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第六章:描く軌跡が実を結ぶ③

 それからもリィリアは寝食を惜しんで絵を描き続けた。二日目の途中から、手が痛みを訴え始め、三日目には幹部は熱を持ち、腫れが見られるようになっていた。

「これは腱鞘炎ね。無理をするから」

 フレーネは氷嚢でリィリアの手首を冷やしながら、溜め息をついた。彼女の蜂蜜色の双眸には、やれやれとでも言いたげな呆れの色が浮かんでいる。

「どうしてこんなふうになってしまうまで頑張るのよ……」

「これが、今のわたしに与えられた役目だからです。わたしの頑張りで今後の趨勢が左右されるのなら、頑張らないわけにいかないじゃないですか」

 毅然としてそう言い放ったリィリアに、あのねえ、とフレーネは噛んで含めるように言い聞かせる。

「だからといって、こんなふうになっていたら元も子もないでしょう? 見たところ、手首の炎症以前にろくに食事も睡眠も摂っていないでしょう? そういう無茶はかえって物事の効率を下げるだけよ。きちんと休息は取らないとだめよ」

 リィリアは首を横に振る。フレーネの言い分は理解できるが、そんなことをしている暇も今は惜しい。

「わかっています。たとえ非効率だとわかっていても、それでも今はどうしても一分一秒が惜しいんです。わたしは……この絵を絶対に完成させないといけないんです」

 責任感があるのはいいことだけれどね、と苦笑しながら、フレーネは自分の軍服のポケットを漁る。棒状の紙包を彼女は無理矢理リィリアに握らせると、

「チョコレートバーよ。どうしても休めないというのなら、今のうちにこれだけでも食べておくといいわ」

 ありがとうございます、とリィリアはおとなしくチョコレートバーを受け取って金茶の軍服のスカートの上に置くと、片手で包み紙を剥がしていく。包み紙を半分剥がすと、リィリアはチョコレートバーを掴み、歯を立てて小さく齧った。とろけるような甘苦い味わいが舌の上を伝播し、口の中を満たしていく。体の中に染み渡っていく糖分に、自分は思っていた以上に疲弊していたらしいとリィリアは悟る。

 リィリアがチョコレートバーを握っているのとは反対の手からフレーネは氷嚢を外すと、ハーブの滲出液で作った湿布を患部へと貼り付ける。そして、フレーネは手首を起点に包帯を巻き始めると、絵筆ごと彼女の手を固定した。

「私の立場としては、無理にでも言うことを聞かせるべきなんだけど、リィリア、思いの外頑固だから。こうしておけば、あなたの手首への負担も少しは減るはずよ」

 ありがとうございます、とリィリアは座ったまま低頭した。いいのよ、とフレーネは立ち上がる。

「ここには無茶なことをいう連中ばかりだもの、慣れているわ。腕がもげかかっているのに戦場に戻りたがる奴とか、腹に風穴開けられてるのにまだやれるって言い張る奴とかね。

 だからって無茶することを私たちが許しているわけじゃないのよ。リィリアには頑張ってほしいけれど、倒れない程度にね。リィリアが今回の『戦乙女(オペレーション・)作戦』(ヴァルキュリア)の要だもの、あなたが動けなくなってしまっては元も子もないわ」

「心しておきます」

「わかってくれればそれでいいのよ」

 それじゃあね、とフレーネは救急箱を腕に抱えると去っていった。

 リィリアは包帯で固定された筆を握る。まだやれる、そう言い聞かせると、筆先に鈍色の絵の具を取った。


 それから更に二日間、リィリアは絵を描き続けた。

 時折、体が限界を訴え、ふっと意識が遠のきそうになることもあった。睡眠不足で目元は黒々としたクマができて落ち窪み、食事をろくにとっていないことも相まって頬がげっそりとこけていった。包帯の巻かれた手は、手の甲から肘にかけてずきずきとした痛みを訴えていた。それでも、リィリアは充血した紫の双眸で真摯に巨大なキャンバスに向き合い続け、筆を離すことはなかった。

 絵を描き始めて五日目の夜半、遂に最後の兵士を描き終えたリィリアはその場に突っ伏した。昼にメリーゼが変えてくれた包帯を解くと、手に固定されていた筆を外して筆洗(ひっせん)へと入れる。パレットを洗いにいかないと、と思うのに体に力が入らなかった。

 虫たちが奏でる子守唄の音が心地よい。夜露に濡れた草の感触が冷たくて気持ちよかった。夜風がリィリアの乱れた髪をさわさわとかき混ぜながら通り過ぎる。

(あ……だめ……)

 画材の片付けもしないといけないし、絵が完成した旨の報告にもいかないといけない。

 少しずつ瞼が落ちていく。しばらくは疲労と眠気にリィリアは抗っていたが、やがて、視界が暗闇に包まれた。

(少しだけ……少しだけ休んだら……)

 そう思ったのを最後にリィリアの思考はぷつりと途切れ、眠りの闇の中へと落ちていった。


 オーウェルは、軽食の入ったバスケットを手に、リィリアのいる基地の外れを目指していた。

 バスケットの中身はオーウェルが手ずから作った、チーズと塩漬け肉のホットサンドである。

「しかし、殿下。御身自ら、ユーティス二等兵の様子を見に行かずとも、俺に命じてくださればよいものを……」

 オーウェルの横で渋面で何事かぶつぶつと言っているのはディエスである。彼はイハーヴ川畔(かはん)の事件以来、オーウェルの行く先々についてくることが増えた。隙をついて撒こうものなら、くどくどと朝まで説教をされかねない。

 立ち並ぶテントの群れの中を抜け、開けた空間に出ると、びっしりと兵士の絵が描かれた巨大な白い布が地面に広げられていた。

 パレットや絵の具のチューブが入った紙箱、筆洗(ひっせん)などが散乱するその先に、絵の具まみれになった軍服を身に纏った黒髪の少女が横たわっていた。「リィリア!」オーウェルは手に持っていたバスケットをその場に投げ出すと、彼女へと駆け寄った。

「殿下、お召し物が汚れます」

 バスケットを拾い上げて追いついてきたディエスが呆れたように苦言を呈する。しかし、そんなことどうでもいいと言わんばかりにオーウェルはリィリアの華奢な体を抱き起こす。

 抱き起こした細い体からは脈動が感じられ、口元から小さく吐息が漏れていることから、眠っているだけだと察せられた。そのことにオーウェルはわずかな安堵を覚える。

「どうやら、これを完成させて力尽きたように見えます。無理をしたせいで手が腫れているように見えますし、ルミエリア少佐をお呼びになられては?」

 ディエスの進言にオーウェルはそうだね、と頷いた。オーウェルは意識のないリィリアの背と膝の裏に手を回して立ち上がると、

「彼女は私のテントに運ぶ。ディエスはルミエリア少佐を呼んできてほしい。あとは無事にリィリアがやり遂げたと、シェスカに伝えてほしい。彼女もリィリアのことは心配していたから」

「御意に」

 敬礼すると、ディエスは救護所のテントへと向かって去っていった。その背を見送ると、オーウェルは腕の中のリィリアへと顔を寄せた。

「リィリア……すごいね、やり遂げたんだね。本当に、お疲れ様」

 そう呟くとオーウェルは絵の具で汚れたリィリアの額へと口づけを落とした。

 白く弧を描く月の舟が遠い果てから二人を見下ろしている。彼女と一緒なら、この『戦乙女(オペレーション・)作戦』(ヴァルキュリア)を成功させ、戦争を終わらせることも最早夢ではないとオーウェルは思った。


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