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不運からの最強男  作者: フクフク
魔術学校編
222/222

鍵を握る人物

 アーベル伯爵家の執務室は、いつも通り静まり返っていた。

 主の不在を埋めるように、机の上には報告書が山のように積まれている。

 カミルは黙々と書類に目を通していた。

 一枚ずつ、迷いのない手つきで処理していく。

 ヴィリバルトからの報せはない。

 戻る気配もない。

 それは、いつものことだった。

 窓の隙間から微かな風が吹き込み、書類の端がふわりと揺れる。

 カミルの髪もわずかに乱れたが、彼は顔を上げない。

 だが、気配には気づいていた。

 空気が軋み、怒気を孕んだ光が室内に滲む。

 やがて光は輪郭を持ち、フラウが執務机の周囲をくるくると旋回しながら姿を現した。


「またゼレムだけ連れて、どこか行ってるし! もう、ほんっとうにひどい!」


 声は高く、動きはせわしない。

 怒りを撒き散らすように、部屋の空気をかき乱していく。

 カミルは顔を上げず、ペンを走らせたまま、時折面倒そうに視線だけを送った。


「聞いてる? カミル、ほんとに聞いてる?」

「……聞いている」


 返事は短く、抑揚もない。

 それでもフラウは止まらない。

 彼女の怒りは、誰かに届くことを望んでいるわけではない。

 ただ、そこにあるべきものがないことへの苛立ちが、言葉になっているだけだ。

 カミルはそれを知っていた。

 だから相槌も打たず、慰めもせず、ただ黙って書類を処理し続ける。

 書類の端が、またひとつ揺れた。

 カミルはようやく一度だけ、深く息を吐いた。



 ***



 帝国を一望できる山の上。

 ヴィリバルトは静かに立っていた。

 周囲は静謐で、時折鳥の声が遠く響くだけ。

 風は弱く、空は澄んでいた。


「行くの、か」


 ゼレムの問いに、ヴィリバルトはしばし沈黙した。

 言葉は必要ない。

 遠くを見つめ、ゆっくりと歩き出す。



 帝国に入ってから、すでに数日が過ぎていた。

 滞在先は帝都郊外の古い宿屋。

 人通りは少なく、目立たずに動くには悪くない。

 ヴィリバルトは窓辺に立ち、外の様子を警戒しながらうかがっていた。

 帝国の監視網は、以前よりもずっと厳しい。

 接触の機会は限られている。

 机の上には、差出人不明の手紙が一通。

 封はすでに切られていた。


「会えるの、か」


 低く落ちた声に応じて、鍔の深紅がわずかに震えた。

 空気が一瞬、軋んだ。


「ああ、伯爵家の領地に向かう途中で、お忍びで来るらしい」

「我は、話さぬほうが、よいか」

「そうだね。話す剣なんて普通の貴婦人は驚くけど……彼女は深く関わっているからね」


 ヴィリバルトは窓の外に目を向けたまま、短く息を吐いた。


「ちょっとやそっとの非常識で驚くような女ではないね」

「そう、か」


 鍔の深紅が静かに脈打つ。


「ただ、時間が限られている。口は挟まないで欲しい」

「承知した」


 鍔の光が消え、部屋に沈黙が落ちる。

 ヴィリバルトは窓辺に佇んだまま、低くつぶやいた。


「義姉さん……やっと掴めそうだ」



 それから数日後、雨の午後。

 低く垂れ込めた空の下、宿の屋根を叩く雨音が絶え間なく響いていた。

 家紋のない古びた馬車がぬかるんだ道を進み、車体を軋ませながら宿の前に止まる。

 宿の者たちがざわめいた。

 伯爵家の領地へ帰る途中、不具合に見舞われた馬車から、伯爵婦人が一時的に避難してきたのだ。

 帳場の奥から宿の主が飛び出し、女将が声を張り上げる。

 濡れた床に足音が散り、空気がざわついていく。


「奥様、申し訳ございません」


 護衛の声が馬車の扉越しに届く。

 古びた宿しか用意できなかったことへの謝罪が滲んでいた。

 雨音に混じって、落ち着いた声が返る。


「仕方ないわ」


 その一言で、宿の主が慌てて動き出す。

 階下のざわめきに気づいたヴィリバルトは、階段の途中で立ち止まり、様子をうかがってから降りてきた。

 その足取りは、あくまで様子を見に来た客のそれだった。

 窓辺で外の馬車を眺めていたヴィリバルトに気づいた宿の主が、息をのんで駆け寄る。


「おっ、お客様、大変申し訳ございませんが、現在のお部屋を変更していただけませんか」

「どうしてだい?」

「実は……さる高貴なお方が、一時的に滞在されることになりまして」

「へえ、そうなんだね」


 意を介さないヴィリバルトの反応に、護衛が声を荒らげた。


「その態度はなんだ。すぐに部屋を空けろ!」

「どうして私が? 滞在費は充分に払っているはずだけど」

「それは……」


 宿の主が言葉に詰まると、護衛が一歩踏み出す。


「貴様!」

「やめなさい」


 馬車の扉が、音もなく押し開かれた。

 濡れた石畳に、ひとりの女が降り立つ。

 黒い外套の裾が雨を払うように揺れ、場のざわめきが途切れた。

 釣り目の涼しい目元が護衛を一瞥し、そのままヴィリバルトへと向けられる。

 ふたりの視線が交わり、熱を帯びたように、どちらも逸らさない。

 周囲は固唾を飲んで見守った。


「少し、お話をしましょう」

「奥様?」


 護衛が目を見開く。


「こんな片田舎に、いい男。退屈しのぎに旅の話でも聞きたいわ」

「おっ、奥様……」

「だめかしら」


 妖艶な気配を漂わせながら、デボラが涼しい目でヴィリバルトを見つめる。


「ご婦人を満足させるような話はできないかもしれませんが」


 ヴィリバルトはわずかに口元を緩め、手を差し出した。

 護衛もあとに続こうとしたが、デボラの声が遮る。


「あなたはここで、待っていて」

「しかし……」

「野暮なことはいわないの」


 雨音に紛れ、ふたりの姿は階上へと消えていった。



『遮断』


 扉が閉まるなり、ヴィリバルトはデボラの手をぞんざいに振り払った。

 続けざまに、無言で結界を張る。


「久しぶりね、ヴィリバルト様」


 振り払われた手を気にも留めず、デボラは涼しい声で応じた。

 消息を絶ったあの日と、なにひとつ変わっていない。

 ギルベルトと同じ年のはずなのに、目の前の女は二十代のまま、時を止めたような姿をしていた。


「挨拶はいい。本題に入ろう」

「ええ」


 いくつかの確認と応酬のあと、ヴィリバルトが核心に触れる。


「──体内に核を入れたのか?」

「そうよ。その代償で私は年を取らない。見た目が変わらないのが、その証拠よ」

「不老になったと?」

「違う、な」


 ゼレムが低く割って入る。


「老化は進んでいる。ただ、外側に出ていないだけだ」


 黒い剣から声が響いた瞬間、デボラは一瞬だけ目を見開いた。

 だが、鍔の深紅が脈打つのを見ると、すぐに表情を戻す。


「そうなのね。私はこのおかげで、帝国でも生かされているわ。サンプルとして、ね」


 デボラは小さく肩をすくめ、唇の端に笑みを浮かべた。

 自嘲とも達観ともつかない笑み。

 けれど、その目だけには強い意志が残っていた。


「ヴィリバルト様、帝国の密偵に気づかれました」


 背後に気配が落ち、アーベル家の影が抑えた声で報告する。


「早いな……」


 ヴィリバルトは短く息を吐いた。


「聞きたいことは他にもあるが、仕方ない。撤退する」


 その言葉に、デボラは身を乗り出しかけた。

 唇に焦りがにじむ。


「待って、ゲルトは……」

「生きてはいる。だが、あなたと同じで、いいように扱われているよ」


 デボラは息を呑み、言葉を失った。


「あと、死んだ義姉さんの影を追いかけているようだ」

「ヴィリバルト様」


 影の呼びかけと同時に、ヴィリバルトは移動魔法を使い、その場をあとにした。

 部屋に残されたデボラは、ただ一点を見据え続けていた。


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