第三章:葉蔭の現実は赤く染まりて⑤
翌日もリィリアはルーヴァに研究のために呼び出されていた。
ルーヴァの元に向かう前に、リィリアは朝食を取りに配給所へと立ち寄っていた。近くにあったテーブルに腰を下ろし、昨夜のオーウェルの甘い言葉に思いを馳せながら、ぼんやりと朝食の豆のスープを啜っていた。
「あれって、どういう意味だったんだろう……」
スプーンの上の豆を見つめながら、リィリアは呟いた。うーん、とリィリアが一人で唸っていると、とん、と背後から頭を硬いもので突かれた。「ふぇっ?」我に返ったリィリアが背後を振り返ると、赤毛を三つ編みにした少女が朝食の乗った盆を左手に持って立っていた。彼女の右手にはスプーンが握られており、リィリアはどうやら自分は彼女にスプーンの柄で小突かれたらしいと悟った。
「イリーゼ」
リィリアが少女の名を呼ぶと、彼女は姉と同じトルマリンブルーの双眸をにっと細め、快活な笑みを浮かべた。
「リィリア、おはよ。ご飯、一緒していい?」
「いいけど……メリーゼは?」
「メリーゼなら、フレーネさんにご飯持ってってる。容態が急変した人がいるからって、昨夜からずっと救護用のテントに詰めてて戻ってこれてなくってさ」
こともなげにイリーゼはそう言いながら、リィリアの隣に腰を下ろした。
昨夜、テントに戻ったのは夜もかなり遅くなってからだったが、同じテントで起居しているはずのフレーネの姿がなかったことをリィリアは思い出す。今朝目覚めたときもテントの中に彼女の姿はなかったが、一晩中彼女は戻ってきていなかったというのか。
「衛生部隊って大変なんだね……」
まあねえ、とイリーゼは行儀悪くテーブルの上に頬杖をつきながら相槌を打つ。彼女はスプーンを口に運びながら、
「まあ、あたしたちはこんなの慣れっこなんだけどね。怪我人なんていつ運び込まれてくるかわかったもんじゃないし、こっちで様子見てる人たちの容態だっていつ変わるかわからないしね。
とはいえ、あたしやメリーゼみたいなただの兵士はまだ楽な方だよ。フレーネさんは責任者だから、何かあったときに呼び出されることも多いけど」
「そうなんだ」
「あたしたちのことはともかくとして、リィリアも随分大変そうじゃない? 昨日帰ってきたの真夜中だったじゃん。さっき何か考え込んでたみたいだけど、あの変人少佐に何かされた?」
「そんなことはないんだけど……」
「ないんだけど……何? ほら、きりきり吐け吐け」
食事中だよ、とリィリアは困ったように眉尻を下げた。ごめーん、と微塵も反省が感じられない声色でイリーゼは軽い謝罪の言葉を口にした。
「それで、どうしたの? 言いたくない話なら無理には聞かないけどさ」
トマト味の液体を飲み下すと、リィリアは口を開いた。たとえばなんだけど、と彼女はイリーゼへと話を切り出した。
「男の人って簡単にかわいいって言えちゃうものなの? びっくりしてたら、そんな顔を他の人の前では見せるなみたいなことを言われたりとかって普通によくあること?」
お、とイリーゼはリィリアの言葉に意外とでも言いたげな反応を見せる。明るい色の瞳は、露骨な好奇心で満たされている。
「え、なになに、リィリアはあの変人少佐に迫られてるわけ? 困ってるならさっさとシェスカさんに相談したほうがいいよ。放っておくと、あの人、リィリアの髪かなんかでホルマリン漬け作りかねないし。何ならこの後一緒にシェスカさんのところに行ってあげようか?」
ううん、とリィリアはスプーンを盆に置くと、かぶりを振った。
「大丈夫、ルーヴァさんがどうとかっていう話じゃないから。それに、これはたとえばの話って言ったでしょ? イリーゼはどう思う?」
イリーゼは皿の底に残った豆をスプーンでかき集めながら、
「まあ、普通に考えてそういうこと言う男は、大抵その女の子のこと好きだよね。……で、少佐じゃないなら誰に言われたのさ? リィリアのことが気になってる男なんて、この師団じゃ心当たりがありすぎて全然絞れないんだけど」
「ほら、あくまでたとえばの話だから……別にわたしの話とも言ってないし!」
どうだかなあ、と疑いの色の乗った水色の視線をイリーゼはリィリアへと向ける。食事を終えたイリーゼは席から立ち上がりながら、
「まあ、いいや、詳しいことは今夜また聞かせてもらうから」
それじゃあね、と中身が空になった食器を手に、三つ編みのおさげを揺らしながらイリーゼは去っていった。その背を見送りながら、リィリアは今しがたイリーゼに言われた言葉を頭の中で反芻する。
(好き……? オーウェル様がわたしのことを? そんなわけないわ)
オーウェルは王子だ。その立場上、女性と関わることも多いだろう。
彼のように身分の高い男性は、女性を褒めることを当たり前のように知っているものだ。昨夜の可愛いという言葉も、甘やかな囁きも、きっと彼からすればただの社交辞令に過ぎないものだろう。
(昨日のわたしは……あれが自分だけに向けられる特別なものだと勘違いしていただけよ)
あれは夜という時間が作り出した幻想で、自分はその雰囲気に酔ってしまっていただけだ。いきなり違う環境に飛び込むことになった自分を気遣ってくれたあの言葉がなまじ嬉しいものであっただけに、リィリアはそのことを残念に思った。
(今はもう朝よ。いつまでも昨日のことにばかり気を取られている場合じゃない)
切り替えないと、と己に言い聞かせながら、リィリアは空になった食器を持って立ち上がる。
食器の返却場所へと向かってリィリアは歩き出した。今日も昨日の実験の続きがあるし、やらねばならないことはいくらでもある。
終わりかけた夏の力強さを残した朝日が、彼女を背後から射抜くように照らしている。気温が上がり始める前の爽涼な風が、彼女の黒髪を一房攫って吹き過ぎていった。