第二章:運命の旦那様(6)
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遼真にとって橘啓介は秘書のような運転手のような親友のような存在だ。つまり、それだけ信頼できる人間。
その啓介が運転する車の後部座席に、遼真は乃彩と並んで座っている。しかも乃彩は、先ほどから遼真の左手を両手で包み込み、ふにふにと揉んでいるのだ。いや、ツボ押しのようにも見える。
春那乃彩と名乗った彼女は、その名に偽りはないだろう。まして、遼真も数年前までは通っていた宝暦学園の制服を着ている。それだけでもしっかりとした身分の持ち主だ。立ち居振る舞いとその容姿からも、それなりの家柄と推測する。
さらに遼真の妖力に気がついたことから、相当の霊力の持ち主であるともわかった。
いきなり腕を掴まれたうえに力強い眼差しを向けられ、「結婚していただけませんか?」と言われたときには、どんな勧誘かと思った。いや、ナンパか、詐欺師か。
しかし彼女は、遼真が日夏公爵家の当主だとはわかっていなかったようだ。術師協会の集まりに顔を出すようになるのは成人してからだ。いくら優秀な術師であったとしても、未成年は協会に出入りできない。
それに遼真が公爵位を継いだのは今から約一年前。大学を卒業してすぐのことだ。
継承の儀に未成年である乃彩がいるはずもない。となれば、遼真の名前は知っていても顔を知らないというのも自然の流れである。
協会に所属しなければ、術師同士、顔を合わせる機会もそうそうない。
だから、乃彩が声をかけてきたのも勧誘でもナンパでも詐欺でもないとわかるのだが、「結婚」を口にした理由だけがわからなかった。
真剣に遼真の手をもみもみしている乃彩をじっと見つめてみるものの、彼女はその視線に気づく様子はない。ただ手を揉んでいるだけだというのに、背筋は伸びて姿勢がよい。艶やかな黒髪は真っすぐに伸びており、頬にいくつかはらりとかかっている様子は大人びて見える。
「……それで、おまえはいつまで俺の手に触れているつもりだ?」
「申し訳ありません。解呪を試みているつもりなのですが……。やはり、日夏公爵様はわたくしの『家族』ではないので、うまくいかないようでして……」
「解呪……。そうだ、おまえ。俺が呪いを受けていると、そう言ったな?」
遼真が尋ねると、彼女はこくりと頷く。
「この呪い。霊力の弱いものは気づかない。それに……解呪はできない」
「日夏公爵家の当主様を呪うような相手とはいったい……それに、妖力も強い?」
遼真の手をさわさわと触れながら、乃彩は目を細くする。鋭い目で、呪いの根源となっている妖力を探っているのだろう。
「……この妖力……」
彼女の言葉の先を、遼真は奪う。
「ああ、悪鬼のものじゃない。それの親玉、鬼の呪いだ。だから、解呪はできない」
乃彩は唇を噛みしめ、何か思案しているようだ。
「この呪いは、日夏公爵様の霊力に複雑に絡みついているようです。このままにしておけば、公爵様の霊力は妖力にすべてを呑まれてしまうでしょう」
「あぁ、そうだろうな」
「わかっていらっしゃったのですか?」
「まぁな」
遼真にとっては生まれたときからこの妖力に侵されていた。それに気づいた母親は、遼真を生まれなかった者として扱うかどうかまで悩んだらしい。だがそれは産後の混乱と息子の将来を案じてだとも聞いている。
こうして今、遼真が生きていられるのはあのとき「生かす」と判断した祖父のおかげだ。
そのため遼真は、この妖力を体内に押さえつけて生きている。それでもあのときまではまだ遼真自身の霊力がそれを上回っており、家族が助けてくれていたからよかった。
遼真の母親は、遼真が三歳になった年に亡くなった。遼真を出産してからというもの、体調を崩しやすくなったのだ。それでも彼女は遼真に愛情を注いで接してくれた。しかし、その年に流行った季節性の感冒が彼女の命を奪っていった。
それを機に、遼真は祖父母の養子となった。遼真を蝕む妖力を押さえつけてくれていたのは祖父だ。祖父だって伊達に日夏公爵を名乗っていない。
そうやって遼真はなんとか妖力と共存しながら生きてきたというのに、一年半ほど前に祖父が亡くなった。
そして世襲制である術師華族にとって、遼真が日夏公爵を継いだのは当然の流れである。しばらく前に春那公爵家も先代が亡くなり、その息子が公爵位を継いだというのは記憶にも新しい。
遼真の祖母は、祖父が亡くなってからすっかりと元気をなくしてしまい、今では離れで静かに暮らしている。
しかし遼真にとって祖父は遼真の妖力を押さえつけてくれた存在。その彼がいなくなり、遼真自身の霊力だけでなんとか妖力をやり過ごしていたが、それも限界に近づいていると自覚し始めたときだ。
まさしく今、春那公爵の娘である乃彩と出会った。