第一章:決意の種は王都の夜空に④
その声は先程、ディエスとともに居たウェルのものだった。彼を振り返ったディエスの顔に、うっすらと焦りの色が浮かぶ。
「ウェル様……何故ここに。先にお戻りになられたはずでは?」
ウェルはやれやれと肩を竦める。穏やかそうなアイスブルーの双眸には、己の部下の勝手な行動に対する辟易が滲んでいる。
「店に忘れ物をしたなどと言うから、何だか妙だと思ってね。それで、ディエスの後を追って戻ってきてみれば、やっぱりこんなことになっているじゃないか」
「……俺は相変わらず、ウェル様には隠しごとができないようですね」
「当たり前だろう。一体、何年の付き合いになると思っているんだ」
ウェルは呆れたように言うと、リィリアへ向き直り、頭を深く下げた。「ウェル様が、平民の娘相手に何もそこまでなさらなくても……」ディエスから不満の声が漏れるが、ウェルは彼を手で制して黙らせる。
「先程に引き続き、私の部下が不快な思いをさせてしまったようで、本当に申し訳ない。
ただ、弁解をさせていただけるのなら、ディエスは決して、あなたに軍の公娼になってほしくてあのようなことを言ったわけではないんだ。彼の言葉が足りずに申し訳なかったが、私たちが必要としているのはあなたのその”手品”の力なんだ」
「は……?」
リィリアは顔をこわばらせた。己の早とちりに気づき、顔色がすっと引いていく。ああ、と補足をしてくれたウェルの言葉に肯定の意を示すと、ディエスはリィリアの様子を特に気に留めた様子もなく、話を続けていく。
「先ほどの”手品”。随分と見事な手際だった。職業柄、相手の攻撃や間合いを読むことには慣れているが、あなたの”手品”は俺の目をもってしても、まったく仕掛けがわからなかった」
「それは……どうも……」
先ほどの勘違いもあり、気まずさでリィリアの語尾が尻すぼみになる。ディエスの言葉も純粋に自分の”手品”を讃美するだけのものには聞こえず、リィリアは己の腰が引けていくのを感じた。
「……ディエス」
警戒されてしまっているじゃないか、とウェルは連れの青年へとため息をつく。ごめんねとウェルは苦笑をおどおどとするリィリアへと向けると、彼女の”手品”の核心へと触れてきた。
「ところで、リィリア嬢。あなたのそれは”手品”ではないよね? おそらくは”手品”とは違うある種の異能ではないかと、私とディエスは思っているのだけれど」
「なんで……」
動揺で声が掠れた。自分の”手品”の正体を見破れた人など、今までにいなかった。この人たちは”手品”についての真相を見抜いた上でどうするつもりなのだろう。
リィリアはなけなしの勇気をかき集め、高い位置にあるアイスブルーと灰の四つの瞳へ順に視線を巡らせると、
「それを知ってどうするつもりなんですか? 手品と称して不正行為を行なっている店として、王国法で裁きますか? それとも、この事実を盾に無理矢理わたしを戦場に連れていくつもりなんですか?」
そんなつもりはないよ、とウェルはリィリアの言葉を否定した。
「そのような王国軍人の名に恥じるような真似をするつもりは私にはないよ。ただ……まずは、私たちの話を聞いてはくれないだろうか?」
「……はい」
渋々リィリアは頷いた。ライラックの瞳にはまだ動揺と警戒の色が滲んでいる。そんなことを気にしたふうもなく、ディエスは口を開いた。
「あなたには合意の上で我が軍と一緒に来ていただきたいと思っている。
此度のウィザル帝国との戦争、戦況が芳しくないことは一市民のあなたでも知っているだろう? あなたの力を軍事転用できれば、この戦争を我が国に有利な形で早期に終結させることもできるかもしれない。俺たちに力を貸してくれないだろうか?」
リィリアを見るディエスの目はひどく真摯だった。リィリアからしてみればディエスは少し嫌な感じのする失礼な人ではあったが、国や戦争の行く末を真剣に案じているのだということだけは理解できた。ふぅ、と仕方なげにリィリアは溜息を吐くと、
「……それで、お二人はわたしに何をして欲しいんですか? わたしは武器を持って戦えるわけじゃないですし、かといって前線まで行って兵士の皆さんに”手品”を見せて欲しいというわけでもなさそうですし」
「今、イハーヴ川畔に北東方面軍の前線基地があるのだが、そこにいろいろな技術を軍事転用するための研究をしている専門家がいる。あなたの力を彼に見せ、この国のために研究に協力してほしい」
国のための実験動物になれということだろうか、とディエスの言葉にリィリアは困惑する。しかし、今はこうして普通に暮らせてはいても、ウェザル帝国による侵攻が進めば、この王都だっていつ戦火に包まれるかわかったものではない。
国と国の問題だとか、そういう大それたことはわからないけれど、リィリアとて自分たちの今の暮らしを守りたい気持ちはある。けれど、少し変わった力を持つだけの一介の街酒場の店員で手品師の自分に何ができるとも思えなかった。
「ディエス、やはり彼女は困っているだろう? だから、私はただの平民の女の子である彼女を巻き込むのは反対だったんだ。今からでも、この話はなかったことに……」
いえ、とウェルの言葉を遮ったのはリィリアの声だった。
「少し、考えさせてください」
どう返事をするにしろ、今は考える時間が欲しかった。このような話、即断即決できるものではない。
リィリアの反応が意外なものだったのか、ウェルはアイスブルーの目を見開いた。
「考えるだけです。まだ、お二人と一緒に行くとは言っていません」
リィリアはそう言ったが、構わないよ、とウェルはかぶりを振った。すうっと、夜風に雲が流されていく。ふわりと月明かりが照らし出した彼の顔にはリィリアのことを案じる気持ちとわずかな期待が綯い交ぜになって浮かんでいた。
「それでも、考えてくれるというだけで、私たちとしてはありがたい」
ああ、とウェルの言葉にディエスは同意を示す。そして、彼はリィリアへ向かってこう言った。
「三日後の朝にもう一度来る。それまでに今の話の返事を考えておいてほしい」
色よい返事を期待している、と言い添えるとディエスは踵を返した。こつこつという軍靴の音が次第に遠ざかっていく。
「無理なことを言ってしまって申し訳ない。できることなら、あなたから今の暮らしを取り上げるようなことはしたくないけれど、私だってもしかしたらとは思わないわけではないんだ。嫌だったら嫌だと言ってくれて構わない。だけど、今の話、一度考えてみてほしいんだ」
「わかり、ました」
そう言った自分の声がどこか現実のものではないようにリィリアには感じられた。自分の力が戦争を終結させるための役に立つかもしれないなどと言われ、軍に誘われるなど、どう考えても現実の出来事だとは信じがたい。
それでは私も失礼するよ、とウェルは踵を巡らせた。ディエスの後を追いかける靴音がだんだんと小さくなっていく。
どうしよう、とリィリアは長い黒髪を掻き毟った。懊悩する彼女を白い月の光が照らしている。
多くの人々が寝静まった王都の空で、宵っ張りの鳥たちが透き通った声でキョキョと穏やかな子守唄を奏でていた。