文字!
俺が生まれて一年と半年の月日が経った。一歳になった頃から何とか一人で歩けるようになった。移動するのはハイハイの方が早いが、なるべく歩くようにして足の筋肉をつけることにしている。言葉もなんとか発音できるようになった。
単語を一つ一つ言い、母さんと父さん、アーシェさんと意思疎通ができるようになった。意思疎通ができるようになったから魔法について教えて貰えると一時期は期待したが、世の中そう上手くはいかなかった。
「おかあさん。まほう。おしえて」
「まほう? アース、まほうってなぁに?」
「まほう。おかあさん、あし、はやくなる」
「ああ、魔術のことね。アースは魔術で早く走りたいの?」
「うん、はやく、はしりたい」
「そうなんだ。でも、魔術は危ないからアースがもっと大きくなったら教えてあげる。それまではいい子にしているのよ」
そう言うわけで魔法改め魔術については子供には危険なようで教えて貰えないようだ。俺は仕方がないので暫くは身体を鍛えることと知識を蓄えることにした。身体さえある程度大きくなって丈夫であれば魔術は習える筈だ。
知識についてはまずはこの世界の文字を読めるようにしよう。文字が読めるようになれば独学で魔術について学べるかもしれない。幸いなことに家には子供向けの本と辞典らしきものがあった。らしいと言うのは母さんとアーシェさんが使っているのを見かけるからだ。
アーシェさんはどうやら識字が得意ではないようだ。家事の合間に母さんに教わったり、独学で勉強をしていた。そのときに使っていた本がたぶん辞典だ。
中を見てみると単語らしき短い文とそれを説明している長文が記載されていた。前世であった辞典とおなじ形式なので多分あっている筈だ。俺はその本と子供向けの本を見ながら文字を覚えることにした。
「このせかいは、ろくちゅうの、かみさまが、おつくりになった。ひとやどうぶつ、くさきもかみさまがつくったもの……」
絵本の内容は前に婆様が教えてくれ世界創世に関することだ。眠る前に母さんや父さんに読んで貰い内容を覚えた。内容を理解してから文字の作りを理解して勉強を始めた。本に書かれている文字は大体五十個の文字で構成されてアルファベットと同じようだ。
日本語のようにひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字で構成されてはいないので取りあえずこの五十個の文字を覚えることから始めた。文字は二日で覚え、発音と言葉から文字の構成がなんとなく理解できるようになったのは十日後だった。俺は実際に文字を書くために家の庭で練習することにした。
歩けるようになってからは庭までの外出は許可されていた。庭に落ちていた木の枝を使って地面に文字を書いた。
まずは自分の名前と家族の名前を書いた。
「アース、何をしているのかな?」
木の枝で文字の練習をしていると母さんが話しかけてきた。丁度いいので俺は自分の書いた文字を採点して貰うことにした。
「なまえ、かいた。あーす、おかあしゃん、おとうしゃん、さてぃしゃん」
舌っ足らずで地面に書いた文字を母さんに説明してすると母さんは驚きの表情で俺を見ていた。
「ア、アース。あなた文字が書けるの?」
「もじ、おぼえた。あっている?」
母さんは首が取れるのでないかと思えるほど何度も頷いた。どうやら合っているようなので心の中でガッツポーズをした。
「信じられない。私でも覚えたのは五歳だったのに……」
(しまった! 二歳に満たない子供が文字を書くなんて異常だ。前世の記憶があったのに失念していた)
前世でも一歳の子供が文字を書いたなんて聞いたことがない、幼稚園児が平仮名か片仮名を書いて褒められていたくらいだ。俺はどう誤魔化そうと考えるが、妙案は浮かばない。その間に母さんは地面に手をつき、俺と地面に書かれた文字を何度も見比べている。
どうしようと困惑していると不意に涙がこぼれた。頬を伝って手に涙がこぼれ落ちると俺の感情が爆発した。
「ひっく、ひっく、ううぅ、ううぅ。あーん」
泣くのを我慢しようとしたが、感情が制御できずに泣いてしまった。一度泣き始めると涙が止まらない。感情が思うように制御できない。
「ア、アース。ごめんね。驚いただけで怒った訳じゃないのよ」
母さんが俺を抱き上げて必死にあやすが涙は止まらない。身体が子供だからかそれとも俺の精神が未熟なのかは判らない。ただ、母さんや父さんに嫌われると思った瞬間に感情が制御できなくなった。不安や孤独、消失感に襲われ赤ん坊のように泣きわめいた。
泣きわめく俺を母さんは優しく抱きしめ、俺は必死に母さんに抱きついた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「昼間にそんなことがあったのか……」
「ええ、私も驚いたわ」
夕食時に私は昼間の出来事を夫のルーファスに話した。アースが庭に自分と私達の名前を書き、私が驚いていると突然大泣きしたことまで話した。アースは泣き疲れて今は二階の寝室で眠っている。
「私も買物から帰ったときに地面の文字を見ました。拙い文字でしたがアース様や旦那達の名前が書かれていました」
「サティまで言うなら本当だろうな」
「私が嘘をついてると思っていたの?」
「いいや、でも二歳に満たない子供が文字を書いたことが信じられなかった。俺が文字を読み書きできたのは十歳のときだ。お前達も却下的に考えたらどう思う?」
ルーファスはそう言いながら私とサティを見た。確かに私が文字を覚えたのは五歳で、普通に考えれば早いほうだ。サティは家庭の事情でこの家に来るまで読み書きができなかった。そもそもこの国では平民の識字率は高くない。
「ジナ様から聡い子供だと聞かされていたが、こんなにも聡いとは思わなかった」
ルーファスが言うジナ様は出産のときにお世話になった産婆のジナ様だ。夜泣きのことや育児についてはジナ様に相談している。私だけではなく村の母親はみんなジナ様を頼りにしている。
「それで今後はどうなさいますか? 家庭教師を雇って本格的に文字を教えますか? アース様は魔術に興味があるみたいなので魔術も教えることができる家庭教師を探しますか?」
「…………それはない。二歳に満たない子供に文字や魔術を教える欲しいと依頼しても誰も引き受けない。そもそもこんな田舎に教えにくるような魔術師はいない。となると文字は俺達が教えればいいし、魔術に興味があるならパーシーが教える。剣術や体術に興味を持つなら俺が教えるしかない」
「判ったわ。文字に関しては私達で教えればいいのね。サティも大分覚えてきたから一緒に教えましょう。アースに教えることで理解が深まる筈よ」
「かしこまりました」
アースの教育方針が概ね決まるとルーファスは最後に重要なことを口にした。
「あと、アースが文字を読めることこの家の住人以外には秘密だ。本家の耳に入ったら厄介だ」
ルーファスが口にした本家と言う言葉に私とサティに緊張が走った。夫が言う本家とは夫の実家のことを指す。あの家はいろいろと複雑なためなるべく関わり合いは持ちたくない。特にサティは嫌な思い出しかないので血の気が引いている。私はアースがあの家に取られてしまうことを想像すると同じように血の気が引いてしまう。
アースが夫の実家に連れて行かれる。強引に私達から引き離され泣きじゃくるアース。今日のように必死に私にしがみ付こうとするアースを想像すると……
「それも、悪くないわね」
「お、お前何を言い出すんだ!」
「奥様、正気ですか!」
「ち、違うの。誤解しないで! 私はただアースが強引に連れて行かれそうになったとき必死に抵抗して私達にしがみ付くと思ったの。決して離ればなれになることを望んでいないわ」
考えていることを思わず口に出してしまい私は必死になって弁明した。
「俺達のことを嫌っている訳じゃないのにアースはあんまり甘えないよな」
「あのくらいの歳の子供を世話したことはありますが、大体の子供は甘えてきます。アース様どこか大人びてあまり甘えてきません。小さい頃から夜泣きなどせず、大人びている感じがします」
「そう、甘えてこないのよ。普通の子供ならもっと甘えてくるでしょう! 医療院に来る奥様達もそう言うのにアースはあんまり甘えてこないのよ。でも、今日の泣きわめくアース…………、可愛かったぁ」
私は昼間のアースを思い出しながら身をよじった。泣いている子供が可愛いと思うのは、人によって酷いと思われるかもしれないが必死にしがみつく我が子が可愛くない筈がない。
アースは赤ん坊の頃から手のかからない子だ。何処か大人びた雰囲気を持ち、あまり甘えてこなかった。しかし、泣きながら私にしがみつく様子は母親冥利につきる。今、思い出しても頬が緩んでしまう。
「奥様」
「アースの前でそんな顔をするなよ」
「…………」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
隣で眠るパシィーの頭を撫でながら、パシィーの腕の中で眠るアースを見た。この子が生まれる前は俺に似ているのか、それともパシィーに似ているのか楽しみであった。生まれたときに顔立ちは母親のパシィーに似て、髪の毛は俺にそっくりだ。間違いなく俺とパシィーの子供だと判った。
男の子なので俺の希望としては剣術や体術に興味を持って欲しかった。俺は身体を動かす方が得意なため戦士になった。パシィーは頭を使う方が得意だったから魔術師になった。成長したときにアースがどちらに似るのか楽しみであったが、アースの頭の中は俺が思っている以上に優秀だった。
パシィーとアージェの前では見栄をついた。俺が文字を読めるようになったのは十五歳のときだ。勉強よりも剣術や体術に興味を持ちそっち方面ばかり習っていた。だから、二歳になっていアースが独学で文字を習得したと聞かされたときは大いに驚いた。
「もしかすると俺の血より、パシィーの血の方が濃いのかもしれない」
パシィーの家系は優秀な魔術師が多い。顔立ちもさることながらその聡明さに惹かれたことが何度もあった。その血を色濃く息子が受け継いだことは喜ばしいが、父親としては少し寂しい。息子が生まれれば常々剣術を教えたいと思っていた。その願いは叶わないのかもしれない。
俺は父親にとっては三男だが、母親にとっては一人息子だった。父は正妻と二人の側室をもち俺はその側室の息子だった。そのために家業を継ぐ必要はなく、比較的自由に育てられた。
机に座って勉強するよりも身体を動かす方が好きで近くの剣術の道場や体術の道場に通っていた。父親は家の恥にさえならなければ特に注意はせず、実母は困った顔をしながら許してくれていた。
十五歳になったときに父親から将来のことを聞かれ冒険者になりたいと答えた。
冒険者は六柱の神々が造ったとされる遺跡を調査したり、魔物や人々の生活に害を与える動物を狩って賃金を得る。決して安定した職業ではないが、兵士や官僚などをするよりも俺にはあっていると思った。
俺の言葉に父親はたった一言「そうか」と言い一振りの剣をくれた。その剣は父親が俺のために作らせた特注品で手によく馴染んだことを今でも覚えている。
俺はその喜びをアースにも伝えたいと思っている。この子が望むような人生を送れる力や知識を与えたい。パシィーの腕の中で眠る息子を撫でながら俺はそんなことを考えていた。
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