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第二章:二度目の出会いに想いは芽ぐむ①

 王都を発ってから三日が経った。初めて体験する行軍というものにリィリアは辟易していた。

 北に向かっていることもあり、王都よりはましだが、夏である今はそれでも暑い。容赦のない炎陽に、分厚く丈夫な布で作られた真新しい金茶の軍服のジャケットに汗が滴り落ちる。背に流れる黒髪の間から覗くうなじは日に焼けて赤くなっていた。

 時折酸っぱいものが胃を込み上げて来るが、それが暑さによるものか、荷車の揺れによるものかわからない。気分が悪いからといってリィリア一人の都合で行軍を止めてもらうわけにはいかず、吐き気に耐えながらペパーミントの葉を噛んでいるしかなかった。

 これといって輸送部隊の役には立てないため、補給物資の詰まれた荷台の上で座っているしかできないリィリアだったが、他の兵士たちに何か言われることはなかった。前線基地のあるイハーヴ川畔(かはん)へ向かうこの部隊の指揮を取っているディエスが兵たちによく言い含め、睨みを利かせていたからである。

(ディエスさん、大佐なんだもんなあ……たぶん偉い人だろうとは思ってたけど、そこまでとは思ってなかった)

 輸送部隊の兵たちがきちんと指示を守っていることからも、ディエスが信頼され、慕われていることが伝わってくる。無愛想で少し無作法なところはあるが、悪い人ではないということはリィリアにも理解できた。

(だけど、あの人、言葉が足りないのよねえ……)

 出発までにもう少しディエスから今後について、詳しい話を聞かせてもらえるとばかり思っていた。しかし、出発前にリィリアが知らされたのは、前線基地のあるイハーヴ川畔(かはん)に向かうということと、そこで先に向かった総司令官である王子と合流するということだけだった。

 この部隊の責任者であるディエスは忙しい。休憩のときでさえ彼と話をする機会を得られず、リィリアはほとんど何も知らないままこの三日間を過ごしてきてしまった。

 配給の食事と一緒に、リィリアに不自由がないか案じるような旨の伝言を彼の部下が持ってきてくれることがあるので、存在を忘れられているわけではなさそうだ。しかし、不安でないといえば嘘になる。

 前方から吹いてきた水の匂いのする風がからっと乾いた空気を揺らした。誰も見ていないことを確認すると、リィリアは襟元の黒いリボンを緩めて、胸元へと風を取り入れる。服の中を撫でていく涼風にリィリアは少しだけ生きた心地を取り戻した。

 荷車を引いている馬の頭越しにリィリアが風の吹いてきた方角を窺い見ると、遠くにぽつぽつとテントの群れらしき影が見え始めていた。おそらく、目的地であるイハーヴ川畔(かはん)が近いのだろうとリィリアは思った。

 リィリアは凝り固まった体を解すべく伸びをする。いよいよだ、と自分に言い聞かせながら、リィリアは炎昼の空に目を細めた。


「着きましたよ」

 北東方面軍の前線基地に着き、荷車が止まると、リィリアはディエスの部下の青年に降りるように促された。振動を抑えるためにクッション代わりにしていた、着替えなどの荷物が入ったグレイッシュピンクの旅行鞄を手にリィリアは地面へと降り立った。久々の土の感触に、ふらりとバランスを崩して、リィリアはたたらを踏んだ。

「長旅ご苦労だった」

 黒い軍服の裾を揺らし、カツカツと金茶の軍靴を鳴らしながら、ディエスが姿を現した。常に馬で先頭を行き、休憩中も忙しそうにしていた彼とまともに顔を合わせるのは王都を出発したとき以来である。

「ディエスさんもお疲れさまです」

 リィリアはぺこりとディエスへと会釈をした。ああ、と軽く頷くと、ディエスはリィリアへと用件を切り出した。

「早速だが、一緒に来てくれ。引き合わせたい相手がいる」

 わかりました、とリィリアが返事をするのも待たずに、ディエスは踵を返して歩き始める。一方通行なやりとりに何だかなあと思いながら、リィリアは旅行鞄を抱えて、小走りに黒い軍服の背中を追った。

 ディエスに連れて行かれた先には三人の男女が待っていた。一人は軍服の上から薄汚れた白衣を羽織った、緩やかな癖を描く栗色の髪にモノクルをかけた二十代前半の男。もう一人はモノクル男と同じくらいの年齢の、顎の辺りで短く切りそろえた灰色の髪と萌黄色の双眸の快活そうな女性。そして、最後の一人にリィリアは見覚えがあった。

「あ……」

 うなじで緩く結えられた柔らかそうな亜麻色の髪。どこまでも透き通るようなアイスブルーの瞳。人の良さそうな穏やかで柔和な面差し。

 あの日、銀匙亭でウェル様と呼ばれていたディエスの上官の青年だった。先日ぶりだね、とウェルはリィリアの存在を認めると優しく微笑みかけた。

「え、えっと……」

 リィリアは戸惑った。そして、彼が大佐の地位にあるディエスの上官であるということはもしかして、と嫌な予感が頭をよぎった。よく考えれば、彼の顔を市井に出回る新聞や絵姿で目にしたことがあるような気がする。もしかして、自分は先日、途轍もなく貴い身分の相手にとんでもない失礼を働いてしまったのではないだろうか。

「ユーティス二等兵。改めて紹介する。この方はこの北東方面軍の総司令官にして、ゼレンディア王国の第二王子のオーウェル・ゼレナート殿下だ」

 ディエスの口から目の前の青年を改めて紹介され、リィリアは自分の想像が正しかったことに内心で頭を抱えた。

 ウェル。オーウェル。あの日、ディエスが呼んでいたウェルという名は、市中で身分を隠すための一応の偽名だったのだろうと遅まきながら理解した。リィリアは唇をわなわなと震えさせながら、旅行鞄を放り出すとその場へと跪く。

「せ、先日は王子殿下だとは知らずに、大変失礼いたしました……!」

 オーウェルはぱちぱちとアイスブルーの目を瞬かせると、得心したような顔をした。とんでもない、とオーウェルは首を横に振ってみせると、

「あなたの気持ちを慮ったつもりだったんだけど、逆に迷惑をかけてしまったみたいだね。こちらこそ、申し訳なかった」

 いいから立って、とオーウェルは手を差し出して、リィリアを立ち上がらせた。

 灰色の髪の女性が両腕を組み、お前たちはいったい何をやっているんだとでも言いたげな呆れたような半眼でオーウェルとディエスを見ている。こほん、とディエスが咳払いをすると、オーウェルはその場を取り繕うように、

「えーと、この話はこのくらいにしておこうか。これ以上は、そこの怖いお姉さんに私とディエスが怒られてしまうから」

 誰が怖いお姉さんだと言わんばかりの視線がオーウェルの右頬を容赦なく刺す。土のついた旅行鞄を拾い上げるリィリアははあ、と間の抜けた返事ををすることしかできなかった。

 そんなことよりも、とオーウェルは居住まいを正すと、リィリアへ向き直る。

「リィリア嬢。この度はこのような危険な場所に足を運んでくれてありがとう。そして、無理なお願いをしてしまったにもかかわらず、あなたが私たちに力を貸してくれるとのこと、この軍を束ねる者として心から嬉しく思うよ。何か不自由なことがあれば、遠慮なく言ってほしい」

 お気遣いありがとうございます、とリィリアは金茶の軍服のタイトスカートの裾を軽く摘むと、膝を折って礼をする。スカートの裾から覗いた黒いガーターストッキングの太腿からそれとなくオーウェルは視線を逸らしながら、

「リィリア嬢。ここでは淑女の礼はしなくていいよ。その……軍服のスカートでは少し無理があるだろうから」

「あ……」

 オーウェルの言いたいことを理解してリィリアは赤面した。王都で着ていた裾が長くふんわりとしたスカートのつもりでいては、肌着を見せびらかせる痴女になりかねない。

 リィリアの様子など気にしたふうもなく、ディエスは残りの二人の紹介を続けていく。

「この白衣でモノクルの男は従軍技術者のルーヴァ・アヴェルス少佐だ。力の軍事転用のための研究の都合上、お前はこの男と過ごすことが多くなるだろう。

 こちらは補給部隊の隊長であるシェスカ・アルフュール大尉。お前は表向きは彼女の部下ということになっているから、時間のあるときは補給部隊の仕事を手伝うといい」

 よろしくね、とシェスカはにっと笑うとリィリアに右手を差し出した。リィリアは恐る恐るその手を握り返した。

 ルーヴァはモノクルに手をやりながら、珍獣でも見るかのようにリィリアを見ている。その金の双眸はお気に入りのおもちゃを前にした子供のようにぎらぎらと光を放っていて、リィリアは顔が強張るのを感じた。

「それじゃあ、行きましょうか。荷物も置かないといけないし、基地の中を案内しないといけないから」

 シェスカは手を解くと、「ほら、こっち」リィリアのことを手招きする。失礼します、とリィリアはこの師団を預かる男たちへと軽く頭を下げ、踵を巡らせると、先を行くシェスカを追いかけた。視界の端でオーウェルがルーヴァを嗜めているのがちらりと見えた。


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