死んだ令嬢の身体で生きることになった俺の話
息が、変だった。
吸うときに胸の奥が広がるのに、吐くときに何かが遅れて落ち着く。呼吸のたびに、身体の前面がわずかに揺れて、それが気持ち悪い。俺は反射的に手を伸ばした。触れた瞬間、指先が柔らかさに沈む。
「……は?」
声が出た。高い。俺の声じゃない。
喉が締まって、もう一度声を出そうとしても、震えが混ざる。肺は健康で、発声もできるのに、身体が俺のものじゃない。俺の身体の感覚の地図に、ありえない地形が追加されている。
視界の端に、薄い透明の表示が浮かんだ。数字、波形、文字列。意味が分からない。目をこらすほど頭が痛くなる。俺は表示を振り払うように瞬きを繰り返し、周囲を見回した。
白い部屋。継ぎ目のない壁。天井の光は影を作らない。病室に似ているのに、病室じゃない。消毒と金属と、少し甘い薬品の匂い。空気が乾いていて、舌が渇く。でも喉は痛くない。身体が新しい。
俺は起き上がろうとして、勢いでベッドから落ちかけた。身体が軽すぎる。重心が違う。慌てて手をつく。床が近い。指が細い。爪が整いすぎている。肌が白い。白いというより、光を抱えているみたいに滑らかだ。
「……冗談だろ」
鏡があった。壁面に埋め込まれた、縁のない鏡。俺はそこに映ったものを見て、胃の奥がひっくり返った。
少女。
整いすぎた顔。黒目がちの瞳。頬の線が柔らかく、唇が薄く赤い。髪は長く、艶がある。俺の脳が勝手に判断した。「絶世」。その言葉が浮かんだ瞬間、吐き気がした。
「俺は……」
名前を言おうとした。だが喉が止まった。思い出せない。思い出そうとしているのに、そこだけ指が滑る。名前を思い出せないなんて、ありえない。俺の人生で、俺の名前だけはずっと付いてきたはずなのに。
代わりに、最後の記憶が曖昧に浮かぶ。
病院の天井。
医者の言葉。
「治療法が確立されるまで、眠ってもらいます」
「コールドスリープです」
俺は大学生だった。平凡で、取り立てて賢いわけでもなく、夢も曖昧で、ただ進行性の病気だけが現実だった。息が苦しい日が増えて、階段を上るだけで世界が遠くなった。救急の白い光。家族の顔。言葉。
そして同意書。内容を全部理解していないのに、「生きたいですか」と問われたら「はい」と言うしかなかった。
眠った。
それで終わりのはずだった。
扉の向こうで、機械音が鳴った。静かに、正確に。
そして、声。
「覚醒を確認しました」
女の声。落ち着きすぎている。人間の声なのに、温度がない。
扉が開く。黒いスーツの女が入ってくる。髪は後ろでまとめられ、化粧も控えめで、ただ“業務”だけが顔に貼り付いている。後ろには白衣の連中がいて、俺を見ない。俺の数値を見る。
「あなたは生存しています」
女が言った。
「ですが、元の身体は失われました」
意味は分かった。分かってしまった。
胃の奥が冷える。手のひらが汗をかく。俺は俺の身体を探すように自分を抱いた。胸の膨らみが邪魔だった。抱きしめる動作ですら、俺の記憶と合わない。
「……ここはどこだ」
「医療区画です。企業施設内」
「企業?」
女は一拍置いた。
「あなたが収容されているのは、アラベスク・ホールディングスの管理領域です」
聞いたことがない。企業名の響きだけが耳に残る。未来の企業だ。つまり、未来だ。
俺は必死に理解を繋ぎ合わせた。コールドスリープは成功した。俺は起きた。だが、俺の身体は失われた。じゃあ、今の身体は何だ。
「……この身体は」
女は淡々と答えた。
「当社代表令嬢のものです。事故により脳死判定。身体機能は維持されていました。法的手続きを経て、脳移植が実施されました」
脳移植。
言葉が現実を殴った。
令嬢。代表。脳死。法的手続き。
俺は理解するより先に、感情が爆発した。
「ふざけんな! 俺はそんなの……!」
「拒否権はありません」
女の声は変わらない。
「あなたは既に覚醒しています。移植は不可逆です」
不可逆。
それはつまり、戻れない。
俺は息を吸った。胸が揺れた。嫌悪が込み上げて、手で押さえた。触れるほど現実感が増して、余計に気持ち悪い。俺の身体が俺を嘲笑っているみたいだった。
「俺、ただの大学生だぞ」
言い訳みたいな言葉が口から出た。
特別じゃない。英雄でも研究者でもない。世界を変える力なんてない。なのに、どうしてこんな目に。
「適合したからです」
女は言った。
それだけが理由だと言う顔で。
「あなたの脳は保存状態が良く、移植適合率が高かった。令嬢の身体は生体強化が施されており、臓器・循環・神経系が高負荷に耐える設計です。あなたは生き延びました」
生き延びた。
助かった。
それを祝福と呼べるのか、俺は分からない。
俺は立ち上がろうとして、足に力を入れた。身体が滑らかに立つ。筋肉が俺の意図に先回りして支える。ふらつかない。むしろ、怖いくらい安定している。
女の視線が俺の脚、腰、胸を一瞬なぞった気がした。いや、違う。視線は俺の“身体”を評価しているだけだ。俺という存在ではなく、器の状態。
「強化……?」
「生身です」
女は即答する。
「機械部品はありません。神経伝達の最適化、筋繊維強化、痛覚閾値制御、ホルモン応答の調整。そうした医療領域での強化です」
意味が半分も分からない。分からないのに、怖い。
俺の身体は、俺のものじゃなく、俺が選んだものでもなく、誰かが設計した“用途”を持っている。
「……俺の名前は」
言った瞬間、俺は自分で変なことを聞いたと思った。名前なんて、今さら。
でも、名前がないと俺は俺でいられない。今の身体が俺を侵食する前に、何か、拠り所が欲しかった。
女は少しだけ視線を落とし、言った。
「対外的には、令嬢の名前を使用していただきます」
「俺の名前は?」
「記録上、必要ありません」
その言葉が、腹の底に沈んだ。
不要。
俺という人間は、不要。
必要なのは、令嬢の身体が歩き、笑い、企業の象徴として機能することだけ。
俺の呼吸が荒くなる。視界の端の透明表示がちらつく。
心拍数。血圧。体温。
そして、見たことのない項目。
適応率。
情動抑制。
感覚利得。
性別同調――
「……見せんな」
俺が言うと、女が指を動かす。表示が薄くなる。
俺は思わず壁に手をついた。冷たい。金属の冷たさじゃない。温度を一定に保つ素材の冷たさ。ここは人間が住む場所じゃない。人間を扱う場所だ。
「これから、最低限の説明と手続きを行います」
女は言う。
「あなたは令嬢として社会に復帰します。外部には、事故から回復したと発表されます」
「無理だ。俺は――」
「あなたが“彼女”として振る舞うことは、当社にとって不可欠です」
不可欠。
この世界では、俺の“意思”より、企業の“必要”が強い。
俺は鏡を見た。少女がこちらを見返す。怯えた目。泣きそうな目。俺の中身が男だろうが、鏡の中は女だ。しかも、誰かが憧れる種類の顔だ。
その事実が、俺を余計に惨めにした。
「……俺は、どうすればいい」
女は一瞬だけ迷ったように見えた。だが、すぐにいつもの無表情に戻る。
「まず、歩けるか確認します」
彼女が合図すると、白衣が近づいてくる。俺の腕を取ろうとする。
反射で腕を引いた。触られるのが嫌だった。俺の身体なのに、俺の身体じゃないから、触られたくないという感情が強くなる。
「触るな」
声が震えた。
白衣は手を止めた。女が口を開く。
「理解します。ですが、これは必要な行程です」
必要。必要。必要。
その言葉だけで、俺は押し切られていく。
俺は歯を食いしばり、歩いた。
足音が軽い。腰が揺れる。胸が遅れて揺れる。
それだけで、顔が熱くなる。俺はそれを恥だと認識するより先に、身体が反応していることを感じた。
視界の端で、抑えていた表示が一瞬だけ点滅する。
興奮値。
上昇。
俺は心臓が止まりそうになった。
「違う」
俺は低く言った。
「違う、これは俺じゃない」
女は、何も言わない。
否定もしない。肯定もしない。
ただ、ログが残る。
検査は短いはずだった。だが、俺には長く感じた。
歩行、握力、反射、視線追跡。どれも俺の意図より先に身体が応答する。最初は慣れないだけだと思った。だが違う。身体が俺を“学習”している。俺の癖を読み、最適な出力に自動で調整する。俺が怖がると、恐怖反応を抑えるように呼吸が整えられる。俺が怒ると、怒りが熱に変わりきる前に冷却される。
俺は自分が、自分の感情すら勝手に整えられる存在になっているのを理解した。
理解した瞬間、さらに怖くなった。
「これ、俺の感情じゃないだろ」
俺が言うと、白衣の一人がちらりと女を見る。女が答える。
「あなたの生存性を高めるための制御です」
「生きるために、俺が俺じゃなくなるのか」
女は答えない。沈黙が答えだった。
検査が終わると、衣服が用意された。
高級な布。軽い。肌に触れると、身体が勝手に快を拾う。俺は苛立ち、乱暴に袖を通した。それでも布は肌に沿って落ち、鏡の中の少女を“完成”させる。
「やめろ」
俺は呟いた。
「こんなの、俺じゃない」
白い部屋から移動させられる。廊下は長い。人は少ない。監視カメラが多い。ここでは見られることが前提だ。俺の人生は、見られるためにある。
そう思っただけで、喉の奥が苦くなった。
「これから、あなたは“彼女”として外へ出ます」
女は歩きながら言った。
「まずは当社のプライベートフロア。家族と対面します」
家族。
その言葉に、俺の中で何かがひっかかった。
俺にも家族はいた。病室に来ていた。泣いていた。あの人たちは、俺が今ここで女の身体を着せられていることを知らない。知らされることもない。
「俺の……元の家族はどうなった」
女が歩みを止める。
「あなたの元の身元情報は、保存契約に基づき保護されます。外部に開示されません」
「会えるのか」
「いいえ」
即答。
俺の脚が止まった。
目の前が暗くなる。怒りでも悲しみでもない。頭の中が空洞になる感覚。
俺は生き延びた。でも、俺の人生は閉じられた。未来では、俺の過去が切り捨てられている。
「……じゃあ俺は、何なんだよ」
女は淡々と答える。
「令嬢です」
それだけ。
俺は笑いそうになった。笑えなかった。
扉が開く。中は広い部屋。窓の外には夜景。都市が光っている。空気は静かで、音が吸われる。
そこに、男が一人いた。年齢は五十前後。顔は疲れているのに、眼光は鋭い。スーツ。高価な時計。
企業の代表、という肩書が肌から滲んでいる。
俺の身体が、僅かに反応した。
肩が落ちる。背筋が伸びる。礼儀の姿勢。俺はそういう訓練を受けた覚えがない。
それでも身体が勝手に動く。
この身体には“令嬢”としての反射が残っている。人格は死んでも、習慣は残る。
俺はその事実に背筋が寒くなった。
「……戻ったか」
男が言った。
声が震えていないのが逆に怖い。感情を切り離した声。
俺は返答を探す。父親だ。父親のはずだ。でも俺の父じゃない。
「……えっと」
言葉が出ない。
女が横から、低く囁く。
「お嬢様」
俺は舌を噛みそうになる。
その呼称が、自分に刺さる。
男は俺を見て、少しだけ眉を動かした。
違和感を察したのか、それとも単に俺の表情の薄さを見たのか。
男は歩み寄り、俺の頬に触れようとした。
俺は反射で一歩下がった。
触られたくなかった。
この身体が“娘”のものだと確信させられるのが嫌だった。
男の手が空を切る。
その瞬間、部屋の空気が冷える。
「……記憶に問題があるのか」
男の声が低くなった。
女が即座に答える。
「事故の影響で、断片的な健忘が出ています。医療区画の所見では、回復は段階的です」
嘘だ。
でも嘘がこの部屋では真実になる。
俺が否定しても、誰も聞かない。企業が決めた物語が優先される。
男は俺をじっと見て、言った。
「よく戻った。お前が死んだら、社は揺らぐ」
娘への言葉じゃない。
資産への言葉だ。
そのとき、俺の身体がまた勝手に反応した。
胸の奥が、痛い。
涙が出そうになる。
でも、涙は出ない。抑制がかかっている。
「……泣けないのか」
俺の口から、変な声が漏れた。
男は訝しげに眉を寄せる。
「何だ?」
俺は言い直した。
「……何でもない」
本当は叫びたかった。
俺は誰だ。
俺の人生を返せ。
でも、ここでそれを言ったら終わる。何が終わるのか分からない。でも終わる。
俺の平凡な直感がそう告げていた。
男は話を続けた。
「対外発表は明日だ。事故から回復した令嬢として、記者の前に立て」
「無理だ」
思わず口に出た。
女が横で息を呑む。
男の目が細くなる。
「無理?」
俺は、言葉を探した。
俺は大学生だった。人前でスピーチなんてしたことがない。しかも俺の身体は女で、しかも令嬢で、しかも絶世で。
視線を浴びるだけで、俺は壊れる気がした。
「……俺は、いや、その……」
男が言った。
「お前は“お前”だ。誰が何を言おうと」
その言葉は一瞬、救いに聞こえた。
だが、続きがあった。
「企業がそう決める」
救いではなく、宣告だった。
俺は喉の奥が冷えるのを感じた。
この世界は、俺の意思で動かない。
俺は自分の人生を選べない。
それでも俺は、今さら死ねない。
俺は生きたいと思って眠った。
その“生きたい”が、この檻を作った。
夜、与えられた部屋は広かった。豪華で、清潔で、あらゆる角に監視がある気配がした。鏡が多い。ガラスが多い。俺の姿がどこにでも映る。逃げられないように、視覚で追い詰める部屋だ。
ベッドに座ると、身体が沈む。
柔らかい。高級。
その柔らかさが、俺の神経を逆撫でした。
俺は自分の腕を掴んだ。白い肌が赤くなる。痛い。痛みはちゃんとある。生身だ。
生身なのに、俺のものじゃない。
視界の端に、また表示が浮かぶ。今度は消せない。
睡眠推奨。
自律調整。
情動安定化。
そして、ひときわ目につく項目。
性別同調率:二二%
「……何だよ、これ」
俺は呟く。
同調。
何に同調する。身体か。社会か。
俺は男だ。男の意識だ。なのに、同調率が存在するということは、俺の中の何かが“変化すること”を前提にしている。
「やめろ」
俺は表示に向かって言った。誰に言っているのか分からない。システムか。企業か。身体か。
返答はない。
ただ、ログが増える。
俺はシャワールームに入った。
身体を洗うという行為が、これほど苦痛だとは思わなかった。
鏡を見たくない。触れたくない。
でも洗わないと生きられない。
生きるために、俺はこの身体に触れ続けなきゃいけない。
水が肌を滑る。
温度が快に変わる。
俺はそれが腹立たしい。快であることが、俺の抵抗を薄くするから。
髪を洗う。指が髪に絡む。
長い髪が肩を流れる。
俺は「女の身体だ」と理解している。理解しているのに、視覚情報が俺の認識を毎秒更新する。
俺は自分が、自分の身体を“初めて見る他人”みたいな感覚になる。
他人の身体を借りている。
借りているのに返せない。
返す相手は死んでいる。
シャワーを止めると、寒さが来た。
タオルで身体を拭く。胸の下に溜まる水滴。腰のくびれ。脚の内側。
触れるたびに、俺の中で何かがざわつく。
いやらしさじゃない。
“俺の身体感覚が壊れていく”音だ。
服を着る。用意されていたのは、淡い色のルームウェア。
胸が収まる構造になっている。
当たり前だ。令嬢の身体だ。
その当たり前が、俺の心を削る。
寝室に戻ると、端末が机の上に置かれていた。薄い板。
触れると、画面が勝手に点く。
そこに映ったのは、ニュース映像だった。
「アラベスク・ホールディングス令嬢、奇跡の回復」
俺の顔が映っている。
笑っている。
笑っているはずがない。
だが映像の中の俺は、完璧な笑みを作って、記者の質問に頷いていた。
喉が鳴った。
胃が痛い。
俺は端末を放り投げそうになって、やめた。壊したらどうなるか分からない。
俺はこの世界のルールを知らない。
知らないことが、恐怖を増やす。
背後で、音がした。
扉ではない。窓でもない。
部屋の角。
俺は振り返った。
そこに小さな投影が浮かんでいた。
人の輪郭。少女。
俺に似た顔。
「……誰だ」
声が震える。
投影は答えない。
ただ、俺を見ている。
俺はその瞬間、理解した。
令嬢の人格は消失している、と言われた。
でもこの世界の技術は、きっと“残骸”を捨てない。
習慣だけじゃない。ログだけじゃない。
死んだはずの彼女の“情報”が、どこかに残っている。
投影が、唇を動かした気がした。
音は出ない。
だが、視界の端の表示が勝手に変わる。
同調率:二三%
俺は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
同調率が上がった。
俺が何かを“受け入れた”と判定されたのか。
受け入れてない。
受け入れてないのに、数字が動く。
「やめろ……」
俺は一歩下がり、壁に背をつけた。
投影は動かない。
ただ、そこにある。
まるで、「ここはあなたの場所」と言うみたいに。
そのとき、部屋のスピーカーが鳴った。
「お嬢様。明朝、対外発表の最終確認です」
女の声。医療区画の女だ。
俺は返事ができない。
喉が固まって、言葉が出ない。
「起床は六時。準備は当方で行います。ご安心ください」
安心。
その言葉が一番、信用できない。
音が切れたあと、部屋は静かになった。
投影だけが残る。
俺の顔をした彼女。
死んだ令嬢の情報の影。
俺はベッドに座り込んだ。
握りしめた手が震える。
泣きたいのに、涙が出ない。
情動安定化が効いている。
俺の悲しみさえ、企業仕様に整えられている。
俺は小さく息を吸い、吐いた。
そして、無意識に鏡を見た。
そこに映る絶世の少女が、俺の目で俺を見返している。
「……俺は、どうしたらいい」
答えはない。
ただ数字が増える。
同調率:二四%
俺はその数字を見て、初めて本気で怖くなった。
このまま生きていけば、俺は“俺”を失う。
死なずに。
静かに。
誰にも気づかれずに。
そして、それがこの世界の“救い”として設計されている。
記者会見は、想像よりも静かだった。
眩しい照明も、怒号もない。整えられた席、抑制された拍手、台本通りの進行。ここでは感情は不要で、必要なのは映像としての「回復した令嬢」だけだ。
俺は壇上に立っていた。
足元が柔らかい絨毯で、靴が沈む。その感覚が現実感を薄くする。前を見れば、無数の視線。カメラのレンズ。記者の顔。だが、彼らが見ているのは俺じゃない。この身体だ。
「……」
マイクの前で、俺は一瞬言葉を失った。
頭の中が真っ白になる。大学の発表でさえ、こんな数の視線を浴びたことはない。心臓が跳ねる。胸が揺れる。身体がそれを「過剰反応」と判断し、勝手に呼吸を整える。
違う。
落ち着くな。
俺は今、落ち着いちゃいけない。
視界の端で、表示が浮かぶ。
情動安定化:作動
同調率:三一%
「……やめろ」
声に出したつもりだったが、マイクには拾われなかった。
女――医療区画で見たスーツの女が、客席の端で頷く。合図だ。予定通り進めろという。
俺は原稿を見た。
令嬢として用意された言葉。
事故からの回復。
支援への感謝。
未来への希望。
一文目を、口に出しかけて――止めた。
喉の奥が、急に熱くなった。
「……」
記者たちがざわつく。
企業の代表――あの男が、わずかに眉を動かす。
俺は思った。
俺は生きたいと思って眠った。
ただ、それだけだった。
ヒーローになりたかったわけでも、誰かの器になりたかったわけでもない。
「……俺は」
その一言が、場の空気を切った。
マイクが拾う。
ざわめきが広がる。
「俺は……ここにいる人たちが期待してる“彼女”じゃない」
代表が立ち上がりかける。
スーツの女が何かを操作する。
視界の表示が赤く点滅する。
情動逸脱
制御介入準備
「俺は、病気の大学生だった」
声が震える。
でも、止めない。
「コールドスリープって言われて、よく分からないまま眠った。生きたかったからだ。でも、目が覚めたら……女の身体で、知らない人生を背負わされてた」
会場が静まり返る。
記者たちが言葉を失っている。
代表の顔が、完全に険しくなった。
「俺は、ここに立つ資格なんてない」
俺はそう言って、原稿を置いた。
「彼女は死んだ。俺は、彼女じゃない」
その瞬間、視界が一気に暗転しかけた。
情動抑制が最大値でかかる。
意識が遠のく。
同調率:三四%
「……それでも」
俺は、最後の力で続けた。
「それでも俺は、生きてる」
その言葉は、誰の台本にもなかった。
次の瞬間、音が切れた。
マイクが落とされ、照明が消え、世界が遠のく。
目を覚ましたとき、俺は白い部屋にいた。
まただ。
でも、さっきとは違う。
表示が出ない。
音もない。
「……やりすぎましたね」
女の声。
スーツの女が、少し離れた位置に立っている。怒ってはいない。ただ、疲れた顔をしている。
「全部、消されるんだろ」
俺は言った。喉が痛い。
声はまだ高い。身体は変わらない。
「映像は編集されます。発言の大半は“錯乱”として処理される」
「だろうな」
「ですが」
女は一瞬、言葉を探すように視線を逸らした。
「あなたの発言は、ログとして残りました」
ログ。
消せない場所に。
「……意味あるのか」
女は答えなかった。
代わりに、端末を置いた。
そこには、内部文書が映っていた。
人格同調率上昇不具合報告
主体意識保持例:ケースA
俺はそれを見て、初めて少し笑った。
「俺、失敗作か」
「いいえ」
女は静かに言った。
「想定外です」
それは、この世界では最大級の言葉だった。
俺は天井を見上げた。
継ぎ目のない白。
でも、さっきより少しだけ、息がしやすい。
「……なあ」
俺は言った。
「この身体、俺のものじゃないんだよな」
「所有権は企業にあります」
「でもさ」
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「今ここで考えてるのは、俺だ」
女は答えなかった。
否定もしなかった。
同調率の表示は、もう出ない。
俺は、まだ絶世の令嬢の身体をしている。
明日も、彼女として扱われるだろう。
俺の過去は戻らない。
それでも。
俺は生きている。
俺の意思で、考えている。
それだけで、この短い人生は――
完全に奪われたわけじゃない。
そう思うことにした。
短編かいてみました




