第五章:忍び寄る悪意(3)
乃彩が教室に戻ったのは、予鈴が鳴る直前だった。椅子に座るとすぐに予鈴が鳴ったため、半分残っている弁当を慌てて鞄の中にいれ、ロッカーへと押し込んだ。
右手はひりひりと痛むものの、血は止まりつつある。
午後の授業は、英語と化学の授業だった。教室移動もなく、乃彩は自席で時間をやり過ごす。
SHRが終わるとすぐに教室を飛び出した。とにかく遼真に会いたかった。会って、力のことを相談したい。
「奥様、今日は早いですね。あ、今日は大奥様とお約束がありますもんね」
迎えに来ていた啓介の車を見つけて乗り込むと、彼は呑気に声をかけてきた。
車は静かに走り出す。
「あの……遼真様は、今日はお屋敷にいらっしゃいますか?」
彼は、総会があるとも仕事に行くとも、言っていなかったような気がする。
「もちろんですよ。朝から大奥様と二人で、奥様に似合う着物についてああでもない、こうでもないと言っていましたよ」
そうだった。これからパーティーに着ていく着物を仕立てるために、呉服屋を屋敷に呼んでいるのだ。
「もう、大奥様が張り切ってしまって……」
その状況を啓介も楽しんでいるのだろう。声色が明るい。
「今日は……そうでしたね……」
話を聞いていた乃彩は、心の中にある不安な気持ちを押し殺すようにして、そう呟くのが精一杯だった。
車が屋敷の前で止まり、乃彩は慌てて外に飛び出した。啓介が何か声をかけたような気がしたが、その内容は乃彩の耳には届かなかった。
引き戸の玄関を勢いよく開け「ただいま返りました」と声を張り上げれば、加代子が慌てて出迎える。
「おかえりなさいませ、奥様」
「あの……遼真様は?」
靴を脱ぐのももどかしい。
「旦那様はお部屋にいらっしゃいますよ? どうかされましたか?」
ぽいぽいっと靴を脱いだ乃彩は、それを揃えることなく遼真の部屋へと向かった。
「遼真様!」
ノックする前に、彼の部屋の扉を開けた。
「おかえり、乃彩。どうした? 啓介は?」
彼はディスプレイの向こう側から顔をひょいっとのぞかせてきた。
「遼真様」
手にしていた鞄を放り投げて、彼のところに足早に近寄った。
「遼真様、わたくしの力が……」
乃彩の様子がおかしいことに、遼真もすぐに察したようだ。
「どうした? 落ち着け。とりあえず、そっちに座ろう」
ふらつきそうになる乃彩の身体を支えながら、遼真はソファーへとうながした。このまま立っていたら、乃彩が倒れてしまうとでも思ったにちがいない。
二人並んでソファーに座る。
「落ち着け。何があったんだ?」
「わたくしの治癒の力が……使えなくなったかもしれません……」
やっとの思いでその言葉を絞り出した。目頭が熱い。
ただでさえ霊力が弱く、小学生並みの霊力と言われている乃彩だ。だが、家族にだけ使える治癒能力が、心の支えになっていたのも事実。まして今は、遼真の妖力を押さえ込んでいる最中だ。
「それで、力が使えなくなったというのはどういうことだ?」
乃彩の気持ちを落ち着かせるかのように、遼真がゆっくりと声をかけてきた。
「約束の時間までまだ三十分ある。何があったのか話してみろ」
どういうわけか、彼の言葉によって、心の焦りが和らいでいく。
「はい。実は今日……」
乃彩は昼休みの莉乃とのやりとりを遼真に伝えた。だが、まだ認めたくない気持ちもどこかにあって、まとまりのない話になっていたかもしれない。それでも遼真は黙って話に耳を傾けてくれた。
乃彩が一息ついたところで、遼真が口を開く。
「なるほどな。そういうカラクリか。まあ、いい。おまえの力が本当になくなったのか確かめてやる。いつものように俺の妖力を浄化してみろ」
やってみろと言われても、また先ほどのような絶望感を味わいたくない。
「おまえの力は家族にしか使えないんだろ? 今の話を検証するためにも、俺に術を施すのが手っ取り早い」
「ですが、使えなかったらと思うと……」
「そのときはそのときで考えればいいだろ? ほら」
遼真が出してきた右手を、乃彩は渋々と自身の両手で包み込んだ。癒しの霊に語りかけても、先ほどのように答えてくれなかったらと思うと、胸がつきんと痛む。
「大丈夫だから、やってみろ」
「……はい」
遼真の言葉に背を押され、乃彩は語りかける。
(恐れ多くも申し上げます。癒しの霊よ……)
いつもより鼓動が激しい。ドキドキと心臓が大きく音を立てている。
(お願い……)
そう心の中で念じたとき、遼真と触れている箇所に光が生まれた。
「あっ……」
「なんだ。使えているじゃないか」
「はい……遼真様の中の妖力を感じます。このまま浄化します」
遼真の妖力は、次から次へと湧き出てくる。だから毎日、その妖力を押さえ込み、彼が妖力によって侵されるのを防いでいた。ただ、一年以上も浄化していなかったため、その間に蓄積された妖力も浄化する必要があった。だから毎日、彼の手に触れ、治癒を施していたのだ。