第六章:大切な人(10)
「事務所のようなところ?」
遼真が眉をひそめて問いかければ、乃彩は「はい」と答え、かき氷を口に入れる。こめかみに響いたのか、眉間にしわを寄せた。
「あそこ、企業は撤退したよな?」
「わたくしはわかりませんが……ただ、事務所は今まで空き室だったというわけではなさそうでした。空調も効いておりましたし、事務作業をするような備品なども必要最小限、揃っていたように思えます」
そう言った乃彩が、緑色の氷を口に入れては、また顔をしかめる。
「工場が撤退しただけで、建物は使おうと思えば使えますからね」
サクサクとかき氷を食べすすめる啓介が口を挟んだ。
「なるほどな。啓介、今はあそこがどこの持ち主になっているか、調べられるか?」
「まぁ、調べようと思ったら調べられますけども……そこまでやる必要あります?」
「人けがないと思っていたところに、人が集まっている。何かあるだろ?」
「まぁ……何か、ありますね」
不平不満を口にしながらも、与えられた仕事はきちっとやるのが啓介だ。
「乃彩の補習も終わったことだしな。俺たちは旅行へ行くから、その間、しっかりと調べておいてくれ」
「え? ひどい。僕だけ働かせておいて、二人だけで旅行に行くなんて……僕も連れていってくださいよ」
「新婚旅行に他の男を連れていくバカがどこにいるんだ」
「し、新婚旅行……? あれって新婚旅行? 渋くないですか? 若い二人なんだから、もっとぱっと華やかなところに行けばいいじゃないですか。なんで寂れた旅館のような秘湯なんですか!」
旅行の手配などは啓介にも手伝ってもらったから、彼も行き先は知っているのだが。
「おまえ……寂れたって失礼だな。年季あるとか風情溢れるとか、そう言っておけ。それよりも乃彩……」
そこで遼真はざっと店内を見回した。イートインスペースに他は客もいないし、店員も裏に引っ込んだ。
乃彩はかき氷を食べては顔をしかめつつも、せっせと口元にスプーンを運んでいる。この表情を見る限り、廃工場で何が起こったかを聞いても問題ないだろうと判断した。
「おまえをあそこまで連れ出したのは誰だ?」
動いていた手がピタッと止まる。三秒後、その手は再び動き始めた。
「誰かと問われますと、正確なところはわからないのですが……補習を終え、啓介さんとの待ち合わせ場所へ向かおうとしたところ、茉依と祐二さんが待ち伏せしておりまして……そこからの記憶がないのです。気がついたら、あの廃工場の二階の事務所におりました」
「他にも誰かいたのか?」
「どうでしょう? わたくしが人間だと認識できたのはその二人だけです。他は悪鬼だったかと」
啓介のスプーンが唇の前で止まっていた。
「どうした?」
「……いえ。ただ、なんというか……違和感? っていうんですかね。そもそも先ほどの二人は、高校生ですよね? しかも術師華族の」
そこでパクリと書き氷を頬張った。
「はい。茉依は冬賀公爵の一族の血筋です。そして、雪月子爵との結婚が決まっております。先日のパーティーにも二人で出席しておりました」
「そういえば、あの女。婚約がどうのこうの言っていたな? 何かあったのか?」
「……いえ。わかりません」
そこでカランコロンとベルが鳴って出入り口の扉が開いたため、乃彩は話すのをやめた。その代わりにスプーンを動かし始める。
そうやって三人で書き氷を食べ、涼んでいた。
あまりにものかき氷の量の多さに驚いていた乃彩も、なんだかんだで完食した。
百合江にお土産でも、と乃彩は言ったが「三人でかき氷を食べたことがバレたほうが面倒だ」という遼真の言葉で、結局、何も買わずに家へと戻った。
その日の夜、いつもと同じように乃彩が遼真の部屋へとやってきた。
「今日は助けに来てくださって、ありがとうございました。きちんとお礼を言っていなかったと思いまして……」
いつもの治癒を終えたとき、彼女はそう言った。
「いや。先日のパーティーの件を考えても、おまえが狙われることを考えておくべきだった」
「狙われる? わたくしが?」
「あぁ……おまえだけじゃないな。日夏公爵家に関わる者、すべてだろうな」
敵が鬼か他家かはわからない。
「あまり一人でふらふらするなよ。ばあさんと南屋に行くときも、他に誰か連れていけ」
そこで乃彩は目を大きく見開いた。
「それよりも、あの茉依という女とおまえの関係は? ただのクラスメートではないだろ?」
あのときの茉依の言葉を聞けば、二人の関係はなんとなく想像はできたが、それが正しいとは限らない。
「はい。以前、わたくしは雪月子爵を治癒するために、彼と結婚しました。その雪月子爵の婚約者です」
想像したとおりの答えだった。
「その婚約者が、なぜおまえを恨む?」
「それは……以前もお話したかもしれませんが……父のこと、だと思います」