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もう一人分の

作者: 羽月楓
掲載日:2026/11/06

挿絵(By みてみん)




「朝ごはんを作ってくれる人が、いなくなったんです」


 女はそう言って、向かいの空席を見た。


 虹色Caféには昼を過ぎても客が少なく、窓から差す秋の日差しが、丸いテーブルの半分を照らしていた。ルファは女の前に紅茶を置き、話の続きを待った。


「作ってくれていたのは、どなた?」


「私です」


 カウンターで硝子の欠片を選り分けていたライトが、手を止めた。


「自分で作ってたのに、いなくなったの?」


 女はうなずいた。三十歳を少し越えたくらいだろう。身なりは整っていたが、目元が赤く、指には洗い物で荒れた跡があった。


「医者には、私の中に、もう一人の私がいることがあると説明されています。眠ったあとや、気づかないうちに、時間が抜けてしまうんです」


 女はそのことを、もう何年も前から知っていた。知らないうちに花を買っていたり、書いた覚えのない買い物の覚え書きが残っていたりする。医者に通い、自分でも日記をつけるようになってからは、驚くことが減ったという。


「朝ごはんも、その人が用意してくれていました。いつも二人分」


「二人で暮らしているの?」


 ルファが尋ねると、女は首を振った。


「一人です。朝起きると、皿が二枚並んでいるんです。一枚にはパンとスープが残っていて、もう一枚は空っぽ。パン屑やスープの跡があるので、誰かが先に食べたんだと思っていました」


「もう一人の自分が、食べたんじゃないの?」


 ライトの問いに、女は目を伏せた。


「そう思っていたんです。でも先週、二枚とも手つかずだった朝があって」


 女はそこで、初めて紅茶を飲んだ。


「誰かを待っていたのかもしれないと思いました。もう一人の私に、好きな人ができたのかもしれないって。……私には、誰もいないから」


 その朝、女は自分の皿だけを食べ、向かいの席に残った朝食を昼まで置いておいた。けれど訪ねてくる者はなく、パンは固くなり、スープには薄い膜が張った。


「次の日から、食卓には何もなくなりました。目が覚めると、顔がむくんでいるんです。泣いたあとみたいに」


「何か書き残していないの?」


「日記には、何も。もう一人の私が何を考えているのか、知りたいんです」


 女は隣の空席を見た。


「魔女に相談できる店があると聞きました。……もう一人の私と、話すことはできませんか」


     *


 ルファが棚から持ってきたのは、小さなお香立てだった。


 花の形に組み合わされた硝子は、青、黄、赤、緑と、それぞれ違う色をしている。細い金属の縁が花弁をつなぎ、中央には真鍮の小皿が収まっていた。窓の光を受けると、テーブルに色のついた影が落ちた。


「これで話せるの?」


 ライトが覗き込む。


「話したくないことまで、話させることはできないわ」


 ルファは細い香を一本立て、火をつけた。


 白い煙がまっすぐに上がる。ところが硝子の花弁の上へ差しかかると、煙は横へ流れ、向かいの空席の上でゆっくりと渦を巻いた。青と赤の光が混じり、その奥に誰かの肩が見えた。


 女がカップを置いた。


 空席には、もう一人の女が座っていた。


 髪も服も同じだった。ただ、こちらの女より疲れた顔をしている。指先には白い粉がつき、袖口が少し濡れていた。輪郭の向こうに、椅子の背が透けて見える。


「……私?」


 向かいの女は答えず、テーブルの上を見ていた。


 ライトが手を伸ばすと、ルファが静かに止めた。


「煙が続いているあいだだけよ」


 女は椅子に座り直した。


「ねえ。どうして朝ごはんを作らなくなったの?」


 向かいの女の唇が動いた。


「もう、いらないから」


「誰が?」


「……あの人が」


「新しい恋人ができたの?」


 向かいの女が顔を上げた。笑おうとして、すぐにやめた。


「新しくなんか、ないわ」


 煙が少し薄くなる。


「ずっと前から、あの人だけよ」


「誰なの?」


 向かいの女は答えなかった。指先で、見えない皿の縁をなぞっている。


「名前だけでも教えて」


「……言ったら、いなくなる」


 香の先から、最後の灰が落ちた。


 向かいの女の姿は、窓から吹き込んだ風にほどけるように消えた。椅子の上には、何も残らなかった。


 女は空席を見つめていた。


「……また来てもいいですか」


「もちろん」


 ルファはお香立ての灰を払った。


「今度は、聞きたいことを一つずつ考えておきましょう」


     *


 三日後、女は再び店を訪れた。


 外では冷たい雨が降っていた。女の外套の肩が濡れ、裾には泥がついている。


「思い出したことがありました」


 席に着くなり、女は言った。


「朝になると、家中の窓が開いていることがあるんです。雨の日も。前から気になっていたのに、今日はひどくて、台所の床まで濡れていました」


「閉めて寝たんだろ?」


 ライトが尋ねると、女はうなずいた。


「それに、家の奥から変な臭いがするんです。傷んだ食べ物みたいな。排水管が悪いのかと思って、何度も掃除したんですけど」


 ルファは紅茶を注ぐ手を止めた。


「奥には何があるの?」


「昔、物置にしていた部屋です。大きな金庫が一つあって……」


「金庫?」


「以前、一緒に暮らしていた人がいたんです。その人は古道具を扱っていて、店を畳むときに家の奥へ運びました」


 女はカップに両手を添えた。


「大切なものは、何でもそこにしまう人でした。手紙も、壊れた時計も、私が片方なくした耳飾りまで」


「その人は今、どこに?」


「……わかりません。春に別れて、それきりです。病気がちで、入院したと聞いたことはあるんですが」


 女は言葉を切った。


「いえ、本当に聞いたのか……思い出せないんです」


 ルファは新しい香を立てた。


 火がつくと、煙が硝子の色をくぐり、空席に人の輪郭を結んだ。向かいの女は、前よりも肩を落としていた。


「窓を開けているのは、あなた?」


 女が尋ねる。


「ええ」


「どうして? 雨が吹き込むのよ」


「閉めていると、臭うから」


「何が?」


 向かいの女は袖口を握った。


「食べ物が、傷んでしまって」


 ライトが顔を上げた。


「朝ごはん?」


 向かいの女は答えなかった。


「毎日、二人分作ってたんだよね。ひとつは空になってた。あれ、食べたんじゃなくて、どこかへ運んだの?」


 女は指をほどき、もう一度握った。


「食べてほしかったの」


 ルファが尋ねた。


「誰に?」


 向かいの女は、今度は黙っていなかった。


「テオに」


 目の前の女が、息を止めた。


「……テオ?」


 春に別れた恋人の名だった。


「帰ってきたの?」


「ええ」


「いつ?」


「雨の降る夜。もう一度だけ、会いたいって」


 女はテーブルの端をつかんだ。


「どうして、私に会わせてくれなかったの」


 向かいの女は、煙の向こうからこちらを見ていた。


「あなたは、もう会いたくないって言ってたから」


 香が燃え尽き、姿が消えた。


 女はしばらく動かなかった。


 カップの紅茶は、もう冷めていた。


     *


 その夜、女は家の奥へ行った。


 物置の戸を開けると、古い木箱が壁際に積まれ、その奥に大きな金庫が据えられていた。人が一人、身体を丸めれば入れそうなほど深いものだった。


 テオが持ち込んだとき、二人で床を傷つけないように布を敷いたことを覚えている。重さに困って、運び入れたあと、テオはしばらく床に座り込んで笑っていた。


『なくしたくないものは、ここに入れればいい』


 そう言って、最初にしまったのは、二人で撮った小さな写真だった。


 女は金庫の前にしゃがんだ。


 扉の下に、乾いたパン屑が落ちている。


 奥から、甘酸っぱい臭いが漂った。


 女は口元を押さえた。金庫の取っ手へ手を伸ばしたが、扉は開かなかった。丸い番号盤を回してみる。どこまで回しても、錠は外れない。


 番号を知っていたのは、テオだけだった。


 そして今はたぶん、もう一人の自分も知っている。


 女は金庫の前から立ち上がり、物置の窓を開けた。冷たい夜気が流れ込む。


 閉めて戻ろうとして、もう一度、金庫を見た。


 窓は、そのままにしておいた。


     *


 三度目に訪れたとき、女は初めから泣いていた。


「……金庫の前に、パン屑が落ちていたんです」


 ルファは席へ案内し、いつものお香立てを置いた。ライトもカウンターから離れ、少し離れた椅子に腰掛けた。


「中に何があるのか、もう、聞かなくてもわかる気がします」


 女は言った。


「でも、確かめないといけないんですよね」


 ルファはうなずいた。


「一人では開けないで。必要なら、助けてくれる人を呼びましょう」


 女は頷いた。ルファが香に火をつける。


 煙が立ち上り、硝子の花弁に触れる。テーブルの上に赤と青の影が重なり、向かいの椅子にもう一人の女が現れた。


 今日は、こちらを見ていた。


「テオは……?」


 女が尋ねる。


 向かいの女はすぐに答えた。


「亡くなったわ」


 短い言葉だった。


 目の前の女は、唇を開いたまま動かなかった。


「帰ってきた夜、ひどく咳をしていたの。夜中に息が止まって、呼んでも、肩を揺すっても、起きなかった」


 煙の向こうの女は、膝の上で手を重ねた。


「怖くて、誰にも言えなかった。朝になったら、あなたが目を覚まして、あの人を連れていってしまうと思ったの」


「……だから、金庫に?」


「テオが言ってたでしょう。大切なものは、なくさないようにしまっておくって」


 女は首を振った。けれど、否定する言葉は出なかった。


「毛布にくるんで、あそこへ運んだの。あの人、病気でずいぶん痩せていたから」


 向かいの女は指先を見下ろした。


「最初の日は、パンを少しだけ入れたの。前の晩に、明日は食べられると思うって言っていたから」


 ライトは膝の上で手を握った。


「次の日も、その次の日も。朝ごはんを二人分作って、一皿はあなたに残して、もう一皿を持っていった」


「空っぽのお皿は……」


「戻しておいたの。あなたが起きたとき、誰かと朝ごはんを食べたと思えるように」


 女の目から涙が落ちた。


「どうして、やめたの?」


 向かいの女は答えるまでに時間がかかった。


「入らなくなったの」


     *


 その朝も、女は二人分の朝食を用意した。


 テオが好きだった、少し焦げ目の濃いパン。温めたスープ。それから、食べやすいように細かく切った果物。


 自分のための一皿を食卓に残し、もう一皿を盆に載せて家の奥へ運んだ。


 金庫の扉を開けると、傷んだ食べ物の臭いがした。


 中には、テオがいた。


 背中を壁に預け、毛布を肩に掛けている。かつてはよく動いた手が、膝の上で重なったままになっていた。


 女は膝をついた。


「おはよう。今日はパン、よく焼けたのよ」


 男の口元には、昨日までの食べ物が残っていた。足元には、皿から運んだものが幾日分も積み重なっている。


 女はそれらを少し脇へ寄せ、スプーンでスープをすくった。


「少しでいいから」


 口元へ運ぶ。


 スープが顎を伝い、毛布に落ちた。女は布で拭き、もう一度すくった。


「今日は、飲み込めるかもしれないでしょう」


 男は動かなかった。


 女はパンを小さくちぎり、口元へ押し当てた。けれど、もう入る隙間がなかった。押すと、前に詰めたものが崩れ、膝へ落ちた。


 拾って、戻そうとした。


 その途中で、手が止まった。


「……テオ」


 いつもなら、食べ終わるまで待っていた。食べてくれたと思って、空になった皿を台所へ戻した。


 けれど男は、今日も一度も口を動かしていない。


 昨日も。


 その前の日も。


 女はスプーンを握り直した。


「明日は食べられるって、言ったでしょう」


 声が震えた。


「ひと口でいいの。お願いだから」


 もう一度、スプーンを口元へ持っていく。


 手が揺れ、スープは床へ落ちた。


 女はスプーンを置き、男の頬に触れた。何日も前から知っていた冷たさだった。


 それでも、手を離せなかった。


「……食べてよ」


 涙が指の上に落ちた。


 男の袖を握り、返事を待った。窓から雨の音が聞こえていた。どれほど待っても、スープは冷めるばかりだった。


 女は盆を抱えて台所へ戻った。


 二枚の皿には、まだ朝食が残っていた。


 そのまま椅子に座り、動かなかった。


     *


「……もう、食べないのね」


 虹色Caféで、女が言った。


 向かいの女はうなずいた。


「わかってたの。ずっと前から。でも、作らなくなったら、あの人が本当にいなくなる気がした」


 ルファは何も言わなかった。


「朝ごはんは、もう作れない。でも、金庫の扉を開けたままにすることも、誰かに知らせることもできなかった」


 向かいの女が顔を上げた。


「……怖かったの」


 こちらの女は、涙を拭かなかった。


「私も怖い」


 しばらく、二人とも黙っていた。


 やがて女が、向かいの自分へ手を伸ばした。


「でも、あの人をあそこから出してあげよう」


 煙の向こうの女が、差し出された手を見た。


「……一緒に?」


「一緒に」


 その指先が重なるより先に、香の火が小さくなった。


 向かいの女は口を開いた。


 金庫の番号だった。


「テオが帰ってきた夜、教えてくれたの。もう使わないから、って」


 女は数字を繰り返し、忘れないように確かめた。


 最後の灰が真鍮の皿に落ちると、向かいの椅子は空になった。


 ルファは窓を開け、残った煙を外へ逃がした。


 ライトが女に紙と鉛筆を渡す。


 女は数字を三つ書いた。手が震えて、最後の一つだけ文字が曲がった。


     *


 金庫が開けられたのは、翌日の午後だった。


 女は一人で開けなかった。ルファに勧められたとおり、医師と、街の役所から来た人たちに事情を話した。病死だったのかどうかも含め、調べる必要があると言われた。


 番号盤が回り、重い錠が外れた。


 扉の隙間から、冷えた空気と、長い間閉じ込められていた臭いが流れ出た。


 女はその場で目を閉じた。


 中を確かめた人が、誰かを呼んだ。


 金庫の扉は、大きく開かれた。


 廊下に何人もの足音が響く。女は隣の部屋で事情を聞かれ、覚えていることと、覚えていないことをひとつずつ話した。


 しばらくして、台所へ戻ることを許された。


 窓は開いていた。雨は上がっていたが、家の中にはまだ見知らぬ人たちの声がしている。


 食卓には、何も載っていなかった。


 ただ、皿を置き続けた場所だけ、木の色が丸く変わっていた。


 ふたつ。


 女は片方に指を置いた。


 向かいの椅子を見た。


 しばらくして、その椅子をテーブルの下へ押し込んだ。


 

     了



 

 

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