第一章:愛のない結婚(10)
次の日から、乃彩は学校帰りに茶月男爵の妹、香織が入院している病院へと寄るようになった。学校まで、春那家の使用人が車で迎えに来ているので、それに乗って病院へと向かう。
香織は北秋家分家の三至子爵家へと嫁いだ。どうやら、宝暦学園で出会って結婚したらしい。学園には術師と術師を出会わせるという、そういった役目もあるのだ。
乃彩には縁のない話だ。いくら学園に通っているとはいえ、能なし令嬢を狙うよりはその妹とお近づきになったほうが将来性はあると思われているのだ。
――三至香織。
そのネームプレートを確認し、乃彩は病室へと入った。
香織の側には女性の医療術師がいて、点滴の調整をしているところだった。
「春那乃彩です。三至香織さんの治癒に参りました」
茶月を名乗るべきかと思ったが、ここで需要なのは春那公爵家から来たものだと思わせること。
それに茶月の姓は仮の姓。どうせすぐに離婚して、また春那に戻るのだ。となれば、下手に茶月の姓を名乗らないほうがいい。
「ご足労いただき、ありがとうございます」
無表情なまま、医療術師は黙って部屋を出ていく。
ポタリ、ポタリと、規則的に液体は落ちていき、管を通って香織の体内へと入っていく。だが、ベッドの上に横たわる香織はぴくりとも動かない。
「……香織さん、手に触れますね」
声をかけても返事がないことなどわかっている。
どこからか、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。しかし香織は、子を産んでから一度も目を覚ましていない。自分の子を抱きたいだろうに、それすら叶わない。
彼女の手からは、しっかりと体温が伝わってきた。それは生きている証。
(恐れ多くも申し上げます。癒しの霊よ……)
ポタリ、ポタリ――。
オギャァ、オギャァ――。
あたたかな光は、香織の全身を包む。それが彼女の身体の中にすぅっと消えていった。
少しだけ、香織の顔色が明るくなったようにも見える。
乃彩はベッド脇の呼び出しボタンを押した。
すぐに、先ほどの医療術師がやってきた。
「また、明日も来ます」
「ありがとうございます。最悪の事態からは抜けたようです……」
香織の顔をじっと見下ろしていた医療術師の言葉に、乃彩もほっと小さく息を吐いた。
病院を出た乃彩は、春那の屋敷に帰る。
きっと、次に茶月家の敷居をまたぐのは、彼と離婚の手続きをするときだろう。それが寂しいとか、そういうものではない。
彼らはどうして乃彩の力を知っているのだろうと、そう思っていた。特別な治癒能力は、知られたら厄介だし、無理矢理、乃彩と家族になろうとする者もいるかもしれない。
今はまだ、親の承諾を必要とする年齢だからいい。だけど、十八歳になってしまったらどうなるのか。
もしかしたら、すでに結婚相手は決まっているのかも知れない。
乃彩がまともに霊力を使うことができないと知った両親は、乃彩を娘だとは思っていない。ただ、都合のいい道具なのだ。
それを考えると、十八歳になるのが怖かった。
香織が意識を取り戻したのは、乃彩が治癒を開始してから五日目だった。
それからしばらく治癒を続け、香織も退院できる流れとなった。
だからもう、乃彩は学校帰りに病院へ向かう必要もなくなった。それでもまだ、茶月乃彩のままだ。
琳が夕食時に「離婚をしぶりやがって……」とぶつくさ言っているのが聞こえた。
「じゃ、罰金だね」
莉乃の声色は明るい。満面の笑みを浮かべ、一口大に切ったステーキ肉を、ぱくりと頬張る。
「なるほど。最初の約束を違えたわけですからね。罰金……さすが、莉乃ですね」
琳に褒められた莉乃は、嬉しそうに肉にぱくついている。
何が約束で、何が罰金なのか、乃彩にはさっぱりとわからなかった。口の中に入れたステーキ肉すら、味のないゴムを噛んでいるような感じだった。