第二章:二度目の出会いに想いは芽ぐむ③
その日のリィリアは、疲れているはずなのに寝付くことができなかった。何度寝返りを打てど、一向に眠気の波が訪れる気配がない。
ゲーニウス師団全員分の食事の用意と片付けは銀匙亭のそれとは比べ物にならないくらいの規模感で、リィリアはただただ圧倒され、疲弊した。
どうにか夜の配給を乗り越え、テントに戻ってきて今日の報告書をまとめていると、同じテントで起居しているという衛生部隊のフレーネ、メリーゼとイリーゼが帰ってきた。彼女たちと顔合わせを済ませ、しばらく他愛もない話に興じた後、床に就いたはずだったのだが、なぜだか目が冴えて眠れなかった。
リィリアは他の面々を起こさないように気をつけながら、体を起こした。素足を金茶の軍靴に突っ掛け、淡いラベンダー色のネグリジェの上から軍服のジャケットを羽織ると、リィリアはテントを抜け出した。
テントの外の夏の夜半の空は、新月ということも手伝って、星が綺麗に見えた。濃紺のキャンバスに描かれた星々の命が紡ぐ物語を漫然と眺めながら、リィリアは基地の敷地内を歩き出す。
見慣れない少女の姿を見咎めた見張り番の兵士に誰何の声をかけられることはあったが、所属を説明するとあっさりと通してくれた。
基地の敷地を歩くうち、気がつけばイハーヴ川のほとりまで来ていた。真っ暗な水面を見つめながら、リィリアは膝を抱えて座り込んだ。
今の戦況をどうにかするため、自分の力にオーウェルやディエスが希望を抱いていることはわかっている。しかし、自分なんかで本当に力になれるのだろうかと不安になる。
今日の夜の配給一つとってもそうだ。シェスカは上出来だと言ってくれたが、今日の自分は部隊の皆の足を引っ張るばかりだった。
「はぁぁ……」
溜息がリィリアの口をついて出る。こんなことでここできちんとやっていけるのだろうか。
ざく、ざくと背後で軍靴が土を踏む音が響いた。リィリアが後ろを振り仰ぐと、黒地に金茶の刺繍が施された軍服に身を包んだ亜麻色の髪の青年が飲み物の入ったグラスを手に立っていた。
「殿下……?」
こんばんは、とオーウェルは水のように透き通ったアイスブルーの目を優しげに細めると、リィリアの隣に腰を下ろした。
「オーウェルでいいよ。君はリィリア嬢だったね?」
「それなら、わたしのこともリィリアと……」
「それじゃあ、リィリア。こんなところで一人でどうしたの? もしかして、眠れない?」
ええまあ、とリィリアは語尾を曖昧に濁すと俯いた。そっか、とオーウェルは暗赤色の液体が入ったグラスをリィリアに手渡しながら、
「リィリアはお酒は飲める? これ、グリューワインなんだけど、よかったら飲んで。眠れないときは身体を温めてリラックスしたほうがいいから」
ありがとうございます、とリィリアはグラスを受け取ると口をつける。あたたかでまろやかな口当たりの中の蜂蜜の甘さや混ざり合った主張しすぎないハーブの香りにほんの少しだけ気持ちがほぐれていくのを感じる。
「おいしい……」
リィリアが小さく呟くと、よかった、とオーウェルは微笑んだ。
「それで、どうしたの? 何か困りごとか悩みごと?」
「いえ……そんな、オーウェル様のお手を煩わせるようなことじゃない、ほんのくだらないことなので……」
ううん、とオーウェルは首を横に振った。彼は柔和な瞳に真剣な光を宿すと、
「けれど、きっとリィリアにとってはくだらなくないことなんだろう? だったら、私はリィリアが抱えているのがどんなことだったとしても決してくだらないなんて言わない。
誰かに話してしまえば楽になることだってあるよ。もし、リィリアが嫌でなければ、私に話してみない?」
「わたし……」
グリューワインの残ったグラスを手にしたまま、リィリアはぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。
「わたし……不安なんです。ここで、本当にこれからやっていけるのか。今日の夕方、配給のお手伝いをしましたけど、足を引っ張るばかりで、何の役にも立てませんでしたし。それに、わたしのこの力だって、本当に戦況を変えられるほどのものなのかどうか……オーウェル様たちの期待に応えられないんじゃないかって思うと、ここにいていいのか不安なんです」
「不安、か」
夜空を仰ぎながらオーウェルは呟いた。亜麻色の髪が涼風に揺れる。
「リィリアが不安なのも無理はないよ。私だって、不安だから」
誰にも言ったことはないけれどね、とオーウェルは自嘲気味に笑う。オーウェルの言葉に驚いたリィリアはライラックの目を見開く。
「オーウェル様も、ですか……?」
そうだよ、とオーウェルは頷く。オーウェルは筋張ってはいるが、滑らかで美しい手を夜空に翳す。右手の小指に嵌められたラピスラズリの指輪が星灯りを受けて微かな煌めきを放った。
「私は……戦争が嫌いだ。今こうしてここにいるのも仕方なくなんだ」
少し長くなるんだけど、よかったら聞いてくれる、とオーウェルは問うた。リィリアはこくりと首を縦に振った。
オーウェルは夜凪のような心地よい穏やかな声で、過去から現在へ繋がる彼自身の物語を話し始めた。