もう一人分の
「朝ごはんを作ってくれる人が、いなくなったんです」
女はそう言って、向かいの空席を見た。
虹色Caféには昼を過ぎても客が少なく、窓から差す秋の日差しが、丸いテーブルの半分を照らしていた。ルファは女の前に紅茶を置き、話の続きを待った。
「作ってくれていたのは、どなた?」
「私です」
カウンターで硝子の欠片を選り分けていたライトが、手を止めた。
「自分で作ってたのに、いなくなったの?」
女はうなずいた。三十歳を少し越えたくらいだろう。身なりは整っていたが、目元が赤く、指には洗い物で荒れた跡があった。
「医者には、私の中に、もう一人の私がいることがあると説明されています。眠ったあとや、気づかないうちに、時間が抜けてしまうんです」
女はそのことを、もう何年も前から知っていた。知らないうちに花を買っていたり、書いた覚えのない買い物の覚え書きが残っていたりする。医者に通い、自分でも日記をつけるようになってからは、驚くことが減ったという。
「朝ごはんも、その人が用意してくれていました。いつも二人分」
「二人で暮らしているの?」
ルファが尋ねると、女は首を振った。
「一人です。朝起きると、皿が二枚並んでいるんです。一枚にはパンとスープが残っていて、もう一枚は空っぽ。パン屑やスープの跡があるので、誰かが先に食べたんだと思っていました」
「もう一人の自分が、食べたんじゃないの?」
ライトの問いに、女は目を伏せた。
「そう思っていたんです。でも先週、二枚とも手つかずだった朝があって」
女はそこで、初めて紅茶を飲んだ。
「誰かを待っていたのかもしれないと思いました。もう一人の私に、好きな人ができたのかもしれないって。……私には、誰もいないから」
その朝、女は自分の皿だけを食べ、向かいの席に残った朝食を昼まで置いておいた。けれど訪ねてくる者はなく、パンは固くなり、スープには薄い膜が張った。
「次の日から、食卓には何もなくなりました。目が覚めると、顔がむくんでいるんです。泣いたあとみたいに」
「何か書き残していないの?」
「日記には、何も。もう一人の私が何を考えているのか、知りたいんです」
女は隣の空席を見た。
「魔女に相談できる店があると聞きました。……もう一人の私と、話すことはできませんか」
*
ルファが棚から持ってきたのは、小さなお香立てだった。
花の形に組み合わされた硝子は、青、黄、赤、緑と、それぞれ違う色をしている。細い金属の縁が花弁をつなぎ、中央には真鍮の小皿が収まっていた。窓の光を受けると、テーブルに色のついた影が落ちた。
「これで話せるの?」
ライトが覗き込む。
「話したくないことまで、話させることはできないわ」
ルファは細い香を一本立て、火をつけた。
白い煙がまっすぐに上がる。ところが硝子の花弁の上へ差しかかると、煙は横へ流れ、向かいの空席の上でゆっくりと渦を巻いた。青と赤の光が混じり、その奥に誰かの肩が見えた。
女がカップを置いた。
空席には、もう一人の女が座っていた。
髪も服も同じだった。ただ、こちらの女より疲れた顔をしている。指先には白い粉がつき、袖口が少し濡れていた。輪郭の向こうに、椅子の背が透けて見える。
「……私?」
向かいの女は答えず、テーブルの上を見ていた。
ライトが手を伸ばすと、ルファが静かに止めた。
「煙が続いているあいだだけよ」
女は椅子に座り直した。
「ねえ。どうして朝ごはんを作らなくなったの?」
向かいの女の唇が動いた。
「もう、いらないから」
「誰が?」
「……あの人が」
「新しい恋人ができたの?」
向かいの女が顔を上げた。笑おうとして、すぐにやめた。
「新しくなんか、ないわ」
煙が少し薄くなる。
「ずっと前から、あの人だけよ」
「誰なの?」
向かいの女は答えなかった。指先で、見えない皿の縁をなぞっている。
「名前だけでも教えて」
「……言ったら、いなくなる」
香の先から、最後の灰が落ちた。
向かいの女の姿は、窓から吹き込んだ風にほどけるように消えた。椅子の上には、何も残らなかった。
女は空席を見つめていた。
「……また来てもいいですか」
「もちろん」
ルファはお香立ての灰を払った。
「今度は、聞きたいことを一つずつ考えておきましょう」
*
三日後、女は再び店を訪れた。
外では冷たい雨が降っていた。女の外套の肩が濡れ、裾には泥がついている。
「思い出したことがありました」
席に着くなり、女は言った。
「朝になると、家中の窓が開いていることがあるんです。雨の日も。前から気になっていたのに、今日はひどくて、台所の床まで濡れていました」
「閉めて寝たんだろ?」
ライトが尋ねると、女はうなずいた。
「それに、家の奥から変な臭いがするんです。傷んだ食べ物みたいな。排水管が悪いのかと思って、何度も掃除したんですけど」
ルファは紅茶を注ぐ手を止めた。
「奥には何があるの?」
「昔、物置にしていた部屋です。大きな金庫が一つあって……」
「金庫?」
「以前、一緒に暮らしていた人がいたんです。その人は古道具を扱っていて、店を畳むときに家の奥へ運びました」
女はカップに両手を添えた。
「大切なものは、何でもそこにしまう人でした。手紙も、壊れた時計も、私が片方なくした耳飾りまで」
「その人は今、どこに?」
「……わかりません。春に別れて、それきりです。病気がちで、入院したと聞いたことはあるんですが」
女は言葉を切った。
「いえ、本当に聞いたのか……思い出せないんです」
ルファは新しい香を立てた。
火がつくと、煙が硝子の色をくぐり、空席に人の輪郭を結んだ。向かいの女は、前よりも肩を落としていた。
「窓を開けているのは、あなた?」
女が尋ねる。
「ええ」
「どうして? 雨が吹き込むのよ」
「閉めていると、臭うから」
「何が?」
向かいの女は袖口を握った。
「食べ物が、傷んでしまって」
ライトが顔を上げた。
「朝ごはん?」
向かいの女は答えなかった。
「毎日、二人分作ってたんだよね。ひとつは空になってた。あれ、食べたんじゃなくて、どこかへ運んだの?」
女は指をほどき、もう一度握った。
「食べてほしかったの」
ルファが尋ねた。
「誰に?」
向かいの女は、今度は黙っていなかった。
「テオに」
目の前の女が、息を止めた。
「……テオ?」
春に別れた恋人の名だった。
「帰ってきたの?」
「ええ」
「いつ?」
「雨の降る夜。もう一度だけ、会いたいって」
女はテーブルの端をつかんだ。
「どうして、私に会わせてくれなかったの」
向かいの女は、煙の向こうからこちらを見ていた。
「あなたは、もう会いたくないって言ってたから」
香が燃え尽き、姿が消えた。
女はしばらく動かなかった。
カップの紅茶は、もう冷めていた。
*
その夜、女は家の奥へ行った。
物置の戸を開けると、古い木箱が壁際に積まれ、その奥に大きな金庫が据えられていた。人が一人、身体を丸めれば入れそうなほど深いものだった。
テオが持ち込んだとき、二人で床を傷つけないように布を敷いたことを覚えている。重さに困って、運び入れたあと、テオはしばらく床に座り込んで笑っていた。
『なくしたくないものは、ここに入れればいい』
そう言って、最初にしまったのは、二人で撮った小さな写真だった。
女は金庫の前にしゃがんだ。
扉の下に、乾いたパン屑が落ちている。
奥から、甘酸っぱい臭いが漂った。
女は口元を押さえた。金庫の取っ手へ手を伸ばしたが、扉は開かなかった。丸い番号盤を回してみる。どこまで回しても、錠は外れない。
番号を知っていたのは、テオだけだった。
そして今はたぶん、もう一人の自分も知っている。
女は金庫の前から立ち上がり、物置の窓を開けた。冷たい夜気が流れ込む。
閉めて戻ろうとして、もう一度、金庫を見た。
窓は、そのままにしておいた。
*
三度目に訪れたとき、女は初めから泣いていた。
「……金庫の前に、パン屑が落ちていたんです」
ルファは席へ案内し、いつものお香立てを置いた。ライトもカウンターから離れ、少し離れた椅子に腰掛けた。
「中に何があるのか、もう、聞かなくてもわかる気がします」
女は言った。
「でも、確かめないといけないんですよね」
ルファはうなずいた。
「一人では開けないで。必要なら、助けてくれる人を呼びましょう」
女は頷いた。ルファが香に火をつける。
煙が立ち上り、硝子の花弁に触れる。テーブルの上に赤と青の影が重なり、向かいの椅子にもう一人の女が現れた。
今日は、こちらを見ていた。
「テオは……?」
女が尋ねる。
向かいの女はすぐに答えた。
「亡くなったわ」
短い言葉だった。
目の前の女は、唇を開いたまま動かなかった。
「帰ってきた夜、ひどく咳をしていたの。夜中に息が止まって、呼んでも、肩を揺すっても、起きなかった」
煙の向こうの女は、膝の上で手を重ねた。
「怖くて、誰にも言えなかった。朝になったら、あなたが目を覚まして、あの人を連れていってしまうと思ったの」
「……だから、金庫に?」
「テオが言ってたでしょう。大切なものは、なくさないようにしまっておくって」
女は首を振った。けれど、否定する言葉は出なかった。
「毛布にくるんで、あそこへ運んだの。あの人、病気でずいぶん痩せていたから」
向かいの女は指先を見下ろした。
「最初の日は、パンを少しだけ入れたの。前の晩に、明日は食べられると思うって言っていたから」
ライトは膝の上で手を握った。
「次の日も、その次の日も。朝ごはんを二人分作って、一皿はあなたに残して、もう一皿を持っていった」
「空っぽのお皿は……」
「戻しておいたの。あなたが起きたとき、誰かと朝ごはんを食べたと思えるように」
女の目から涙が落ちた。
「どうして、やめたの?」
向かいの女は答えるまでに時間がかかった。
「入らなくなったの」
*
その朝も、女は二人分の朝食を用意した。
テオが好きだった、少し焦げ目の濃いパン。温めたスープ。それから、食べやすいように細かく切った果物。
自分のための一皿を食卓に残し、もう一皿を盆に載せて家の奥へ運んだ。
金庫の扉を開けると、傷んだ食べ物の臭いがした。
中には、テオがいた。
背中を壁に預け、毛布を肩に掛けている。かつてはよく動いた手が、膝の上で重なったままになっていた。
女は膝をついた。
「おはよう。今日はパン、よく焼けたのよ」
男の口元には、昨日までの食べ物が残っていた。足元には、皿から運んだものが幾日分も積み重なっている。
女はそれらを少し脇へ寄せ、スプーンでスープをすくった。
「少しでいいから」
口元へ運ぶ。
スープが顎を伝い、毛布に落ちた。女は布で拭き、もう一度すくった。
「今日は、飲み込めるかもしれないでしょう」
男は動かなかった。
女はパンを小さくちぎり、口元へ押し当てた。けれど、もう入る隙間がなかった。押すと、前に詰めたものが崩れ、膝へ落ちた。
拾って、戻そうとした。
その途中で、手が止まった。
「……テオ」
いつもなら、食べ終わるまで待っていた。食べてくれたと思って、空になった皿を台所へ戻した。
けれど男は、今日も一度も口を動かしていない。
昨日も。
その前の日も。
女はスプーンを握り直した。
「明日は食べられるって、言ったでしょう」
声が震えた。
「ひと口でいいの。お願いだから」
もう一度、スプーンを口元へ持っていく。
手が揺れ、スープは床へ落ちた。
女はスプーンを置き、男の頬に触れた。何日も前から知っていた冷たさだった。
それでも、手を離せなかった。
「……食べてよ」
涙が指の上に落ちた。
男の袖を握り、返事を待った。窓から雨の音が聞こえていた。どれほど待っても、スープは冷めるばかりだった。
女は盆を抱えて台所へ戻った。
二枚の皿には、まだ朝食が残っていた。
そのまま椅子に座り、動かなかった。
*
「……もう、食べないのね」
虹色Caféで、女が言った。
向かいの女はうなずいた。
「わかってたの。ずっと前から。でも、作らなくなったら、あの人が本当にいなくなる気がした」
ルファは何も言わなかった。
「朝ごはんは、もう作れない。でも、金庫の扉を開けたままにすることも、誰かに知らせることもできなかった」
向かいの女が顔を上げた。
「……怖かったの」
こちらの女は、涙を拭かなかった。
「私も怖い」
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて女が、向かいの自分へ手を伸ばした。
「でも、あの人をあそこから出してあげよう」
煙の向こうの女が、差し出された手を見た。
「……一緒に?」
「一緒に」
その指先が重なるより先に、香の火が小さくなった。
向かいの女は口を開いた。
金庫の番号だった。
「テオが帰ってきた夜、教えてくれたの。もう使わないから、って」
女は数字を繰り返し、忘れないように確かめた。
最後の灰が真鍮の皿に落ちると、向かいの椅子は空になった。
ルファは窓を開け、残った煙を外へ逃がした。
ライトが女に紙と鉛筆を渡す。
女は数字を三つ書いた。手が震えて、最後の一つだけ文字が曲がった。
*
金庫が開けられたのは、翌日の午後だった。
女は一人で開けなかった。ルファに勧められたとおり、医師と、街の役所から来た人たちに事情を話した。病死だったのかどうかも含め、調べる必要があると言われた。
番号盤が回り、重い錠が外れた。
扉の隙間から、冷えた空気と、長い間閉じ込められていた臭いが流れ出た。
女はその場で目を閉じた。
中を確かめた人が、誰かを呼んだ。
金庫の扉は、大きく開かれた。
廊下に何人もの足音が響く。女は隣の部屋で事情を聞かれ、覚えていることと、覚えていないことをひとつずつ話した。
しばらくして、台所へ戻ることを許された。
窓は開いていた。雨は上がっていたが、家の中にはまだ見知らぬ人たちの声がしている。
食卓には、何も載っていなかった。
ただ、皿を置き続けた場所だけ、木の色が丸く変わっていた。
ふたつ。
女は片方に指を置いた。
向かいの椅子を見た。
しばらくして、その椅子をテーブルの下へ押し込んだ。
了




