第六章:大切な人(11)
「ああ、あの腹黒狐か」
「わたくしは、彼と結婚しましたが、その後、離婚するにあたり、父が慰謝料としてかなりの額を請求したはずです」
遼真は思わず顔をしかめる。乃彩は実の父親からただ利用されているだけだった。だというのに学友からは逆恨みされている。
「その額を支払うのに……結婚資金を……という噂も聞いたことがあるのですが……」
「まさか、それが原因で最近になって破談になったとかか?」
「詳しくはわかりません。わたくしも、耳に届いた断片的な噂しか知りませんし……あまりクラスの人とは話さないので……」
だが、これで状況はわかった。
茉依は、自分らの縁談がうまくいっていない状況で、その怒りの矛先を乃彩に向けてきた。そういったところだろう。
「それで、もう一人いた男は? あれも冬賀一族だったな」
「はい。あの方もクラスメートです。祐二さんとおっしゃいますが、わたくしとの接点はあまりありません……ただ……」
ふと、乃彩の視線が斜め上を向く。
「わたくしが雪月子爵と離婚したときですが……一時的に、汚い噂が出回りまして……」
「汚い噂?」
遼真はひくりとこめかみを震わせた。
「はい。わたくしが男好きだとか、遊んでいるとか……そういった噂ですね」
そのような言葉で乃彩が傷つくと考えたのだろう。そうやって他人を見下し、優位性を感じて安堵する。
「なるほど。愚かな人間が考えそうなことだな」
「そのときに、わたくしを誘おうとしたのがあの男です」
なぜか遼真の心にイラッとした感情が生まれる。
「それで、どうしたんだ?」
先ほどよりも低い声色で、そう尋ねていた。乃彩はそれに気づいたかどうかはわからないが、言葉を続ける。
「適当に言い返しておきましたが……場合によっては、冬賀公爵に抗議を入れると言ったところ、それ以上の言葉はありませんでしたので、放っておきました」
「おまえらしいな」
だが、乃彩の話を聞いたかぎりでは、彼女に恨みなりなんなり特別な感情を持った者によって、連れ去られたと判断していいだろう。
「とにかく、おまえが無事でよかった」
「わたくしも……遼真様が来てくださって、助かりました。わたくしだけでは、悪鬼を封じることなどできませんでしたから……」
そう言って乃彩が顔を背けた。どこか恥ずかしそうに頬を赤らめている姿は、遼真の情欲を刺激する。だが、それを理性によって封じ込める。
「悪鬼……あれだけの数の悪鬼を啓介だけの霊力では無理だな……。おまえも封じたのか?」
そう確認してみるが、乃彩は霊玉すらまともに扱えないと聞いている。そのための連日の補習だったのだ。
「は、はい……」
やはり遼真と目を合わせようとはしない。
「霊力が使えるようになったのか? 家族以外にも……」
「いえ。わたくしの霊力は家族にしか使えません。ですから、先ほどの悪鬼は……その……遼真様のことを助けると……そう思って……」
語尾がどんどんと消えていく。それでも彼女の言いたいことは理解できた。と同時に、今度は喜びがふつふつと湧いてくる。
「つまり、おまえが悪鬼を封じることができたのは、俺を助けることを考えたから霊力を使えたと。そういうことだな?」
乃彩は素早く首を二回ほど縦に振った。
「あの悪鬼は、遼真様の妖力の影響を受けておりました。わたくしを狙っていたはずなのに、遼真様が来られたことで、狙いの矛先が遼真様にかわったのです。だから……」
遼真の妖力が悪鬼を惹きつけると、乃彩は確かにそう言った。そのため遼真は、あの二人の生徒を拘束する側にまわったのだ。
「そうか。おまえのとっさの判断、助かった」
「いえ……それは……遼真様はわたくしの家族ですから……」
うつむく乃彩をそっと抱き寄せる。それは遼真自身、意識したわけでもない。
「そうか。それは俺も同じだな。おまえは俺にとってなくてはならない存在。大切な人だからな……」
彼女が今、ここにいてよかったと、心から安堵する。そのぬくもりを確認するために、触れ合いたかったのかもしれない。
「……それは、わたくしが遼真様のその妖力を浄化することができるから……ですよね?」
どこかもの悲しく聞こえるその声に、腕を緩め彼女の顔をのぞき込んだ。
「……乃彩?」
「いえ。変なことを言いました。わたくしたちの結婚は、最初からお互いをお互いに利用するための。そういった関係ですから、わたくしが遼真様のために動くのは当然のこと……」
今先までの控えめな様子などなかったかのように、彼女の双眸は力強く揺れている。
「乃彩?」
「申し訳ありません……やはり、クラスメートからあのような仕打ちをされて……わたくしも少し、動揺しているところがあるようです」
すっと遼真から距離をとった乃彩は、立ち上がる。
「おやすみなさいませ、遼真様」
「あ、あぁ……おやすみ……」
部屋から立ち去る彼女の後ろ姿を見送りながらも、腕から逃げた熱が恋しいと思った。