶれてしまっている。あとで受け取ったアンナが、大分切りもどさなければ、花が水を吸えない、と怒るだろう。
「もういいですよ、ウルマン殿。十分です」
そう声をかけたとき彼は五本目の茎を切っていて、花はすでに片腕で抱え込む大きさの籠が一杯になるほどだった。パヴェルの声に顔を上げたウルマンは、最後の一本を籠にいれて腰を伸ばした。そのまま空を仰ぎ見る。
つられてパヴェルも上を見た。一昨年彼が初めて落とした枝の跡はここからでは見えない。樵のような真似をするのは本意ではなかったが、花を絶やさないことが一族の勤めだと言われ、さらにアウグスト自らが木に登って枝を落としているのを、更に嫌だとは言えずに自分も木に登った。
「ウルマン殿。この場所にこそ我ら一族の生きる理由がある。狼殺しはただ狼の為に生きるという理由が。だからこそこの場所は我ら一族にとって何よりも大切な場所なのです」
そしてここは最初の狼と狼殺しの墓所となったように、最後の狼と狼殺しの墓所にもなるだろう。
不意に目の奥が眩み涙の滲んできたパヴェルを知らずにウルマンは彼の人柄そのままの誠実な声で「大切な場所に案内していただき、ありがとうございます」と言った。パヴェルは唇をゆがめて笑みの形をつくり、「どういたしまして」と応える。
アウグストが何故この男にすべてを明かそうと決めたのか、わからない。けれど自分がこの男に必要のないことまで喋り、必要の無い場所まで踏み込ませるのは、きっとこの誠実さのせいだろう。パヴェルは思った。
そして、すべてを終わらせる時にこの男が傍にいてくれれば、たとえ何の力にならなくても傍にいてくれれば、どれほどの慰めになるだろうかと感じた。