第一章:決意の種は王都の夜空に③
「リィリア、ちょっと」
閉店時間を過ぎ、酔い潰れた客を追い出してテーブルの後片付けをしていたとき、リィリアはフィーゴに声をかけられた。はい、と返事をすると、リィリアは木のテーブルを布巾で拭く手を止める。
「フィーゴおじさん、どうしたんですか?」
リィリアが首を傾げると、フィーゴはカウンターの奥の厨房の中へと彼女を誘った。もう客はいないとはいえ、万が一にも人に聞かれたくない話のようだった。
「何か、わたしに関して苦情でもありましたか? わたしとしては、お客様に粗相を働くような真似はした覚えはありませんけど……」
そうじゃない、とフィーゴは顔の前でぱたぱたと手を振って、リィリアの言葉を否定する。それよりも、とその後にフィーゴが切り出した内容は、斜め上なようでもあり、予想の範疇でもあるようなものだった。
「お前の”手品”を所望された軍人のお客様を覚えているか?」
「ええ、まあ……」
リィリアは曖昧に頷く。ウェルという男の方は紳士的な好人物だったが、もう一人のディエスというほうは何だか嫌な感じのする人物だった。
「それが、何か……?」
不審げにリィリアが尋ねると、フィーゴはごほんと思わせぶりに咳払いをした。
「その、なんだ。お前のことを先ほどの軍人のお客様がいたく気に入られてな。折りいってお前と話がしたいと仰っておられる」
「わたしと、話……?」
リィリアは顔に乗せた不審の色を深める。話といっても、内容が皆目見当がつかない。それにウェルはともかくディエスはできれば関わり合いになりたくない人種だ。何か角の立たない言葉でやんわりと断ろうとリィリアが口を開きかけたとき、すっとフィーゴの言葉が差し込まれた。
「ちなみにお客様はそこの勝手口の外でお待ちだ。男性に恥をかかせるものではない。どういったご用向きかは知らないが、話くらいは伺ってきなさい」
暗に拒否権はないとフィーゴに告げられ、リィリアは肩をすくめた。腰に巻いたダイナーエプロンの紐を解くと、リィリアは汚れた布巾と一緒にフィーゴに押し付ける。
「……わかったわ。行ってくる」
「ああ。大丈夫だとは思うが、もし乱暴なことでもされそうになったら俺を呼ぶんだぞ」
うん、と頷くと、リィリアは滑らないように足元に注意を払いながら、油でぎとぎとに汚れた厨房を抜けていく。彼女は裏口の扉を開くと、外へ出た。
小望月がほとんど真上に達しかけていた。夏の夜空を彩る涼やかな星の光を浴びながら、店の外壁にもたれかかるようにして、茶褐色の髪の男が両腕を組んで立っていた。ディエスだった。
「来たか。リィリア・ユーティスだな?」
ディエスは裏口から出てきたリィリアの姿を認めるとそう言った。彼は品定めをするかのようにリィリアへ冷厳な灰の視線を向ける。顔、首筋、胸元、腕、腰回り――頭の天辺から下へと下りていくその視線にぞっとして、リィリアは腕で自分の体を抱く。「……そうですけれど」叔父を呼んできたほうがいいだろうかと警戒しながらも、リィリアは、ディエスの問いに頷いた。
「……失礼ですが、どこでわたしの名前を?」
「あなたの名前については、マスターから伺った。申し遅れたが、俺は北東方面軍ゲーニウス師団所属のディエス・モーフェルトという」
リィリアが暮らすゼレンディア王国は現在、北東の国境を接するウィザル帝国と戦火を交えている。この戦争でウィザル帝国の軍隊を相手取って戦っているのが北東方面軍だった。
戦況は芳しくない。国境近くのエディタント城砦がウィザル帝国の手に落ち、北東方面軍はイハーヴ川畔まで後退を強いられていた。
そんな状況下で、一体自分なんかに軍人が何の用なのだろうと訝しみながらも、リィリアは本題を切り出した。
「それで、ディエスさんから、何かお話があるとマスターから伺っておりますが、どういったご用件でしょうか?」
「単刀直入に言う。我が軍とともに来て、皆を支える力となってくれないか? あなたのような女性が我が軍には必要だ」
「なっ……!」
ディエスの言葉にリィリアは鼻白んだ。顔や体を値踏みするように見ていた意味を理解し、顔が赤くなり、眦が吊り上がっていくのを感じる。
迂遠な言い回しを選んでこそいるが、つまるところ、ディエスが言っているのは従軍して兵士たちの欲望の捌け口として慰み者になれということである。若い娘であるリィリアにとって、それはこの上なく屈辱的な話だった。
「そういったお話でしたら、他を当たっていただけますか!? 軍人の方々の公娼なんて、お断りさせていただきます!」
リィリアは怒りで唇を戦慄かせながらも毅然として言い返す。え、とリィリアの反応が意外だったのか、ディエスは驚いたように感情の薄い灰色の双眸を瞬かせる。
そのとき、銀匙亭の前の路地に足音が響いた。空から降り注ぐ白い月の光が、二人のすぐそばに人間のシルエットを浮かび上がらせる。
「……見つけた。やっぱりここだったね」