第二章:運命の旦那様(4)
「は?」
乃彩が、しまったと思ったときにはもう遅い。結婚してほしいだなんて、ナンパするにしても下手くそすぎるだろう。
次の言葉が出てこなくて、餌を求める金魚のようにパクパクと口を開けていると、男は怪訝そうに目を細くする。
「新手のナンパかと思ったら、そうでもないようだな。初心なお嬢様」
「う、初心……」
それは否定できない。何よりも婚約者がおらず、異性とまともな言葉も交わしたことがない。クラスメートは乃彩に暴言を吐くばかりで、淑女として扱われたこともない。
「……おまえ、名前は?」
こんな挙動不審で怪しい女性に名前を聞いてくれるだけ、相手は冷静なのだろう。
「失礼いたしました。わたくし、春那乃彩と申します」
名乗ってはみたものの、この手を放してはならないと力を込める。
「春那公爵家の?」
「長女です」
男は真っすぐに乃彩を見下ろす。それでも彼からは不穏な空気がまとわりついている。これは、妖力。彼は妖力によって身体を侵されている。
「おまえ……俺を日夏の者と知っていて声をかけたのか?」
乃彩は大きく目を見開いた。
日夏の名を口にしたとなれば、彼は術師だ。術師であるのに妖力を感じるとなれば、これは呪い。
「あ……も、申し訳ありません。日夏公爵家の血筋の方ですか?」
太陽の下で輝く髪は、少し色素が薄いのか金色にも見える。すっきりとした鼻梁に力強い茶色の瞳。彼とすれ違えば、誰もが振り向くような目立つ容姿。
それでも乃彩には、このような美丈夫であっても見覚えがない。
「おまえ、俺を知らないで声をかけたのか?」
「は、はい……」
顔に見惚れて声をかけたわけではないからだ。むしろ、妖力に惹かれたといっても過言ではなかった。
「なるほど。つまり、おまえは俺が日夏公爵家当主、日夏遼真であると知らないわけだ」
乃彩はひゅっと息を呑んだ。その名は聞いたことがある。だけど、まさか妖力に侵されている人物が日夏公爵本人だとは誰も思わないだろう。
「……あっ」
「おまえは、春那公爵から日夏家に入り込むようにとでも言われた……わけではなさそうだな」
「申し訳ありません。お名前は存知あげておりましたが、お顔のほうは……たいへん失礼いたしました」
知らなかったとはいえ、相手は日夏公爵本人だ。乃彩が非礼な態度を取ったことに変わりはない。
「とりあえず、この手を放してくれないか?」
そう言った遼真は、どうしたものかと苦笑している。
だが、この手を放したら遼真に逃げられてしまう。呪われている彼を、このままにしていいのだろうか。
乃彩は、ゆっくりと首を横に振る。
「おまえ、そんなに俺と結婚したいのか?」
そう思われても仕方あるまい。結婚してくださいと言って、彼が逃げないようにがしっと手を掴んでいるのだから。
だが、結婚したいのかと問われれば、結婚したいのではなく彼の呪いを解かなければという思いが強い。
「あの……非常に言いにくいのですが……日夏公爵様は妖力に侵されておりますよね? 呪われていらっしゃる?」
遼真はきょろきょろと視線だけを動かした。周囲に他の人間がいないことを確認しているかのようにも見える。
「すまない。その話はここでするようなものではない……俺の屋敷に来るか?」
本来であれば、その誘いにホイホイとのってしまってはいけないだろう。だけど、乃彩は自然と「はい」と答えていた。
彼が日夏公爵本人だという証拠もない。なりすましかもしれない。何よりも霊力を感じないし、むしろ妖力に侵されている。そのような人物が公爵本人だとは信じられない。
だというのに、乃彩は彼がそうであると感じていた。