第一章:愛のない結婚(6)
「気分は悪くないですか?」
治癒行為を終えたとき、乃彩は必ずそう声をかける。
乃彩の霊力を相手に流し込むため、その霊力に負けてしまったり拒否反応が出たりするときもあるからだ。ようは、薬の副作用に似ている。
「はい。気分は悪くありません。抱いてみますか?」
回復行為の間も、貴宏は片手で器用に娘を抱いていた。首も据わってきてしっかりしてきたところだと、聡美も言っていた気がする。 乃彩は恐る恐る赤ん坊に向かって手を伸ばした。
「あまり、赤ちゃんを抱っこしたことがないので怖いです」
乃彩が本音を包みかくさず口にすると「大丈夫ですよ」と貴宏が穏やかに答える。
きゃきゃと声をあげる赤ん坊が、貴宏から乃彩の腕の中へとうつる。赤ん坊はずっしりとしているのにやわらかくて、ぬくぬくとあたたかい。
「あ、ばぁ~」
「もう少し脇をしめて、ご自分の身体に寄せてください。そのほうが安定しますから」
貴宏に言われたように赤ん坊を抱き寄せる。
「かわいいですね」
自然と言葉が漏れ出た。
そこで聡美に名を呼ばれた乃彩は、赤ん坊を貴宏に返そうとしたが、聡美のもとに娘をつれていって欲しいと言われたため、そのまま立ち上がる。
すると赤ん坊は「ふぇ」と変な声を出して顔をゆがめる。
「すぐにお母様のところに連れていきますね」
今すぐにも泣き出しそうな赤ん坊は、聡美に抱っこされると、ぐずぐず言いながら眠ってしまった。
「眠かったみたい。さあ、乃彩さんもどうぞ。お腹、空いていませんか? ここのクッキー、最近のお気に入りなの」
乃彩のおかげで、貴宏は歩けるほどまで回復しており、医療術師の治療も受け始めている。最近では、親子三人で散歩をし、お気に入りの洋菓子店で菓子を買い、こうやって乃彩に振る舞ってくれるのだ。
聡美がお気に入りだというクッキーは、昨日もお茶菓子として並べてあった。きっと散歩中の三人を見た人は、仲の良い夫婦だと思うだろう。だけど今、貴宏と聡美は赤の他人。
「乃彩さん、本当にありがとうございます。こんな日が戻ってくるなんて思ってもいませんでした」
「いえ、わたくしは自分のできることしかやっておりませんから」
「乃彩さんは、本当に謙虚な方ですね」
くすりと笑う聡美のその顔は、慈愛に満ちている。
現在の清和家の家族構成は複雑だ。いや、彼らの愛に乃彩が土足で踏み込み、荒らしたようなものだろう。
だというのに、貴宏も聡美もやさしく乃彩に接してくれる。
春那の家族といるよりも、ここのほうが心穏やかに過ごせる。
「もう少しでわたくしの出番は終わりです。あとは、医療術師の方と相談して、治療方針を決めてください」
「寂しくなりますね」
聡美の口からそのような言葉が出てきたのが意外だった。
「え?」
「私、こうやって乃彩さんとおしゃべりをするのが、実は楽しみでもあったのです」
「そうなのですね。ありがとうございます。わたくしもここに来て、こうやって聡美さんとお茶を飲む時間は好きです」
それは乃彩の偽りのない本心だ。
「乃彩さん。このようなことを言うのは図々しいかもしれませんが、よかったらこれからも遊びに来てくださいね?」
乃彩は目頭が熱くなり、喉の奥がツンと傷んだ。それを誤魔化すかのようにしてクッキーを頬張った。
それから五日後、貴宏の霊力は八割ほどまで回復し、あとは自己回復力でなんとかなると判断された。
これで、乃彩の役目は終わった。
そして目の前には、貴宏との離婚届がある。すでに貴宏の名前は記入されており、あとは乃彩が書けばいいだけ。
書類の記載を終え、カランとペンを置いた乃彩は、少しだけぼんやりとしていた。
これで、一ヶ月とちょっとの結婚生活は終わった。