第六章:大切な人(5)
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宝暦学園は夏休みに入った。だが、乃彩は毎日のように学校に足を運んでいる。それは実技の補習のためだ。
七月いっぱいは補習があるとのことで、八月に新婚旅行(仮)という名の旅行の計画を立てている。(仮)は乃彩が勝手につけていた。
行き先も決まり、旅館の予約も取ったというのに、最近、乃彩の様子がおかしい。
きっかけと言えば、彼女が雨水修一と会った日から。
あの日、「奥様が友達と寄り道して帰るからって、迎えを断ってきたんですけど、大丈夫ですかね?」と啓介から電話がかかってきたのがきっかけだった。
大丈夫とは、何をもって大丈夫と判断するのか。
先日のパーティーでは、日夏公爵家が狙われたのだ。その犯人だってわかっていないし、犯人の意図すら掴めていない。
それなのに「友達との寄り道」という理由で乃彩を一人にするのは危険である。また、乃彩には寄り道できるほど仲のよい友達が学園内にはいないはずだ。となれば、それは嘘。
そう思った遼真はすぐに乃彩を探し当てた。
その結果、彼女は修一と会っていたのだ。彼はパーティーで結婚を発表した遼真に向かって、乃彩に好意を示すような言葉を吐いていたからよく覚えている。
となれば見過ごすわけにはいかない。
遼真はすぐさま彼らがいるコーヒーショップに入り、乃彩のもとに足を向けた。
修一は乃彩に向かって、遼真と離婚するよう迫っていた。挙げ句、その後は自分と結婚してほしいとまで。
それを耳にしたとき、胸の奥から沸々と苛立ちが込み上げてきた。なぜそのような感情になるのかはわからない。
まして乃彩とは離婚前提の結婚。いつかは別れると事前に決めたはずなのに、別れたくないとすら思っている。
そういった制御できない感情と苛立ちが相まって、つい口を挟み、その場から乃彩を連れ帰った。
だが、そのときから彼女の様子がおかしいのだ。
遼真への治癒行為は、毎日、継続している。そこで何か言いたそうに唇を震わせるものの、その何かが言葉になってくることはない。
彼女は何を言いたいのか。
幼いころから抑えつけられた家庭環境に育ったせいか、なかなか本音を口にしない。まだ、彼女と出会って三か月も経っていないのだから、遼真に心を開かないのも仕方がない。
それでも彼女を悩ます何かがあれば、それを取り除いてやりたいとも思う。
この気持ちに名前をつけるとすればなんというのか、適当な言葉すら思い浮かばない。
家族だから。夫婦だから――。何よりも、乃彩がいなければ遼真は生きられないから。
これは互いを互いに利用するだけの結婚だとわかってはいるはずなのに、乃彩のことが気になって仕方ない。
少しでも彼女の気が晴れればいいなという思いと、慣れないパーティーの準備をやり遂げたことへの感謝の気持ちも込めて、旅行を提案した。
高校三年の夏休みという時期を考えれば、受験勉強に勤しむべきというのもわかる。しかし、内部進学であれば、それらが必要ない。高等部までの成績と授業態度で合否が決まるからだ。
そこで遼真ははたと気がついた。
卒業後の進路について、彼女の口からはっきりと聞いていない。
内部進学なのか、外部進学なのか、それとも進学しないのか。就職したいのか。
術師華族の女性は、高等部卒業と同時に婚約者の家で花嫁修業をするか、内部進学によって短期大学部に進む者が多い。もちろん、別の道を選ぶ女性もいるが、それは本当に数える程度。
世の中は男女平等、女性活躍推進と騒がれているのに、術師華族だけは古くさい考えに支配されている。そろそろそれをぶち壊してやりたいと思いつつも、遼真だけでは力が足りない。
だけど乃彩が隣にいればそれすら叶うのではないか、という淡い期待すら抱いてしまう。彼女は遼真が知る術師華族の女性とはどこか違う。
そんな考えを頭の隅においやって、先日のパーティーの会計報告やらお礼状のリストやらに目を通していたとき、プライベート用のスマートホンが鳴った。
画面を見れば、啓介の名が表示されている。この時間は、補習を終えた乃彩の迎えに行っているはずなのだが。
「どうした?」
『あ、遼真様。奥様って、帰ってきていませんよね?』
「帰ってきていない。何かあったのか?」
『いつもの場所に車を停めて待っていたんですけどね。約束の時間になっても奥様が来られないので……』
「まだ、補習が終わってないんじゃないのか? 今日が最終日と言っていたからな」
遼真がそう口にしたのは、自分の嫌な考えを追い払いたいからだ。
乃彩はきっちりと時間を守る。だから、啓介との約束の時間に約束の場所に現れないとなれば、それは彼女に原因があるのではなく、周囲の予定が変更となったのだろう。
となれば、補習がまだ終わっていないと考えるのが無難なのだが、その補習だって勝手に時間を延長させるようなものでもない。
「砥部に連絡を取れるか?」
『あ、はい。連絡先はわかっています』
「砥部に確認してくれ。乃彩の補習が終わったかどうか。もしくは、おまえが学園に乗り込んでもいいぞ?」
そうは言ってみた遼真だが、空調が効いているというのに背中に嫌な汗が流れた。