第一章:愛のない結婚(11)
それから三日後――。
乃彩は茶月男爵邸に琳に連れられて向かっていた。
「やっとアレが折れましたよ。いいですね、乃彩。アレに何を言われても返事をしてはなりません。むしろ、無視をしなさい。」
「……はい」
琳がなぜそのようなことを言うのかはわからない。だけど、父親の言葉は絶対だ。
茶月男爵邸を訪れるのは、彼との婚姻届を書いたあの日依頼、約一か月ぶりだった。総二階建て、真っ白い外壁の家は、以前と変わりはない。
インターホンを押せば、使用人が出てきて中へと案内する。
以前と同じ、和室に通された。
「お待ちしておりました。ご足労いただき、申し訳ありません」
茶月男爵は、今日も畳に額がつくのではないかと思えるほど、深く頭を下げた。
「では、さっさとこちらにサインをしてもらいましょう。あなたが先にサインをして、こちらに送ってくれればよかったものを。あなたが渋るから、私たちがわざわざこちらまで足を運んだわけです」
その言葉からは、どことなくチクチクと棘を感じる。
「申し訳ありません。ですが、別れる前にどうしても乃彩さんにお会いしたかったのです」
「はぁ……」
これみよがしに息を吐いた琳は、肩をすくめて首を振る。
「あなたと乃彩の関係は、赤の他人です。こんな紙切れで縁が結ばれたからといって、調子にのらないように」
トンと、琳がテーブルの上に置いたのは離婚届だ。乃彩も実物を見るのは二回目。
「こちらに名前を書いてください。これを断ったらどうなるか……おわかりですよね?」
「は、はい……」
茶月男爵はペンを取り、離婚届に名前を書いていく。だが、ペンを持つその手は、震えているようにも見えた。
文字によって空欄が埋められていく様子を乃彩は黙ってみていた。
「……終わりました」
書き終えた茶月男爵は、離婚届をつつっとテーブルの上を滑らせた。それを手にした琳は、内容をざっと確認してから、乃彩に手渡す。
「書き方は……わかりますね?」
コクリと頷く。
一年前にも、これを書いた。今回は二回目。
現在の名前を書き、離婚したら春那の姓を名乗る。あとは、必要なところにチェックを入れて終わり。
愛もなかった。顔を合わせることもなかった。本当に、乃彩の力を利用するだけの結婚。
あと何回、このようなことを繰り返すのだろう。
そんな思いが、ぷつりと浮かんできた。
静かにペンを置く。
それを視線で追っていた茶月男爵は口を開く。
「乃彩さん……あなたはこんなことを繰り返して、本当にいいと思っているのですか? あなたが望むのならば、私はあなたを助けたい」
「そう言って、乃彩の力を独占するつもりでしょう? いや、乃彩の容姿であれば、妻として隣に侍らすだけでもあなたの評価はあがりますね。それに、たかだか男爵の男が、公爵家の令嬢を妻にしたとなれば術師家族の中でも一目置かれるかもしれません。あなたも乃彩を利用したいのでしょう?」
「ち、違います。私は本当に乃彩さんを……」
「前にも言いましたよね? これ以上、乃彩との関係を望むのであれば……」
「短い間でしたが、お世話になりました。お父様、早く戻りましょう」
琳たちの言い合いに、乃彩が割って入って静かに頭を下げた。
「では、私たちはこれで失礼します。約束通り、口座のほうにお願いしますね」
そう言った琳は、流れるような所作で立ち上がった。乃彩もそれにならい、琳にうながされて部屋を出ていく。
こうして、乃彩は二回目の結婚をして、離婚をした。
そして三回目が高等部三年に進級しようとする春休みだった。
雪月子爵家の徹が悪鬼討伐で負傷した。悪鬼とは鬼の一種だが、力の弱い下等の鬼だ。悪鬼は亡者を生み出すことはできないが、悪鬼そのものが人間に攻撃を仕掛けてくる。そういった悪鬼討伐も、術師華族としてやるべき事案だった。
徹が、クラスメートの令月茉依の婚約者だと知ったのは、彼と結婚するために雪月家へ足を運んだとき。
寝たきりの徹にかわって、春那公爵家を待っていたのが茉依だった。
琳は、相手が茉依であっても、いつもと同じように淡々と言葉を口にする。
「乃彩の力を使うためには、それなりに代償が伴いますが、よろしいですね? こちらは、可愛い娘の戸籍にバツをつけられるわけですから」
「はい。あの人を助けていただけるのであれば、どのような代償でもかまいません」
突き刺さるような眼差しで見つめ返す茉依の視線に、乃彩は耐えられなかった。
「わかりました。では、こちらをお願いします」
すでに、徹の代筆者として茉依が手続きを終えていたようだ。琳の言葉に従い、茉依は婚姻届に徹の名前を書いていく。そういえば、貴宏のときも彼の弟が代筆をしていた。
茉依が書き終え、徹の名の隣に、乃彩は自分の名前を書いた。
これで結婚は三度目だ。
どのような結婚生活になるのか。なんて、そんな甘い生活になるとは思っていない。
ただ、徹に治癒を施す日々。そして、彼の怪我が治れば、また離婚するのだ。それの繰り返し。