第50話 ぼくのヒーロー
……。
誰かが泣いている。
誰かが叫んでいる。
まだ、小さな子だ。ただ自分に向けられた悪意を、良く理解している。そしてそれを悲しんでいる。確かに傷ついている。どうしてこんな思いをしなければならないのか。この世の不条理を嘆いている。「不条理」なんて言葉も、意味も、理解していない。だが、その概念は体に、心に、よく刻まれてしまっていた。
誰かが泣いている。
誰かが叫んでいる。
小さな声で。
たすけてと、泣いている。
──
「おまえって、ほんとはオンナなんだろー!?」
「ほんとについてんのかー?」
「ぬいでみろよ!!」
幼稚園生でも、例えどれだけ小さな子供と言えど、人間というのは残酷な生き物だ。
いや、この場合……小さいからこそ、と言うべきか。
「ぼ、ぼくはおとこだよ……やめてよ……」
詰め寄られ、取り囲まれ、泣いているのは……俺だ。友達もいなくて、内気で、周りと自分がどこか違うことを、なんとなくだが理解していて、だがそのどれも口には出せない、ごく普通の大人しい子供。
だが俺に詰め寄る園児たちは止まらない。むしろ、油を注がれた炎のごとく、ヒートアップしていく。
「おとこおんなー!!」
「ゆめちゃんはおんなのこ~」
「おままごとでもしてきなよ~」
あはは、あはは。無邪気なまでの邪悪さに、俺の心はすり減ってくる。
どうして、ぼくは、ふつうにしてるだけなのに。どうしてこんなにかなしくならないといけないの? ぼくはおとこだし、おままごとよりヒーローごっこのほうがすきだし、なのに、なんで……?
じわりと滲む涙。それを見て、また面白がる園児たち。傷つく心は音を立てる。泣かないように、唇を強く噛み締めて。スモックの裾を強く握りしめる。痛い。指先が、唇が、瞳が。でもやっぱり何より痛いのは、心で──。
我慢できず、一粒の涙が零れた。おとこのこは、ないちゃいけない。誰かが言っていた。だったら、ぼくはなに? おとこのこになれないぼくは、なに? 今、泣いてしまった。そんな、弱い自分は。
「こーーーーらーーーーっ!!!!!!!!!!」
そこで上から、声が降って来た。
俺も、俺を囲っていた園児たちも、驚いて顔を上げる。そこにあるのは、ジャングルジム。その上に……誰かが、立っていた。しかし逆光で、顔はよく見えない。
「いじめたらだめなんですよ!!!! わるいこは……〝せいばい〟だーーーーっ!!!!!!!!!!」
そして。
とうっ! と叫び、その声の主はジャングルジムから飛び降りた。
「「「「なっ……!?」」」」
俺と園児たちの口から、思わずそんな驚愕の声があがる。しかし声の主はそんなことに構わない。意気揚々と飛び降りて、そのまま……園児の内の1人の頭の上に、着地した。
「ふふんっ!!」
そして声の主は満足そうに笑うと、次にその着地した園児の左に居た園児に視線を向ける。彼は、ひっ、と息を呑んだ。
だがやはりそんなことに構いはしない。声の主は、えいやー! なんて声をあげると、その園児に平手打ちをした。園児は抵抗せず、その場に倒れる。
あと、1人が残った。しかしそいつはいち早く逃げていたらしく、もう姿はなかった。声の主がそれを確認している間に、残りの2人も大泣きしながら逃げて行った。
……その場には、俺と突如現れたそいつだけが残った。
俺は目を見開きながら、それをただ茫然と眺めていた。そこに、怖さはなかった。心の中に芽生えたのは、ヒーロー番組を見た後のような……そんな、高揚感。
──ヒーローだ。
俺は、そう確信した。
だがそいつは、特殊なスーツなんて身に着けていなかったし、どう考えても同じ幼稚園に通っている園児だった。……声の主は左側頭部に付けている特大リボンを揺らし、こちらを振り返った。
そこにいたのは、可憐な少女だった。
「……ねぇ、あなた、だいじょうぶですか?」
「えっ、あ、だ、だいじょうぶ……」
だが俺にとっては、その少女が間違いなくヒーローに見えた。弱きを助け、悪を挫く。その時の俺にはその意味なんて分かりやしないが、彼女はその精神を持っているのだと確信したのだ。
ヒーローが、俺を、助けに来てくれたのだ。
また泣いてしまいそうだった。いや、もう泣いていた。その涙は止まらなかった。すると彼女はギョッとしたように目を見開く。
「ど、どうしたんですか? おけがしてるの? いたいの?」
「ちがっ……う、うわぁぁぁぁんっ……」
その時の気持ちを上手く伝えることは、叶わなかった。ただ泣きじゃくって、彼女を困らせるばかりで。
彼女はその小さな頭で必死に考えて、そして、スモックを犠牲にすることを選んだ。思いっきりたくし上げて、下着が見えることもお構いなしに、俺の涙を強引に拭った。それがめっちゃ痛くて、余計に泣いた。
普段全然喋らない俺の、珍しいまでの大声での大号泣に、先生たちも飛んできた。
そして色々誤解されて、彼女がこっぴどく叱られてしまった。
だが俺と彼女の必死の弁明で、彼女の冤罪は晴れた。だが、まあ2人ほどぶん殴っているので、結局叱られていた。先程よりは控えめだったが。
「……ごめんね、ぼくのせいで、おこられて……」
「いいんですよ! わたし、まちがってないですから! もっとなぐってやればよかった!!」
「それは……やめておいたほうがいいとおもうよ……」
えー、と不満そうに口を尖らす彼女に、俺は思わず笑った。すると彼女はすぐに気を取り直し、満面の笑みになる。そして俺の両手を握った。
「ねぇ! あなたのおなまえはなぁに!? ともだちになろうよ!!」
「……え……」
名前を聞かれ、俺は躊躇した。だって、俺はまずその名前のせいでいじめられていたのだから。……こんな女みたいな名前を聞いたら、彼女も離れて行ってしまうのではないか。そんなことを本気で思った。
……だが一方で、賭けたくもなったのだ。
もしここで名前を言って、この子が笑わないのなら、この子は本物のヒーローなのだと。自分は必ず……この子とずっと、友達でいようと。
何があっても、この恩を返そうと。
「……わらわない?」
「? うん!! わらわないよ!!」
「……じゃあ……えっとね……ぼくのなまえは……」
みみかして、と、俺は持ち掛ける。彼女は素直に耳を差し出した。そして俺は、小声で告げる。自分の、コンプレックスである名前を。
春松夢、と。
顔を離し、俺は目をそらした。どんな反応が返ってくるのか、不安で仕方なかったのだ。それを受け止められる自信が……なかった。
「……どうしてわらうの?」
すると彼女は、そう告げる。
俺が顔を上げると……彼女は、笑っていた。
嘲笑っていない。笑っていたのだ。
「ゆめくん! とってもすてきなおなまえ! あのね、ママがいってたよ! ゆめをもつのはすてきなことなんだって! だからそれをもってるゆめくんは、すっごくすてき!!」
「……!!」
その母親が言っている意味と、俺の名前とは、きっと……いや、絶対に無関係だ。だが俺には……それが唯一無二の救いに思えて、ならなかった。
そして確信した。この子は、本当にヒーローなんだって。
自分は、この子に会うために生まれてきたんだ、と。
「……ねぇ、きみの、なまえは……?」
俺は、おそるおそる尋ねる。
「ぼくも、きみと……ともだちに、なりたい……っ」
勇気を振り絞る。きっと顔が熱い。こんなことを言うなんて、恥ずかしくて。でもここでこう言わなければ、自分は一生後悔する。その一心で。
すると彼女は笑った。そして俺の手を、再び強く握り。
「わたしのなまえはね……みゆき!! こなみ、みゆき!!」
ともだちになろうよ!!




