1話 「はい、わかりました」
シェリル・アンダーソンは侯爵家の一人娘として生まれた。父親は忙しいからかあまり家にいなかったが、母親が愛情こめて育ててくれたので、寂しさを感じることなかった。
だがシェリルが十歳を迎えたある日、元々病弱で寝こむことの多かった母が倒れた。
長くはもたないと医師に宣告を受け、シェリルは母に寄り添った。朝も昼も晩も、欠かすことなく母の手を握り、大丈夫だと自らに言い聞かせた。
「あの人は……?」
か細い声でそう聞かれたのは、雷の轟く夜だった。青白くやつれた母に、シェリルは何も言えなかった。
だがシェリルの反応で気づいたのだろう。母は小さく微笑んで、シェリルの頬を撫でた。
「しかたないの。あの人は忙しい人だから。あの人を恨まないであげて」
優しい声は最後にシェリルの幸福を祈り、終わった。
――それから一年後、シェリルの前に見知らぬ女性と少女が現れた。
「今日からお前の母親と妹になるから、仲良くするんだぞ」
シェリルの父親であるアンダーソン侯爵は二人の隣に並び、にこやかな顔でそう言った。
「これからよろしくね……たしか、シェリルちゃんだったかしら」
そして赤い口紅をひいた女性が朗らかな笑みを浮かべる。
「私、姉妹に憧れてたんです! これからよろしくお願いします」
父親に似た赤茶色の髪をした少女が明るく笑いながら、握手を求めてきた。
シェリルからすれば、寝耳に水の出来事だった。
忙しいからあまり帰ってこなかった父親が、外で女性を作り、しかもシェリルと一歳しか変わらない妹を作っていたのだと完全に理解できたのは――翌日になってからだった。
それでも、シェリルは新しい家族に寄り添おうと表向きは穏やかに対応することに決めた。たとえ内心複雑な思いが渦巻いていても。
「お姉さま、これ綺麗ね。いいなぁ」
「誕生日にもらったの。私も気に入っているのよ」
緑色の宝石を中心に小粒の宝石が飾られたブローチを見て、妹の――アリシアの目が輝いていたことに気づかなかったわけではない。
女の子が綺麗なものを見て目を輝かせるのは普通のことだと思い、年相応な子なのだろうと微笑ましく思っていた。
今は複雑でも、いつかは心から受け入れられるかもしれない。そんなシェリルの淡い希望はすぐに打ち砕かれた。
「これ、ちょうだい」
アリシアの一言で。
「あなたは今まで十分甘やかされてきたのでしょう? 少しくらい譲ってあげてもいいんじゃないの?」
継母はアリシアの味方をし、父親も継母に同調した。
シェリルが拒めば我侭だと言われ、くれないなんてひどいと癇癪を起こしたアリシアに、お気に入りの品を壊されることもあった。
壊されるくらいなら――と、シェリルが譲るようになるのにそう時間はかからなかった。
そうして、欲しいと言われれば譲り、ずるいと言われれば遠慮するようになったシェリルは、幼い頃の溌剌さは鳴りを潜め、あまり笑わない娘に育っていった。
「あなたね、アリシアを見習ってもう少し明るくなれないの? 婚約者がいるからいいけど、そうじゃなかったら誰ももらってくれないわよ」
そんなシェリルに、継母は子供の将来を心配する母親のような顔でため息を零した。
「本当に可愛げのない。まったく誰に似たのか……。婚約者に愛想を尽かされなければいいが」
父親もまた、呆れたような顔をシェリルに向けた。
シェリルの婚約者は幼い頃から決まっている。公爵家のサイラス・アシュフィールド。
伯爵家の生まれである母親はアシュフィールド家とは縁深く、その繋がりでシェリルとサイラスの婚約は結ばれた。
互いに思い合っての婚約ではなかったからこそ、継母と父親の言葉に、シェリルはサイラスに対して感謝と申し訳なさを抱いた。
「シェリル。俺は君との婚約を破棄したい」
だから、サイラスにそう言われた時、シェリルは驚くことはなかった。
シェリルの暮らすアバークロン国には、貴族の子息子女が十四歳になると通う王立学園がある。
学園は武術科と学術科に分かれており、剣を扱うことの多い男子は剣術を鍛えるため武術科に、社交を主とする女子は必要な知識を得るために学術科に通うのが一般的だ。
そしてシェリルとサイラスもその例に漏れず、学術科と武術科に在籍していた。
それぞれの学科は別棟で授業を行うため交流はなく、寮生活を営んではいたが、女子寮と男子寮は学園の端と端にあるため、シェリルとサイラスが顔を合わせることはほとんどなかった。
幼少期から決められていた月に一度の茶会がなければ、ほとんど没交渉で過ごしていたかもしれないほどだ。
それでもシェリルにとっては構わなかった。これまでの生活となんら変わりなかったからだ。
学園に入る前から、領地が離れていることもあり月に一度の交流しかなく、一日のうちの少しの時間しか過ごしていなかった。
だから学園生活においてサイラスとの交流がないことに不満を抱くことはなく、むしろ継母や妹がいないだけ気が楽だった。
だがそれも、シェリルと一歳しか変わらないアリシアが入学して終わった。
「刺繍って苦手なのよね。代わりにやってくれない?」
アリシアは当然のようにシェリルの部屋を訪ね、何度もお願いをしてきた。
自分でやらないと意味がない――などと言う気力はシェリルにはなかった。
そうした日々を過ごす内に季節は流れ、シェリルは十六歳になり最終学年を迎えた。
学園を卒業すればシェリルはアンダーソン家の正式な跡継ぎになり、サイラスを婿に迎える予定――だった。
サイラスに婚約を破棄したいと言われるまでは。
シェリルの脳裏に浮かぶのは、一週間前に見た光景。
春のうららかな日差しの下で、サイラスとアリシアが仲良く話す姿を、シェリルはただ見ていることしかできなかった。
そして今、月に一度と決められた茶会で婚約破棄を告げられたのだから、シェリルの胸にはしかたないという諦めの気持ちが広がった。
アリシアが欲しいと言えばそれがなんであれアリシアのものになった。だからサイラスも暗い自分よりも明るいアリシアを選んだのだろう――そう思ったからだ。
「はい、わかりました」
「もちろん、君にも言い分があるのはわかる。だが俺としては、今どき親の決めた婚約を強いるのは間違っていると――今、なんて言った?」
「ですから、構いませんと」
シェリルとサイラスは幼い頃からの婚約者ではあるが、それを決めたのはそれぞれの両親で、そこに当事者である二人の意思はなかった。
そして昨今、自由恋愛を謳う者が増えているのをシェリルは知っていた。政略結婚など時代遅れだ。自分の決めた相手と寄り添うのが一番いい。そう訴える者たちにより、各家の親が困り果てているという話を社交の一環で耳にしたからだ。
サイラスもおそらくそれを耳にし、自分の婚約は間違っていると思ったのだろう。
「どうぞサイラス様のなさりたいようになさっていただいて構いません」
これで話は終わりだろうと席を立ち上がりかけた時、サイラスの目と口が大きく開かれた。
「どうしてそこで引き下がるんだ、そこで!」
そのあまりの剣幕に、シェリルはぽかんと口を開いた。
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