第一章:決意の種は王都の夜空に⑤
ウェルとディエスが銀匙亭を訪れてから二日が経っていた。翌朝にはディエスが先日の答えを聞きにくるというのに、リィリアは未だにどうするべきか答えを出せずにいた。
ドレスのように花びらが艶やかな赤いスイートピーを見つめながら、リィリアは溜息をついた。息抜きと翌日の手品の仕込みを兼ねて、店に飾ってあったこれをもらってきたのだが、どうにも筆が進まない。
ぽた、ぽた、と紙の上に赤い雫が滴り落ちた。「あ」貴重な紙を駄目にしてしまったことに自己嫌悪を覚えつつ、リィリアはパレットの上に筆を置いた。今夜は絵を描こうにも、どうにも集中できそうになかった。
はあ、と溜息をつくと、リィリアは立ち上がって窓を開けた。眼下では街灯の小さな炎が揺れ、ふんわりと王都の街並みを照らしている。
(わたし……どうしたらいいんだろう。どうしたいんだろう)
軍に誘われた事情については、叔父のフィーゴには話をしてある。フィーゴは後悔しないように自分の納得がいくまでよく考えるようにとリィリアを諭した。
戦争は怖い。大切なものが何もかも壊され、なくなってしまう。リィリアはそのことを身をもってよく知っていた。
リィリアはあの日の出来事に思いを馳せ、眠りの静寂が降りた真下の路地へと視線を落とした。
◆◆◆
リィリアが生まれ育ったティリス村がルフナ軍に攻め込まれたのは、彼女が十二歳の秋の初めのことだった。農作業をするにはまだ少し暑いが、秋声を運ぶ風が爽やかな日のことだった。
秋は麦の種まきの季節だ。夏の間は野菜を育てていた畑に石灰を撒いて土を馴染ませたり、麦が病気にならないように種を湯で消毒したりとこの時期にはやることがたくさんある。その日のリィリアは村の大人たちを手伝って、石灰を撒いた後の畑を耕していた。
リィリアが額に汗を滲ませ、同じ村に住む友人と他愛もない話に花を咲かせながらスコップで畝を立てていると、どこからともなく風切り音が響いた。
「……え?」
畑から視線を上げると、村の家々に火矢が突き立っていた。一体なぜ、そんな思いが頭を走り抜けていく。早く火を消さないと、と思うのに、目の前の非日常の出来事に身体が動かなかった。
すぐ隣でどん、という重い音が響いた。ばたんと何かが倒れる音がする。からん、とスコップが転がり落ちる音がする。
「ミュレ……?」
つい数秒前まで一緒に話をしながら作業をしていた少女の身体から矢が飛び出し、背後から地面に縫い留められていた。心臓を貫かれて絶命しているのか、血溜まりの中に倒れる少女の身体はぴくりとも動かない。
村の入り口の方からドドドという複数の馬の足音がした。鞍上には弓や槍、剣など思い思いの武器を携えた兵士が乗っていた。
鞍上の兵士の鎧に刻まれた紋章に気がつくと、リィリアは愕然として紫色の目を見開いた。飛ぶ鳥と蛮刀のこの意匠は、現在戦火を交えている南隣のルフナ国のものだった。
海に面したルフナ国の港を欲したゼレンディア王国が彼の国に戦争を仕掛けたということはまだ子供のリィリアも知ってはいた。最初はゼレンディア王国側が善戦していたものの、次第にルフナ国側によって戦線を押し返されてきているらしいことも大人たちから聞かされてはいた。
しかし、ティリス村は国境から近いとはいえ、戦争をしているという実感は薄く、リィリアにとっては他人事のように遠い出来事でしかなかった。まさか自分が暮らしている村が戦場になるなど、リィリアは思ってもいなかった。
「女子供は隠れろ! 男はなんでもいいから武器を持て! ルフナの奴らを村から追い出すんだ!」
ルフナ軍を迎え討つべく指揮を取る村長の声が響く。応、と男たちは返事をすると、農作業に使用していた鍬やスコップを手に駆け出していく。
たった今まで一緒に畑仕事をしていた村の女たちは我先にと逃げ出していく。必死の形相で次々とリィリアの脇を走り抜けていく女たちの姿が、呆然と見開かれた彼女の視界を横切っていった。
「馬に踏み潰されたらひとたまりもない! 馬から引き摺り下ろして、二人か三人で囲んで戦うんだ!」
村長は自身も鍬を構えながら、男たちへと指示を出す。現実感なく、男たちが戦い始める様子をリィリアがぼんやりと眺めていると、土で汚れた女の手が彼女の腕を引いた。
「リィリア! 早くこっちに来るのよ!」
銀髪をうなじで結えた中年の女が必死な目でリィリアを見ていた。彼女の母親のシテナだった。
「お母さん……ミュレが……っ」
同い年の少女の亡骸を指差すリィリアの肩をシテナはきつく抱くと、半ば連行するようにして歩き出す。
「諦めなさい。諦めるしかないの。今は自分の身を守ることを第一に考えなさい。それが……戦争だから」
「でも……っ!」
聞き分け悪く嫌々をする娘の頬をシテナは平手で打った。呆然として、リィリアは母親と同じ紫の目で彼女の顔を見上げた。シテナの眦には辛さと涙が滲んでいる。
「聞き分けて……! お願いだから……! 女は捕まれば、娼館に売り飛ばされるか、この場で犯されて殺されるかのどちらかなのよ! お母さんはリィリアをそんな目に遭わせたくはない!」
シテナの必死な形相と言葉に、目の前の状況にまだ現実感を持てないながらもリィリアはわかったと頷いた。リィリアはシテナに肩を抱かれ、急ぎ足でその場を後にした。
村の家々には次々と火が放たれていて、隠れるには危険だった。そのため、リィリアとシテナは、戦争が始まったころに村の男衆が申し訳程度に作った塹壕へと向かっていた。
炎に巻かれた家と家の間を抜け、たまに飛んでくる矢をどうにか躱しながら、二人は村の中を逃げる。這々の体で二人が塹壕の中へと辿り着くと、そこには地獄絵図が広がっていた。