9話 「よし、わかった」
サイラスの計画はもちろん頓挫した。用意していた口上を言い切ることなく、婚約破棄を受け入れられてしまったのだ。
これに慌てたのは、もちろんサイラス当人である。
シェリルは昔、溌剌とした子供だった。小さな体をめいっぱい使って動き回っていた。
今は大人しくなったが、昔の名残がどこかに残っているだろうと考えていた。
だから、礼儀を欠いた行動をすれば反発してくるだろうと思っていたのだ。
だが「わかりました」とあっさり承諾したシェリルの顔には、昔のような面影はどこにもない。
頭を抱えてしまいそうになるのを抑えきれず声を張り上げてしまったが、それでもなんとか持ち直したサイラスは、どうするべきか必死に悩んだ。
「それを聞かずして婚約を破棄するのは、一方的すぎる。互いに意見を交わし、相互理解を深めてようやく、婚約を破棄すべきだろう」
もはや自分でも何を言っているのかわからない。どういう理屈だ、と思わずにはいられないが、ここで頷くわけにはいかない。
サイラスは、自分が理不尽なことをしている自覚があった。それなのにシェリルの顔色すら変わらない。
何かがおかしい。説明のできない状態に、サイラスは無理矢理次の休みの予定を取り付けたのだが、結局それもうまくはいかなかった。
不甲斐ない婚約者と縁が切れるのなら清々する、でもなんでもよかったのだ。だがシェリルが口にしたのは、周囲に与える影響だけだった。
シェリルの主張には自身の感情が含まれていない。そのことに、サイラスはまたもや頭を悩ませる。
もしも自身の感情をうまく認識できない状態ならば、まずは感情を引きだすところからはじめないといけない。
悩みに悩んだ結果が、街中に出かけるというものだった。彼女の感情を揺さぶるにあたって、悪感情に関してはすでに失敗している。ならば、好感情ならばどうか――と考えたのだ。
だがここで、難題にぶつかった。
「女子を喜ばせるにはどうすればいい」
一緒に出かけたとしても、シェリルを喜ばせられる気がまったくしなかったのだ。
だからサイラスは、洒落者と名高いダニエルに相談した。
「え? は? え?」
「……次の休みに、婚約者と出かけようと思っているのだが……どうすればいいのかわからないんだ」
思いもしなかった相談ごとに目を丸くしていたダニエルだったが、サイラスの言葉ににんまりと笑みを作った。
「そうか! お前にも春がきたのか!」
今にも祝杯をあげそうな勢いで言うダニエルに、周囲にいた武術科生がなんだなんだと近寄ってくる。
サイラスは模範的な武術科生だと言われている。その彼が女子と出かけると聞いて、みなこぞって助言を出そうと詰め寄った。
だが彼らがいたのは男子寮の食堂。半数以上を武術科生が占めているが、文術科に通う男子生徒もいる。
やんややんやと騒ぐ武術科生に、一人の男子生徒が立ち上がった。
武術科生の間では教官よりも鬼教官、と有名な男子生徒である。
「君たち! 食事を終えたのならすぐに出ていけ! 元気がありあまっているなら、鍛錬場を十周回ってこい!」
ぴしりと食堂の出入り口を指差され、武術科生は「やべぇアルフだ」「アルフが怒った」と口々に言うと、ぞろぞろと食堂を出ていく。
そしてサイラスもその後を追おうとしたのだが、食堂を出るよりも先に呼び止められた。
「シェリルから聞いたけど、次の休みに出かけるんだって?」
「ああ、そうだが。それがどうかしたのか?」
「……君がおかしなことをするとは……いや、無体なことをするとは思えないけど、一応言っておくよ。彼女を傷つけるような真似だけはしないでほしい」
」
「もちろんだ。わかっている」
サイラスが力強く頷くと「もう行っていいよ」と食堂の出入り口を示された。
そうして鍛錬場を十周した後、武術科生はサイラスに助言を託した。
その中でもやる気を見せたのがダニエルだ。
「いいか、身につけているものを褒めるんだ。それを選んだセンスや、似合っているということをしっかりと伝えることが大事だ」
そして当日何を着ていくべきか。どういった服を着れば、おしゃれしてくるであろう相手に恥をかかせずに済むかを叩きこんだ。
そうして武術科生から与えられた助言を胸に、休みの日にシェリルを呼び出したサイラスだが、彼女を見た瞬間またもや計画が頓挫する気配を感じた。
何しろ、彼女はまったくといっていいほど装飾品を身につけていなかった。
茶会での装いを考えるに、これは自分に合わせたのだろうということはサイラスにもわかった。そして、この恰好を似合うだなんだと褒めては駄目だということもわかった。
ならば自分はどうするべきか。褒めるのは一旦置いておいて装飾品のたぐいを贈り、改めて褒めるべきなのか、それとも服装に見合った場所に連れていくべきなのか。
盛大に悩んでいたサイラスに、何故だかシェリルが謝ってくる。
むしろ謝るべきは不甲斐ない自分だろう、と声をかけようとしたところで――まったく予想もしていなかった第三者の声が割り込んできた。
「サイラス様! どうして姉さまとお出かけなんて……!」
シェリルの妹の登場に一番驚いていたのはサイラスだ。
姉が次期当主としてやっていけるか心配していた姿はそこにはない。ひたすらずるいと連呼する彼女に、サイラスはシェリルを見下ろした。
生気の感じられない瞳が、ただぼんやりとアリシアを見ているのに気づいたサイラスは――そこでようやく、何が原因なのかがわかったのだ。
これを毎日聞かされていたのだとしたら、気が滅入るのも当然だ、と。
「よし、わかった」
シェリルの感情が乏しくなったのが母親の死という、自分ではどうしようもない問題ではないのなら、やりようはいくらでもある。
「ならば走りこみだ」
模範的な武術科生――そう呼ばれる彼の脳は、考える筋肉でできていた。