第四章:信頼の証(1)
乃彩は左手の絆創膏をなでていた。そこに張られたのは湿潤療法を用いた絆創膏だ。遼真の治癒のために彼の手に触れたとき、擦り傷になっているのを気づかれてしまった。
彼はすぐに俊介を呼びよせ、乃彩があっけにとられている間、あれよあれよとここまでやられてしまった。だからもう、痛くはない。
遼真には理由を聞かれたが「転んだ」とだけ答えたところ、それ以上は追求してこようとはしなかった。だが彼は、それが嘘であることを見抜いているのだろう。なんとなくそんな視線を感じた。
彼になら妹との確執を正直に伝えてもいいのかなと思う反面、迷惑をかけたくないという思いも強かった。
すでにこの結婚で、迷惑をかけている。結婚を提案したのは乃彩だ。これ以上、彼の重荷になりたくないという気持ちもどこかにあった。
――お姉ちゃん、本当に日夏公爵と結婚したの?
昼間のやりとり。莉乃の声が、頭の中に響いてきた。
昨日は友人と遊びにいったのか、莉乃はあの場にいなかった。だから家に戻ってきてから知ったのだろう。乃彩のスマートホンには、昨夜から莉乃からの着信とメッセージがたくさん届いていたが、無視をした。
しかし昼休みに教室にまで乗り込まれたら、逃げようがない。仕方なく人けのない体育館裏で顔を合わせることにしたのだ。
――お姉ちゃんが勝手なことをしたから、お父さんもお母さんもピリピリして、家の中、最悪よ。さっさと戻ってきなさいよ。
――どうして? どうしてわたくしが戻る必要があるの?
乃彩の言葉に莉乃もカチンときたのだろう。彼女は語気を強める。
――どうしてって、お姉ちゃんは春那の人間でしょ? 春那を裏切るわけ?
――裏切るも何も。わたくしは好きな人のところに嫁いだだけです。
――好きな人、ね。お姉ちゃんさ、日夏公爵に騙されてるんだって。いつも授業が終わるとすぐに帰るでしょ。友達とも遊ばないで引きこもりだし。だからあの人の噂も知らないんだよ。
ニタリと不気味に笑った莉乃は、その噂とやらを口にした。俗っぽい噂というか嘘ともとれるような内容。
――だから日夏公爵もお姉ちゃんの力を利用したいだけなんだって。
――それは莉乃も同じでしょう? だったらわたくしは、自分の意志で利用される相手を選びます。
莉乃を無視して教室へ戻ろうとしたところ、肩を掴まれ押し倒された。あまりにも不意打ちすぎて、そのまま倒れ込んでしまい、そのときに左手の甲を擦りむいたらしい。
――相変わらずどんくさいのね、無能のお姉ちゃん。日夏公爵からもすぐに愛想を尽かされるのが目に見えてるよね。捨てられても戻ってくるところはないからね。
乃彩を蔑むかのように見下ろしてから、莉乃は教室に戻っていった。
彼女の背が見えなくなった頃、乃彩は立ち上がり砂埃を払う。
遼真との結婚が離婚前提の契約結婚であるのはわかっているものの、だからといって離婚後に春那の屋敷に戻るつもりなど毛頭なかった。そのときは何か、遼真に仕事を紹介してもらえばいい。
昼間のやり取りを思い出した乃彩は、無意識に左手の甲をさすっていた。痛いわけではない。きっと、嬉しいからだ。
春那の家では道具のように扱われていたというのに、ここでは人として扱われている。誰も乃彩を無視しない。遼真はもちろんのことだが、彼に仕える使用人たちも優しい。
ただ、気になることと言えば遼真の妖力くらいだろうか。
彼は鬼と術師の間に生まれたようで、生まれたときから妖力に侵されていたとのこと。だから昨日、すれ違ったときに妖力を感じたのだ。
それでも他の人があれだけの妖力に気づかないほうが、乃彩には信じられない。
何よりも乃彩は無能だ。家族以外にはその力を使うことはできないはずなのだが――
小さく息を吐き、再びノートにシャープペンシルを走らせる。明日は数学の小テストがある。
高校三年のこの時期は、部活動の最後の大会に望む者も多い。しかし乃彩は部活動には入っていないし、それすら両親が許さなかった。
まるで、周囲との関わりを絶つかのように、あれをしてはならない、これをやってはいけない、と言われていた。唯一許されたのが、図書館に行くことくらい。
過保護といえば聞こえはいいが、あれはどちらかといえば洗脳だったのではないだろうか。
だから両親に言われるがまま、結婚と離婚を繰り返したのかもしれない。
それに気づくことができただけでも、遼真と結婚してよかったのだ。
トントン――
部屋の扉を叩かれ、乃彩は「どうぞ」と返事をする。
加代子が制服を持ってきたにちがいない。彼女は、乃彩の汚れた制服を手にしていったから、それの洗濯が終わったのだろう。